6月に入る頃には、レギュラスは授業に出なくなっていた。死喰い人であるレギュラスがそうすることを、他の生徒たちが怪しむ様子は少しもなかった。もっと早くサボるんだった、とレギュラスは苦笑いした。そのくせ、ヴィヴィアンが授業を欠席すると、いい顔をしないのだった。
「自分もサボっているくせに、どうして私には怒るのよ」
「君は監督生だろう?」
「そんなの今さら気にすること? 私は監督生である前に、あなたの友だちよ。友だちを優先するのは当然でしょう」
「だったら、今ここにいないアリアドネは、友だちよりも勉強を優先する薄情なやつってことになるのかな?」
「それは……!」
アリアドネは授業もさることながら、NEWT試験の勉強に、誰よりも熱心に取り組んでいた。ホグワーツの7年生が受けるこの試験は、いくつかの職に就く際の条件となっており、進路を左右する大事な試験である。アリアドネにとって、ここで良い成績を収めるのは、闇祓いになるための第一歩だ。その重要性はヴィヴィアンも理解しているし、薄情だなんて思ったことはない。
「もう……いじわるなこと言わないで。あの子は将来のために頑張っているのよ」
「それがわかっているなら、君も彼女を見習うべきだ」
痛いところを突かれ、唇を引き結ぶ。アリアドネとは反対にヴィヴィアン自身は、授業を受けていても勉強しようとしても、全く集中が続かなかった。レギュラスが自分たちに黙って何かをするんじゃないか、と気が気じゃなかったからだ。ヴィヴィアンは極力、レギュラスをひとりにさせないようにしていた。特にアリアドネのいないときには、レギュラスが難しい闇の魔術の本を熱心に読んでいるのを、黙って見ていられなかった。
「僕に構ってばかりで、試験勉強だってろくにしていないんだろう?」
「試験を受ける気さえない人に言われたく──」
勢いで言い返す前に、ヴィヴィアンはハッとした。頭の中にアリアドネの声がよみがえる。『喧嘩はやめなよ!』と。
お互いを気遣い合っていることはわかっている。レギュラスはヴィヴィアンに、ちゃんと授業を受けてほしいと思っている。けれど、ヴィヴィアンはレギュラスと離れていられない。だったら──。
「じゃあ、あなたが『防衛術』を教えてちょうだいよ。私にとって、あなた以上の先生は他にいないわ」
かつてOWL試験のほとんどを、座学を完璧に仕上げることだけで乗り切ったヴィヴィアンである。一般的な授業では、実技の向上に不安を感じていたのは確かだ。自分のことをよく知っていて気兼ねなく指導してくれる優秀な魔法使いなんて、全ての教科書を投げ捨ててでも教えを乞うべき相手だろう。
「僕にそんな資格は……」
「断るのなら、あなたが授業をサボっていること、スリザリン寮から減点するわよ」
「まったく、悪い監督生だな……自分もサボっているくせに」
「あら、あなたが思い出させたのよ。私が監督生であることを。これで、お互いさまでしょう?」
ヴィヴィアンがいたずらっぽく言うと、レギュラスは肩を竦めて呆れたように笑った。
そうして半ば強引に彼を説得した結果、対人戦の訓練をしてくれることになった。ヴィヴィアンの最も苦手としている分野だ。
『必要の部屋』から一度出て再び廊下を往復すると、久しぶりに訓練場の形となって部屋が現れる。対人戦で吹き飛ばされてもいいように、と『部屋』が気を利かせたのか、前にはなかったクッションの山が壁際の一角にできていた。
広い部屋の真ん中で、レギュラスと対峙する。
「さぁ、始めようか……杖を構えて」
レギュラスの声を合図に、ヴィヴィアンは彼のほうへと杖を向けた。そのとき、ふいに思い出してしまった。喧嘩をした日。涙がかれるまで泣いた日のことを。手が震える。自分から訓練をせがんでおいて、失敗したかしら、と後悔が頭をよぎる。けれど、視線の先、距離をおいて立つレギュラスが「大丈夫だよ」と口を動かしたのが見えた。
「……っ、いくわよ……ステューピファイ! 麻痺せよ!」
失神呪文や妨害呪文など、決闘に使われるような攻撃性のある呪文は、授業でも試験でも上手くいった試しがない。どんな呪文を唱えればいいかは、わかっている。なのに……どれだけ杖を振っても、レギュラスの前髪をなびかせるだけだった。
