校長室に忍び込んだ日から数日が経って、ヴィヴィアンは廊下にある肖像画のひとつから呼び止められた。ホグワーツ内の絵画を伝ってフィニアス・ナイジェラス・ブラックからの報告が届けられたのだった。
レギュラスがどこかへ出かけたらしい。フィニアスの予想していた通り、行先がホグワーツではないことは明らかだった。学校へ帰ってきたという知らせも噂も聞かない。家を離れてしまえば情報は得られない。相変わらず手紙の返事も来ない。
その一ヶ月後。冬も終わりかけのある日のこと。またもや肖像画から、今度はレギュラスが家に戻ってきたとの伝言を聞いた。そして伝言はそれだけでなく、フィニアスが校長室で直接話したいとのことだった。ヴィヴィアンがアリアドネとともに校長室の前まで来ると、合言葉を言わずとも、ガーゴイルの石像がひとりでに動いた。二人で校長室に入ると、中には誰もいなかった。不思議に思ってキョロキョロしていると、肖像画の中でひとりだけ目を覚ましていたフィニアスが、おーいと話しかけてきた。
「ダンブルドアは不在だ。だが許可は得ている」
だから入れてもらえたのだろう。もしかするとダンブルドアはわざと席を外しているのかもしれない。何を聞かされるのか。緊張で身体が強ばる。フィニアスは目を逸らしながら、どこか歯切れ悪く続けた。
「伝言をするのがはばかられる内容でな……直接来てもらった」
「レギュラスに、何か悪いことが……!?」
ヴィヴィアンは堪らず語気を強めた。
「落ち着いて聞きなさい。レギュラスは無事だ。姿を見た。だが……家を空けた理由がわかった。おそらく、学校へ来なかったのもそのためだ……」
「何のため?」
アリアドネが即座に尋ねる。フィニアスは少し躊躇うように視線を泳がせてから、やがて元校長らしい威厳をもって答えた。
「──『例のあの人』に会うためだ」
隣から小さく悲鳴が聞こえた。唐突に告げられた曖昧な代名詞を、頭で理解するのに少し時間がかかった。『例のあの人』……って、あの『例のあの人』? 闇の帝王? その人に会いに行くために、レギュラスはホグワーツに来なかった?
──あぁ、それなら理由はわかる。『例のあの人』は、彼が憧れている魔法使いだ。
やっと理解が追いついてきた。ヴィヴィアンの頭の中に、最初に思い浮かんだのは、レギュラスはきっと喜んでいるだろうということ。新聞でしか見ることのできなかった人に、会えたのならすごく嬉しかったはずだ。
次に浮かんだのは困惑。魔法界の誰もが知っている人。名前を呼ぶことすら恐ろしい闇の魔法使い。そんな人に、レギュラスが会いに行けたということ。まだ16歳の学生が会いたいと思って簡単に会いに行けるような人なのだろうか。『例のあの人』が会ってくれるだけの理由が、レギュラスにあったのだろうか。
ヴィヴィアンが思考を巡らせている中、アリアドネがフィニアスに向かっておずおずと口を開いた。
「それって……レギュラスが──死喰い人になった、ってこと……?」
死喰い人。闇の帝王に賛同する魔法使いたちのこと。純血主義を掲げ、中にはマグルやマグル生まれを手にかける過激な者もいる。死喰い人になるということは、そういう人たちの仲間になるということだ。レギュラスが、本当に?
