ヴィヴィアンは泣き腫らした顔を誰にも見られないように、俯きながら歩いて寮まで戻ってきた。それでも、アリアドネにはすぐに気づかれ、心配をかけてしまった。隠しておけないとは思っていたけれど、彼女は何があったのか深く尋ねてはこなかった。その優しさが胸にしみる。まるで、あのときと同じ──。
次の日からホグワーツは、イースター休暇だった。ヴィヴィアンは朝食時の大広間でレギュラスの姿を探した。いつもと変わらずスリザリン生たちに囲まれている。
まるで、6年生のクリスマス休暇のときと、同じだった。休暇が終われば何事もなかったかのように過ごせると思っていた。でも、次に会ったとき、レギュラスは死喰い人になっていた。ヴィヴィアンたちには何も言わずに。
──また私は、彼から逃げた。今度会うときは、もう友だちであったことも、なかったことになっているかもしれない。会って話すことも、二度とないのかもしれない。
そんな未来に思いを馳せるたび、涙が溢れそうになるので、レギュラスのことを考えないようにした。そうして逃げ続ける自分に嫌気がさす。その繰り返しだった。
ただ、あのときと少しだけ違うのは、ヴィヴィアンもまた、この休暇中に家へ帰ることだった。
ホグズミード駅でレギュラスの後ろ姿を遠くに見ながら、ヴィヴィアンは同じホグワーツ特急に乗った。
列車に乗らなくてもホグワーツを出られるメープルは、先に『姿くらまし』で家に帰ってきていた──はずだった。家に着き、名前を呼んでも、どこを探しても、彼女の姿が見当たらなかった。家にいた次兄に聞いても、知らないと言われた。
3ヶ月前のクリスマス休暇もそうだった。てっきり先に家へ帰っているのかと思えば、メープルはホグワーツに残っており、休暇明けにヴィヴィアンを出迎えてくれた。
今回もそうなるのだろう。と、結論づけようとして──ヴィヴィアンは、ふと、引っ掛かりを覚えた。途端、ぞわりと寒気がする。悪い予感が、頭をよぎる。記憶に新しい、メープルとの最後の会話が、耳の奥によみがえる。
──ご命令を頂かない限り、彼の監視を……。
ヴィヴィアンはハッと息を呑んだ。どうして、深く考えなかったのだろう。そう、3ヶ月前も、ヴィヴィアンは知らなかった。
メープルはとても真面目な屋敷しもべ妖精だ。真面目すぎて心配になるほど。
ヴィヴィアンの中で悪い予感がどんどんと膨れ上がっていく。警鐘を鳴らすように鼓動が早くなり、身体が震えた。
まさか──ホグワーツを出ても、まだレギュラスの監視を続けている?
もし、この休暇中にレギュラスが『例のあの人』に会いに行ってしまったら……。メープルは、レギュラスに気づかれないようにしてみせると言っていたが、さすがに『あの人』の目を誤魔化せるとは思えない。
(どうしよう……)
誰かを頼ろうにも、父にはホグワーツにいる死喰い人がレギュラスであることは言っていない。今も、まだ言いたくない。家族の誰にも言えない。
一方で、アリアドネはホグワーツに残っているから、すぐには相談できない。それに、危険なことに巻き込むわけにはいかない。
今はもう、レギュラスのそばにいることは安全ではないのだ。
(私のせいだわ……)
レギュラスと杖を向け合ったくせに、見放すことができなくて、メープルに無理を言った。彼女は従順な屋敷しもべ妖精だ。自分の身の安全よりも、主人の役に立つことを優先するに決まっている。
悩んだ末に、アリアドネには手紙を出すことにした。メープルがホグワーツにいるかどうか、それだけでも確かめてもらうためだ。メープルがレギュラスの監視をしていることは、彼女には話していない。勘の鋭い彼女が、ヴィヴィアンの意図に気づかないことを祈るばかりだ。
次の日にはアリアドネからの返事が来た。彼女はホグワーツの屋敷しもべ妖精たち全員に聞いてくれたようだった。だが、休暇に入ってから、ホグワーツでメープルの姿を見た者はいなかった。それどころか、休暇中はホグワーツを離れると伝言をしていたらしい。