焦るヴィヴィアンに、レギュラスが言った。
「君は、人を傷つけることを酷く怖がっているんだ。それが無意識に、魔法の発動を妨げてしまっている」
「……!」
理由がつけられて、すとんと腑に落ちる。思えば昔から、人と争うのが苦手だった。同級生たちから避けられ始めたとき、ぶつかり合うのを恐れて、ひとりになることを選んだ。アリアドネを彼女たちから助けたときも、恐れているのを隠して、無理に虚勢を張っていた。レギュラスとキッチンで出会したときだってそうだ。愛の妙薬騒動のときだけは、やられっぱなしじゃいられなかった彼に唆されてしまったけれど。
やはりレギュラスはよくわかってくれている。ヴィヴィアンが何を怖がっているのか。どうして怖がっているのか。彼は一番近くで……うんと近くで、それを目の当たりにしてきた。
人を傷つけるのは悪いこと。恐ろしいことだ、と心に刻み込まれている。自分の中に流れているのは、人を殺す生き物の血だから。けれど──。
「君が自分の力をコントロールできなかったことなんて、あるかい?」
彼は欲しい言葉をくれる。
初めてのキスをしたとき、自分の血が信じられなくなって、ヴィヴィアンは彼から逃げた。褒められた行動じゃなかったかもしれない。けれど、あれは理性のある人間としての行動だった。
ご先祖さまだって、夢魔の本能に打ち勝って、愛する人の命を守った。夢魔の姿になれたという高祖母の伝承を聞いた今では、より強く信じられる。
──ウィングス家の夢魔の血は、呪いなんかじゃない。
今のヴィヴィアンはもう、昔ほど夢魔の血を恐れてはいない。そのことを、彼は知らない。怖がってばかりの子どもじゃないって、見せつけてやらなくちゃ。
「君の呪文
「言ったわね! ステューピファイ! 麻痺せよ!」
的確に心をくすぐる煽りを受け、ようやくヴィヴィアンの放った失神呪文が、レギュラスに届いた。
渾身の赤い閃光は──彼を一歩、よろめかせるだけに留まった。
ヴィヴィアンは緊張が解けて床にへたりこんだ。意気込みは充分だったが、気合いだけでできるようになるなら苦労はしない。一秒にも満たない失神を受け、目を瞬いたレギュラスは、
「……基礎からおさらいしようか」
と、訓練に少し乗り気になってくれるのだった。
それから二人は度々、『必要の部屋』を訓練場にして、魔法の練習をした。ときおりアリアドネも加わり、アドバイスをしてくれたり、レギュラスとの手合わせをして見せてくれた。
元死喰い人と未来の闇祓いによる決闘は、観客がヴィヴィアン一人であったことが惜しいくらい圧倒されるものだった。目にも止まらぬ杖さばき。飛び交う閃光。ヴィヴィアンの脳裏には、かつて二人がクィディッチで対決したときのことが、思い浮かんでいた。
大切なふたりの友だちが今、杖を向け合っている。それが悲しいことじゃないなんて、あの頃の自分には想像もつかなかっただろう。自然と視界が潤む。あぁ、もう。しっかりと目に焼き付けていたいのに。
レギュラスのはね返した呪文が、涙を拭っていたヴィヴィアンのすぐそばをかすめ、決闘の勝敗は有耶無耶になった。慌てて駆け寄ってくる二人を、ヴィヴィアンは両腕で抱きしめた。
これからはクィディッチとは違い、いつまでも観客気分じゃいられない。彼らの足を引っ張らないように。と、ますますやる気が湧いてくるのだった。
*
「エクスペリアームス! 武器よ去れ!」
幾度かの訓練を経て、ヴィヴィアンの杖から的確に魔法が放たれる。数メートル先にいるレギュラスの手から杖が弾かれ飛んでくるのを、一歩も動かずにキャッチした。
「うん、上手くなったね」
「ありがとう。先生が良かったからよ」
賞賛に少しの自嘲を混ぜながら、ヴィヴィアンは照れ隠しに髪を撫でつけた。レギュラスの前まで歩み寄り、手の中に飛んできた杖を、差し出された彼の手のひらの上に置く。
「あなたにとっては簡単な呪文ばかりで、退屈だったんじゃない?」
