次の日。ホグワーツは今日からクリスマス休暇だった。家に帰る生徒たちは、昼前に出発するホグワーツ特急に乗ってロンドンへ向かう。レギュラスも、そのうちの一人だ。休暇中の数週間、彼とは会えなくなる。ヴィヴィアンはそのことに、少しほっとしていた。
目を薄く開けて、カーテンの隙間から差し込む光で、朝が来たのだとわかった。まぶたを開くのが億劫だった。目元を触ると、涙の跡でザラザラしていた。起き上がる気がしなくて、ヴィヴィアンはしばらくぼうっと寝そべっていた。
「……ヴィヴィアン、起きてる? 開けるよ?」
アリアドネの声がする。声の出し方を忘れてしまったみたいに、返事をしないでいると、控えめにベッドのカーテンが開かれた。
「良かったぁ。起きてたんだね。おはよ〜」
「……おはよう」
ベッドに寝転がったまま、視線だけをアリアドネのほうへ向けた。喉から出たのは何とも頼りない声だった。
そんなだらしない態度を取られても、アリアドネは怒ることなく、困ったように笑った。
「あぁもう、昨日はそのまま寝ちゃったんだね。ドレスもこんなにシワクチャにしちゃって……綺麗にしといてあげるから、シャワー浴びてきなよ」
「……ええ、ありがとう」
何があったのか聞かないまま、アリアドネはヴィヴィアンを普段着に着替えさせ、シャワールームに送り出した。落としていなかった化粧と、カピカピになった涙のあとを洗い流して自室に戻ると、魔法でシワを消してくれたのか、綺麗になったドレスがベッドの脇にかけられていた。
もう一度アリアドネにお礼を言って、二人で朝食を食べに大広間まで降りていく。レギュラスと顔を合わせる勇気はまだなかった。けれど、どうしても視線はスリザリン寮のテーブルへと吸い込まれてしまい、いつもと変わらない様子のレギュラスがいるのが見えた。昨日のことはまるで、何もなかったかのよう。
彼は、キスしたことを何とも思っていないのだろうか。ヴィヴィアンが逃げ帰ってしまったことも、気にしていないのだろうか。そのほうがきっとヴィヴィアンにとっても有難い。はずなのだが、胸のつかえはより重くのしかかって、外れてくれそうになかった。ヴィヴィアンは、家へ帰る彼の見送りもせず、ひとりで自室に戻った。
休暇の間だけ、少しの間だけ。時間をあけて、休暇が終われば、きっと胸のつかえもすっかり取れて、本当に何もなかったかのように、またいつも通り話せるだろう。そう信じて、アリアドネには何も言わないまま、彼のいないホグワーツで、休暇の終わる日を指折り数えながら過ごした。
しかし、クリスマス休暇が終わってもレギュラスは帰ってこなかった。新学期の始まる前日、ホグワーツに帰ってきた生徒たちの中に、彼の姿はどこにもなかった。休暇に合わせて運行しているホグワーツ特急に乗らなければ、新学期の授業に間に合わなくなる。優等生のレギュラスがそんな失態を犯すなんて……。
最初の授業が始まる日の朝。朝食を終えた後に、ヴィヴィアンは大広間を出ようとしていたスリザリン三人娘を呼び止めた。レギュラスと同じ寮であり、かつて彼を追いかけていた彼女たちなら、何か知っているかもしれない。だが、エリザベートからの返答は芳しくなかった。
「ホグワーツ特急でもキングス・クロス駅でも、レギュラス様のお姿はお見かけしませんでしたわ。休暇の始まるときには確かに、お帰りになられていましたのに」
エリザベートの両脇に座ったクララとクレアも、同意するようにこくこくと頷いた。レイブンクロー寮のテーブルの端に彼女たちを招き、ヴィヴィアンとアリアドネは三人の向かいに腰かけた。
「何かあったのかな……?」
アリアドネが小首を傾げて訝しむ。ヴィヴィアンは俯いた。もしかすると、休暇前の出来事が原因なのかもしれない。それを知らないエリザベートが、何かを思い出したように、あっと声を上げた。
「そういえば……最後にお見かけしたレギュラス様は、どこか思い詰めたようなご様子でしたわ。ひとりにしてほしい、とコンパートメントにおひとりで、座っておられましたの」
