バーテミウス・クラウチと話した日から数週間が過ぎた。彼からの接触があったことを伝えるどころか、あれ以来レギュラスとは一言も話せていなかった。彼のせいではなく、ヴィヴィアンのせいである。
レギュラスの姿を見かけても、顔を見ないようにしていた。彼がこっちを向くのがわかっても、ぷいっとそっぽを向いた。前から歩いてきたら、くるっと振り返って後ろに歩いた。
ヴィヴィアンの急な変わりように、アリアドネも戸惑っていた。
「本当にこのままでいいの? あたしに合わせているんじゃない?」
「どうして?」
「きみが、まだ迷ってるような感じがして……」
気遣わしげに目を伏せた。アリアドネの首からは今も変わらず、三人で見つけたペンダントが下げられていた。まるで、三人で過ごした時間を忘れないように、と戒めているかのようだった。
「そうね……少し、時間がほしいの」
卒業するまでの、残り約4ヶ月。答えを出すまでの時間がほしかった。彼と顔を合わせて、灰色の瞳を見て、声を聞いてしまえば、何も考えられなくなると思った。離れたくても、離れられなくなると思った。だから、幼稚な行動だとわかっていながら、彼を避け続けた。
そして、3月の終わりが近づいてきた頃。ヴィヴィアンの逃げ場をなくすように、とうとうレギュラスのほうから話があると呼び出された。直接じゃない。屋敷しもべ妖精のメープルからの伝言だった。ちょうどメープルが監視をしていたときに、姿を隠していた彼女に向かって、自ら呼びかけたのだという。そのくらい、彼は痺れを切らしていたのだろう。
待ち合わせ場所に指定された『必要の部屋』へ行くと、レギュラスは少し機嫌の悪い様子で、ヴィヴィアンを待ち構えていた。部屋は居心地の良い談話室ではなく、レギュラスが必要だと願った訓練場の形をしていた。
「あれだけあからさまに避けられたら、さすがに傷つくよ。遊びに付き合っていられるほど、僕はもう子どもじゃないんだ」
遊びのつもりだったと決めつけて、まるで子どもであることは悪いことみたいに、ヴィヴィアンを嗜めた。確かに、いつまでも子どものままでは、いられない。レギュラスが死喰い人になってからの一年間、ヴィヴィアンはそれを身をもって知った。けれど、こんなことになるなら、子どものままのほうが良かったとさえ、思ってしまう。
出会った頃のレギュラスなら……いや、やめておこう。今は、昔のことを振り返っている場合ではない。ヴィヴィアンの心が自ずと絆されてしまう前に、本題に入らせる。
「話って、なにかしら? 謝ってほしくて、わざわざ呼び出したわけじゃないでしょう?」
急かすように言うと、レギュラスはゆっくりと頷いた。
「あぁ。君に避けられている間、考えていたんだ。もっと早く、はっきり伝えておくべきだった、とね。僕をその気にさせるために、避けていたんだとしたら、君はとんだ策士だよ」
「いったい何のこと?」
褒められているのか貶されているのか、回りくどい物言いにヴィヴィアンはムッとした。レギュラスはそれに満足気な表情を浮かべてから、すぐに真剣な眼差しに変わって、ヴィヴィアンの瞳をじっと見つめた。ドキッと心臓が跳ねた。こちらを射抜くような目だった。
いったい何を言われるのだろう。ヴィヴィアンは少し身構えた。
彼はおもむろに口を開いて、話し始める……のかと思えば、声の出し方を忘れてしまったかのように、ピタリと固まって、何も言わずに目を逸らした。黒髪から覗く耳が、心なしか赤く染まっているように見えた。
どうしたんだろう。レギュラスは勿体つけるかのように、うろうろと部屋の中を歩き始める。固い床からコツコツと足音が響く。落ち着きのない様子で、鏡張りの壁をちらりと見てから、前髪を指でいじった。なにか、時間を稼いでいる? それとも……緊張、している?