最高の先生に見てもらったにも関わらず、武装解除呪文以外は、合格点を貰えないような出来だった。普通は一分ほど効果の出る妨害呪文は、10秒持てば良いほうで、失神呪文は気を失わせても、倒れ込む前に意識を取り戻されてしまう。せっかく『必要の部屋』が用意してくれたクッションの山は、休憩のときに腰を掛けるという目的でしか使われなかった。
「そんなことはないさ。初歩的だからといって侮っちゃいけない。武装解除呪文は、許されざる呪文にだって通用するんだ。武器を取り上げてしまえば、相手は何もできない」
「──相手が、『例のあの人』であっても?」
こんなことを言うと彼を困らせるだろう。そう自覚しながら、顔をのぞき込む。案の定、レギュラスは眉間に皺を寄せた。
「……馬鹿なことを言わないでくれ。『あの人』に杖を向けて、無事でいられるわけがないだろう」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
ヴィヴィアンは、杖を渡したばかりの彼の手を取り、両手で包み込んだ。
『例のあの人』に反感を抱き、抗おうとしている。それは、杖を向けるのと同じことだ。確かに無謀なことだろう。けれど、その杖が一本ではないとしたら。多くの杖が『あの人』に向けられれば、“馬鹿なこと”だなんて言えなくなる。
「私……『不死鳥の騎士団』に、入らせてもらおうと思うの。だから──」
あなたも一緒に。そう言おうとしたのを見透かしたように、レギュラスが口を開いた。
「それは、僕のため?」
小首を傾げて尋ねる彼の表情は、決して嬉しそうには見えなかった。そう簡単に頷かせられないことは、予想がついていた。きっと、「違う」と言えば、彼は満足するのだろう。けれど、小手先の嘘をついたところで納得はしてくれない。
「そうね……否定はできないわ。あなたがいなければ、私は『例のあの人』に抗おうなんて思わずに、お父様の言いつけ通りイギリスを離れていたでしょうから」
「言いつけ? ……あぁ、この前の手紙か。そんなところだろうと思った。君が騎士団に入るなんて知ったら、ご家族が心配するよ」
前にも聞いた言葉。彼がヴィヴィアンの家族のことを気にかけるのは、彼自身が自分の家族のことを大切に思っているからだ。
「わかっているわ。けれど、私が自分で決めたことよ。あなたが憂う必要はないの。大切なのは私自身がどう思うか、でしょう?」
ヴィヴィアンもまた、彼から言われた覚えのある言葉を返した。レギュラスが死喰い人になったばかりの頃だった。過去の自分の発言に思い当たったのか、彼は目を逸らして黙り込む。ヴィヴィアンは、ここぞとばかりに続けた。
「あなたやアリアドネのようには戦えないけれど、他にできることがあるはずよ。例えば、『例のあの人』のほうにつかないように、巨人や吸魂鬼を説得するとか。私なら、『あの人』よりも彼らと上手く話ができる自信があるわ。だって私には、闇の生物の血が流れているのだから」
これこそ無謀な話だ。『防衛術』もろくにできない小娘に務まることじゃない。また呆れられてもいいと思いながら、わざと得意げに話した。それで仕方なしにでも、一緒に騎士団へ入ろうと言ってくれるなら。
案の定、灰色の目が驚いたように丸くなり、ヴィヴィアンを見つめた。けれど、そのあとに続く表情は、予想のつかないものだった。
「──君は、自分の血をそんなふうに、誇れるようになったんだね」
その嬉しそうな顔は、レギュラス自身のためにこそ、浮かべてほしかった。
彼の興味を引くために選んだ言葉。全部が全部、嘘ではないから、胸が苦しくなる。どこが本心だったのかを彼はちゃんと見抜いている。ふいに笑みを向けられて、こんな、物騒な話に場違いな甘い匂いで、満たされてしまうのが悔しい。やっぱり敵わない。
「ねぇレギュラス、あなたも──」
「さあ! もうすぐアリアドネが来る時間だろう? 労ってあげないと」
彼は明るい声で言うと、ヴィヴィアンの肩をぽんと叩いた。
「……またそうやって、はぐらかす」
ぽつりとこぼした声に、彼が聞こえないふりをしていることは、顔を見なくてもバレバレだった。
*