ホグワーツ特急でロンドンに帰るときのことである。スラグ・クラブのクリスマスパーティーがあった次の日だ。
「あの日の前夜、レギュラス様はクリスマスパーティーへ参加なさっていたのでしょう? ヴィヴィアンさんとご一緒に。アリアドネさんからお聞きしましたわ。あの夜は珍しく、彼女がおひとりで、大広間にいらっしゃったものですから」
あの日、アリアドネはパーティーへ行くヴィヴィアンを笑顔で送り出してくれた。けれど、やはり寂しい思いをさせてしまっただろうか。アリアドネの顔を見つめると、照れくさそうに鼻をかいた。彼女が口を開く前に、エリザベートが続ける。
「でも安心なさって! わたくしたちも、ここでささやかながら、クリスマス“ティー”パーティーをしていましたのよ!」
「そ! お菓子と紅茶を持ち寄ってね。楽しかったんだ! だから、きみたちがパーティーを楽しめたのかが、心配でさ……」
アリアドネは控えめにヴィヴィアンの顔を覗き込んだ。これまで彼女はパーティーのことについて、何も聞いてはこなかったけれど、きっと気を使って聞かないでいてくれたのだろう。
話すべきかもしれない。心配をかけたアリアドネにも、そして別の理由で、エリザベートたちにも、黙っておくのは不誠実だと思った。
「レギュラスと……したのよ」
「ん? 何を?」
不思議そうに見つめられて思わず目をそらす。いざ、口に出そうとすると、自然と声が小さくなる。大きく息を吸って、テーブルの木目に向かって話すように、声を絞り出した。
「──キス。したの」
「わお」
「き、キッス……!?」
エリザベートが裏返った声を上げ、失神の呪文を食らったかのように上体を仰け反らせた。
「エリザベート様!」
「お気を確かに!」
両側から身体を支えられ、戻ってくる。
「だ、大丈夫ですわ! 問題ありません。わたくし、決めておりましたの。レギュラス様がいつか、愛する方と結ばれたとき、わたくしは心から、祝福の言葉を──」
「ちょっと待って!」
ヴィヴィアンは堪らず大きな声を上げて遮った。他の生徒たちの訝しげな視線を感じたが、そんなのはお構いなしだ。
「勘違いしているわ。私は“愛する方”でもなければ、結ばれたわけでもない。私とレギュラスは友だちよ」
「友だち同士でキスなんてしないよ!」
今度はアリアドネが勢い余ってバンと机を叩いた。周りの視線が一気に集まり、ごめんなさぁい……と呟いてアリアドネは小さくなる。ヴィヴィアンは反論を続けた。
「私もそう言ったの。友だち同士でなんて、変だって。でも、ヤドリギが……」
「ヤドリギがお二人に」
「キッスをさせたと」
「おっしゃる?」
スリザリン三人娘が、テーブルに身を乗り出して、ずいっと顔を近づける。ただならぬ迫力に圧倒されながらも、
「……きっと、興味があっただけよ。相手は誰でも──」
バン! と大きな音がして、ヴィヴィアンは目を丸くした。エリザベートが机を叩いて立ち上がったのである。
「レギュラス様はそんな、ふしだらな方ではありませんわ! わたくしが保証……いえ、ヴィヴィアンさん、あなたが一番よく分かっているはずですわ!」
「……」
痛いところを突かれた気分だった。彼女の言っていることは正しい。何も言い返せない。
「レギュラス様が思い悩まれるのも、無理はありませんわね」
エリザベートはため息をついて座り直す。
アリアドネが頬杖をついて、間延びした声を出した。
「ん〜……だからといって、学校に来なくなるかな?」
「それは……」
反論できないエリザベート。ヴィヴィアンはここぞとばかりに便乗する。
「そうよ。遅刻して列車に乗れなかっただけかもしれないわ。そのうちしれっと帰ってくるわよ」
「遅刻だなんてあの方が……」
遅刻と聞いて、クララとクレアが何やら慌て始めた。時計を見て驚いている。
「エリザベート様! お時間が!」
「授業に遅れてしまいますわ!」
「いけない! お二人とも、ごめんあそばせ」
そうして、スリザリン三人娘は嵐のようにわたわたと大広間から去っていった。ヴィヴィアンとアリアドネにはこの時間の授業はない。
大広間に残る生徒も少なくなってきて、しんと静かになったとき、アリアドネの優しい声が鼓膜を揺らした。
