暖炉の恋しくなってきた12月のある日。ヴィヴィアンの元へ一通の手紙が届いた。次回のスラグ・クラブへの招待状だ。初めて集まりに参加した去年から、皆勤賞とはいかないが、これまでレギュラスとともに何度か参加してきた。
一番の話の種である夢魔の話は初回で話し尽くしてしまったので、ヴィヴィアンが会の中で積極的に発言することはあまりなかった。そんな中での楽しみは、レギュラスがよそ行きの顔で猫を被るのをニマニマしながら眺めることと、デザートをアリアドネへのお土産として持って帰ることだった。
毎度、小綺麗なリボンで飾られた招待状が送られてくるのだが、今回のはいつもより少し豪華に飾り付けてあった。次回の集まりは普段とは違い、クリスマスパーティーという形で開催されるという。OBやOGをたくさん招いた豪華なものになるらしい。問題は、去年開かれた生徒発案のダンスパーティーのような、気軽な催しではないことだ。
「スリザリン寮の、あなたのお友だちは?」
「駄目だ。彼らは君が僕の友人だと知っているから、萎縮してしまうだろう」
パーティーにはパートナーを連れてこいとのことである。レギュラスの相手はアリアドネで確定として、ヴィヴィアンの相手を誰にするかを話し合っていた。大広間で通り過ぎる生徒たちを、吟味するように眺めながらである。
「そう……なら、あの人は? スネイプ先輩。あの人なら萎縮なんてしないでしょう?」
「……駄目だ。先輩がこういう催しを好むとは思えない」
「それもそうね……あ、だったらぴったりの人がいるわ! あなたのお兄さ──」
「駄目だ! 一番ダメだ! ありえない」
「もう! じゃあ誰ならいいのよ! 話したこともない人を誘えって言うの?」
駄目駄目と繰り返され、さすがのヴィヴィアンも腹が立ってきた。このままだと喧嘩になりそうだ。思えばなぜ、パートナーを誘うのにレギュラスの許可がいるのか。隣で黙々とスコーンを食べていたアリアドネが、まぁまぁ、と宥めた。
「ねぇ、二人とも、どうして気づかないの?」
何を? と聞き返す前に、アリアドネは次のスコーンを口に入れる。彼女がスコーンを咀嚼して飲み込むまで、ヴィヴィアンとレギュラスは黙って待った。口の中をからっぽにしたアリアドネは、両手を使って二人を指さし、
「二人で一緒に行けばいいのに!」
と、当たり前のように言った。
「でも、アリアドネは……」
「あたしは行かなくていいや。ダンスパーティーじゃないんでしょ? いくらお菓子があるからって、緊張して楽しめないよ」
かつては自分を置いて二人だけで食事会に行くことに不満を漏らしていたアリアドネだが、今は強がっている様子はない。嘘をついているふうでもない。口の端が不均等につり上がった、いつもの下手っぴな笑顔だ。ヴィヴィアンはレギュラスと二人で顔を見合わせる。
「これも駄目かしら?」
「……アリアドネがそれでいいって言うなら」
こうしてパーティーに連れていくパートナーが決まった。
*
スラグ・クラブのパーティー当日。ヴィヴィアンは去年とは違うパーティードレスを着て、アリアドネに見送られながら寮を出た。というのも、なぜだか今年も母からドレスが送られてきたからだ。
『早く大人になって、どこへなりとも行ってしまいなさい』
ヴィヴィアンは去年初めてドレスを贈ってもらった。その礼を言ったときの母の言葉を思い出していた。確かに、ドレスを着るような社交の場は大人になるための一歩だ。ヴィヴィアンを恨んでいるはずの母からの、2年続けてのプレゼント。真意をはかるのは難しいが、早く家を出て顔を見せるな、ということだろうか。そうでなくとも、父の言いなりになって当主になんてなるつもりはないが、貰えるものはありがたく貰っておく。ヴィヴィアンにとって嬉しいプレゼントであることは確かだ。
今年のドレスはシックな青みがかった黒色で、首元がレースで透けている大人びたデザインだった。ダンスパーティーではない今回のパーティーには、去年のものよりもこちらのほうが相応しいだろう。
もしかすると、スラグ・クラブのOBである長兄が、パーティーのことを母に伝えたのかもしれない。曲がりなりにもウィングス家の一員であるヴィヴィアンに、下手な格好をさせられないと、判断したのだとすれば納得がいく。
ちなみに、仕事で忙しいという長兄が今日のパーティーに不参加であることは、本人ではなく、スラグホーン先生から前もって聞かされていた。そうでなければ、もっと憂鬱な気分でこの日を迎えていただろう。兄のことが特段嫌いというわけではないが、スラグホーン先生に褒めちぎられる兄の姿を想像しただけで、肩身が狭くなるのだった。
