イースター休暇の最後の日。ヴィヴィアンは居てもたってもいられず、ホグワーツ城の玄関ホールでレギュラスが来るのを待っていた。アリアドネは隣で、渋い果物でも食べたみたいな難しい顔をしていた。
やがて、ホグワーツ特急の到着時刻になり、しばらくして生徒たちがぞろぞろと玄関ホールに入ってくる。彼らの顔をじろじろと見ながら、待ち人を探した。ときどき怪訝そうに見つめ返されるのもお構いなしだ。
黒い髪。灰色の瞳。スリザリン寮のローブ。あっ、と声が漏れかけた。凛とした立ち姿。生真面目そうな顔。レギュラスは確かにいた。ほんとうに戻ってきた! 数ヶ月ぶりだからか、少し大人びたようにも見える。でも、まぎれもなくあれは、自分の知っているレギュラスだ。嬉しさに飛び跳ねたくなった。ヴィヴィアンは思わず、大きな声で呼び止めた。
「レギュラス!」
「え! あわわ……」
急な行動に隣でアリアドネが慌てるのと同時、他の生徒たちの視線が一斉にこちらを向いた。途端に恥ずかしくなる。けれど、おかげでレギュラスも気づいてくれたようで、生徒たちの列を離れて二人の前までやって来た。大人びたかと思ったが、彼の微笑む顔には少し、あどけなさが垣間見えた。ヴィヴィアンは照れ隠しに頬をかいた。
「ごめんなさい、つい……」
「いいんだ。久しぶりだね、二人とも」
話し方も同じだ。フィニアスやシリウスが大袈裟なことを言うから、心配して損をした気分だ。レギュラスが何も変わっていないことに、ひとまず安心した。しかし、アリアドネは違うようだった。
「『久しぶりだね』って、きみが何も言わずに来なくなったからでしょ! 手紙の返事もせずに!」
「アリアドネ……」
珍しく怒りをあらわにしている。ヴィヴィアンは驚きながらも彼女をなだめた。レギュラスがホグワーツに戻ってくると知ってから、そわそわと落ち着きなかったヴィヴィアンの手前、アリアドネは怒りたいのをずっと我慢していたのだろう。レギュラスも驚いた様子だったが、冷静に返した。
「君たちと話さなくては、と思っていた……あとで『必要の部屋』に来てくれ」
「わかったわ」
「……」
アリアドネは唇を引き結んでいたが、ヴィヴィアンが顔を覗き込むと、無言で頷いた。
*
三人で過ごすことがなかったから、この部屋に入るのも久しぶりだった。『必要の部屋』と呼んでいる、三人用の小さな談話室。暖炉は要らない季節になったけれど、今日はなんだか薄ら寒かった。ソファの定位置に座っても、誰も喋らなかった。何から話せばいいんだろう。アリアドネはまだ怒っているし、レギュラスにはお互い内緒にしていることが多い。ヴィヴィアンだって怒りたい気持ちはある。聞きたいことがたくさんある。けれど、死喰い人になったの? なんて、口をついて出てしまったら、彼が不審に思うかもしれない。
最初に口を開いたのはレギュラスだった。
「すまない。そんなに怒っているとは……」
「そりゃあ怒るよ! あの優等生のレギュラスが、なんにも言わず学校に来なくなるなんて! 何か悪いことがあったんじゃないかって、二人で心配してたんだ!」
「僕は優等生なんかじゃ……」
「優等生かどうかなんて、どちらでもいいわ。どうして、ホグワーツに来なかったの?」
アリアドネが怒りをぶつけている分、ヴィヴィアンは少し冷静になれた。喧嘩になる前に、まず、フィニアスから聞いた話を答え合わせするのが先だ。
「……君たちからの、手紙は読んだ。返事をしなくてすまない。ますますホグワーツが恋しくなると思って、筆を取れなかったんだ」
「学校に行くよりも、大事な用があったの?」
「……あたしたちにも、言えないこと?」
手紙を無視されたことへの悲しさよりも、フィニアスから知らされたことへの心配のほうが今は大きい。知っていると悟られないように慎重に尋ねる。レギュラスが正直に話してくれるとは限らない。
「手紙に書くのは、はばかられたんだ。君たちを疑ったわけじゃない。僕自身も、相当疑られたさ。あの方へのお目通りが叶うまで、どれだけかかったか……」
『あの方』という、聞きなれない音。それを口にしたレギュラスは、憧れの魔法使いについて語ったときと同じ、純粋な目で思いを馳せるように遠くを見つめていた。アリアドネは膝の上でぎゅっと拳を握った。
