三人はバラバラだった1年間を埋めるように、毎日『必要の部屋』に集まって話をした。話題はもっぱら『例のあの人』のことばかり。初めは三人とも暗い話題を避けて世間話を切り出していたのだが、やはり『例のあの人』のことを考えないで居続けることなどできなかった。特にレギュラスは、他の生徒の前で忠実な死喰い人のフリを続けていることもあり、その反動のようにヴィヴィアンたちの前では『例のあの人』に対する本当の考えを口に出し、自分の心の中を整理しているようだった。
それに気づいてからは、アリアドネと二人で、できるだけレギュラスに『例のあの人』への気持ちを吐き出させようと考えた。
「しっかし、改めて見てもレギュラスの演技力は大したものだね。あたし、ヴィヴィアンから話を聞くまで全然気づかなかったもん」
「みんなが喜びそうなことを言っているだけだよ。客観的になってみると、よくわかるんだ。死喰い人である僕に近づいてくる者は大抵、『例のあの人』の恐ろしさを聞きたがる。そして、同じ道を選ぶことが正しいかどうかを確認するんだ。少しでも躊躇う者がいるようにと、本音を混ぜてはいるんだけどね……」
レギュラスはため息をついた。『例のあの人』への忠誠心が消え去ったことに気づかれてしまっては、レギュラスの身に危険が及ぶ。
一度死喰い人になってしまった者が、『あの人』の元から逃げようとしたという前例は、いくつかある。しかし、逃げおおせたという話は聞いたことがない。『あの人』は裏切り者を許さない。スリザリン生の中には親族が死喰い人である者も少なからずいる。卒業後に死喰い人になる者も出てくるだろう。レギュラスは今、敵の中に放り込まれているようなものなのだ。
「その本音、聞かせてくれないかしら? あなたの気持ち、全部知りたいわ」
彼の胸の内に人知れず溜まっていく苦しさ。暗い感情や考えを、自分たちにも分けてほしかった。ひとりで抱えきるには重すぎるはずだ。アリアドネも深く頷く。レギュラスは二人の顔を見て、微かに頬を緩ませた。それから気を引き締めるように、声を落として話し始めた。
「……『あの人』が恐ろしいのは、強大な力だけではない。人を信じさせる話術だ。下僕である死喰い人さえ機嫌次第で簡単に殺しておきながら、気に入った者や成果を出した者には労いの言葉や褒美を与える。『あの人』は開心術の達人だから、『服従の呪文』を使わなくとも、人の心を操ってしまうんだ。いくつかの闇の生物を仲間に引き入れられたのも、彼らの望みを見透かしていたからだ。それを叶える気があるのかは、甚だ疑問だが……」
アリアドネが腕を組みながら、うーん、と唸った。
「いわゆる人心
「あぁ。死喰い人の一部は、『あの人』の思想に共感しているというよりも、『あの人』自身を崇拝している節がある。危うく僕もそうなるところだった」
自嘲するように、ふっと息を漏らす。ヴィヴィアンはすかさず口を挟んだ。
「けれど、そうはならなかった。大きな違いよ。私、あなたが昔、話してくれたこと、覚えているわ。あなたが行動したのは、『魔法界を守りたい』と思ったからでしょう? その気持ちは立派な志よ」
「……君は僕を買い被りすぎだ。いや、僕がそう仕向けてしまったのかな……。僕が守りたいと思った世界は、僕の知る範囲でしかない、ほんのちっぽけなものだった。自分の周りのことだけで精一杯だったのに、早く大人になろうと焦って、それだけが世界の全てであるかのように思い込んでいた。……純血が全てで、マグルの血には価値がない、と」
彼は目を伏せる。純血主義の最たるもの。彼の生きてきた世界の中に、当たり前のようにあった思想。ホグワーツ創設者の一人、かのサラザール・スリザリンも、マグル生まれの者たちに魔法を教えるべきではない、と唱えていたという。多くのスリザリン寮生の根幹にある考えだ。
「僕たち純血の魔法使いは、生まれたときから魔法に囲まれて育ってきた。一方でマグル出身者は、ホグワーツへの入学許可証を貰って初めて魔法の存在を知る。彼らは、僕らとは住んでいる世界が違う。同じだと考えることは……正直に言うと、まだできない」
レギュラスは苦しげに言った。ヴィヴィアンもアリアドネも、彼を非難することなどできなかった。
初めて魔法の存在を知った子どもたちは、どんなことを思うのだろう。新しい世界に喜ぶのか、未知の世界に怯えるのか。魔法のない世界で過ごしたことのないヴィヴィアンたちには、それすらも想像できない。けれど、喜んでくれたなら、嬉しいと思う。
「『