ヴィヴィアンは会場の前でレギュラスと待ち合わせた。彼は相変わらず黒いタキシードでビシッと決めていた。慣れた仕草で手を差し出してくるのが、少しだけ大人びて見えた。ヴィヴィアンは思わず背筋を伸ばした。彼がクスッと笑うので、軽く手のひらをつねってやった。
レギュラスにエスコートされながら、話し声の漏れ聞こえる会場へと入る。会場であるスラグホーン先生の部屋は、前に来たときよりもずっと広くなっていた。今日のために魔法をかけたのだろう。その広い部屋の天井や壁は、余すことなく大きな垂れ幕やカーテンで優美に飾り付けられていた。妖精の住処にでも迷い込んでしまったかのようだった。かと思えば、屋敷しもべ妖精たちが、食べ物や飲み物を載せた銀の盆を掲げながら、足元を動き回っているのが見えた。少し嬉しくなったが、彼らと話している場合ではないことはヴィヴィアンにもわかった。
ドレスコードのある本格的なパーティーだけあって、普段の10人程度の食事会とは比べ物にならないくらい、たくさんの人が来ていた。知らない大人だらけで、ここがホグワーツ城の一室であることを忘れてしまいそうだった。
人混みの中からスラグホーン先生を見つけ、レギュラスとともに挨拶をすると、周りの人たちの視線がこちらのほうへと集まった気がした。ブラック家の名を口にしたからだ。ヴィヴィアンはレギュラスに耳打ちをする。
「みんな、あなたを見ているわ」
「違うよ。君を見ているんだ」
意味を捉えかねる。すぐに、そうか、と気づく。ブラック家の跡取りが誰を連れて来たのか。それを見ているのだ。『友だちですよ』と書いたブローチでもつけてくればよかった。
「……失敗したかしら」
「ん? どうして? 綺麗だよ。とても」
「……」
わかっているのか、いないのか。歯の浮くようなことを言われ、ヴィヴィアンが文句を言おうか礼を言おうか迷って口をパクパクさせていたとき、ブラック家と関わりがあるという人が、レギュラスに声をかけた。勘違いをされても困るし、居ても邪魔になるだけなので、ヴィヴィアンは少し離れたところで話が終わるのを待つことにした。
OBやOGを集めたクリスマスパーティーは、交流会と呼ぶのが相応しく、あちこちで談笑が行われていた。政治や商売のためのコネ作り。大人が考えそうなのは、そういったところだろうか。ヴィヴィアンはすでに帰りたい気分になっていたが、ちょこちょこと料理を配って回る屋敷しもべ妖精たちを眺めることで、気を紛らわせていた。
しかし、ヴィヴィアンの嗅覚はパーティーにはつきものの匂いを、すぐに捉えてしまうのである。ふいに香ってきた甘ったるい匂い。談笑する人たちの間で、ときおり、知らない男女が色欲の匂いをさせながら、駆け引きをしている。大胆に背中の開いたドレスで、男を艶めかしく見つめる女。女の腰に添えられた男の手が今にもおしりに……。うぇ。ヴィヴィアンは目を逸らした。
大人だからこそ、去年のクリスマスパーティーで嗅いだものよりも、さらに強くどろどろとした匂いがする。大量の薔薇と香水の風呂に入れられ、蒸されているかのような。甘いを通り越して、もはや熱いと表現したくなる匂いだ。息をする度に鼻の奥でぱちぱちと弾ける。頭がクラクラしてきた。なんだかとても、心細くなってきた。
「──大丈夫かい?」
俯くヴィヴィアンを覗き込む灰色の瞳。レギュラスが戻ってきた。口を開くと匂いを吸ってしまいそうで、ヴィヴィアンは黙って頷いた。だが、その動きでさらに気持ち悪くなった。
「休憩できるところを探そう」
レギュラスに手を引かれ、言われるがままついていく。交流会という目的のためか、会場の端には、腰をかけて話せるようにソファがいくつか置いてあった。薄いカーテンで仕切られて、中にいる人の影しか見えない。レギュラスが空いているところのカーテンをめくって、入るよう促したので素直に従った。
喧騒から少し離れた空間で、ふうっと息を吐く。次いで、怖々と息を吸うと、嫌な匂いは和らいでいた。視界に入れなければ大丈夫なようだ。調子に乗って深呼吸をすれば、途端に楽になった。レギュラスしかいないのをいいことに、ヴィヴィアンは大きく伸びをしてソファに深く腰かけた。
「はぁ……大人ってどうしてああいう……」
「ん?」
「ううん。なんでもないわ」