「……ねぇ、ヴィヴィアン。まだ、言ってないことがあるでしょ?」
「え?」
彼女は静かに問う。
「あの日、あんなに落ち込んだきみを見るのは、初めてだった。理由を、聞かせてくれないかな?」
あの日のヴィヴィアンは、何も言わずに帰ってきて、自分のベッドに閉じこもって、ドレスのまま眠って、涙でカピカピになった顔をアリアドネにも見られた。
同室の彼女には心配をかけたし、迷惑もかけた。聞いてくれるというのなら、話したいとは思う。けれど、こんなこと打ち明けて幻滅されないだろうか。ヴィヴィアンが言い淀んでいると、アリアドネが揶揄うように、目を細めて笑った。
「レギュラスのキスが、泣くほど下手だった?」
ヴィヴィアンは首を横に振りながら、思わずクスッと笑みをこぼした。アリアドネには心の中なんて、全部お見通しなのかもしれない。笑わせてくれて、少し気分が楽になった。
「違うわ。その逆よ。私……彼とのキスを美味しいと感じたの。幸せな気持ちで満たされて、離れたくないって思った……こんなの変でしょう? 唇を合わせただけなのに」
自嘲するように笑う。けれど、アリアドネは真剣な様子で腕を組み、空中に考えを浮かべるように、上を向きながら答えた。
「きみがレギュラスとキスをして、幸せな気持ちになるのも、離れたくないって思うのも……あたしには変だなんて思えないよ」
「どうして?」
ヴィヴィアンが尋ねると、彼女は目を合わせて、
「それは、きみがレギュラスに──」
そこまで言いかけて、コホンと咳払いをした。
「……いいや、なんでもない。その感情に、あたしじゃ名前をつけられないよ」
アリアドネは困ったように肩をすくめた。
あのときヴィヴィアンが抱いた感情は。幸せな気持ち。それから、忘れられない怖い気持ちだ。
「じゃあ、あの匂いは? 味は? 美味しそうな匂いが、レギュラスからしていたの。それで、キスをしたら、本当に美味しい味がしたの! それでもおかしくないって言うの!?」
アリアドネに詰め寄っても仕方がないのに、興奮が抑えられない。
「それは……あたしにも、わかんないけど……きみの嗅覚が特別だから、かなぁ」
「じゃあやっぱり──」
初めから決まっていた結論を再確認し、ヴィヴィアンは戒めるように口に出そうとした。けれど、それを先回りするように、アリアドネがぽんと肩に手を置いた。
「でもね、これだけはわかる。──きみは夢魔じゃない。きっとレギュラスだっておんなじことを言うよ」
そうしてアリアドネは下手っぴな笑顔を浮かべた。その言葉と表情を正面から受け止めると、自分の情けなさを、彼女の優しさが包んでくれているかのようだった。涙が溢れそうになって、ヴィヴィアンは必死にこらえた。
「ごめんなさい。あなたに迷惑をかけてしまって……」
「迷惑だなんて思わないよ。それより、きみを泣かせたレギュラスを、とっちめてやらないと!」
「ダメよ、彼は何も悪くないわ……私、怖くなって彼の胸を突き飛ばしたの。そのまま何も言わずに寮まで帰ってきちゃった。謝らなきゃいけないのは私のほうよ」
ヴィヴィアンが経緯を説明するも、アリアドネは納得がいかない様子で頬杖をつき、テーブルの向こうをぼんやりと眺めた。
「とにかく、とっちめるにしても、謝るにしても、レギュラスが居なきゃ話になんないね。まったく、学校サボって何やってんだろ……」
ヴィヴィアンも同じほうを見る。スリザリン寮のテーブル、真ん中のほうの席。レギュラスの姿が浮かんで消える。
「私、手紙に書くわ。今の気持ちを」
「そうだね、それがいいよ!」
羽根ペンと羊皮紙を取り出し、ヴィヴィアンはさっそく手紙を書いた。
『どうして学校に来ないの?』
と、遠慮せずに記した。
『話がしたい』
まだ何を話せばいいのか、わからないから、ただその気持ちを記した。
『会いたい』
今までにないくらい、そう思っているから、恥ずかしがらず素直な気持ちを文字にした。
とっちめるのは会ってから。謝るのも会ってから。アリアドネとそう約束をして、手紙をふくろうに託した。