闇祓いになると宣言してから、アリアドネは誰に言われるまでもなく、ともするとヴィヴィアンよりも熱心に、勉強に勤しんでいた。幸いにも、闇祓いとなるのに必要な教科のNEWTレベルのクラスは、全て履修中だった。その中でも『魔法薬学』は……レギュラスとヴィヴィアンが教えたから、NEWTのクラスに入ることができたのだった。先生たちが良かったおかげだよ、とアリアドネは悲しそうに笑った。
休日であっても、アリアドネはかつて苦行だと嘆いていたレポート執筆に、自ら進んで励んでいた。ヴィヴィアンは、ご褒美にお菓子を持っていってあげようと思いつき、キッチンからお菓子の入ったバスケットを貰ってきた。
その帰りだった。
廊下の向こうに見えた人影に、ヴィヴィアンは足を止めた。レギュラスがいるのが見える。だが、他にも人がいる。二人で話している声が聞こえてくる。ヴィヴィアンは咄嗟に廊下の角に身を隠した。
「──発言に気をつけろ。ここはダンブルドアの領分だ」
「あんな老いぼれ、敵じゃないですよ。センパイも、そう思ってるんじゃないですか?」
相手は、勝ち気そうな声の男子生徒だった。同級生ではない。きっと下級生だ。話の内容から間違いなくスリザリン生だろう。
レギュラスからの返事はなく、代わりに足音がした。足音はこちらに向かって大きくなってくる。まずい。気づかれたのかしら。と、ヴィヴィアンが焦り始めたとき、その足音を引き止めるように再び声がした。
「俺、知ってますよ。前にセンパイと一緒にいた女。あの女、夢魔の血を引いてるらしいじゃないですか」
私のことだ……。ヴィヴィアンは思わず息を止めた。同時に足音が止んだ。
「あのお方に献上しないんですか? センパイがやらないなら俺が──」
「夢魔の血を引くからといって、彼女は強い魔力を持つわけではない。特別な能力を使えるわけでもない」
レギュラスの淡々とした声が廊下に響いた。相手の男子生徒は強気だった声を少し落としたものの、なおも食い下がろうとした。
「でも、闇の帝王ならそれを引き出してくださるかも……」
「小娘ひとりのために、我が君のお手を煩わせるつもりか。今のままでは力不足だとでも?」
「いや、そういうわけじゃ……そんな怖い顔しないでくださいよ」
聞き慣れた声で言い放たれた“小娘”という乱暴な響きに、胸がチクリと痛む。彼は今どんな顔をしているのだろう。覗きたくなったがグッと堪えた。
「いいか、彼女には近づくな。……あれは、僕の獲物だ」
レギュラスの声が低くなる。ヴィヴィアンはひゅっと息を吸った。
「わかりました。そういうことなら、横取りはしないですよ」
どこか投げやりな声を最後に、コツコツと足音が遠ざかっていく。しかし、その足音はひとり分だ。
「──そろそろ出てきたらどうだ?」
レギュラスの声がする。返事をする者は誰もいない。そっと廊下の角から覗くと、彼は真っ直ぐにこちらを向いていた。
「……気づいていたのね」
「そちらへ行っても?」
「……」
ヴィヴィアンは黙りこくった。警戒が伝わったのだろう。レギュラスがため息をついた。
「……バーティには、あのくらい言わなきゃ効かない」
こちらの返事を待たずに彼が近づいてきた。ヴィヴィアンは眉をひそめながら聞いた。
「あの人も、死喰い人?」
「いいや、違う。なりたがってはいるが、まだ認められてはいない。彼の父親が魔法省の重役だから」
「それで私を手土産にって考えたわけね。いいじゃない。あなたも、私を仲間に引き込みたいんでしょう?」
自嘲するように言って、わざとらしくレギュラスの腕を見る。彼はヴィヴィアンの冷ややかな視線から庇うように、左の腕をさすった。
「君は……あのお方を恐れている。あのお方はそれを瞬時に見抜かれるだろう。──今はまだ、その時ではない」
今はまだ。ならば、いずれどちらにつくかを、決めなければならない。闇の帝王に従うか、それとも抗うか。
自分が『例のあの人』の前に跪くところなんて、想像できない。魔法界を混沌に陥れた恐ろしい魔法使いだから……だけではない。
