湖の乙女と夢魔の祝福   作:タキヤコ

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4章 7年生
第35話 9月,10月 - 最終学年の始まり


 

 高祖母が夢魔の姿になれただなんて、そう易々と信じられることではない。けれど、次兄の語った話はヴィヴィアンを苦しめるものではなかった。

 

 日記に記されたことが、全て事実だったとして。ヴィヴィアンに希望を抱かせたのは、夢魔の姿となった高祖母が、理性を保ったままであったことだ。夫と息子の命を助けた。姿は夢魔になったとしても、心が人間のままであった証だ。どのように夢魔の姿になったのか。変身術のようなものなのか。日記に記述のなかったことは考えても仕方がないが、夢魔になろうなんて思わないヴィヴィアンにとっては、前述の情報を得られただけで、次兄との会話が有意義なものであったと言える。

 

 夢魔の血への恐れを、少しは克服できたと思う。レギュラスはよく頑張ったねって褒めてくれるかしら。なんてことを一瞬、考えてしまったけれど、ヴィヴィアンに発破をかけたのは心の中の彼の声だ。レギュラス本人は、夢魔の血を引く女のちっぽけな悩みなんかよりも、もっと大きなことに頭を使っている。真偽の確かめようがない、おとぎ話を教えたってしょうがない。

 

 それに……レギュラスには、メープルのことをどう説明しよう。今はそのことについてのほうが懸念が大きい。

 

 ホグワーツに家から屋敷しもべ妖精を連れていくなんて、異例の対応ではあるが、父はダンブルドアに直談判したらしい。ホグワーツにいる間、メープルには他の屋敷しもべ妖精の仕事を手伝ってもらうという条件で、連れていく許可を得た。意外と話のわかる御仁だとか何とか言って、手のひらを返していた。死喰い人がホグワーツにいるという噂をもって、父が交渉したのかは知らないが、そうでなくともダンブルドアはレギュラスのことを知っているだろう。

 

 最初にレギュラスが死喰い人になったかもしれないと言ったのは、校長室に飾られている肖像画だ。ダンブルドアの耳に入っていないはずがない。それでもレギュラスに何もしてこないのは、生徒のことを信じているからだろうか。はたまた、いち生徒のことに関心がないのだろうか。どちらも有り得そうなのが、ダンブルドアという偉大な魔法使いの底知れぬところだ。

 

 

 

 

 ホグワーツに到着したヴィヴィアンは、まずメープルを連れてキッチンへ向かった。屋敷しもべ妖精たちにメープルを紹介すると、彼女はすぐに仕事へと取り掛かった。

 

 家事仕事をするメープルを見るのも、ホグワーツの屋敷しもべ妖精たちを見るのも、慣れたものだが、その二つが合わさると、なんだか妙にくすぐったかった。

 

 キッチンから出る際に「メープルをよろしくお願いします」と思わず頭を下げたら、メープルを含めその場にいたすべての屋敷しもべ妖精たちから、すぐに頭を上げるよう懇願されてしまった。子どもを預ける親の気持ちと、親の職場を見に来た子どもの気持ちの両方を、いっぺんに味わったような気分だった。

 

 しかし、メープルに任された本来の仕事はそれではない。監視役。それがヴィヴィアンに対するものなのか、死喰い人に対するものなのかは、彼女の解釈に委ねられている。真面目な彼女なら、死喰い人と目されている人物にはすぐに見当がつくだろう。屋敷しもべ妖精にとって、誰にも見えないところで仕事をするのは得意中の得意だ。

 

 結局、このことをレギュラスに伝えるべきか考えあぐねたまま、一週間、一ヶ月と日々が過ぎていった。

 

 

 

 7年生にもなると授業はとても難しく、課題もたっぷりと用意され、慌ただしい毎日だった。それに加えて、相変わらずアリアドネはレギュラスと話したがらないし、レギュラスの周りにはまたスリザリン生が集まってきていた。ヴィヴィアンの父が噂を知っていたくらいだ。レギュラスが死喰い人であるという噂の信憑性は高まっている。彼らはレギュラスの腕にある闇の印を拝めるときを、今か今かと待っていることだろう。

 

「どうして、死喰い人になったこと、みんなに言わないの?」

 

「そうすれば、ますます何処へも行けなくなってしまうだろう? この部屋だってキッチンだって、僕らだけの秘密の場所なんだから」

 

 ヴィヴィアンはレギュラスと二人で『必要の部屋』にいた。授業終わりにこっそり、手紙を手渡されたのだ。今日こそ人を撒くから、『必要の部屋』で会おう、と。周りの生徒の目をかいくぐるのに苦労したらしい。

 

 一人にしてくれと命令すれば、聞いてくれそうなものなのに。レギュラスの周りに知らない下級生たちが、ベタベタとつきまとうのを見て、ヴィヴィアンは何度も思った。けれど、そういう発想に至らないことが、レギュラスの優しさが損なわれていないことを示しているのだった。

 

 新学期が始まってから、レギュラスと面と向かって話すのは初めてだった。アリアドネを誘ったものの、彼女はやはり首を縦に振らなかった。

 