ヴィヴィアンは彼の言葉の一端をすくい上げた。レギュラスは口元にパッと手を添えて、自分の口から出た無意識の言葉に驚いていた。
「……そう、なのかもしれない。僕はようやく思い知ったんだ。無知であること自体が愚かなのではない。無知でありながら、よく知りもしないで悪だと断じてしまうことが愚かなんだ……彼らを頭ごなしに見下し、嫌悪していた僕のことさ」
彼は薄く笑うと、自分自身に苛立ちをぶつけるかのように、頭に手をやり黒い髪をくしゃりと乱した。
小さな談話室に沈黙が流れる。こういう空気をぶち破るのは、いつもアリアドネの元気な声だった。
「でもさ、人間ってみんなどこかしら馬鹿なところがあって、完璧な人なんていないと思うんだ。自分の間違いに気づけたレギュラスは立派な人だよ! 胸を張りなよ!」
アリアドネは手本を見せるように、自分の胸を張ってドンと叩いた。ヴィヴィアンもクスッと笑って頷くと、レギュラスの顔が少しだけ明るくなった。
「そうだね。僕は『例のあの人』の恐ろしさと愚かさを知った。その上で、彼を悪だと断じる。この選択ができたことは、誇りに思うよ」
転んでしまったレギュラスを、ヴィヴィアンが傍らから支え、アリアドネが後ろから背中を押す。一歩ずつ、卒業までの道のりを三人で歩んでいく。そんなふうに過ごしているうちに、だんだんとレギュラスに活力が戻ってきているようだった。
彼はあるときから『必要の部屋』のローテーブルの上に、見たこともない本をたくさん並べ始めた。『例のあの人』に対抗する術を探すためである。すべて図書室の禁書棚の本だ。盗み出してきたわけじゃない。これらはアリアドネが借りたことになっている。
ホグワーツの禁書を閲覧するには、誰か一人、先生からの許可が必要だ。初めはレギュラスが許可を求めたのだが、どの先生からも適当な理由をつけられて断られてしまった。相手がまだ生徒であるとはいえ、死喰い人に加担したくないからだろう。スラグホーン先生にいたっては、何度会いに行っても狙ったように留守で、話す機会すら与えられなかった。こうなればもう、禁書棚に忍び込む気満々であったレギュラスだったが、それを見かねて、アリアドネが代わりに許可を得たのだった。
「7、8、9……これで10冊! 借りてきたのはいいけど、こんなに読み切れるの? この本なんて、トースト一斤と変わんないよ」
「私も読むのを手伝うわ。『あの人』の弱点になるようなものを、探せばいいのよね?」
「待ってくれ。迂闊に触ると危ないよ。君はそっちの本を……ん? 『吟遊詩人ビードルの物語』? こんな本、頼んでいたか?」
黒く不気味な表紙が並ぶ中に、ひとつだけ場違いなものがある。ヴィヴィアンの隣からアリアドネの手がそれを取り上げた。
「あ、それあたしの! 懐かしい本が見えたから、借りてきちゃった。ほら! 三人兄弟の物語! あたし、これが好きだったなぁ」
彼女が本を広げてみせる。15世紀の吟遊詩人、ビードルによって書かれた童話だ。ヴィヴィアンも小さい頃によく読み聞かせてもらった記憶がある。メープルだけでなく、母や兄にもせがんで、読んでもらった記憶だ。あの頃の家族がどんな気持ちで、ヴィヴィアンと接していたのか。考えて落ち込んだ時期もあったが、朧気ながら覚えている彼らの笑顔を、信じられるようになった今は、良い思い出として心に刻まれている。
三人兄弟の中でも、傲慢な長男のようにはなるな、とよく言われたものだ。誰にも負けない最強の杖を与えられた長男は、眠っているときに殺害されて杖を奪われている。今思うと物騒な話だ。
「おばあちゃんがよく読んでくれたんだ。三男みたいな賢い奴になるんだよってさ」
「その童話は、僕も馴染みがある……幼い頃は、よく三人兄弟ごっこをしていたよ。クリーチャーと僕と……兄とで」
レギュラスは自分で言っておきながら、バツが悪そうに眉をひそめた。彼の口から兄との思い出話を聞くのは初めてだった。純血主義の家を捨てたシリウス・ブラック。血を
恥ずかしそうに目を逸らしたレギュラスを、微笑ましく思いながら、ヴィヴィアンはふと考えた。
「『例のあの人』に、家族はいないのかしら。『あの人』だって、両親から生まれてきたはずでしょう?」
「確かに……『あの人』の素性について、口にする者はいなかった。あれだけの力を持つ魔法使いだ。純血であると、死喰い人は皆信じていたはずだが、今思えばそれも都合のいい解釈に過ぎない」
「ダンブルドア先生なら、知ってるのかな? ほら、先生を警戒するのも、学生時代を知られてるからって考えると辻褄が合うよ」