ヴィヴィアンは卒業までに何としてでもレギュラスの真意を聞き出そうと誓った。騎士団の話題はいつも、はぐらかされてばかりだったし、結局いつまで経っても、クリーチャーに何があったのかを教えてはくれない。
卒業を待たずして『不死鳥の騎士団』とコンタクトを取ること……もとい、ダンブルドアの前にレギュラスを引きずり出すことも頭をよぎったが、本人の意志を無視するのは躊躇われたのと、物理的に難しかった。
ダンブルドアがなかなか捕まらないというのは仕方がないとして、レギュラスは『必要の部屋』の外でヴィヴィアンたちに会わないどころか、目も合わせない徹底ぶりだった。
納得はできるから文句は言えない。レギュラスが『例のあの人』を裏切るつもりだということは、誰にも知られてはいけない。ヴィヴィアンたちと居るところを見られてバレる可能性がある。加えて、アリアドネは闇祓い志望だ。彼女と握手でもしようものなら、裏切り者だと名乗ることになるだろう。
アリアドネが闇祓い志望であることは、いつの間にか先生や生徒たちの間に知れ渡っているようだった。闇祓いになるのは狭き門である。隠していたわけでもないし、話題となるのも無理はない。彼女が難なく禁書を借りられたのも、そのおかげであった。ただ、ますますレギュラスと会うのを慎重にならざるを得なかった。
この日も、アリアドネとは大広間で一度わかれ、別々に『必要の部屋』へ行くところだった。
「──ヴィヴィアンさん」
後ろから声をかけられて、ヴィヴィアンは足を止めた。ひと気のない廊下だ。人目を避けるため、わざとそれを選んで通ってきたから、少しびくりとした。前にもこうして一人でいるときに声をかけられた。そのときのことを思い出し、思わず身体が強ばった。
けれど、今回は女の子の声だった。聞き覚えはある。ひとつ息を吐いてから、ゆっくりと振り返る。こちらを見つめるスリザリン生。亜麻色のふわふわな髪をした女の子。
「エリザベート……」
ヴィヴィアンは、忘れたわけではなかった。レギュラス以外のスリザリン生の中にも、友と呼べる女の子たちがいたことを。
アリアドネがレギュラスと距離を取るようになってから、そしてヴィヴィアンもまたそうするようになった頃から、スリザリン生であるエリザベートたちとは自然と顔を合わせることがなくなっていた。少し見ない間に、彼女は随分大人びて見えた。
いつもはクララとクレアと三人でいる彼女が、今日は珍しくひとりでいた。神妙そうな面持ちだった。レギュラスへの気持ちを諦めると彼女から聞かされたときですら、こんなにつらそうな顔はしていなかった。
振り向いたはいいものの、ヴィヴィアンの足はそれ以上動かない。エリザベートもまた、その場で立ち尽くしている。表情は読み取れるが手は届かない。友人と話すには少しぎこちない距離だった。
「……本当なのですか? アリアドネさんが、『闇祓い』を目指しているというのは……」
静かに尋ねる震えた声は、それがまるで恐ろしいことかのように聞こえた。ヴィヴィアンは深く息を吸ってから答えた。
「ええ、そうよ……私も、彼女を
こう言えば、ヴィヴィアンの立場にも察しがつくだろう。
純血のスリザリン生であり、レギュラスが『死喰い人』になったことを、祝うべきことだと捉えていた彼女は、きっと
そんなのは間違っている。あなたも
なんて、簡単には言えない。家族のことや将来のこと。彼女を取り巻く全てをヴィヴィアンは知っているわけじゃない。それはエリザベートにとっても同じことだ。二人は違う立場から同じ気持ちを抱えている。
エリザベートは溢れそうな感情を堪えるように、ギュッと手を握って俯いた。
ただ、ヴィヴィアンには大きな気がかりがあった。レギュラスのことを聞かれるんじゃないか、と。友だちを見捨てるのか。敵になるのか。そんなことを言われれば、彼女にだけは本当のことを黙っておける自信がなかった。
けれど──。エリザベートは顔を上げた。長いまつ毛に縁どられた意志の強そうな目が、今は涙で潤んでいる。その瞳はまっすぐにヴィヴィアンを見つめている。
「わたくし……わたくしは! ヴィヴィアンさんと、アリアドネさんと、お友だちになれたこと、とっても嬉しかったんですの! その気持ちは、卒業しても、どんな道を選んでも、これから先もずっと、変わりませんわ!」
