窮屈な納戸の前にずっと固まっているわけにもいかず、ヴィヴィアンはメープルとともに納戸のそばのキッチンで過ごさせてもらうことにした。レギュラスはクリーチャーの傍らから離れようとしなかった。
ヴィヴィアンはここに来てから見たこと、聞いたことを頭の中で並べて、必死に考えを巡らせた。
ひとまず安心できたのは、今この瞬間に、レギュラスの身に危険が迫っている、というわけではなさそうだからだ。でなければ、日が暮れるまでと言わず、すぐにでもヴィヴィアンを追い返したはずである。
そして今も目の前にあるのが、燃やされたスクラップブック。レギュラスの様子を見るに、燃やしたのは彼自身で間違いないだろう。ヴィヴィアンには、させたくともできなかったことだ。彼にこんなことをさせられるのは、闇の帝王本人しかいない。
いつもの自信に満ちた振る舞いを失ってしまうほど、レギュラスの心は打ち砕かれていた。スクラップブックに詰まっていた、闇の帝王への夢と希望は、彼自らの手によって焼き捨てられた。ヴィヴィアンの望んでいたことだったが、手放しで喜べることではない。
これからどうなってしまうんだろう。彼は、どうするつもりなんだろう。私は、彼のために何ができるんだろう。
ぐるぐると考えているうちに、昼過ぎになっていて、自分のお腹の鳴る音で思考が遮られた。長居するつもりはなかったので、食べるものも何も持ってきていない。
ヴィヴィアンはまた納戸を覗いた。
「レギュラス、クリーチャー、お腹はすいていない? というより、私がすいているのだけれど……メープルに、キッチンと食材を使わせて貰えないかしら?」
「それでしたらクリーチャーめが……」
目を覚ましていたクリーチャーが起き上がろうとする。その身体をレギュラスの手が軽くおさえた。
「クリーチャー、駄目だ。まだ休んでいてくれ……すまないが、頼めるかい?」
「ええ、任せて」
メープルは慣れないキッチンでも難なく料理をこなし、弱ったクリーチャーとレギュラスにも食べやすそうなリゾットを作ってくれた。
食事ができたことを知らせたが、レギュラスが納戸から出てこないので、リゾットを盛った皿を二つ、扉の前に置いていった。ヴィヴィアンは急いで食べ終え、様子を見に行くと、クリーチャーにはレギュラスが食べさせてあげていた。だが、レギュラス本人は一口も手をつけていなかった。
「あなたも食べなきゃ」
「……今は食欲がないんだ」
「レギュラス坊っちゃま……お食事をとられませんと……お体に悪うございます……」
クリーチャーが弱々しい声で言った。レギュラスは小さく唸り、気持ちが少し揺らいだようだった。ヴィヴィアンは駄目押しに、
「私が、食べさせてあげましょうか?」
と、わざと明るい声を出した。スプーンを掴み、リゾットを掬ってレギュラスの口元に持っていく。彼が顔を上げる。今日会ってから一番間近で顔を合わせた。目元に影を落とすボサボサの髪。その奥に見える目は赤く充血し、まぶたは腫れている。揺れる瞳は怯えているようにも、助けを求めているようにも見え、まるで行き場をなくした迷い子のようだった。
クリーチャーが心配するのも無理はない。ヴィヴィアンはスプーンを向けるのを躊躇し、皿の上に戻そうとした。
レギュラスはどう思われたのかを察したのか、ヴィヴィアンの手を掴む。そのままスプーンを口に持っていかせ、リゾットを食んで飲み込んだ。
「……これでいいか」
掠れた低い声で言う。しばし呆気に取られたものの、ヴィヴィアンは空になったスプーンを勢いよくレギュラスの手に押しつけた。
「ちゃんと食べるの! 食べたら昼寝でもしてきなさい。少しは気分が楽になるはずよ。クリーチャーは私が見ておくから」
叱るような剣幕で言うと、レギュラスは小さく頷いた。しばらくして彼は空にした食器をメープルに渡しにいくと、クリーチャーを頼むと言い残して、階段を上っていった。
ヴィヴィアンが代わりに納戸へ入ろうとすると、クリーチャーが上半身を起こした。
「ダメよ! 寝てなきゃ!」
「……クリーチャーのことは、ご心配には及びません。ですので……ヴィヴィアン様はどうか、レギュラス坊っちゃまのお側に……」
「でも……」
言い淀むと、ヴィヴィアンの後ろから見ていたメープルが続けた。