ヴィヴィアンの予感はいよいよ現実味を帯びてきた。自室にこもり、ベッドの上にうずくまって、どうすればいいか必死に考えた。
レギュラスに手紙を出す? ──メープルにこれ以上監視をするなと警告したのは彼のほうだ。
じゃあ、メープルに手紙を出す? ──彼女が今どんな状況かわからないのに、ふくろうは目立ってしまって危険だ。
何もできない。メープルにも、レギュラスにも、何もできない。危なくなったらやめるよう、メープルには言い含めてある。だからきっと大丈夫、と自分に言い聞かせることしかできない。
一日、また一日と、休暇が過ぎていくたび、ヴィヴィアンの焦りと不安は、大きく膨らみ続けていた。そんな中、アリアドネから『何かあったの?』と手紙が来た。メープルのことを聞いてから返事をしていなかったからだ。何を書いても心配させてしまいそうで、この手紙にも返事を出せなかった。
このまま休暇が終わるのを待っているしかないのか。これじゃあ、あのときと同じだ。休暇が終わってもレギュラスがホグワーツに帰ってくるとは限らないのに──。
(そうだわ……あのときは……)
ヴィヴィアンは頭を抱えていた手をそっと下ろし、心を上向かせるように顔を上げた。
あのときは、学校に来ないレギュラスのことを聞きに、シリウス・ブラックを頼った。彼から、ブラック家と繋がっているフィニアス・ナイジェラス・ブラックの肖像画のことを、教えてもらったのだった。
もう一度アリアドネに、校長室へ忍び込んでもらう? ──いいや、そんなことをしなくても、今なら自分の足で確かめに行ける。
ヴィヴィアンはベッドから飛び降り、鏡台に駆け寄って引き出しを開けた。ここには友だちから貰った手紙を入れてある。
およそ1年半前の夏季休暇。家に遊びにおいで、と誘ってくれた友だちに、ヴィヴィアンは、期待しないで、と応えるほかなかった。無断で外出するような度胸なんて持ち合わせていなかったあの頃は、遊びにおいで、と家の住所が書かれた手紙を、頭と引き出しの隅に追いやってしまった。
引き出しの中の手紙の山。三人の思い出を丁寧にかき分けながら探す。こっちはアリアドネの字。そっちはブラック家の封蝋。でも字が少し幼い。じゃあ、その下のは? ……あった!
──グリモールド・プレイス12番地。
あの年の夏、アリアドネとレギュラスは、内緒でウィングス家の屋敷まで遊びに来てくれた。ならば、今度は。
ヴィヴィアンは決めた。レギュラスの家へ行く。もしレギュラスがいれば、彼についているであろうメープルをこっそり連れて帰る。レギュラスが家にいなければ……考えるのはそのときだ。とにかく行ってみるしかない。不安な気持ちは拭えなかったが、ベッドの上でうずくまっているよりはずっとマシだと思えた。
イースター休暇が始まってから一週間が経とうとしていた。ヴィヴィアンは父と兄が出勤するのを見届けてから、友だちのところへ行くと言って暖炉を使わせてもらうことにした。嘘はついていない。だが、それを告げると、母が珍しく表情を変え、驚いたような顔をした。友だちの家に行くなんて、初めてのことだから、さすがに予想外だったのだろう。けれど、その反応が間違いであったかのように、母はすぐにヴィヴィアンに背を向けた。ヴィヴィアンが煙突飛行用のパウダーを手にしたとき、
「……夕食までには帰ってきなさい」
とだけ言って、母は自室へと戻っていった。
直接ブラック家へ行くわけにはいかないので、とりあえずダイアゴン横丁に出た。グリモールド・プレイスは同じロンドンの街の中にある。パブの漏れ鍋を通り抜けて、マグルの街に出た。
ひとりきりでマグルの街を歩くのは初めてだった。ヴィヴィアンは何人ものマグルとすれ違った。『例のあの人』のことなど何も知らないマグルたち。彼らは自分たちが危険にさらされていることにも気づかず、足早に仕事へ向かったり、呑気にお買い物をしたり、お喋りをしたりしながら、街に溶け合っていた。