そう思い始めたとき、レギュラスが再びヴィヴィアンのほうを向き、ようやく声を発した。彼がうろうろしたせいで少し距離があいていたが、広い部屋に響いて声はよく聞こえた。
「……そう遠くないうちに、僕はブラック家の当主を継ぐ。そして“相応しい血”を持つ魔女を、妻に迎えることになる」
話しながら、気取ったように背を向ける。レギュラスの後ろ姿。ずっと一緒に過ごしてきたから、わからなかったけれど、出会った頃に比べれば、いつの間にか背も伸びた。
どうしてそれを私に言うの? なんて、白々しいことは言えなかった。
「もう最終学年なんだ。君も、目を背けずに将来を考えるべき時だ……僕たちはいつまでも“友だち”ではいられない」
卒業する前に、ヴィヴィアンの立場をはっきりさせたいのだろう。アリアドネにつくか、レギュラスにつくか。
彼の語った言葉が、頭の中で何度も繰り返される。そのたびに、うるさいくらい胸が高鳴る。照れているのか試しているのか、明言を避けてはいたが、甘美な響きを隠せていなかった。考えることを拒否してしまいそうだった。このまま何もかも放り出してしまいそうだった。
いま、ヴィヴィアンの目の前には真っ暗な闇があった。この先を進めばレギュラスと、ずっとずっと一緒にいられる。彼もそれを望んでくれている。なんて幸せなことだろう。なのに……ヴィヴィアンは、一歩も足を踏み出せなかった。人としての道を、踏み外すわけにはいかなかった。
考える時間は、もう充分与えられた。必要なのは覚悟だけだった。アリアドネのように勇敢に、彼と対峙する。最もわかりやすい方法は、これだ。震える手をおさえながら、ヴィヴィアンはローブの内ポケットから杖を取りだした。
いま、言わなければ。あの美味しそうな甘い匂いを、また嗅いでしまう前に──。
「じゃあ、お望み通り、目を背けないでいてあげる……」
「何を──」
振り向いたレギュラスのほうへ、杖を真っ直ぐに向けた。彼は戸惑っている。ヴィヴィアンが何故こんな真似をしているのか、わかっていない。
「私は、『例のあの人』には……ついていけない。他人を犠牲にして成り立つ世界なんて、間違っているわ」
マグルとマグル出身者。彼らの尊厳を守るために戦う魔法使いたち。半純血も純血も、多くの人が命を落として、新聞の死亡者一覧が日に日に長くなっていく。魔法戦争に終わりは見えず、このままずっと続くように思える。レギュラスの信じる闇の帝王が作る世界が、この戦いの先にあるのなら、たくさんの血を流して得られる世界に、落ち着ける場所などあるのだろうか。
「落ち着くんだ……君らしくない」
レギュラスは困ったように眉を下げ、警戒せずに近づいてくる。ヴィヴィアンは杖を向けながら、目を逸らさずにゆっくりと後ずさる。
相手にされていない。これも子どもの戯れに見えているのだろうか。彼はヴィヴィアンの魔法の腕前を知っている。もうハッタリなんて通用しない。
そう思ったら、自然と手の震えがおさまった。緊張も恐れも、どうせ見抜かれるのだから。胸にすくう、どろどろとした感情が湧き上がってくる。この状況を心のどこかで待ち望んでいたのかもしれない。さぁ、杖を向け合おう。決闘をしよう。お辞儀なんていらない。その忌々しい刺青の上に、消えない傷をつけてやりたい。私の手で。
「杖を出しなさい。私たちは、いずれ戦うことになる。お互いの知らないところで死ぬくらいなら、今ここで──!」
そのとき、レギュラスが瞬時に杖を取りだした。
「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」
「……っ!」
ヴィヴィアンの手から杖が弾き飛ばされた。カランと乾いた音を立てて杖が虚しく床を転がる。
速い。盾の呪文を唱える暇もなかった。彼の杖さばきからは、躊躇いなど微塵も感じられなかった。なのに、正確に杖だけを弾き飛ばした。ヴィヴィアンを傷つけないためだ。これが、レギュラスの身につけた強さ。相手がヴィヴィアンでなければ、彼が容赦をしなければ、一体どうなっていたのだろう。
「君は戦えない。僕には勝てないよ。傷ひとつつけられない。もちろん、あのお方にもね」
レギュラスがヴィヴィアンの目の前まで来て、杖をなくした手を掴んだ。わかっている。自分の実力じゃ、到底レギュラスには敵わないことくらい。
杖がなくても、捕まえられても、ヴィヴィアンの意思は変わらない。それを示すように彼を睨みつけた。恐ろしく見えているといい。嫌われたっていい。きっとそのほうが楽になれる。
「だったら、あなたはいずれ、私を殺すわ」
レギュラスは首を横に振る。手を掴んで逃がさないようにしたまま、ヴィヴィアンの顔を覗き込む。彼はどこか憐れむような表情で、ひどく優しい声を注ぎ込んだ。