『例のあの人』が唯一恐れている魔法使いは、アルバス・ダンブルドアだと言われている。理由はもちろん、彼が『あの人』に匹敵する力の持ち主であるからだろうが、弱みを握られているから、ということも考えられる。
「だが、ダンブルドアがもし、『あの人』の素性を知っていて公表しないのなら、家族や家名が『あの人』を止める手段にはならないって、わかっているんだ」
「そうね……」
大切なものが少ない者ほど、枷になるものが少ない。冷酷な魔法使いには、愛する者などいない。守るべきものがない。だから、どんな非道なこともできてしまう。そう考えるほうが納得がいく。
「『あの人』は誰よりも孤独だ。それが『あの人』を強くしている。だが、同時に弱点であるとも考えられる──」
ブツブツと独り言のように呟いて、レギュラスはまたアリアドネにいくつかの本を借りてくるよう頼んだ。
それから、来る日も来る日も、彼は読書に没頭していた。そうすると次第に、自分を卑下するようなことを言わなくなっていった。加えて、頭を使うからか、キッチンから貰ってきたお菓子をパクパクと頬張っていた。
ブラック家で会った日のことを思い出せば、良い変化には違いない。けれど、彼を手伝おうとすると、危ないからと本を取り上げられてしまうのが、ヴィヴィアンは不満でもあり心配でもあった。
*
そんなある日、三人しか知らないはずの『必要の部屋』の中に、ひとりの訪問者が現れた。特例でホグワーツに連れてきたウィングス家の屋敷しもべ妖精、メープルである。
突然、バシッという独特の大きな音がして、ヴィヴィアンは少し驚いた。聞き慣れてはいるものの、ホグワーツ城の中で聞くことは滅多にない音だ。強固な魔法で守られたホグワーツ城の中で、『姿現し』ができるのは屋敷しもべ妖精しかいないのだから、驚くのも無理はないだろう。
禁書の並んだローテーブルの端で、課題のレポートに取り組んでいたアリアドネは、盛大にインクをこぼしてしまった。レギュラスが咄嗟に本を持ち上げて事なきを得た。
インクの片付けは二人に任せ、ヴィヴィアンはメープルに向かい合った。
「お嬢様、お手紙が届いております」
「手紙?」
メープルは一枚の封筒を差し出した。手紙なら朝食のときに運ばれてくるはずだが、よっぽど緊急性が高いのか、あるいは、誰にも見られてはいけないものなのか。ヴィヴィアンは訝しみながら、それを受け取る。封筒にはウィングス家の封蝋が押してある。
「お父様からだわ」
ヴィヴィアンはソファから立ち上がり、二人から離れて読んだ。嫌な予感がしたからだ。
メープルをホグワーツに同行させたのは、死喰い人がいると聞いてヴィヴィアンを心配した父だった。彼女に監視役を命じて以来、父から死喰い人についての話は聞かない。メープルには、レギュラスのことを言わないようにお願いしているし、父には何も気づかれていないはず。頭の中で言い聞かせながら、恐る恐る封筒を開いた。
──幸いにも、ヴィヴィアンの予感は外れだった。手紙にはレギュラスのことなど書かれてはいなかった。しかし、そのことに安堵できるほど、良い知らせとは言えなかった。
父が魔法省を辞めたという。それなりのポストにいた父だが、『例のあの人』に対する立場を迫られ、決めきれず逃げるように。戦うことも従うことも選ばないウィングス家は、祖父母のいる北米へ身を隠すという。卒業したら、実家には帰らず、メープルとともに祖父母の家に来いとのことだった。
ただし、同じく魔法省に勤める長兄だけは、仕事を続けるためイギリスに残るという。かなり揉めたらしいことが書かれている。父は事なかれ主義だ。権力よりも、家族の命を守ることを優先した。一方で長兄は危険を承知で、仕事という与えられた責任を果たそうとしている。もしかすると、ウィングス家の未来を考え、父が捨てた権力を失わないようにするためかもしれない。
どちらが正しいかはわからない。ただ、ヴィヴィアンが手紙の指示に従わないなど、父は微塵も考えていないのだろう。
命を守るため、家族と共にイギリスを離れるか。それとも、危険を承知で『例のあの人』に立ち向かうか。ヴィヴィアンには、そんなふたつの選択肢があることを、家族の誰も知らない。けれど、答えはもう決まっているようなものだった。
「メープル、あなたも読んでおいて。ただし、レギュラスとアリアドネに聞かれても、内容を言わないでね。お願い」
「……かしこまりました」
二人には聞こえないよう、こそこそと言って、手紙をメープルに渡す。二人のところに戻ると、こちらもこそこそと何かを話していた。