彼女は恥ずかしげもなく叫ぶ。ヴィヴィアンは息を詰まらせた。どんな闇もしがらみも、忘れさせるかのような、陰りのない言葉。目頭をじわりと熱くする。躊躇いなく言ってのけてしまえる、ちょっぴりお節介な女の子。彼女の心の深さを少し、みくびっていたのかもしれない。
目元をこっそりと拭い、ヴィヴィアンの足は自然と彼女のほうへ歩み寄っていた。
「泣かないでよ。涙がうつってしまうじゃない……」
「先に泣いたのは、あなたのほうですわ!」
意地を張って笑い合う。目を細めると、溢れた雫がつうっと頬を伝った。
「ありがとう、エリザベート……いつまでも、元気でね」
涙に濡れた彼女を、いつかのように抱きしめる。亜麻色の柔らかい髪がヴィヴィアンの頬をくすぐった。
*
「二人ともどうしたんだ? 目が赤いよ」
「え?」
「へ?」
一番最後に『必要の部屋』へ入ってきたレギュラスが、二人の顔を見るなり焦ったような声で聞いた。
アリアドネと顔を見合せる。ヴィヴィアンは自分の目が赤い理由を知っている。そして確かに、アリアドネもまた同じように目が赤い。
「……もしかして、クララとクレア?」
「うん。二人がかりで通せんぼされちゃった。きみのほうはエリザベートだね?」
「ええ。呼び止められてしまったわ」
「何の話だ?」
「気にしないで。大丈夫、嬉し涙のせいだから。ね?」
アリアドネに向かって、半ば確信を持ちながら問いかけると、予想通り彼女は大きく頷いた。
レギュラスは納得がいかない様子で唇を引き結んでいたが、嘘のつけない下手っぴな笑顔を浮かべるアリアドネと、小首を傾げるヴィヴィアンとを何度か見比べて、諦めたように小さく息を吐いた。
「わかったよ。それで、今日も訓練をするのかい? 必要なら、一度部屋を出なければ」
「あぁ、あたし、そこの本を返しに行こうと思ってたんだ」
アリアドネが顎で示したのは、図書室から借りてきた禁書の山だった。
「それなら僕が……」
「だめだめ! あたしの名前で借りたんだから、きみが返しに行っちゃ、今までの努力が水の泡だよ!」
「じゃあ、私が……」
「いいの! きみたち二人はゆっくりしてて! この部屋で過ごせるのも、あと少しなんだからさ!」
ひとりで返しに行くのだと妙に頑なに言い張る。アリアドネは杖をひょいと振り、レギュラスとヴィヴィアンの間を掠めるように、本の山を呼び寄せた。
彼女は白々しく口笛まで吹きながら、くるくると宙に浮かせた禁書たちとともに、部屋を出ていった。気を使わせてしまったのだろう。けれど、今日くらいは、アリアドネの言葉に甘えることにした。
誰もいないところで、レギュラスに聞きたいことがある。
「……レギュラス、今日はこっちよ」
いつものように一人がけのソファに座ろうとした彼を呼び止め、ヴィヴィアンは二人がけのソファの空いた右側をぽんぽんと叩いた。レギュラスは少し足を止めたが、大人しくヴィヴィアンの隣に座った。
「卒業したら、どうするつもりなの?」
ヴィヴィアンが騎士団に入りたいと思っていることは、アリアドネにも伝えていた。そして、レギュラスからの返事が芳しくないことも。
何度も二人で説得を試みたが、のらりくらりと躱された。二対一ならば勝ち目がないとわかっているのだ。それと同時に、ヴィヴィアンたちがいつまでも、はぐらかされっぱなしじゃいられないことも、わかっているはずだ。
このときを逃すまい。今日こそは。
隣に座るレギュラスをじっと待った。彼はヴィヴィアンが諦めるのを待っているのか、それとも、どう答えるかを考えているのか、俯いて黙り込んだ。
もはや、騎士団に入れとは言わない。無理にでも入らせるつもりなら、なりふり構わず二人がかりで校長室まで引っ張り出している。
ただ彼の本心が聞きたかった。卒業が間近に迫っている。焦りがあった。ヴィヴィアンは膝の上でぎゅっと手を握り、そのまま視線を滑らせた。すぐ隣にはレギュラスの左腕がある。
ローブの下に隠された闇の印。彼の未来を覆い隠してしまう闇。闇を祓うことは難しくても、せめてレギュラスのことだけは、照らせるような、光になりたい。