「お嬢様。クリーチャーのことは、メープルが見ておきますので、ご安心ください」
二人の屋敷しもべ妖精から、大きな瞳で見つめられる。クリーチャーは、レギュラスを心配しているのに加え、ヴィヴィアンもまた同じ気持ちであることを見抜いているのだろう。ヴィヴィアンは困ったように微笑みながら、こくりと頷いた。
「……わかったわ。ありがとう」
「お礼を言うのは、クリーチャーのほうでございます……クリーチャーひとりでは、レギュラス坊っちゃまにお食事をとっていただくことも、できなかった……」
二人の言葉に甘え、ヴィヴィアンはレギュラスと同じように階段を上った。クリーチャーには一番上の階だと教えられた。その階には扉が二つあったけれど、どちらがレギュラスの部屋かはすぐに分かった。
許可なき者の入室禁止
レギュラス・アークタルス・ブラック
片方の扉に、きちんとした文字で書かれてあった。堅苦しいのにどこか子どもっぽい。彼らしい、と少し笑って、ヴィヴィアンは扉をノックした。
「レギュラス? もう寝てる?」
返事はすぐに返ってくる。
「──いや、起きているよ」
「入ってもいいかしら? クリーチャーのことは、メープルが見ていてくれるって」
「そうか……どうぞ、入ってくれ」
少し緊張しながら扉を開く。レギュラスは相変わらず俯きながら、ベッドに腰かけていた。ヴィヴィアンは努めて明るい声を出そうとした。
「二人に追い出されちゃったの。クリーチャーは自分のことより、あなたのことを心配していたわ」
「……しっかりしないとね」
レギュラスは微かに顔を上げるも、自嘲するようにため息をついた。
「じゃあ、眠くなくても横になっていなさい。ずっと納戸に座ってたんじゃ疲れているでしょう。それとも、私がいると落ち着かないかしら?」
「そんなことはない……君がいてくれると、安心できるよ」
半ば説教じみたヴィヴィアンの提案を、レギュラスは素直に聞いた。彼がベッドに入り、目を閉じるのを見届けてから、静かになった部屋の中でヴィヴィアンは今更になって思い出す。
友だちの部屋を訪れるのは初めてだった。彼がヴィヴィアンの部屋に来たときも、たしか同じことを言っていたっけ。あのときのレギュラスは気を使って部屋の中をじろじろと見ないようにしていたけれど、ヴィヴィアンの場合だとそうはいかない。
改めて部屋を見回す。ベッドカバーがそうであるように、壁も絨毯もカーテンまでもが、緑色と銀色に揃えられている。ここまで完璧に揃ってはいないけれど、ウィングス家の兄たちの部屋もこんな感じだった。きっとホグワーツのスリザリン寮はこんな意匠になっているに違いない。
ヴィヴィアンがこんな部屋をあてがわれたら重荷にしかならないが、レギュラスにとっては幼い頃から過ごしてきた落ち着く部屋なのだろう。ヴィヴィアンがいるというのに、もう安心して寝息を立て始めている。それを見ていれば、不思議と居心地は悪くなかった。
部屋の色にだんだん慣れてくると、ベッドの上に描かれたブラック家の家紋が目に入る。レギュラスが『純血よ 永遠なれ』という家訓を標に生きてきたことは、下ろした視線の先に表れていた。
熱心に集められ、貼りつけられた新聞の切り抜き。スクラップブックで見たのと同じく『例のあの人』に関するものばかり。ここにも貼っていたのか。彼にとって『例のあの人』がどれほど大きな存在だったのかがよくわかる。
今すぐにでも剥がしてズタズタに破いてしまいたかったが、ヴィヴィアンは別の写真を見つけて踏みとどまった。レギュラスが前列の真ん中に写っているクィディッチチームの写真だ。少し幼い顔で笑いかけている。こんなふうに笑っているのを最後に見たのはいつだろう。これからはまた、笑い合えるのだろうか。
ヴィヴィアンはベッドの脇に座って、そんなことを考えながら、レギュラスの寝顔を眺めていた。そして一時間も経たないうちに、彼が目を開けた。
「もう起きるの?」
「あぁ……君の言う通り、少し頭がすっきりした」
確かに、声には心なしか張りが戻っているような気がした。レギュラスが身体を起こす。ヴィヴィアンは手を差し伸べた。
「まだ寝ていてもいいのに」
「いいや。それよりも、ちゃんと君に話しておきたい」