彼らの日常の風景には、魔法族と同じところがたくさんある。少し歩くだけでも、それがありありと感じ取れた。子どもたちの笑い声がどこからか聞こえてくる。仲睦まじい老夫婦がすれ違いざまに挨拶をしてくれる。この日常を犠牲にして得られる世界なんていらない。地続きのところに住んでいるくせに、レギュラスの目には何も見えていないのだ。
やがてヴィヴィアンは、グリモールド・プレイス11番地までたどり着いた。その隣は13番地になっていた。12番地は魔法で隠されている。番号が飛んでいるのに、マグルたちはどうして不思議に思わないのだろう。その無頓着さのおかげで魔法族は隠れていられるのだった。
(メープル……レギュラス、どうかここにいて……)
そう願ったとき、目の前の建物がガタガタと揺れ始めた。そして見えない力で横へと移動し始める。窓から見える11番地の住人は、何も気づかない様子で鼻歌を歌いながら、はたきで窓の掃除をしていた。
11番地と13番地を押しのけるようにして、12番地の家の扉が現れた。ここがブラック家。レギュラスの生まれ育った場所。ヴィヴィアンは深呼吸をし、何と言って声をかけようか考えた。ここまで来るのに時間はあったのに、何も考えていなかった。
あれだけ決定的な喧嘩をしたのに、どうして来てしまったのだろう。いいや、これはメープルのためだ。決してレギュラスに会いに来たわけじゃない。
喧嘩の続きを売りに来たととられるか、反省して謝りに来たととられるか。できれば穏便に済ませたいが、そもそもレギュラスが家にいなければ……。
よし、まずは名乗ろう。ここまで来たのだから、あれこれ考えていてもしょうがない。ヴィヴィアンは意を決して、玄関前の石段の一つ目に乗った。次の石段に足をかけようとして──目の前の玄関扉が、ひとりでに開いた。
悲鳴が漏れそうになり、足を踏み外しかけた。しかし、よく見ると、小さな身体が内側から扉を押していた。
「……メープル!?」
家の中からヴィヴィアンを出迎えたのは、ブラック家ではなくウィングス家の屋敷しもべ妖精だった。
「お嬢様! あぁ、何たる僥倖! よくぞいらしてくださいました!」
彼女は珍しく興奮した様子でヴィヴィアンの手を引いた。そのまま扉をくぐっても、メープル以外のヒトの姿は見えなかった。
「無事でよかったわ……この家の人は?」
「レギュラス様のご両親はご不在でございます。シリウス様は言わずもがなでございますが……今はレギュラス様とクリーチャーだけがこちらに」
「レギュラスとクリーチャーは居るのね。だったら、どうしてあなたが出迎えを?」
「それは……」
メープルは言い淀む。なぜ、レギュラスに見つからないようにしているはずのメープルが、こうしてブラック家の屋敷の中で堂々と姿を見せているのか、ヴィヴィアンにはわけがわからなかった。
「とにかく、中へ入ってもいいかしら? いえ、入らせてもらうわ」
「かしこまりました、お嬢様」
ヴィヴィアンは遠慮せず家の奥へと進んだ。メープルの無事を確認できただけで安心はしていたが、代わりにまた気がかりなことが増えていた。
「レギュラスはどこにいるの?」
聞くとメープルが先導するので、ついて歩いた。階段を下り、扉を開いてキッチンの中へ入ると、床の上に何かを燃やしたような跡があった。
見覚えのあるスクラップブックの表紙が、燃え残っている。
「え……」
その光景がヴィヴィアンの頭の中を揺さぶった。まさか──と、考えを巡らせる前に、メープルがキッチンの脇にある扉の前で立ち止まった。
「こちらです。こちらの納戸でございますが……レギュラス様は、クリーチャーと二人きりにしてくれ、と……」
「いいわ。ありがとう」
躊躇うメープルを下がらせる。どうしてレギュラスがこんなところに? と、不思議に思いながら、半開きになっていた納戸の扉を思い切って開け放った。