「そんなことにはならない。君を戦いには関わらせない。僕の目の届くところに匿っておく。戦いに巻き込まれないように」
あぁ、誰か、彼の口を塞いで。それか、私の耳を塞いで。
レギュラスは、どうすればヴィヴィアンが絆されるのかを、熟知しているかのようだった。心の全てを知らないくせに、弱いところを知っている。
「『閉じ込めておく』の間違いでしょう!」
ヴィヴィアンはせめて目を閉じて叫んだ。レギュラスはこれっぽっちも怯まなかった。
「大丈夫。すぐにカタはつく。戦いが終わったら、ブラック家当主として僕は君を──」
「やめて! 聞きたくない!」
もうダメ。これ以上は。
力任せに彼の手を振りほどき、部屋の出口に向かって駆けた。振りほどくのは、呆気ないほど簡単だった。レギュラスの手は、割れ物でも扱うみたいに、ヴィヴィアンの手を柔らかく包み込んでいただけだった。
──あぁ。彼は、私を愛している。そして、私に愛されていることを、知っている。その通りよ。けれど、どれほど愛していても、同じ道を歩めるわけじゃない。彼はそれを知らない。
「どうしてわかってくれないんだ!」
ヴィヴィアンの背に向かって、大きな声が投げかけられる。彼らしくない叫び声だ。まるで、泣きそうな声だ。ダメ。聞いちゃダメ……。彼の感情が、鼓膜を、身体を震わせる。足元がおぼつかなくなる。その場に倒れ込みそうになる。けれど、ヴィヴィアンは足を踏ん張って、振り返らなかった。
「……わかっていないのは、あなたのほうよ」
震える声で小さく呟く。たぶん、聞こえてはいない。聞かせる必要もない。部屋を飛び出して、廊下の角を曲がってから、ヴィヴィアンはようやく全身の力を抜いた。なりふり構わず廊下に座り込んだ。目の前がぼやけて見えなかった。息をするのが苦しかった。手の甲で涙を拭った。レギュラスは追っては来なかった。
完全に決裂した。ヴィヴィアンが何を言ったって、もう彼には届かない。自分のせいだ。もっと早く、彼の言葉の意味を理解しようとしなかったから。彼の心の奥に踏み込もうとしなかったから。
『例のあの人』を尊敬していることも、マグルの血を引く者たちを良く思っていないことも、知っていた。それがどういう意味を持つのか、深く考えることをしなかった。目を背けていた。ヴィヴィアンがいつまでも、今がずっと続けば、なんて、夢を見る子どもだったから。
きっとヴィヴィアンと出会う前から、彼の心の奥底には闇があった。光の元へ引き戻すなんて、初めからできるはずがなかった。彼の心を打ち砕き、夢も希望も捨てさせなければ、叶わないことだった。レギュラスを愛してしまったヴィヴィアンには、できるはずがなかった。
*
そのあと、まだ涙が乾かないうちに、レギュラスはメープルを通じて、わざわざ杖を返してきた。自分のことは脅威でもなんでもないと言われているみたいだった。そしてメープルは、これ以上監視するなと警告されたらしい。
それを報告し終えたメープルは、涙の流れるヴィヴィアンの頬に、細い指を伸ばした。しかし躊躇った様子で、触れる前に手を引っ込めた。代わりに、胸の前で小さな手を握りしめて、おずおずと口を開いた。
「メープルは……ウィングス家にお仕えするしもべでございます。お嬢様にご命令を頂かない限り、彼の監視を続けます。いかがなさいますか、お嬢様?」
もし警告を無視してメープルが監視を続けたら。それでもし、レギュラスに見つかってしまったら。今のレギュラスは、屋敷しもべ妖精をも殺せるのだろうか。そんなことはないと信じたい。けれど、ヴィヴィアンが彼の大切なものを大切にできないように、彼もヴィヴィアンの大切な者を大切にしてくれるとは限らない。
「メープルは……どうしたい?」
苦し紛れにヴィヴィアンが聞くと、彼女は少し迷う様子を見せてから口を開いた。
「……メープルは、お嬢様のお役に立ちたいです。ご命令とあらば、必ずや、レギュラス様に見つかることなく任務を果たしましょう」
レギュラスが今までホグワーツで目立ったことをしなかったのが、メープルに監視されているという可能性を考えたからだったとしたら。今後は何をするかわからない。ホグワーツに死喰い人たちを呼ぶかもしれない。三人の思い出の詰まったこの城が、戦場に変わるかもしれない。美しい城が、血にまみれるかもしれない。レギュラスのせいで。そうなったらきっと私は、今度こそ彼を、殺したいほど憎んでしまう──。
「……危なくなったら、やめるのよ」
「かしこまりました」
「ありがとう、メープル……」
メープルは、ヴィヴィアンの涙が流れなくなるまで、何も言わずそばにいてくれた。ヴィヴィアンが笑顔を見せて、もう一度お礼を言うと、メープルは頭が膝につくくらい深くお辞儀をしてから仕事に戻った。