ふと視線を上げると、レギュラスの目がヴィヴィアンの瞳を追っていた。
「……閉心術の練習も、しておくべきだったね」
「え?」
彼はふっと笑った。
「開心術の呪文を唱えなくても、君の考えていることが手に取るようにわかる。心を開きすぎだ」
そう言われて、ヴィヴィアンは自分の胸に手を当てた。ドクンと心臓が跳ねるのと同時に、美味しそうな甘い匂いが胸の内に溢れた。
あぁ、もう。そんな場合じゃないのに。何度嗅いでも無視のできない、もどかしさ。この匂いをさせているのは、彼が私を思う気持ち。それから、私が彼を思う気持ち。息を止めても鼻をつまんでも、消せるわけがない。
心を開きすぎだって、レギュラスはいけないことのように言うけれど、説得力なんてまるでなかった。だって、ちっとも嫌そうな顔をしていない。それはきっと、自分も同じだ。
「あなたの前だからよ。あなたになら、全部知られたって恥ずかしくはないわ」
ヴィヴィアンは彼の左手を取った。そして、心に直接触れさせるかのように、その手を胸の前で抱えた。
物言いたげに息を吸うのが聞こえた。けれど手を振り払われることはなく、彼はされるがまま、じっとしていた。冷たい手に熱が伝わっていくのがわかる。鼓動の速さも息遣いも全部、同じになればいいと思った。そうすれば、レギュラスの心の中までも、見透かせるような気がした。
やがてレギュラスは掴まれていないほうの手で、ヴィヴィアンの手を包み、優しく退かした。彼の手が離れていってしまうのを、ヴィヴィアンは名残惜しく見つめた。彼は両手を隠すように腕を組み、そっぽを向いてしまった。
やり過ぎたかしら。そう思っていると、目を逸らしたまま、レギュラスがようやく重い口を開いた。
「……僕は──『レギュラス・ブラック』は、死んだことにする。身を隠しながら、『あの人』を倒す
「私も一緒に行く」
ヴィヴィアンは間髪入れずに言った。レギュラスが驚いたようにこちらを向く。表情が変わる。あからさまに眉をゆがめて、声を落とした。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「何を言っているんだ。君には君の人生がある。いつまでも君を巻き込めない」
「巻き込まれているなんて思っていないわ! 私は私の意思で、あなたの力になりたいだけよ」
「なら、僕の願いも聞いてくれないか。君には幸せに生きてほしいんだ。僕のそばにいたら、その願いが叶わない」
「『例のあの人』のいる世界では、幸せになんてなれないわ、誰も……」
レギュラスが、子どもに言い聞かせるみたいに、ヴィヴィアンの両肩に手を置いた。
「いいかい、『あの人』は必ず倒される。倒されるべき存在なんだ。だから、それまでどうか──」
彼の言葉をさえぎり、首を横に振る。いつか『あの人』が倒されて、レギュラスが自由になるとしても、それがいつになるのかなんて、誰にもわからないのに。
「嫌よ! 私の人生は私が決める。私が一番幸せなのは、あなたといることよ。だって、私、あなたのことを──」
ふいに彼の手が肩から離れて、唇に指が、微かに触れた。
「駄目だよ。それ以上言わないで」
優しい声で囁きながら、困ったような顔をしている。唇に触れた指の一本と、彼の懇願。それだけで魔法をかけられたみたいに、言葉を紡げなくなった。言葉の代わりに涙が出そうになって、ヴィヴィアンは目を閉じて俯いた。涙をこらえるなら、上を向いたほうが良いというけれど、それを彼に見られるほうが嫌だった。
閉ざした視界の外で、布の擦れる音がした。目を開こうとした直前。額に一瞬だけ、柔らかくて温かい感触がした。顔を上げると、レギュラスは既にソファから立ち上がっていて、
「……頭を冷やしてくる」
と、ひとりごとのように言い置き、ヴィヴィアンが、引き止める声を出せないでいる間に、部屋から出ていった。
閉まった扉を眺めてため息をつく。卒業したら今度こそ、手を離さないでいてやる。彼の残した感触を閉じ込めるように、おでこを手のひらで覆いながら、そう決意した。
──けれど、ヴィヴィアンは忘れていた。彼が、嘘つきだということを。