そこは大きなボイラーが設置されている部屋だった。視線を落とすと、扉の前の窮屈な空間に、座り込んで俯いている黒い髪の頭が、ヴィヴィアンの目に飛び込んできた。顔は見えないがレギュラスだ。そして、そばにあるパイプの下の隙間には毛布が敷かれており、年老いた屋敷しもべ妖精が、小さな寝床の上に横たわっていた。
「レギュラス……?」
声をかけると、今やっと気づいたかのように、レギュラスが顔を上げた。掻きむしったみたいに髪がボサボサに乱れ、長い前髪が目元に影を作っている。肌はいつになく青白い。あからさまに憔悴していた。
「どうして君が……メープルが呼んだのか?」
「いいえ、私が勝手に来たの。彼女が心配で」
「そうか……メープルは優秀だな。まだ監視されているとは、気づかなかったよ」
隣でメープルがヴィヴィアンを見上げる。そしてこれまでのことを説明してくれた。
「ほんの一時間ほど前のことでございます。メープルは、レギュラス様が外出されないかどうか、見張っておりました。すると、突然、衰弱した様子のクリーチャーが現れたのでございます。レギュラス様はひどく取り乱していらっしゃったので、メープルは、監視するという役目を
「ううん、いいの。ありがとう。あなたは良い仕事をしてくれたわ。でも、もう無茶なことはしないで。すっごく心配したんだから……」
「お嬢様……」
ヴィヴィアンが困ったように微笑むと、メープルは気恥しそうに手をモジモジさせた。そして、ぎこちなく微笑みを返してくれる。メープルに感謝した。彼女がいなければ、レギュラスが大変なことに気づけなかったかもしれない。
さっき見たスクラップブックの燃え残り。そこに何が詰まっていたか、ヴィヴィアンは知っている。純粋な瞳で語っていた、彼の憧れの魔法使い。その想いの結晶が灰となって消えた。
いつかこうなると思っていた。こうなることを願っていた。ただの希望的観測だろうか。いや、違う。いざ目の当たりにすると、レギュラスがあまりにも苦しそうで、こうなるように願ったことを後悔してしまいそうだった。
──レギュラスの中で、闇の帝王への気持ちが、大きく変化した。反転した。
おそらく、クリーチャーが衰弱して現れたことと関係があるのだろう。なんと声をかければいいのかわからない。声を出そうと息を吸っては吐き出してを繰り返す。そんなヴィヴィアンを見かねて、レギュラスが呟いた。
「大丈夫。クリーチャーは、弱っているだけだ。命に別状は無い。僕が、命じたから……」
しぼんでいく声は、自分自身に言い聞かせているかのようだった。苦しげな寝息を立てながら眠っているクリーチャーを眺め、彼はまた俯いて頭を抱える。
「クリーチャーのこと、誰にも言わないでくれ。アリアドネにも。本当は、君にも知らせるつもりはなかったんだが……」
「何があったか、聞いちゃいけない……?」
「……今は、聞かないでくれ。すまない……散々、心配をかけておいて」
冷静に話が聞ける状態でないのは明らかだったが、ヴィヴィアンはもうひとつだけ尋ねた。
「ご両親はいつ帰って来るの?」
「夜には……」
今は昼前だ。
「じゃあ、それまでここにいるわ」
さらりと言ってのけると、レギュラスは驚いた表情でこちらを見上げた。
「駄目だ……君のご家族が心配する」
「あなたを放ってはおけないもの」
ヴィヴィアンは、しゃがんで目線を合わせた。力が抜けたように床に座り込むレギュラスは、今までにないほど、小さく頼りなく見えた。彼は悩む素振りで目を伏せる。自身のただならぬ様子に自覚があるのだろう。
「わかった……でも、日が暮れる前には帰るんだ」
レギュラスの言葉は、出かける間際の母の言葉と重なった。あれが心配からくる言葉だったとしたら、彼の言うとおりだ。夜までに帰らなければ心配をかけるだろう。レギュラスに余計な気苦労をかけるわけにもいかないので、ヴィヴィアンはしぶしぶ頷いた。