レギュラスを闇に引きずり込んだ『あの人』が、憎い。レギュラスから尊敬の眼差しを向けられる『あの人』が、羨ましい。『あの人』さえいなければ、レギュラスとアリアドネが仲違いすることもなかった。今も三人で笑い合えた。悔しい。私からレギュラスを奪おうとしている『あの人』が──。
どろどろとした醜い感情。嫉妬だ。全部『あの人』のせいにして、勝手に嫉妬しているだけ。こんな気持ちで、覚悟を決めていいのだろうか。アリアドネの語ってくれた立派な志と比べると、なんとも幼稚に思えて恥ずかしくなってくる。けれど、レギュラスと同じ気持ちで闇の帝王の後ろには並べない。
「……その時が来るとは、思えないわ」
ヴィヴィアンは詰まりそうな喉から声を絞り出した。しかし、この言葉だけじゃ彼には伝わらなかった。
「もう少しの辛抱だ。この混沌も、じきに終わる」
レギュラスは、信じて疑わない。ヴィヴィアンが同じ気持ちであることを。
勇気が出ない。彼からの信頼をぶち壊す勇気が。あなたが大切に思っているものを、私は大切にできない。それでもそばにいたい、なんて、許されるの? 同じ道を歩めないって、正直に言えば、私たちの元に戻ってきてくれるの? 二対一なら敵わないなって、また笑ってくれるの? ずっと三人、友だちでいられるの?
──そんなわけがない。そんなおめでたい考えを、信じられるほど、ヴィヴィアンはもう子どもじゃなかった。
「……もう行ってもいいかしら。アリアドネが待っているから」
彼の目を見られなかった。答えを先延ばしにした。また彼から逃げてしまった。
レギュラスの返事は聞かず、横を通り過ぎる。引き止めるような声をかけられた気がしたが、ヴィヴィアンは構わず歩き続けた。
*
そんなやり取りから数日が経った頃。
「──こんにちは。ヴィヴィアン・ウィングスさん」
唐突に声をかけられて、ヴィヴィアンは驚きながら振り向いた。授業の空きコマに図書室へ行こうとしていたところだった。ヴィヴィアンはひとりだった。アリアドネは、ヴィヴィアンが履修し損ねた『変身術』の授業に行っており、一緒にはいなかった。きっとわざと、そんなところを狙ったのだろう。
声をかけてきたのはスリザリン生だ。誰だろう。顔を見てもピンと来ない。だが、すれ違ったことくらいはあるのかもしれない。彼のどこかが、頭に引っかかる。
「俺はバーテミウス・クラウチといいます。レギュラス先輩の友人です」
名前を聞いてやっとわかった。数日前に、レギュラスと話していた男子生徒だ。“バーティ”と彼が呼んでいた。ヴィヴィアンが夢魔の血を引くことを知っており、『例のあの人』に献上しないのか、なんて物騒なことを言った人物だ。レギュラスが強い言葉で牽制したにも関わらず、接触してくるなんて。
ヴィヴィアンは一歩、後ずさった。授業中で廊下に出ている生徒は少ない。気をつけないと。しかし、クラウチはにこやかに笑った。
「そんなに警戒しないでくださいよ。貴女もセンパイのご友人でしょう? 話をしてみたかったんですよ」
「……」
ヴィヴィアンはますます怪しんだ。彼をまじまじと見た。薄茶色の髪に、そばかすだらけの肌。訝しげな視線を向けられても、余裕そうな表情で、堂々とした態度を崩さない。それでいて、威圧的だとは感じさせない。気さくそうな声音と相まって、いかにも優等生といった雰囲気だ。
レギュラスと話している声を聞いたときとは印象がどこか異なる。会話の内容から、もっと野蛮な人物なのではないかと想像していたのだが……。こちらが警戒心を解かないのを感じ取ったのか、彼はレギュラスの話をし始めた。
「あの人、面白い人ですよね。この前なんて、談話室に飛んでたハエを『死の呪文』で殺したんですよ。そんなの手で潰したほうが早いのに、器用なんだか不器用なんだか」
「『死の呪文』──?」
黙りを決め込んでいたのに、思わず声を出してしまった。血の気が引いた。優しいレギュラスには似合わない恐ろしい呪文。だけれど、何もおかしくはない。死喰い人になるということは、闇の魔術を扱うということだ。『死の呪文』を含む許されざる呪文は、闇の魔術の最たるものだ。