 三人用の談話室。見つけたのはアリアドネなのに、定位置であったヴィヴィアンの隣に彼女の姿がないことが、少し寂しかった。レギュラスはそんな心を見透かしたように言った。

 

「昔を思い出すね。君たちと友だちになったばかりの頃だ。あの頃は、僕がアリアドネに同じような態度をとっていた」

 

 懐かしむように目を細める。ヴィヴィアンはそんな感慨に浸るような気分ではなかった。

 

「今はもう、子どもの喧嘩ではないの。レギュラス、あなたはわかっていないんでしょうけれど……」

 

「わかっている。僕が、死喰い人になったからだろう?」

 

 レギュラスはさも当たり前のように、小首を傾げて言った。死喰い人になったと聞いて、近づく者もいれば、離れていく者もいる。レギュラスも馬鹿ではないから、アリアドネが後者であることには気づいていただろう。ヴィヴィアンは何も答えなかった。肯定の意味はそれだけで伝わる。

 

「アリアドネは、僕が危ないことに君を巻き込むんじゃないかって、心配してる」

 

「違うわ。あなたの事を心配しているのよ」

「なら、心配は無用だって伝えてくれ」

 

 心配する気持ちは、相手を大切に思うからこそ生まれてくるものだ。アリアドネがまだ、レギュラスのことを友だちだと思っていることを、ヴィヴィアンは知っている。元闇祓いを祖母にもちながら、レギュラスのことを大切な人のひとりとして数えている。死喰い人になったと聞いてから、彼女はずっと難しい顔をしている。レギュラスを憎んでいるからではなく、助けたいと思っているからだ。

 

 しかし、過度な心配を疎ましく思う気持ちも、ヴィヴィアンには少しわかってしまう。自分が信頼されていないと錯覚してしまう。自分のことを知らないくせに、と反発してしまう。ヴィヴィアンの場合は本当に、何も知られていないからこそ受けた“心配”なのだが。

 

「……お父様がね、ホグワーツに行くなって言ったの」

 

 ヴィヴィアンはため息混じりに告げた。不思議に思ったのか、レギュラスは向かいのソファから身を乗り出した。

 

「なぜだ?」

「ホグワーツに死喰い人がいるって、聞いたそうよ」

「……」

 

 さすがのレギュラスも黙り込んだ。噂が校外にまで広がっていることを知らなかったのだろう。それとも、噂を聞いた父の反応に呆れているのだろうか。

 

 それには同感だ。闇の帝王のことは今まで否定してこなかったのに、いざ周りに危険があると知ったら、すぐに意見を翻す。事なかれ主義の父の悪いところ。危険な死喰い人が、いま娘の目の前にいることも知らずに。ヴィヴィアンが秘密にしていた成果でもあるが、何も知らない父が少し滑稽に思えてくる。なんて、私は親不孝者かしら。

 

 ヴィヴィアンは、ふっ、と乾いた笑みをこぼした。

 

「まさかその死喰い人が、娘とキスをしたことのある男の子だなんて、夢にも思わないでしょうけれど」

 

「……え」

 

 茶化すつもりで言い切った。のに、レギュラスはぽかんと驚いたようにヴィヴィアンを見つめ返した。あ、私、いま……恥ずかしいことを言った? だんだんと顔が熱くなっていく。レギュラスの頬もほんのりと赤くなっている。そういえば、この話を……キスをした話を、彼の前で、蒸し返すのは初めてだった。

 

「……ごめんなさい、今のは忘れて」

 

 ヴィヴィアンは堪らず、両手で顔を覆い隠し、身体ごとそっぽを向いた。しかしレギュラスは無慈悲にも、ヴィヴィアンの前まで回り込んできて、その両手を剥ぎ取った。熱くなった頬が彼の視線に晒される。彼はヴィヴィアンの手を取ったまま、空いている隣に座った。逃げ道を断たれた獲物のような気分だった。

 

「忘れられるものか。まさか君の口からその話を聞くなんて」

「やめてよ……あなたにとっても、いい思い出じゃないでしょう?」

 

 ヴィヴィアンは俯いた。けれど、その仕草に意味はなかった。ふいに、匂いがした。甘い匂いだ。彼だけが発する、美味しそうな匂い。俯いていても、如実にわかる。

 

 こんなときに甘い匂いなんてさせないでよ。鮮明に蘇る、突き飛ばして拒絶した記憶。レギュラスの戸惑った顔。

 

 あのときよりも強引に、しかし優しく、レギュラスはヴィヴィアンの両手を握った。

 

「あのとき、君の感じたことはわかってる。何を怖がったのか、も」

「でも、あなたを傷つけたはずよ」

 

「それはお互い様だよ。僕は後悔していない。だから君も、気に病む必要はない。どうか、悪い思い出にしないでくれ」

 

 顔を上げようとすると、彼の唇が真っ先に目に入った。この唇から、甘いものが、味わえることを、ヴィヴィアンは知っている。唇と唇を合わせると、なぜだか知らないけれど、幸せな気持ちになれるんだって、知っている。友だち同士でキスするのは変だって、みんな言っていたけれど、いいじゃない。いい気持ちになれるんだから。誰かに怒られる? なら、誰にも秘密にしていればいい。私は怒らない。レギュラスだって……あれ?