彼はそう言うと窓のほうを見た。カーテンの隙間から部屋の中へと暖かな日差しが入り込んでいる。太陽は傾き始め、日暮れまでと約束したタイムリミットが、刻一刻と迫っている。
レギュラスは、ベッドに腰掛けたヴィヴィアンの隣に座った。一度深く息を吸って、それから話し始める。
「──クリーチャーは……僕が、『例のあの人』に預けたんだ。屋敷しもべ妖精を必要としていると知って、僕は、舞い上がって……どんな危険な目に遭うかなんて、考えもせず……喜んでクリーチャーを送り出したんだ」
『例のあの人』がクリーチャーに何をしたのかはわからない。それを尋ねることは躊躇われた。もしかするとレギュラスも、まだ聞けていないのかもしれない。けれど、『あの人』がレギュラスの憧れを打ち砕き、クリーチャーを大切にしてくれなかったことだけは確かだ。
レギュラスの膝の上で、手が震えている。ヴィヴィアンは上から自分の手を重ねて、彼の手を握った。冷たい手だった。
「僕はクリーチャーを……大切な家族を失うところだった……こんなことになるまで、自分が、間違った人に憧れてしまったのだと、気づけなかった。君たちが何度も心配して、止めようとしてくれたのに……」
ヴィヴィアンの胸の中に、言い表せない気持ちが渦巻く。レギュラスの悲しみと恐れが、震える手から伝わる。気づくのが遅いのよ、と怒りたい気持ちもある。でもそれは、彼自身が、一番よくわかっていることだろう。ヴィヴィアンのすべきことは、責めることではなく、彼を安心させることだ。
「大丈夫。私たちがついてる。あなたはひとりじゃない。ひとりになんてさせない。クリーチャーだって、すぐに元気になるわ」
大丈夫、大丈夫。と歌うように繰り返した。手を握って、肩を寄せて、自分の体温が少しでも、彼の心を温めるように。
手の甲に、ぽつん、と雫が落ちてきた。雫の元をたどると、潤んだ灰色の瞳と目が合う。レギュラスはそれを隠すようにヴィヴィアンの肩を抱き寄せ、顔を己の胸にうずめさせた。ヴィヴィアンはされるがまま身を預け、一番近くで彼の胸の鼓動を聞いていた。
*
窓から差し込む光が橙色になっていく。夕陽の熱い色だ。あとどのくらいで太陽が沈んでしまうのだろう。日暮れまでに帰るなんて約束、このまま彼が忘れてしまえばいいのに。
ヴィヴィアンがそう考えたとき、レギュラスがパッと身体を離した。
「すまない……! また、いきなり抱きしめてしまった……もうしないって言ったのに」
一瞬だけ、どうして謝られているのか、ピンと来なかった。けれど、レギュラスの困ったような顔を見てすぐに思い出した。
5年生のクリスマスにあったダンスパーティーで、彼はふざけてヴィヴィアンの身体を抱きしめた。初めて男の子に抱きしめられて、びっくりしたヴィヴィアンは、次にやったらタダじゃ置かないと忠告した。
キスだってしたことがある仲なのに、今さら? とも思うが、まだ彼の中にヴィヴィアンとの思い出がちゃんと残っていることが嬉しかった。
「そうだったわね、じゃあお仕置しなくちゃ」
ヴィヴィアンは立ち上がり、ベッドに腰かけたままのレギュラスの前に立った。彼は罰を待ち望んでいるみたいに、少し肩を強ばらせてじっとしている。ヴィヴィアンは彼の前髪をかき分け、おでこを晒した。その真ん前に、指を準備する。
何をしようとしているのかがわかったのか、レギュラスがギュッと目をつむった。ヴィヴィアンのことを信頼しきった、無防備な顔だった。
──あぁ、なんて、愛おしいの。
途端、胸いっぱいに甘い香りが広がった。まるでビスケットの山に埋もれてしまったみたいに、息が苦しくなって、ヴィヴィアンは指で弾くのをやめ、気づけば彼のおでこに唇を落としていた。
「──はい、おしまい」
レギュラスは目を開き、キョトンとこちらを見上げる。ヴィヴィアンは頬が熱くなっていくのを感じた。レギュラスは優しく笑った。久しぶりに見る笑顔だった。
その後、二人で部屋を出て、クリーチャーの様子を見に行った。クリーチャーは壁に上半身を持たれさせて休んでいたが、レギュラスの姿を見ると反射的に立ち上がろうとし、彼に止められていた。最初に見たときよりは元気になっているように思う。
「クリーチャー、いいかい? 身体が治っても、しばらくは隠れているんだ。家から出ないように」