「そこまではわからない……だが、今まで通り彼と関わるべきかは、考えたほうがいい」
フィニアスの言葉は、レギュラスが今まで通りではなくなったということを暗に伝えていた。突き放すような物言いだった。ヴィヴィアンは、その冷たさに神経を逆撫でされたように感じた。
「レギュラスに関わるなと仰るんですか? あなたは彼のご先祖さまなのに……!」
「私は、フィニアスの思考を再現しただけの肖像画だ。本人ではない」
感情のない声で事実を述べられ、ヴィヴィアンは手を握りしめながら引き下がった。アリアドネが落ち着かせるように、肩にそっと手を添える。
「この人にあたってもしょうがないよ。とにかく、レギュラスと話をしないと。何か他に方法は……」
ゴホン。と遮るように、頭の上から咳払いが聞こえた。肖像画とはいえ、ぞんざいに扱われて気分を害したのだろうか。しかし、フィニアスはため息混じりにこう告げた。
「君たちがそう言うのなら、仕方がない……良い情報をあげよう。イースター休暇が明けたら、レギュラスはホグワーツに戻ってくるつもりだ」
「え?」
「ほんとに!?」
「あぁ。そう話しているのを聞いた。さぁ、私に伝えられることはこれで全部だ……くれぐれも気をつけて。我が子孫ながら、レギュラスが何を考えているのか、わからない……何かあったら、ダンブルドアを頼りなさい……」
徐々に声が小さくなっていき、最後はうわ言のようになりながら言い終わると、フィニアスは目をつむり、寝息を立て始めた。
彼の言葉を信じるなら、レギュラスがもうすぐホグワーツへ帰ってくる。ようやく会える。
「戻って、くるのね……」
「うん……良かった、よね?」
そう尋ねるアリアドネの顔はどこか浮かない。きっと自分も同じだろう。あんなに会いたいと思っていたのに、少し怖い。知らない人みたいになっていたらどうしよう。それでも、ヴィヴィアンの胸は期待を膨らませ、痛いほどに高鳴るのだった。
*
イースター休暇がもうすぐ終わる。休暇が終わるのをこんなに待ち望んだことは今までなかった。
休暇中は授業もないし、監督生の仕事もほとんどないし、じっとしているとそわそわして心が落ち着かなかった。そんなヴィヴィアンを見兼ねて、アリアドネが、お風呂場に行ってきたら? と言ってくれた。監督生用のお風呂場だ。アリアドネを置いていくことになるから、あまり利用したことはなかったけれど、気分転換になるならと行ってみることにした。
あわあわのお風呂。ふかふかのタオル。ぽかぽかのお湯に浸かって、芯から温まったものの、心も身体もさらにふわふわとしてしまったような気がする。
お風呂場から寮への帰り道、ぼんやりと歩いていると、廊下で誰かにぶつかってしまった。ほら、言わんこっちゃない。
「あっ、ごめんなさい……」
「気にすんな。ってなんだ、あんたか。上の空じゃないか。あいつのことで何かあったか?」
顔を上げて、ぶつかった相手をちゃんと見てみると、シリウス・ブラックだった。彼にはレギュラスのことをまだ伝えていない。知恵を貸してもらった恩もある。兄である彼にも伝えるべきだろう。
「レギュラスが、休暇明けに帰ってくるらしいの」
「フン……良かったな。手紙の返事が来たのか?」
「いいえ。フィニアスが教えてくれたの」
「おぉそうか! 最後まで手伝ってやれなかったが、上手くいったようで何よりだ」
シリウスはハハハと快活に笑った。
「それで? 何でそんなに浮かない顔なんだ? 嬉しくないのか? ついに見限ったか? 別にそれでもいいとは思うが──」
「良くないわ! 良くない、のよ……」
ヴィヴィアンは咄嗟に叫んだが、告げるべき言葉が出てこず、語気はしぼんでいった。拳をぎゅっと握りしめる。シリウスは笑うのをやめた。
「何を言われた?」
ただならぬ雰囲気を感じたのだろう。シリウスは真剣そうな声で静かに聞いた。ヴィヴィアンは意を決して、彼と目を合わせる。
「レギュラスが、『例のあの人』に会った……って」
それを聞くと、シリウスは胸の奥から吐き出すような、深いため息をついた。
「とうとう、そうなっちまったか……」
彼は頭を抱えるように手をやって、髪をかきあげながらそう呟く。ヴィヴィアンは慌てて、でも、と付け足した。
「まだ死喰い人になったとは限らないわ」
「いいや、そうに決まってる。そいつに会うためにあの優等生が学校をサボったんだろ? 会っただけで終わりだなんて、仲良しごっこで満足すると思うか?」
「それは……」
