夜が明けたら、ヴィヴィアンたちはホグワーツを卒業する。長くも短かった7年間の最後の日を、こんな風に迎えることになるとは、思いもよらなかった。
「だからこそ、彼なら今日動くわ」
どうして今まで、気がつかなかったのだろう。ヴィヴィアンはこれまで、卒業してからのことばかり気にしていた。はぐらかしてばかりいたレギュラスだって、卒業するまではどこへも行かないと、ヴィヴィアンは思い込んでいた。
「待っ……ヴィヴィアン!」
アリアドネの制止を聞かず、ヴィヴィアンは自室を飛び出した。談話室へ足を踏み入れようとしたとき、後ろからアリアドネが追いかけてきた。が、彼女はもはや諦めたのか、ヴィヴィアンを引き止めようとはしなかった。
消灯時間がとっくに過ぎた談話室には誰もおらず、足音を立てないようこっそりと、しかし足早に出口へと向かう。アリアドネが横にピッタリとつきながら、小声で話しかけてきた。
「じゃあ、きみの見たっていう悪夢が、これから起こること……予知夢だったとして、レギュラスが、その……急に、”死ぬ”なんて……考えられないよ……まさか、ホグワーツに『例のあの人』が来たっていうの?」
「違うわ。彼は城から抜け出したのよ……! 追いかけるには、とにかく私も城の外へ出なくちゃ!」
談話室の扉を開けた。扉をくぐろうとしたとき、アリアドネがヴィヴィアンのローブの裾を掴んだ。小さく唸りながら俯いた彼女は、言葉を探しているようだった。暗い部屋の中で表情はよく見えない。
ヴィヴィアンが待ちきれなくなる前に、彼女は口を開いた。
「……わかった。でも、まずは、レギュラスが本当にいないかどうか、スリザリン寮まで確かめに行こう? それからでも遅くはないよ」
「……そうね」
はやる気持ちを抑えながら返事をする。焦りを見抜かれたのか、アリアドネがヴィヴィアンの手を取って力強く握った。
ホグワーツで過ごした7年間の中で、レイブンクロー寮の長い階段を、これほどもどかしく感じたことはなかった。二人は寮を抜け出し、先生や管理人に見つからないよう気をつけながら、廊下を走り、階段を下り続けた。
本当は、一刻も早く、あの洞窟へと向かいたかった。それと同時に、あの悪夢がただの夢だったと安心したい気持ちもあった。けれど、一度気づいてしまったことに、気づかない振りをすることはできなかった。
──身を隠しながら、『あの人』を倒す
レギュラスの語った言葉の、本当の意味に気づいてしまった。
あの言葉を聞いたとき、ヴィヴィアンの心にはチクチクとトゲが刺さっていた。『あの人』を倒す
しかし、レギュラスはすでに、行くべきところを決めていた。成すべきことが見えていた。あの洞窟へ行き、ロケットをすり替えること。そして、誰にも知られずに消息を……命を、絶つこと。
あのロケットは何なのか。その真価までは、夢で見ただけのヴィヴィアンにはわからない。けれど、水盆の毒や亡者の群れ、あれほどの魔法に守られていたのだから、『例のあの人』のものであることは明らかだった。
『あの人』への忠誠心を失くすだけでなく、一矢を報いるなんて。もし、闇の帝王に知られれば、レギュラスの命はもちろん、周りの人間も無事では済まないだろう。
だから──レギュラスが身を隠すと言ったのは、彼自身を守るためじゃなかった。敵にも味方にも知られることなく、やり遂げるためだ。命を
……嘘つき。馬鹿ヤロウ。
「死んだことにする」って言いながら、本当に死ぬつもりだったのね。「馬鹿なこと」って咎めておきながら、一人で行ってしまうなんて、馬鹿はどっちよ……。
階段を下り続けて、さすがに息が上がってくる。胸の苦しさが、湖に引きずり込まれたときの息苦しさと重なり、ますますヴィヴィアンを焦らせる。全部夢の中の話だ。レギュラスがあの恐ろしい洞窟へ行ったって、決まったわけじゃない。そう自分に言い聞かせようとした。
そして、ようやく1階まで下りようというときだった。階段の下に人影が見えた。アリアドネが慌ててヴィヴィアンをしゃがませて、一緒に手すりの裏へと姿を隠した。
手すりの隙間から覗くと、人影の正体は管理人で、階段の下をうろうろと歩き回り、夜に城から抜け出す生徒がいないか見張っているようだった。静かな玄関ホールに、威嚇するような足音だけが響いている。彼が別のほうを向いている間なら、スリザリン寮のある地下へと続く階段へは、何とかたどり着けるだろう。彼の目を欺く方法も、いくつか考えられるが……ヴィヴィアンとアリアドネは顔を見合せた。