「レギュラス、あなたはどうするの?」
「僕は……」
言葉が続かないまま、彼は左腕をさすった。闇の印があるところだ。見かねてヴィヴィアンが口を出した。
「クリーチャーなら家に隠れていられるかもしれないけれど、あなたはそうはいかない。怪しまれてしまうわ。だから──ホグワーツに来て。学生が学校へ行くことを誰も怪しまない。それに、『例のあの人』だって、ホグワーツには簡単に手出しできないわ」
レギュラスの手を握りながら言い聞かせる。彼は迷いながらも頷いてくれた。
「休暇が終わるまで、メープルを預けておくわ。あなたのことが心配だし、あなただってクリーチャーが無理をしないよう見張っていてほしいでしょう?」
「いいのかい?」
レギュラスはメープルを見る。
「お嬢様の仰せのままに。メープルにお任せください」
「じゃあ決まりね! メープル、レギュラスがホグワーツに行かないようなら、引っ張ってでも連れてきてちょうだい」
「おい……」
「かしこまりました、お嬢様」
やがて日が暮れる。クリーチャーだけを納戸に残し、三人で上の階に上がった。ブラック家の暖炉を使うといいと言われ、レギュラスが案内してくれた。
「じゃあ、またホグワーツで」
「……あぁ、ホグワーツで」
レギュラスが手を振り、メープルがお辞儀をする。それを見届けてから、煙突飛行の緑の炎に包まれ、ヴィヴィアンはウィングス家の屋敷へ帰った。
***
僕の元へ、クリーチャーが帰ってきた。今にも死んでしまいそうな、衰弱した身体で。
クリーチャーは少し前に、
何があった? まさか、
──駄目だ。
借りた下僕を見殺しにした。──ちがう。死ぬとわかっていて痛めつけた。──ちがう! 予期せぬ出来事だったのか? ──そんな危険なことを、死喰い人でもないクリーチャーに、なぜ?
埒が明かない。やはり、
しかし、クリーチャーの掠れた声が僕を引き止めた。
「レギュラス坊っちゃま……言ってはなりません……クリーチャーが生きていることは……闇の帝王の、意思に反することなのです……」
それだけを告げて、彼は力尽きるように目を閉じた。苦しげに吐き出される荒い息は、彼が生きていることの証となっていた。
どうして、こんなことに。
──僕の責任だ。僕が、命令したせいだ。
たとえば、何らかの事故があって、クリーチャーは、奇跡的に生きていた。それだけならば、僕に口止めする必要はない。僕の命令に反して
──だが、実際には、
──まさか、
いいや、そんなことが、有り得てはいけない。
これは僕の、想像に過ぎない。推測でしかない。けれど、苦しむクリーチャーを前にしてもなお、
……無理だ。
少しでも反抗心を抱けば、すぐに見透かされる。
もしも
吐き気がした。身体が拒絶している。濁った泥水のような、飲み下せない感情が、胸の内にどくどくと溜まって、今にも引き裂かれそうだった。自分がどこに立っているのかわからなくなって、震える足がよろめいた。
全てが、崩れ去っていく。信じていた言葉の全てに、価値がなくなってしまう。どうして今まで、信じていられたのだろう。
同じだなんて、認めたくはなかった。しかし、目を逸らし続けた報いが今、目の前で苦しんでいるクリーチャーに、降り掛かってしまった。無知ゆえの、愚かさ。
僕は、マグルのことを、何も知らない。
屋敷しもべ妖精ひとりの命を、捧げることのできない僕は、もう──、マグルの血を引く者たちに、犠牲を強いることなどできない。
疑念が堰を切る。
マグルの血を引くことは、死をもって償わねばならないほどの罪なのか。魔法を持たない無力なマグルを一方的に殺すことが、本当に正しい行いなのか。自分と同じ、人間の形をした者が苦しみ、息絶えるのを見て、微塵も心が痛まないのか。そんなものは、もはやヒトではない。理性のない獣だ。感情を持たない化け物だ。穢れているなどと、よくも言えたものだ。それを盲信していた、僕も同類だ──。
僕はスクラップブックを燃やした。忠誠心もともに、灰になって消え去った。一度灰になったものを、元に戻すことはできない。だが、全てをなかったことに、することもできない。どれだけ掻きむしっても、闇の印は消えやしなかった。
もう後戻りは、できないんだ。