レギュラスがそんな呪文もできるようになっていたなんて、知らなかった。教えてくれなかった。いいや、私が知ろうとしなかった。目を背けていたから。
──私もレギュラスと同じだ。彼という人間を、己の見たいところしか見ず、信じたいところしか信じていなかった。
「あぁ、貴女の前ではやったことがないんですね。他にも『磔の呪文』とか『服従の呪文』とか試してましたよ。まぁ、しょうがないか。貴女は虫も殺せなさそうだし」
「……あなた、喧嘩を売っているの?」
挑発に乗って、まんまと手のひらの上だ。そう思っても無視はできなかった。ヴィヴィアンはクラウチを睨みつける。彼は涼しい顔で笑って、否定するように手をパタパタと振った。
「勘違いしないでくださいよ。貴女をどうこうしようってわけじゃありません。センパイに叱られますから」
「だったら、なんの用?」
死喰い人になりたいという野心を持った彼が、ただ世間話をするためだけにわざわざ声をかけたのだとは思えなかった。案の定、彼は満足そうに目を細めた。
「……頼みがあるんです。貴女のお父様のことで、ね」
「お父様?」
突然、話が逸れた気がして、純粋に疑問の声がこぼれた。彼はまた、にこりと笑って続けた。
「魔法省に勤めてらっしゃるんでしょう? うちの父親と同じだ。父がね、ぼやいてたんですよ。ウィングスっていうと、日和見で無責任なやつだって」
「……煽ったって何も出てこないわよ」
冷静にと思いながらヴィヴィアンが言い返すと、彼は軽く頭を下げた。
「失礼。そのつもりは。ただ、貴女のお父様と、うちの父が、政敵だと伝えたかったんです」
「回りくどいわね」
どれだけヴィヴィアンが苦々しい顔をしても、バーテミウス・クラウチは爽やかな表情を崩さなかった。
「では単刀直入に……俺と手を組んで、うちの父を失脚させてほしいんです。悪い話じゃないでしょう?」
なんでそんなことを、と考えかけて思い出した。彼は死喰い人になりたがっている。けれど、魔法省に勤める父がいるから認められないでいる、とレギュラスが話していた。
父親を失脚させて、難なく死喰い人になるつもりだ。そんな彼と手を組むということは、未来の死喰い人と手を組むということだ。
「ダメよ。その話には乗れないわ」
「なぜです? お父様に掛け合ってもいないのに?」
「あなたが言ったんでしょう? ウィングスは日和見だって。その通りよ。お父様は事なかれ主義で、肝心なところで保身に走る」
クラウチが何か言おうとした。けれど、ヴィヴィアンは遮って続けた。
「でもね……それは、権力を得ることよりも、家族を守ることを優先しているからよ」
確証はなかった。それでも口に出すと、本当にそうだと思えてきた。ホグワーツに死喰い人がいると知って手のひらを返したのは、家族に危険が近づいていると知ったからだ。
もしも、次期当主に据える駒としてしか、ヴィヴィアンのことを見ていないのならば、非力な娘のわがままなんて聞かず、屋敷に閉じ込めておけばよかった。ホグワーツへ行くことを許してくれたのは、ヴィヴィアンの意思を尊重してくれたからだ。ヴィヴィアンの心を守ってくれたからだ。……私はなんて、親不孝者なのだろう。
それに気づくのと同時に、目の前のバーテミウス・クラウチが、舌打ちをした。
ヴィヴィアンはびっくりして肩を跳ねさせた。あまりに突然の変貌だった。仮面が剥がれたかのように、彼が初めて表情を歪めた。そばかすだらけの白い肌に赤みがさした。この顔は、怒り? それとも、嫌悪? 何であれ、さっきまでの余裕そうな感情を表してはいなかった。凶暴さを剥き出しにした獣のような目。蛇のようにぺろりと舌なめずりをする。これが彼の本当の顔か。
ヴィヴィアンは身構えた。けれど、二人のいる廊下に、生徒の姿がちらほらと見え始めた。ちょうど授業が終わったのだろう。
クラウチは、ふっと息を吐いて、表情を削ぎ落としたような顔になった。
「センパイが気にかけているから、話のわかる人かと思ったんですが、見当違いだったようですね。時間を無駄にした……」
そう吐き捨てて、彼は去っていった。
しかし一方でヴィヴィアンにとって、彼との会話で得られたものは、無駄なものではなかった。