湖の乙女と夢魔の祝福   作:タキヤコ

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第46話 悪夢

 

 その夜、ヴィヴィアンは夢を見た。

 

 打ち寄せる波の音。鼻をくすぐる潮の匂い。顔を上げると満天の星。それから、この夜の中にあって、最も明るく光る月。しかし、半分の欠けたそれは、今まさに、海の向こうへと沈んでいくところだった。

 

 月が沈んでしまうと、辺りはいっそう真っ暗になる。嫌味なくらい美しい星々は、遠くで見ているだけで、闇の深くを照らしてはくれない。

 

 杖で灯りをつけると、光が反射して水面がキラキラと輝いた。自分の足が、海から突き出た岩の上に立っているのが見える。冷たい夜風が吹き付けているのに、額にはじわりと汗が浮かんでいる。

 

「ここで間違いないね」

「……はい」

 

 灯りをつけた杖を掲げる。振り返ると、高い崖がそそり立っていた。眩い光をすべて吸収してしまうような、暗い岩壁。黒い海面を挟んだ向こう。その崖の一部が割れ、不気味に口を開いている。

 

「あそこまで、行けるね?」

「ですが……!」

「クリーチャー、頼む」

「……かしこまりました」

 

 クリーチャーは苦々しく返事をして、()とともに『姿くらまし』をする。いいや、クリーチャーにこんな顔をさせるのは、()じゃない。

 

 夢の中のヴィヴィアンは、自分ではない誰かになっていた。どんな変な夢であろうと、どんな姿になっていようと、いつも見る夢の中では、それが自分だと認識できていた。他のヒトになることなんて一度もなかった。今日の夢は何かがおかしい。身体が別の誰かの意思を持って動き、言葉が勝手に口から出てくる。

 

 ()()の五感をつぶさに感じながら、その夢をただ見ていることしかできなかった。

 

 二人は崖の奥の足場まで『姿現し』をした。しかし、辿り着いた先は岩石で覆われ、行き止まりになっている。

 

「通行料がいるんだったね?」

「──坊っちゃま、ここはクリーチャーめが……」

「いいや、僕がやる。これは宣戦布告だ」

 

 ()は杖を一旦脇に挟み、懐からナイフを取り出した。一瞬息を止めて、刃を手のひらに押さえつけた。鋭い痛みとともに切り口から血がぷくりと溢れ出す。そして、クリーチャーが震えながら指をさした岩壁に、血を擦り付けた。

 

 痛みを逃がすように、ひとつ息を吐く。冷静に、血の付いたナイフをハンカチで拭い、ローブの懐にしまう。それだけでいいと思ったが、クリーチャーの身体がますます震えるのに気づき、()は傷のついた自らの手のひらに杖をあて、最低限の治療を施した。血が止まり、見かけは上手く取り繕えたが、痛みは残ったままだった。

 

 再び前を見据える。血の付いた岩が消え、先の見えない入口が開いている。もう一度、杖に灯りを点し、岩のアーチをくぐった。

 

 空気がよりいっそう冷たくなるのを感じた。暗闇の中にぽつんと放り出されてしまったかのようだった。そこは天井の高い洞窟だった。そして、足元には黒い大きな湖が広がっている。風のない洞窟の中の湖面は、鏡のように、覗き込んだ()の顔を映した。

 

「……ひどい顔だな」

 

 自嘲するように呟く。見慣れたはずの()の顔は、まるで正気を失った囚人のようだった。覚悟を決めてここまで来たつもりだった。けれど、どうしても消せない恐怖が、その顔には纏わりついていた。

 

 ()は頭を振った。自分は罰を受けに来た囚人ではない。真に罰を受けるべき存在に、一矢を報いるために来た。この矢が巡り巡って、愛する者たちの未来を救うように。

 

 顔を上げて、洞窟の中を見回す。湖の真ん中に、小さな島がある。緑色の光を淡く放っている。そこが目的地だ。

 

 あそこまで行くには──。

 

 二人は湖のほとりを歩く。静かな洞窟に足音が反響する。しばらくして、透明な何かに躓き、足を止めた。目当てのものを見つけたようだ。()は、何も見えない空中を手で握った。そして拳に杖を振る。すると、手の中に太い鎖が現れた。鎖は湖の中から伸びていた。

 

 ()はこの鎖の先に小舟が沈んでいることを知っていた。杖を口にくわえ、両手で鎖を引っ張る。傷を塞いだだけの手のひらがズキズキと痛む。クリーチャーが手伝おうとしたけれど、止めさせた。彼には少しの苦労もさせたくなかった。これから先、負わせてしまうであろう心労を思えば……。

 

 鎖を引き上げ続け、疲れを感じる手前で、水面を割るように小舟が現れた。罠がないことを確認してから二人で乗り込む。

 