大人になれば嫌でも大人たちの世界に飛び込むことになる。もう6年生。卒業まで2年もない。いつまでも大人になることを疎んでばかりではいられないのだ。
ヴィヴィアンはもう一度ため息をついて、背もたれに頭を預けた。すると、自ずと天井に目がいって、
(あ……)
見てはいけないものを、見てしまった。大げさだけれど、一瞬、本気でそう思った。緑色のツタが、天井から伸びている。そういえば、これはクリスマスパーティーだった。あれはヤドリギだ。ヤドリギが、飾られている。
「何か飲み物を持ってこようか?」
それには気づかずに、レギュラスが声をかけてくる。
「……いいえ、大丈夫よ」
目を合わせないまま、ヴィヴィアンは小さく答えた。言ってから少し後悔した。彼を引き止めるような形になってしまったから。場所を変えたほうがいいのかしら。だって、ヤドリギだし……。
そう考えている間に、レギュラスが当たり前のように、二人がけのソファの空いた隣に座る。ヴィヴィアンの真似をするように、うんと伸びをした。彼も大人たちとの談笑に気を張って疲れたのだろうが、もう少し、気を張ったままでいてほしかった。
レギュラスは気が抜けたようにソファに頭を預け……すぐさま、「あ」と声を漏らした。上にあるヤドリギに気づいたようだ。どうしよう。途方に暮れ、自然と二人で顔を見合せてしまう。ヴィヴィアンは頭の中でぐるぐると考えを巡らせた。何かを言わなくちゃ。
場所を変えましょう? だと、ヤドリギを意識しているみたいだし。かといって、ヤドリギだわ! と言うのも大げさだし。レギュラスがヤドリギの迷信を知っているとは限らない……いや、この気まずそうな顔は知っているに決まってる。どうしてそんな顔をするの? 目を逸らして、頭をかいて。さっきまでの完璧なエスコートはどうしちゃったのよ。そんな美味しそうな匂いなんて、させちゃって──
におい?
ふと、さっきまでとは違う甘い匂いに、空気が塗り替えられた。不快ではない、美味しそうな匂いだ。どこか懐かしい気持ちになる。まだ子どもだった頃、屋敷しもべ妖精のメープルが作ってくれたビスケットを思い出す、柔らかい甘さ。この匂い、前にも──。
いいえ、そんなことよりも、今は。どうやってこの気まずさを誤魔化そう……なんて、友だち同士なのに何を気にしているのだろう。ヴィヴィアンは思い悩むことが何だかどうでも良くなってきた。美味しそうな匂いが思考を惑わせたのか。それとも、懐かしい匂いが子どものように素直な心を呼び起こしたのか。頭の中にぽっかりと浮かんだことが、気づけばそのまま口から出ていた。
「──レギュラスは、誰かと、キスしたことはある?」
ヤドリギの下にいる二人はキスを拒めない。そんな迷信をレギュラスもきっと知っている。だからこんな疑問が思い浮かんだだけだった。すぐに、間違えたと思った。聞くつもりじゃなかった。こんなこと聞いてどうするの。そう思っても、取り消すことはできない。彼の答えるまでがひどく長く感じた。
「……いいや、ないよ」
「そう……私も」
ここから今すぐ逃げ出したい。けれど、美味しそうな匂いとは離れがたい。もうわかっていた。この匂いは、レギュラスのせいだ。
前にも同じような匂いを嗅いだ。忘れもしない。愛の妙薬が仕込まれたカップケーキ。けれど今、視界の中に食べものなんてない。あるのはレギュラスの姿だけ。彼は食べものじゃ、ない。
あのとき嗅いだ愛の妙薬は、よくできた作りものの愛の匂いだった。愛の匂いを嗅げるヴィヴィアンにだけ嗅ぐことができた。偽物の匂いに、ヴィヴィアンは最後まで騙されなかった。抗うことができた。
なのに、今は。魅惑的な甘い匂いで、頭がおかしくなりそうだった。この美味しそうな匂いがするものを、食べたくて仕方がない。偽物の匂いを嗅いだことがあるからこそわかる。わかってしまう。これは、もしかして、作りものじゃない、本物の──。
「──してみるかい?」
「え?」
「キス、してみたい?」
何を言っているの? 頭の中では、すぐに言い返せた。変なこと言わないでよ。と、いつものように強気になって、笑い飛ばせばよかったのに、浮かんだ言葉は何も、声に出すことができなかった。一体どうしちゃったの。私も、レギュラスも。
「……友だち同士でキスするなんて、変よ」
精一杯絞り出した言葉がこれなんて、変なのは自分だ。こんなの答えになっていない。しかしレギュラスもまた、余裕をなくして見えた。
「それで誰かに怒られる? それとも、君が怒るかい?」
「私は……怒らないけれど……」