ヴィヴィアンも疑問に思っていたことだ。わざわざ『例のあの人』が会うからには、相応の価値がないと不自然だ。誰彼構わず会ってくれる、サービス精神旺盛な人だとは思えないし、レギュラスだって名家の息子らしく礼儀をわきまえている。
レギュラスが『例のあの人』を尊敬していることは、ヴィヴィアンも知っていた。遅かれ早かれこうなることは分かっていたはずだ。そうなったとき、自分はどうするのか、決める時間は充分あったのに、先延ばしにしていた。自分たちがホグワーツでぬくぬくと過ごしている間に、彼は行動していた。思ったよりも早く。そのことに動揺しているのはきっとシリウスも同じだ。
「あなたはもう、レギュラスのことを弟だとは思えないの?」
レギュラスが道を外れない限り、弟だと思ってやる。彼はそう言った。そうならないために、友だちでいてやって欲しいと、弟思いの兄のようなことを。
「……前に言ったことは忘れてくれ。あんたも、あいつとの関わり方を考え直すべきだ」
「フィニアスと同じことを言うのね」
ヴィヴィアンが言い放つと、シリウスはあからさまに顔をしかめた。
「ご先祖サマと同じだなんて、屈辱でしかねぇが……今回ばかりは賛成だな」
「それでも……レギュラスは私の、大切な友だちよ。たとえ死喰い人になったとしても、レギュラスがレギュラスじゃなくなるわけじゃない。彼は誰かを傷つけたがるような人じゃないわ!」
死喰い人や純血主義者。そうやって一括りにして考えてしまうけれど、一人一人に色んな考えがあって、全く同じ思考をする人間はいない。死喰い人だってみんながみんな同じ考えを持っているわけじゃない。持った考えの一部が『例のあの人』に共鳴し、ついて行きたいと思わせた。レギュラスの場合はきっと、魔法界を守りたいという気持ち。人を傷つけ、あまつさえ命を奪うなんて、過激なことをするはずがない。
「それは、
「そのときは私が、光の中へ連れ戻すわ!」
間髪入れずに言い返すと、シリウスはもう一度ため息をつき、無造作に頭をかいた。
「……ったく、あいつも随分好かれたもんだな! もういい、勝手にしろ。だが……これだけは覚えておけ。次に会うときがあれば、弟だからと容赦はしない。あいつとは敵同士だ。場合によっては、あんたとも、な」
「ご忠告ありがとう」
お互いにそう言い捨て、すれ違って足早に去っていく。さっきまでふわふわとしていた足取りは、しっかりと硬い床を踏みしめていた。
レギュラスのことを、どう考えればいいのか。ホグワーツに戻ってくる彼に、どう接すればいいのか。それを決めかねていたから、落ち着かなかったのだ。けれど、シリウスとの会話で、はっきりと自分の心が見えた。それはシリウスのおかげでもあった。
レギュラスと友だちでいること。不安がないといえば嘘になる。でも大丈夫。私はまだレギュラスを、あの純粋な男の子を、信じられる。彼のことを考えると、心が温かくなるのだから。
死喰い人になったのなら、闇祓いに追われる身となる。けれど、ホグワーツにいれば安全だ。闇祓いからも、そして死喰い人からも守られる。彼の清い心は穢れない。穢させない。それが友の役目。
そうしていつか。優しいレギュラスならば、過激な死喰い人たちを止めてくれるかもしれない。賢いレギュラスならば、誰の血も流すことなく、魔法界の混沌を正す道を見つけてくれるかもしれない。
このときは、そう信じるほかなかった。
***
──その夜、私は夢を見た。
私はロンドンの空を飛んでいた。相変わらず背中にはコウモリのような翼が生えている。頭に角があるのも、お尻にしっぽがあるのも、いつもの夢の──夢魔の姿だ。
こんな姿になってまで、私が飛んでいきたかった理由は。あぁ……見えてきた。レギュラスを迎えに行くためだ。
キングス・クロス駅から、ホグワーツ特急がもう出てしまったみたい。駅には乗り遅れたレギュラスがひとりでぽつんと立っていた。授業に間に合わなくなる、と泣きそうな顔で困っている。
私は空から降りてきて、レギュラスの前に立った。久しぶり! と言うのも忘れて、思わず抱きしめてしまった。彼は私の翼が邪魔で、抱きしめ返すのを躊躇い、手をさまよわせていた。まるで、あのときと一緒ね、とクスクス笑った。
さあ、ホグワーツへ帰りましょう。
私はレギュラスの身体を抱えた。横抱き。いわゆるお姫様抱っこ。夢の中だからか、重いなんて少しも感じなかった。彼を抱えたまま空をすいすい飛べた。
ただ、顔が近くて、恥ずかしかった。レギュラスもそう思ったのか、二人で一緒に目を逸らした。こんなことなら、箒を持ってくるんだった。
あぁ、なんて、