すると、二人の背後から、夜の静寂を引き裂く高い声がした。
「お嬢様! あぁ! やっと見つけた!」
小さな影がぴょこぴょこと駆けてくる。珍しく興奮した様子のメープルだった。
「しっ! 静かに!」
ヴィヴィアンが咄嗟に言うと、メープルは縫い付けられてしまったかのように、口をピタリと閉じて、もごもごとさせた。
けれど、時すでに遅く。声に気づいた管理人が、階段を上がってくるのが見えた。三人は慌てて2階へと戻り、手近な教室へと隠れた。アリアドネが鍵をかけ、音を漏らさないような魔法をかけてくれる。
「ごめんなさい、メープル。もう話していいわ」
ヴィヴィアンが視線を合わせながら申し訳なさそうに言うと、メープルは主からの仕打ちに気を落とす様子もなく、さっきの続きのように興奮しながら話し始めた。彼女は、今夜ヴィヴィアンに会えたことを、とても喜んでいるようだった。
「あぁ良かった! お部屋にいらっしゃらなかったので、心配いたしました……! てっきり、お嬢様までいなくなってしまったのかと──」
「待ってメープル。私“まで”ってどういうこと?」
「レギュラス様が先程、寮を出られたので、お知らせしようと……」
「……! やっぱり!」
アリアドネと顔を見合わせる。メープルは首を傾げた。
「ご存知だったのですか?」
「いいえ。でも、これで確信が持てたわ。それで、寮を出てから、レギュラスはどこへ行ったの? 城の外へ出た?」
「それが……レギュラス様は1階まで上がってから、さらに階段を上がって行かれました。しかし、メープルめは、5階の廊下でお姿を見失ってしまいました……大きな鏡のある場所でした……メープルめの失態にございます……!」
メープルはさっきまでの喜びようとは打って変わって、悲痛な面持ちで嘆く。そばにあった机の足に頭をぶつけようとしたので、ヴィヴィアンは後ろから身体を抱えて止めさせた。
メープルの言葉を受け、アリアドネが呟く。
「5階の廊下……鏡の、って……」
「外への抜け道があるところよ!」
4年生のとき、友だちになったばかりのレギュラスから教えてもらった秘密の場所のひとつだ。ホグワーツに来たばかりのメープルは、抜け道のことを知らなかったのだろう。
そこへ向かってからのレギュラスの行動は、夢で見なくてもわかる。ホグワーツの敷地の外まで出て、『姿くらまし』をした。一度ブラック家まで行き、クリーチャーを連れてあの洞窟を目指した。そこから悪夢が始まる……。
今ならまだ間に合う。またメープルのおかげで彼を助けられる。
「メープルあなた、夜通し見張るつもりだったの? 無茶なことはしないでって言ったのに……」
すっかり忘れてしまっていた。まだヴィヴィアンも父も、彼女に与えた“監視役”の任務を解いてはいなかったのだ。それにしても、就寝時間にまで監視していたとは思わなかったが、また知らないところでメープルに苦労をかけてしまった。
しかし、彼女は再び一転して胸を張った。
「ご心配には及びません。お嬢様よりいただいた、『無茶なことはしない』というご命令は、きちんと守っております! クリーチャーのことがあってから、お嬢様はますますレギュラス様を案じておいででしたので、より強固な監視を務められるよう、誠に勝手ながらメープルは、助力をお願いしたのでございます」
「助力?」
「はい。メープルの、ホグワーツでの同僚たちでございます。もちろん、詳しい事情は口外しておりません。ですが、レギュラス様のためならと皆、快く見張り番を引き受けてくれました」
「あの子たちが……」
キッチンで働く妖精たちの姿が目に浮かぶ。入り浸っていたのはこちらのほうで、世話になってばかりだったのに。目頭が熱くなる。
ヴィヴィアンは彼らへの気持ちも込めて、目の前の小さな身体を勢いよく抱きしめた。メープルは驚いたようにキャッと悲鳴を上げた。
「ありがとう! メープル……!」
「お、お嬢様……」
小さな手が躊躇いがちに背中を撫でる。ヴィヴィアンは名残惜しくも身体を離した。
急がないと、悪夢から逃れられなくなる。
「これから、どうするつもり!?」
アリアドネが焦ったように言う。
「私は行くわ。レギュラスのところに」
「でも、どうやって!?」
「『姿現し』よ。場所はわかっているわ。私は夢の中でそこにいたもの」