 舟はひとりでに湖の中央へ向かった。反逆者を乗せているとも知らず。そこに『彼』の傲慢さが現れているようで、()は小さく鼻で笑った。

 

 やがて舟は岩場にぶつかり止まった。小島に着いたのである。滑らかな岩の上に、足を踏み出す。

 

 島の上には、ただひとつ、台座が立っていた。緑色の光に照らされている。闇を晴らすことのできない邪悪な光。台座の上には水盆が乗せられている。ゆっくりと近寄って、覗き込んだ。水盆の中には、光の源である緑色をした液体が入っている。

 

 ──これだ……。

 

 これを飲んだせいで、クリーチャーは苦しんだ。そして、これを再び飲まなければ、『彼』の秘密は手に入らない。クリーチャーが怯えた表情でこちらを見上げている。

 

 この役目は、誰にも譲れなかった。クリーチャーはもちろん、他のどんな魔法使いにも。『彼』がクリーチャーに与えた苦しみが、()をここまで導いたのだから。これは償いであり──仕返しでもあった。

 

 ()はおもむろにローブのポケットに手を入れ、冷たい何かを取りだした。チェーンのついたロケットペンダントだ。()はクリーチャーのそばに膝をつき、ロケットを半ば強引に手渡した。

 

「それを持っていてくれ。水盆が空になったら、ロケットを取り替えるんだ」

 

 大きな瞳から涙をこぼす小さなしもべには、()の言いつけを断ることなど不可能だった。それを知っていながら、()は続ける。

 

「それが終われば、一人でここを去るんだ。今日のことは誰にも言っちゃいけない。決して。母上にも、だ。そして、最初のロケットを破壊しろ」

 

 クリーチャーの返事も聞かず、()は水盆の前に立った。傍らに杯代わりの大きな貝殻が置いてある。それを手に取った。水盆の中に貝殻を浸し、なみなみと液体を掬う。深呼吸をし、足元を振り返る。

 

「あとは頼んだよ、クリーチャー……」

「──坊っちゃま……!」

 

 貝殻を口元まで持ち上げ、液体を一息に煽った。

 

 冷たさが喉を通る。けれどすぐさま焼けるような熱さが走った。冷たくも熱い液体が、胃に落ちた途端、身体が、がたがたと震え出した。自分が今、暑いのか、寒いのか、わからない。立っていられなくなり、水盆にすがった。意識が飛びそうになる。急いでもう一杯、二杯と掬って飲んだ。

 

 ここに無いはずのものが見える。ここにいないはずの者たちが見える。黒いローブを纏い、顔を仮面で隠している。死喰い人たちか? こちらを見下ろしている。

 

 もう一杯飲む。

 

 幻覚は加速する。ふいに黒い影が現れた。影は、顔と思われる部分をこちらに向けた。──闇だ。人間の形をした闇だった。『それ』の中には、光の欠片もなかった。

 

 闇は苦しむ()を見下ろして、感情の削げ落ちたような目で眺める。それからゆっくりと、傍らのクリーチャーのほうへと振り返る。『それ』が何をしようとしているのか、瞬時にわかってしまった。

 

 ──やめろ! やめてくれ!

 

 必死に乞うも、闇は止まらない。闇から現れた杖が、クリーチャーのほうへと向けられた。その瞬間、緑の閃光。息が詰まり、()は嗚咽を漏らした。

 

 目の前がモヤに包まれる。再び喉に焼けるような痛みが走った。痛みのおかげで、水盆を掴む感触が戻った。大丈夫。これは幻覚だ。足元からローブの裾を引かれるような感覚がした。ほら、ちゃんと生きている。

 

 もう一杯飲む。

 

 身体の内側が炎で焼かれているかのようだった。膝をつき、岩の上に倒れ込む。痛みに耐えるように、瞼をきつく閉じる。まだだ。ここで止めるわけにはいかない。

 

 岩の上に手をつき、身体を起こしながら、再び瞼を開く。もう一杯、掬って飲んだ。倒れ込まないように顔を上げる。しかし、目の前に広がった光景は黒い湖ではなく、見覚えのある家の中だった。

 

 グリモールド・プレイス12番地。ブラック一族の家。一組の男女が、黒い魔女に杖を向けられ、喘ぎ苦しんでいる。背の高い魔女は罵倒の言葉を尽くし、軽蔑の眼差しを注ぎ、そして高らかに笑い声を上げながら、同じ髪の色をした彼らを見下ろす。

 

 喉を重く苦しいものが通っていく。胸が引き裂かれ、悲痛な呻き声を上げた。彼らの苦しみは、全て()のものだった。

 

 手探りに、台座へすがりつき、もたれ掛かる。水盆の中を掬って強引に飲んだ。

 

 再び景色が変わり、暗く静かな館にいた。眼前に、ひとりの女が囚われている。銀色の髪は乱れ、青い瞳からは、恐怖の涙がとめどなく溢れている。ローブが破け薄汚れた姿で、そばかす顔の青年に髪を引っ張られながら、彼女は闇の前に放り出された。青年が何事かを闇に向かって言うと、闇は杖を取りだした。

 

 ──だめだ! 彼女は!