レギュラスは、ずるい。聞いてばかりで、決めさせようとする。
あなたはキスがしたいの? その疑問をぶつける気にはならなかった。答えは聞かなくてもわかっている。きっと、キスをすること、そのものに興味があるだけだ。たまたま一緒にヤドリギの下に居たのがヴィヴィアンだったから。自分だってそう。キスをすることに興味がないと言えば嘘になる。好きの反対は無関心。大人の男女に嫌悪感を抱いてしまうのは、好奇心の裏返しとも言える。
心を落ち着かせようと、膝の上で硬くなっていた手を、ソファの上にくつろげようとした。しかし、そこにあったレギュラスの手と、触れてしまった。驚いて離れようとするヴィヴィアンの手を、レギュラスは引き止めた。
おそるおそる彼の顔を見た。甘い匂いが一際強く、しかし優しく。レギュラスの唇から発せられているように感じた。その唇に口付ければ、その甘いものを味わえるのかしら。吸い付けば、甘い蜜を吸い出すことができるのかしら。私ってこんなに甘いものが好きだったかしら。ああ、もう、そんなことは、どうだっていいから。はやく、はやく、ちょうだい。あなたのその、甘いもの──。
どちらからともなく、ジリジリと焦らすように、二人の距離が近づいて、気がつくと唇に柔らかいものが触れていた。
あぁ……キスを、してしまった。遅れてやってきたその認識が、頭の中にふわふわと浮かんで、心も身体も浮かび上がってしまいそうだった。
未知の感覚を味わうように、うっとりと目を閉じる。甘い匂いと彼の熱が、重なり合ったところから、じわりじわりと溶け合うようにして、自分の中へ流れ込んでくるのが、つぶさに感じられた。
懐かしいビスケットの味がする。いいえ、それよりもちょっぴり甘くて、濃厚で、なぜだかとても懐かしいと感じるのに、どこで食べたか思い出せない。私にとって、初めての味。だって、一度食べたら忘れられない。ああ、美味しい。こんなに美味しいものが、すぐ近くにあったなんて。
角度を変えて触れるたび、満たされていく。独り占めしたい。誰にも、渡したくない。吸い尽くしてしまいたい。私の──。
握られていたレギュラスの手から力が抜けていく。一瞬、唇の隙間から漏れた、彼の苦しげな息が、まるで警鐘を鳴らすかのように、はっきりと耳に聞こえて、ヴィヴィアンはすぐさま目を開けた。咄嗟にレギュラスの胸を押して、身体ごと離れる。彼は頬を微かに紅潮させたまま、戸惑うような目でヴィヴィアンを見つめる。
「っ……ごめんなさい」
ソファから立ち上がり、レギュラスを置いて、ヴィヴィアンは逃げ出した。誰に挨拶もしないまま、パーティー会場から出て、足がもつれそうになりながら寮の自室まで帰った。慌ただしく部屋に入ってきたヴィヴィアンに、アリアドネが驚いて何か言おうとしたが、それも無視してカーテンを閉め、ベッドの上に蹲った。
(私……何を……)
身体が震えている。吐き出す息が荒いのは、ここまで走って帰ってきたからだ。ただそれだけ。何も、おかしくはない。
でも──。唇にまだキスの感触が残っている。甘い匂いがまだ、口の中に残っている。ただ唇をくっつけるだけの、キスが、美味しいなんて、どうかしてる。
(……こんなの、まるで──っ)
ヴィヴィアンはドレスを着替えもせず、布団の中に潜り込んだ。
***
いつまでも君の傍らに居られたら──。そう思った理由を、もっと深く考えていれば、君を傷つけずに済んだのだろうか。
きっと気づかないうちに積み重なってきたのだと思う。君への想いは、高く、高く、積み重なり、やがてヤドリギの下で、目を逸らせなくなった。あのとき初めて、僕は君のことが好きなのだと自覚した。
苦しかった。胸を掻きむしりたくなった。
恐ろしかった。君を失望させることが。
君は、自身に流れる血を恐れていた。夢魔の血が無意識に誰かを誘惑してしまうことを。どうすれば証明できよう。君を好きになったのは、紛れもなく僕自身なのだと。
このことを君が知れば、君は僕と距離を置くだろう。もう二度と、そばに居られなくなる。
君に夢魔の血が流れていなければ。と、どれだけ思ったことか。でも、君が普通の女の子だったなら、愚かな僕は君に興味を持つことすらなかっただろう。
何を恨めばいいのか。自らの策に溺れた僕自身なのか。いいや、それはできなかった。君を好きになった心までをも否定してしまうことなど、とても。
僕の葛藤は行き場をなくしていた。苦しむ心は混沌を呼び寄せ──そして、闇の帝王に共鳴してしまったんだ。