地図の位置も土地の名前もわからないけれど、行くべきところはわかっている。その光景をはっきりと覚えている。
「危険だよ! 夢の中で見ただけの場所に『姿現し』で行くなんて!」
「ええ、そうよ……だから、アリアドネ。あなたは待っていて」
ヴィヴィアンが当たり前のようにそう告げると、アリアドネはすぐに言いたいことを理解して、ハッと息を呑んだ。
「……ひとりで行くつもり?」
「ええ、あなたを巻き込みたくはないの」
レギュラスに言われたのと同じ言葉。今度はヴィヴィアンが口にした。決して、アリアドネを喜ばせる言葉ではないと知りながら。
彼女の表情が曇っていく。まるで今にも雨が降り出しそうな鈍い色の空のように。太陽のような溌剌とした笑顔はそこにはない。しかし、ヴィヴィアンは目を逸らさなかった。
自分の言葉が、親友にこんな表情をさせているということを、受け止めなければならない。受け止めた上で、彼女を置いていくのだと決意しなければならない。
アリアドネが俯いた。彼女の中の葛藤が目に見えるようだった。悪夢の通りなら、ヴィヴィアンを引き止めても、レギュラスが死ぬかもしれない。助けに行くヴィヴィアン自身も、無事に帰ってこられるかわからない。それでも、ヴィヴィアンはじっとしていられない。
「ひとつ、考えがあるの。彼を助けるための力になってくれるもの──あなたに預けた、そのペンダントよ」
そう言ってヴィヴィアンはアリアドネの胸元を指さした。彼女がいつも身につけているペンダント。急いで部屋を出てきた今日も、わざわざつけているのは、こうなることを心のどこかで予感していたのだろう。
高祖母の残した言葉通りなら、きっと、夢魔の血に頼ることになる。ヴィヴィアンをずっと悩ませてきた血。それでも、生まれ持った能力なら、存分に利用してやる。
「私はどうなってもいい。レギュラスを助けたいの!」
「……っ、きみがそう言うのなら!」
声を荒らげ、アリアドネが握りしめたのは──ペンダントではなく、杖だった。
「アリアドネ……」
「あたしにだって、わかってる。レギュラスがどれだけ危ない橋を渡ってるのか……」
彼女は後ずさって距離を取り、まっすぐこちらに杖を向けた。メープルが庇おうと動きかけたが、ヴィヴィアンは首を横に振った。アリアドネが本気で危害を加えてくるとは思えない。
「アリアドネ、ペンダントを返して」
ヴィヴィアンが一歩近づくと、彼女は一歩下がった。
「だめ! レギュラスだって、きみを巻き込みたくないはずだよ! だから何も言わずに行った。だったら、あたしはレギュラスの味方をする!」
「……そう言うと思った。私にも、わかっているわ。レギュラスが、助けを望んでいないことも。優しいあなたが、そう簡単に、私を行かせないことも」
ヴィヴィアンは杖を構えなかった。アリアドネに魔法の腕前で敵うわけがない。けれど、諦めるわけじゃない。魔法ではなく言葉で、彼女の心を動かすのだ。
「彼が危ないと知っていて、黙って待っていられないわ」
「あたしだってそうだよ! でも、友だちを二人も失いたくないんだ!」
そう言いながら構える杖は、棒切れになってしまったかのように、なんの魔法も起こさなかった。杖を持たない丸腰のまま、ヴィヴィアンは一歩ずつ距離を詰める。アリアドネの背が壁にくっつく。
「止めないで、アリアドネ。あなたに嫌われようと、レギュラスに恨まれようと、私は行かなくちゃならないの」
「うぅ……あたしだって、きみたちの助けになりたいんだ」
闇祓い志望の勇敢な魔女が、杖を持つ手を震わせている。
「ごめんね、アリアドネ……」
ヴィヴィアンはアリアドネの手を握った。俯いた彼女の目から雫が落ちた。
「あたしにはできないよ……レギュラス……」
アリアドネがレギュラスの味方をするなら、二対一でヴィヴィアンが折れるはずだった。それがいつもの三人の流れ。けれど、今だけは譲れなかった。
ヴィヴィアンは彼女の頬に手を伸ばし、流れる涙を指で拭った。アリアドネは困ったように笑った。
「あたし、頼まれたんだ……レギュラスの身に何かあったら、きみが無茶をしないように止めてくれって。あたしにしか頼めないことだって……あのときからもう、レギュラスは死ぬことを覚悟してたんだよ、きっと」
「そうだったのね……」
レギュラスが、アリアドネに全てを話すことを許した意味がようやくわかった。彼自身のためではなく、ヴィヴィアンのためだった。