 

 ()の声は届かない。闇は何かの呪文を唱える。すると女は悲鳴をあげながら、山羊のような角を生やし、悪魔のようなしっぽを生やし、最後にコウモリのような翼を背中から生やして、夢魔そのものの姿となった。

 

 彼女の前にはもう一人、女がいた。傷だらけで捕らえられている。栗色の髪をした小柄な女。惨敗を喫した闇祓いの末路。

 

 闇は地を這う蛇のような声で、夢魔に、女を殺せ、と命じた。杖はない。手ずから殺させるつもりだ。死の呪文で死ぬよりもずっと痛み苦しむだろう。殺す側も殺される側も。

 

 ()は動けない。()もまた縛られている。目を逸らせないように立たされ、左右から醜い笑みが顔を覗き込み、お前のせいだ、よく見ていろ、と嘲笑うように囁く。

 

 ()は拘束を振りほどこうと、もがいた。すると、手が、そこにはないはずの固い水盆に当たった。そうだ……こんな未来にさせないために、やらなければならない。

 

 焦点の定まらないぼやけた視界で、何度も貝殻を水盆の縁にぶつけながら、液体を掬う。これで最後だ。喉に直接流し込むように飲み干し、貝殻を投げ捨てた。

 

 視界は再び悪夢に覆われた。倒れ伏した親友に夢魔がゆっくりと近づく。()はそれを見ていることしかできない。これは、闇の帝王に仇なす者への罰。その人間が最も苦しむ方法で赦しを請わせるのだ。死という赦しを。

 

 夢魔が手を振りかざすと、指先から鋭い爪がみるみるうちに伸びていった。人を傷つけるための形をしていた。どちらからともなく悲鳴にも似た唸り声が聞こえてくる。

 

 ──ヴィヴィアン……っ!

 

 ()は力いっぱい叫んだ。名前を呼ばれた夢魔は一瞬、声のしたほうを向いた。色を失った無機質な瞳から、血のにじむ涙が流れた。そして、見えない鎖に逆らうように手を震わせながら、刃物のように尖った爪で、自らの喉をかき切った。

 

 飛び散った血で前が見えなくなった。()はくずおれ、動けなくなった。

 

 倒れ込んだ身体に、洞窟の湿った岩場の感触がした。目を開くとクリーチャーが心配そうに覗き込んでいた。

 

「クリーチャー……ロケットを……」

 

 台座の上を指さす。水盆の中にはロケットがある。クリーチャーはそのロケットを取り、代わりにもうひとつのロケットを入れた。

 

 一番の目的が果たされるのを見届け、身体を起こした()は、猛烈な喉の乾きを覚えた。これも『あの人』の策略だと知っていた。知った上で──その衝動に抗う必要はなかった。

 

 二番目の目的。あぁ、きちんと果たせそうだ。ここまでが、あまりにも簡単で、拍子抜けしてしまうところだった。

 

 ()は喉を潤す水を求め、岩場の上を這いずりながら、湖面へと近づいた。そして──

 

「──坊っちゃま……!」

 

 クリーチャーが呼ぶのと同時、湖に触れた手に、ぺたりと冷たい感触がした。風もないのに、湖面のそこかしこには波が立ち始めていた。

 

「僕に構わず、早く、行くんだ……」

 

 力を振り絞って叫んだときだった。白い手が湖の中から現れた。何本も、湖面から突き出されていた。それらは()の腕を這い上がり、そして、こっちへ来いと引っ張った。

 

 ()は湖に落ちた。暗い湖の中には、無数の亡者が蠢いていた。その全てが虚ろな目で()を見ていた。

 

「ああぁ、坊っちゃま! そんな……!」

 

 クリーチャーの声を聞き、()はもがきながら岩場に掴まると、かろうじて水面から顔を出した。

 

「命令だ、クリーチャー! 家に帰れ……! そして、そのロケットを破壊するんだ……っ、さあ、行け……!」

 

 足を亡者に捕まれ、岩場にしがみつきながら叫ぶ。しかし岩を掴む手はすぐに滑り落ち、再び水の中へと引きずり込まれる。

 

 揺れる湖面を隔てて、クリーチャーが『姿くらまし』で消えるのが見えた。

 

 安心して力が抜ける。亡者のまとわりつく身体は、どんどんと沈んでいく。つめたい湖。息がくるしい。

 