 

 あのときキスをしたのはヤドリギがあったからで。レギュラスはそれに興味があっただけで。試した結果、後悔はしていないと言うけれど、お互いに傷つけあってしまったのは確かで。

 

 ──甘い匂いを嗅いだのは私だけ。美味しい味がしたのも私だけ。幸せな気持ちになったのも、たぶん、私だけ。

 

 キスなんて本当は、恋人同士がするものだ。わかっている。ヤドリギもないのに、キスしたいなんて、私、何を考えているんだろう──。

 

「……わかったから、手を離して」

 

 居たたまれなくて、再び顔を逸らした。火が出そうなほど顔が熱い。たぶん、耳まで赤い。照れが伝わったのか、レギュラスがパッと手を離した。わざとらしく咳払いをする。甘い匂いはたちまち霧散していった。ヴィヴィアンが心を落ち着かせるように深く息を吸うと、レギュラスもまた深呼吸をしてから話し始めた。

 

「……話を戻そうか。それで、お父上の反対を押し切って来たのか?」

「いいえ。最後には認めてくれたわ。ただ──」

 

 ヴィヴィアンはそこで言葉を詰まらせた。メープルを監視役として連れてきたことを、レギュラスに言うべきか否か。父は娘が死喰い人本人に告げ口するなんて、思ってもみないだろう。だから、メープルもヴィヴィアンも口止めなんてされていない。

 

 伝えたところで、レギュラスは当然いい顔をしないだろう。けれど、後から知られるよりはずっといい。

 

 彼は口を閉ざしたヴィヴィアンを、急かすことなく待っていてくれた。やっぱりレギュラスは優しい。言うなら、できるだけ早いほうがいい。

 

「──ただ、登校を許す代わりに、彼女を連れていけって」

 

 ヴィヴィアンはおもむろに、メープルの名前を呼んだ。レギュラスが不思議そうな顔をした途端、バシッと大きな音がして、『姿現し』でひとりの屋敷しもべ妖精が部屋の中に現れた。

 

「お呼びですか、お嬢様」

 

「メープル。彼がお父様の言っていた死喰い人よ。悪さをしないよう見張っていてね」

 

「……何だって?」

「かしこまりました、お嬢様」

 

「あぁ、でも。あなたも忙しいでしょうから、手伝ってあげる。私の目の届く範囲なら、私が彼を見張っておくわ。その代わり、お父様には黙っていてくれる?」

 

 真面目な屋敷しもべ妖精は首を傾げる。父からの命令は曖昧なものだ。誰を監視しろとは言わなかった。その命令を塗り替え、さらには協力をするという(てい)で、要求を追加する。彼女に本音を話せたら一番楽なのだが、屋敷しもべ妖精というのは人間とは異なる理で生きている。慎重にならざるを得ない。

 

 屋敷しもべ妖精はどんなにつらい命令でも、主と決めた者には従わなければならない。ただし、メープルはウィングス家に仕えているから、父と娘、どちらを優先してくれるかは彼女の判断に委ねられる。

 

「……かしこまりました。ご配慮痛み入ります。では失礼いたします」

 

 上手く意図が伝わっただろうか。小さくお辞儀をすると、メープルはまた『姿くらまし』で消えていった。途端に、しんと静かになる。レギュラスは不服そうに眉をひそめている。

 

 こうするのが手っ取り早かった。メープルにレギュラスが死喰い人だと伝え、レギュラスにもメープルに監視される可能性を伝える。ヴィヴィアンの目のある場所では監視はいらないと言い含めつつ、監視自体をやめろとは言わなかった。

 

 それがヴィヴィアンの本音だった。

 

 レギュラスのことは信頼している。父の心配は杞憂だ。彼が私に対して悪いことをするなんて、微塵も思わない。けれど、私の知らないところで何をするかはわからない。それが心配。だから、メープルに見張っていてもらいたい。

 

 彼に隠しておくことなどできなかった。こちらも本音を晒さなければ、彼も本音で話してはくれない。

 

「どういうつもりだ」

 

 レギュラスは声を低くした。問いかけるのではなく、問い詰めるような口調だった。彼が怒るのはもっともだ。お前を信頼していない、と突きつけているようなものだ。

 

「……私だって、アリアドネの気持ちはわかるの。あなたが死喰い人になったこと、まだ受け入れたわけじゃない」

 

 レギュラスの真意を聞けないでいる。彼に自分の知らない部分があることを、恐ろしいと感じる。それは同時に、彼の心の全てを知ることを、恐れているということだ。

 

「僕のことが、怖いか?」

「……少しだけ」

 

 ヴィヴィアンが正直に答えると、レギュラスは傷ついたような素振りも見せず、満足そうに、ふっと笑うのだった。

 

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