「……っ! じゃあ、きみは、やっぱり──」
「見てもらったほうが早いな。あまり見せびらかすようなものでは無いんだが……君たちにはいずれ、言おうと思っていたんだ」
勿体つけるようなことを言って、レギュラスはおもむろに、左腕のローブとシャツの袖を捲りあげた。彼の白い腕が顕になる。そこには、蛇とドクロの絡み合った刺青が浮かび上がっていた。
「闇の、印……」
同じ印が、空に打ち上げられているのを新聞で見た。闇の帝王に従う者たちの証。レギュラスの純粋な顔には似合わない、禍々しい文様だ。
アリアドネが勢いよくソファから立ち上がった。
「レギュラスがそこまで馬鹿だったとは思わなかったよ!」
そう言い捨て、彼女は部屋を飛び出してしまった。
「アリアドネ!」
ヴィヴィアンが追いかけようとすると、後ろから手首をそっと掴まれた。つんのめって立ち止まる。
「……待って」
静かな声に振り返ると、レギュラスが切実な表情をしていた。彼の手の温度は、記憶していたそれより、少し熱い。
この手を振りほどいたら、友だちでいられなくなる。ふと、そんな大袈裟なことが頭によぎった。力が抜けたように再びソファへ腰を下ろすと、レギュラスもヴィヴィアンの隣にそっと座った。彼は掴んだ手を離さないまま、優しく握り直す。体を少しこちらに向けて、目を合わせながら話し始める。
「君たちには反対されると思った。君たちは優しいから」
「……どうしてわざわざ、危ないところに近づくの?」
『例のあの人』は、魔法界の混乱の中心だ。死喰い人になるのは、自ら火の中に飛び込むようなもの。憧れているからって、クィディッチチームのサポーターをやるのとはわけが違う。聡明なレギュラスには、ちゃんと意味がわかっているはずだ。
「いずれ魔法界は、あのお方に導かれることになる。今は中立を保っている魔法使いたちも、闇の帝王の元に馳せ参じるのは、時間の問題だ」
「だとしても、あなたはまだ学生なのよ? 卒業してからだって遅くはないわ。私たちがここで過ごせるのは、あと少しなんだから……」
「君に……君たちに会えないのは心苦しかったよ。でも、それを理由に、やるべき事を先延ばしにしては、いけないと思ったんだ」
「死喰い人になることが、あなたのやるべき事なの? 魔法省に捕まったら、大変なことになるのよ?」
死喰い人の中には何人もの殺人者がいる。今や、死喰い人であるというだけで、犯罪者扱いだ。
闇祓いに捕まって魔法省で裁判にかけられ、罪があると認められれば、アズカバンの監獄に繋がれてしまう。もちろん、レギュラスはそんな罪を犯すような人じゃない。けれど、誰もがそれを信じてくれるわけじゃない。
「君のご家族は魔法省に勤めているんだったね。あそこも一枚岩では無いだろう。君のお父上はなんと仰ってる?」
ウィングス家は血を重んじている。ブラック家ほどではないにしても、夢魔の血と同じくらい魔法使いの血を誇りとしている。当主である父は、良く言うと穏健派だ。悪く言うと、事なかれ主義。闇の帝王に抗う理由はない。しかし世論を考えて、積極的に協力もしない。だから今はまだ中立を保っている。なら、ヴィヴィアン自身もそうだと言えるのだろうか。
だとしても、魔法省は死喰い人を捕まえる。レギュラスが危険なことには変わりはない。
「お父様は……関係ないでしょう」
苦々しさを感じながら煮え切らない返事を吐き出す。そんなヴィヴィアンの気持ちとは裏腹に、レギュラスはどこか満足そうに、大人びた笑みを浮かべた。
「あぁ、そうだね。その言葉が聞きたかったんだ。君は、魔法省やお父上の言うことに、全て従うわけじゃないだろう? いま大切なのは、君自身がどう思うか、だ」
ヴィヴィアン自身がどう思うか。死喰い人に対して。『例のあの人』に対して。これはもはや、遠い世界の話ではない。自分のことだけで精一杯だなんて、言っている場合じゃない。自分自身のこととして考えなければならない時がきた。レギュラスはヴィヴィアンの理解を望んでいる。
今の魔法界に、『例のあの人』を止められる者はいない。ダンブルドアでさえ、彼に手出しできないでいるのだ。レギュラスの言う通り、このままでは間違いなく、闇の帝王が魔法界を支配することになる。そうなったときどうすれば、自分を、家族を、友人を、守れる?