「──頼んだよ、アリアドネ」
「でも……」
「何の話?」
ヴィヴィアンが軽く問いかけると、レギュラスは笑顔を作る。
「何でもないよ。君こそ、大丈夫かい?」
「ええ……大した手紙じゃなかったわ」
レギュラスの瞳に嘘を見抜かれそうで、目を逸らした。視線の先では、メープルが自分の肩幅くらいの手紙を、顔の前で掲げて一生懸命読んでいる。
ヴィヴィアンが父に従わないと知ると、彼女はどう思うだろうか。できることならメープルだけでも、父の言いつけ通り祖父母の家へ向かってもらいたい。これ以上、危険なことに巻き込んでしまうのは本意ではない。『例のあの人』は屋敷しもべ妖精の命を平気で蔑ろにする。クリーチャーの受けた仕打ちが、それを物語って──。
「そういえば……クリーチャーから聞いたの? 『例のあの人』のところで、何があったのか」
「……」
ヴィヴィアンが向き直ると、今度はレギュラスが目を逸らした。
「……聞いたのね」
身を乗り出してレギュラスに詰寄る。
「聞いたのに、私たちには教えないつもりね! そうやってまたひとりで抱えようとする!」
声を荒らげると、彼も負けじと言い返してきた。
「君だって今、嘘をついただろう? メープルにも読ませるほどの手紙が、大した話ではないとは思えないが?」
「喧嘩はやめなよ! ふたりとも!」
アリアドネが止めに入る。
「きみたちの嘘は、お互いを心配させないための嘘でしょ? それなのに、仲間割れしちゃだめだよ」
彼女の呆れたような声に、レギュラスもヴィヴィアンも黙り込んだ。
アリアドネの言う通りだ。仲間割れなんてしている暇はない。卒業まで時間がないのに。ホグワーツを出れば、危険な世界に足を踏み入れることになる。いつまでも安全なところに居られるわけじゃない。
手紙を読み終わったメープルが心配そうに、こちらを見ていた。レギュラスは気まずそうにそっぽを向いた。ヴィヴィアンも目を伏せた。
アリアドネは小さく息を吐き、改まったように話しかけた。
「──ねぇ、二人は『不死鳥の騎士団』って知ってる?」
「不死鳥の?」
「それって、もしかしてダンブルドアの……」
ヴィヴィアンは首を傾げたが、レギュラスは心当たりのある様子でアリアドネのほうへ振り向いた。
「さすがに、レギュラスには知られてるか」
「ダンブルドアが対抗勢力を組織していることは、『あの人』も織り込み済みだった。拠点の場所やメンバーまではわからなかったが」
「つまり、ダンブルドアの作った騎士団ということ? だから『不死鳥』なのね」
ヴィヴィアンは、前に校長室で見た、炎を生き物にしたような美しい鳥を思い出していた。
「そ。何人かの卒業生が団員になってるんだけど、あたしも、卒業したら入らないかって誘われたんだ。もちろん、『例のあの人』に対抗するんだから、闇祓いの人たちもいるよ」
「それ、僕が聞いてしまっていいのかい?」
「あったり前じゃん! 言ったでしょ? きみのこと、信用するって。あたしは『不死鳥の騎士団』に入るつもり。だから、きみたちも誘おうと思ってさ」
アリアドネは迷いなく言い切り、いつもの下手っぴな笑顔を見せた。けれど、レギュラスは眉をひそめた。
「……僕は死喰い人だ。ダンブルドアが許すはずがない」
ヴィヴィアンはその言い草にムッとして、口を挟んだ。
「“元”死喰い人でしょう? 『例のあの人』に認められるだけの知識と技術があって、死喰い人たちの内情もよく知っている。こんな優秀な魔法使い、ダンブルドアが逃すはずがないわ」
そう確信を持って言い切ると、レギュラスは納得がいかなそうな顔をしたが、反論はせずに俯くだけだった。アリアドネは同意を示すようにヴィヴィアンの肩を組んだ。
「そうそう。それに、ヴィヴィアン、きみもだよ」
「私?」
ヴィヴィアンが首を傾げると、アリアドネが大きく頷いた。
「きみみたいに、賢くて冷静な人がいてくれれば、あたしにとっても騎士団にとっても百人力だよ!」
「そんな……大袈裟よ。私の実技の成績、あなたも知っているでしょう? 実戦じゃ到底、使い物にならないわよ」
「そこはあたしに任せて! 騎士団って言っても、戦うばかりじゃない。騎士団に入ることで、“自分は仲間だ”って示すことにもなるんだ。ホグワーツの外では、誰が
仲間がほしいと思っていた。レギュラスを守るための。『例のあの人』を倒すための仲間が。『不死鳥の騎士団』は、ヴィヴィアンが求めていたものかもしれない。
ヴィヴィアンはレギュラスをちらりと見た。彼の俯いた顔には暗い影が落ちていて、表情は読み取れなかった。