「ヴィヴィアン……」

 

 湖面に向かって手を伸ばしながら、意識が遠のいていく。やがて、全てが真っ暗になった。

 

 

 

 

 ヴィヴィアンは悲鳴を上げて飛び起きた。息が乱れている。夢の続きのように目の前が暗い。まだ夜は明けていないらしい。パチリと部屋の明かりがついた。隣のベッドのアリアドネを起こしてしまったのだろう。カーテンを開けると、彼女が慌てて飛び込んできた。

 

「ヴィヴィアン!? どうしたの!? 怖い夢でも見たの!?」

 

 荒い息を落ち着けてから答える。

 

「ええ、悪夢よ……彼が、レギュラスが、死ぬ夢……」

 

 口にすることも恐ろしかった。

 

「大丈夫、ただの夢だよ……!」

 

 アリアドネが慰めの言葉をくれる。けれど夢にしては、妙に生々しかった。夢の中の彼が感じた感触や苦しさが、まるで自らの身体に起きたかのように感じられた。あれは、ただの夢ではない。悪夢──。

 

「『あなたに悪夢が訪れるとき』……」

 

 見覚えのある言葉をヴィヴィアンは呟いた。

 

「それって、まさか……」

 

 アリアドネは自分のベッドのほうを振り向いた。ベッドサイドのテーブルには、ひとつのペンダントが置かれている。ある年の夏に、ウィングス家のヴィヴィアンの部屋で、三人で見つけたものだ。

 

 アリアドネに預けてから、彼女がいつも身につけているペンダントが、一緒に見つけた手帳の上に置いてある。アリアドネは手帳に手を伸ばし、中を開いて読んだ。

 

「『あなたに悪夢が訪れるとき、あなたの中に流れている血が、あなたの助けとなるでしょう。

私の可愛い子孫へ』……」

 

 ヴィヴィアンも彼女の隣に立って覗き込みながら、何度もその文字を目で追った。

 

「夢魔の血が、助けになる……悪夢から助けてくれるっていうの? 夢なんて、目が覚めたら消えてしまうのに? それじゃあ、まるで、まだ悪夢の中にいるみたいじゃない!」

 

 震える声で叫び、両手で頭を抱える。髪がぐしゃぐしゃに乱れる。

 

「落ち着いて! ヴィヴィアン!」

 

 アリアドネが肩を掴んだ。彼女は半ば強引に、ヴィヴィアンをベッドに座らせ、強ばった手を包み込み、膝の上へと下ろさせた。

 

 彼女の手が乱れた髪を撫でつけると、少しだけ息がしやすくなった。俯いて考える。夢だと思っていたものが、現実なのだとしたら。悪夢の中に迷い込んだ。恐れていたことが起きた。自分の知らないところで彼が──。

 

 アリアドネの両手が顔を挟み込み、ヴィヴィアンに上を向かせた。

 

「いい!? ここは夢の中じゃないよ! レギュラスには、昼間も会ってるでしょ!?」

 

 昼間、『必要の部屋』で会った。困ったような顔を思い出す。あのときの彼は現実。生きていた。けれどそれだけじゃ、あの悪夢が現実にならないという証拠にはなり得ない。

 

「ちがうのよ、アリアドネ……夢の中は、真っ暗な真夜中で、まるで、今まさにその出来事が起きているみたいな──」

 

 本当に? 本当にそうだった?

 

 夢で見た光景が脳裏に繰り返される。

 

 大きな湖。海辺の洞窟。高い断崖。真っ暗な……。

 

 何かが引っかかる。冷静になって考えろ、と頭の中で警鐘が鳴らされている。どこかに──時間のわかるものが、あったはず。

 

 波の音。潮の香り。満天の星。そして……。

 

 ヴィヴィアンは立ち上がり、窓辺に駆け寄った。高い塔の中にあるレイブンクロー寮からは空がよく見える。今まさに、半分の欠けた月が、遠くの山の尾根の向こうに沈もうとしているところだった。

 

「そうだわ……! あの夢は今から始まるのよ! 私の目が覚めた今から!」

 

 居てもたってもいられなかった。ヴィヴィアンはローブを引っ掴んで素早く羽織り、自室から出ようと扉へ飛びついた。アリアドネが慌てて呼び止める。

 

「ま、待って! どこ行くの!? 夜が明けたら、卒業式なんだよ!?」

 

 明日。いや、日付の変わった今日。ホグワーツ魔法魔術学校では、卒業の式典が行われる。全ての課程を修めた卒業生として、ヴィヴィアンとアリアドネ、そしてレギュラスも出席するはずだった。

 

 学生生活最後の夜。

 

 月が沈み、辺りはいっそう真っ暗になる。この夜は、まだまだ終わらない。

 

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