アリアドネに頼ってもなお、彼が『不死鳥の騎士団』を、ダンブルドアを、頼ろうとしなかったのは、騎士団の監視下に置かれて、身動きが取れなくなるのを見越していたからだ。クリーチャーに起きたことを全て話せば、あるいは、あの洞窟へ行かせてもらえたかもしれないが、闇の帝王が用意した罠に立ち向かうのは、レギュラスの役目ではなかっただろう。元死喰い人とはいえ、改心した若い魔法使いがあの毒液で苦しむのを黙って見ていられるほど、ダンブルドアや彼の集めた騎士団員たちが残酷だとは思えない。
レギュラスはそれを良しとしなかった。誰も巻き込みたくないという気持ちはあったのだろう。しかし、それだけではないと、ヴィヴィアンは感じていた。
どれほど打ちのめされようと、彼はきっと負けず嫌いなままだった。やられっぱなしじゃいられなかった。あと少し気が弱ければ。あと少しプライドが低ければ。誰かに頼るという選択肢があったはずなのに、彼は一人で立ち向かった。
そんなところが──たまらなく愛おしい。クールぶった男の子の、熱を抱いた人間らしさ。闇よりも深く、彼の心の奥底に根付いていたもの。それは誇りと勇気。ヴィヴィアンにも、ようやく見えた。
いつか、彼のしようとしたことが世に知られれば、英雄的行動だと称えられたことだろう。そんなことにはさせない。英雄になんてさせるものか! 彼の善行を阻止するために、ヴィヴィアンは悪夢を見た。これは、夢魔の血を引く魔女に愛されてしまった報いなのである。
杖をしまい、アリアドネは首の後ろに手をやって、
「きっと、きみのご先祖さまが守ってくれる。あたしは信じる」
身体をくっつけながら聞こえるアリアドネの真摯な声は、心もくっつけたかのように胸の奥に深く響いた。彼女の言葉は勇気をくれる。信じると言ってくれるなら、怖くなくなる。いつも味方をしてくれた、大切な親友。
首の後ろでカチリと音がする。首に少しの重さがかかり、ペンダントが胸元に垂れ下がる。
不器用だったアリアドネが、チェーンを留められるようになっている。前はできなかったことが、できるようになる。それは大人への一歩。こうしてつけてくれたのは、きっとヴィヴィアンに伝えたかったのだろう。ホグワーツで過ごす日々の中で、成長していたんだということを。彼女と、そしてヴィヴィアンも。かつて話した大人への階段を、いつの間にか随分と登っていたみたいだ。また少し自信を貰った。
「ありがとう。大好きよ、アリアドネ」
「……っ、お別れみたいなこと、言わないでよぉ……」
嗚咽混じりの震える声に涙を誘われる。飛びついてきた小柄な身体を受け止め、抱きしめ合った。好きという言葉が、こんなに切なくなるのなら、日頃からもっとたくさん伝えておくんだった。
アリアドネは名残を断ち切るように、ぽんと背中を叩いて身体を離した。
「絶対、帰ってくるんだよ……レギュラスと、二人で!」
「ええ。約束するわ」
ヴィヴィアンは深く頷いた。
それから、そばで心配そうにしていたメープルに向き合う。ホグワーツでは『姿くらまし』と『姿現し』はできない。ただし、屋敷しもべ妖精は例外だ。
「メープル、お願い。私をホグワーツの外まで連れて行って!」
「お嬢様……かしこまりました」
メープルは不安げに目を潤ませながらも、それ以上は何も言わずに頷いてくれた。差し出されたメープルの手を取る。姿をくらます直前に、もう一度、アリアドネの顔を目に焼き付けた。頬を涙で濡らしながら、左上がりに口端がつり上がる癖のついた、ちょっぴり下手っぴな……ヴィヴィアンの大好きな笑顔をしていた。
身体を絞られるような感覚は束の間、すぐに足の裏が地面を踏む。着いたのは、ホグワーツへと繋がる大きな橋の前だった。
見上げると暗闇の中にホグワーツ城がそびえ立っている。窓にぽつぽつと明かりが灯っている。まだ眠れない生徒たち。それか、まだ仕事をしている先生たち。彼らの灯す明かりが、満天の星の下に、巨大な城を浮かび上がらせている。ヴィヴィアンは誇らしくなった。この美しい城の中で、今日まで過ごしてきたのだということが。
「ありがとう、メープル……あなたは私の自慢の家族よ」
繋いだ手を離す。メープルの手が名残惜しそうにゆっくりと下がり、彼女の胸の前に恭しく添えられた。
「ありがたきお言葉でごさいます……どうか、どうか、お気をつけて……」
メープルが震えながらお辞儀をする。
目を閉じ、意識を集中させ、ヴィヴィアンは姿をくらました。こぼれ落ちた雫だけが、あとに残った。