闇の帝王は純血主義だ。抗わなければ、血が流れることはない。だとしたら、何故、抗う人たちがいるの? マグル生まれだけじゃない。純血の魔法使いたちだって、血を流している。だから魔法戦争なんて呼ばれるものが起こっている。
ヴィヴィアンは視界の端にちらつく、レギュラスの腕を見た。あの印。『例のあの人』の印。まるであの人の所有物だって名前を書かれているみたい。ヴィヴィアンはそう思いながら、無意識に闇の印を睨みつけていた。
レギュラスは視線に気がつくと、ヴィヴィアンのほうに向かって左腕を差し出した。
「ほら、触ってみて。怖くないから」
「でも……」
「大丈夫。君が触れても、何も起きないよ」
もう片方の手で掴んだままにしていた、ヴィヴィアンの手首を持ち上げて、レギュラスは自身の左腕へと導いた。
指先が触れる。暗雲のように蠢く刺青。今にも牙を向いてきそうな蛇。触れるか触れないかのところで、怖々と撫でる。レギュラスがくすぐったそうにふっと息を漏らした。とても恐ろしいものがそこにあるというのに、彼の滑らかな肌の感触しか感じないのが、ヴィヴィアンをますます戸惑わせた。
レギュラスの選んだ道なら、応援してあげるのが、友の役目? 良かったわねって。おめでとうって。お祝いしてあげれば、彼はきっと喜ぶに違いない。
そう思って気づいた。死喰い人になったと聞いて、一度も、祝福の言葉が思い浮かんではこなかった。レギュラスにとって、とても嬉しいことだとわかっているのに、彼の喜ぶ顔を見たいと思うのに。口に出そうとすると、心臓を握りつぶされるみたいに苦しくなって、どうしても言えない。レギュラスにとっての嬉しいことが、ヴィヴィアンにとっての嬉しいことじゃないなら、一体どうすることが、正しいのだろうか。
「私には、わからないわ。何が正しいのか……」
「じゃあ、僕が教えてあげる」
腕を見下ろしていた顔を上げると、思ったよりも近くでレギュラスと目が合った。まるで、前に夢の中で彼を抱きかかえていたときくらいの、恥ずかしくなってしまう距離。
けれど、夢とは違って、彼は目を逸らさなかった。灰色の瞳が、磨き上げられたように澄んでいて、ヴィヴィアンのことだけを鏡のように映していた。優しく添えられていた彼の手が、ヴィヴィアンの手に覆いかぶさって、少し気持ちいいくらいの強さで圧迫される。初めてのキスをした、あのときのことを思い出す。無意識に、ヴィヴィアンの鼻が、あのとき嗅いだ甘くて美味しい匂いを探そうとする。このまま絆されたら、どうなってしまうのだろう。彼に全てを任せたら、何もかも、上手くいくような気がする。このまま目を閉じてしまえば──。
「……アリアドネを、探しに行かなきゃ」
ヴィヴィアンは顔ごと俯いて、彼の瞳から目を逸らした。甘い考えが霧散する。いま、何を考えていた? 知らないうちに息を止めていたみたい。心臓がドキドキしている。レギュラスに気づかれないといいけれど。彼は、どんな顔をしているだろう。一度俯いてしまえば、なんだか怖くて顔を上げられない。
「……あぁ、そうだね」
少し間が空いて、穏やかな声が降ってきた。ほんの数秒だけそのままでいたけれど、レギュラスは掴んでいた手をぱっと離し、ソファから立ち上がった。
ヴィヴィアンが顔を上げると、彼はエスコートをするように手を差し伸べた。なんの躊躇いもない、洗練された所作。余裕そうな顔に浮かぶ柔らかな笑み。けれど、細められた目の奥で灰色の瞳が、どこか困ったように、微かに揺れている気がした。
ヴィヴィアンは少し迷ってから、レギュラスの手を借りてソファから立ち上がった。彼の腕の刺青が、袖に隠れて見えなくなった。