どこへ。どうして。どうしても。
『姿現し』をするときに、意識しなければならない3つのこと。杖は振らない。呪文も唱えない。ただ強く念じればいい。
夢で見た場所へ。レギュラスを助けに行く。絶対に。
もちろん、リスクはある。アリアドネが言っていたように、“どこへ”が少し曖昧だ。けれど、失敗を恐れはしなかった。行くべきところへ導かれているという感覚があった。悪夢を見せた夢魔の血と、レギュラスへの想い。それを信じていれば、怖いものなんてない。
ヴィヴィアンは思い浮かべた。満天の星。夜空を映す黒い海。闇を飲み込む暗い崖。
そして──。
足の裏に、硬い岩の感触がした。冷たい夜風が吹き付け、髪が頬をくすぐる。止めていた息を吸い込むと、潮の香りが広がった。しんとしていた耳の奥に、波の音が流れ込んでくる。
頬をつねった。痛い。これは夢じゃない。
ゆっくりと瞼を開くと、ヴィヴィアンは海の上にいた。正確には、海からせり出た岩の上。振り返ると、真っ暗な夜の中、切り立った崖に見下ろされているのがわかる。まるで闇の世界に迷い込んでしまったかのようだった。
けれど──夜空を見上げると、眩い星がいくつも輝いていた。完全な闇なんてないということを教えてくれていた。たとえ遠くとも、必ず光はある。レギュラスの元へもきっと光は届く。だって、彼は星の名前を持つのだから。
ヴィヴィアンは、波のぶつかる断崖を凝視した。
夢で見たレギュラスはクリーチャーとともに洞窟の入口まで渡った。危険な場所だとわかっていながら、クリーチャーを──屋敷しもべ妖精を連れてくる必要があったのだ。ホグワーツと同じく、魔法使いの『姿現し』は使えないだろう。
静かな湖ならまだしも、波立つ夜の海中を泳ぎきれる気はしない。たとえ洞窟の入口までたどり着いたとしても、その奥に待ち受けているものを知っている。ヴィヴィアンの実力じゃ到底太刀打ちできない。
それでも、自分にだって、できることはある。私にしか、できないことがある。
ヴィヴィアンは深呼吸をした。心臓の鼓動が焦りを生む。無駄足になるのなら、それでもいい。心配のし過ぎだって、彼が笑ってくれるのなら。
首にかけたペンダントを手に取った。
──私は悪夢を見たわ。あなたが助けてくれるんでしょう?
チェーンの根元を強く捻った。キィと小さく金属の擦れる音がして、あぁ、やっぱり。ペンダントトップの蓋が開いた。
中身は液体。溢れた雫が一滴、指に落ちる。冷たくも熱くもない。暗くて色はよく見えない。けれど、その匂いで、すぐに正体がわかった。
幼い頃から過ごしてきた森と湖の匂い。本をめくるときに擦れる羊皮紙の匂い。メープルが作ってくれたビスケットの匂い。そして、ヤドリギの下で交わした初めてのキスの匂い……。
これは、愛の妙薬──アモルテンシア。
嗅いだ者の好む匂いを嗅がせるという秘薬。
「『おそれずに飲むこと』……」
容器に刻まれた文字を、指でなぞって確かめた。
本来は直接飲むものではない。自ら口にするものでもない。この薬を盛れば、摂取させた相手を、誘惑することができる。誘惑、なんて、まるで夢魔と同じ。ならば、夢魔の血を引く娘が、愛の妙薬を摂取すればどうなるのか──。高祖母は知っていて、あの部屋に残したのだ。いつか、同じ境遇に立たされた子孫の、助けになると信じて。
容器を口元までそっと持ち上げる。潮の香りをかき消すほど、幸せな匂いに包まれる。気分は最悪。それでも、匂いに騙されたふりをして──、ひと息に飲み干した。
とろりとした薬液がゆっくりと身体の中に落ちる。……大丈夫。大丈夫よ。手に力は入る。ちゃんと自分の足で立っている。冷静さを保とうと、空になった容器を、チェーンの先に戻して蓋をキュッと閉めた。
その瞬間、ぶわりと身体が熱くなった。
「──っ、ぁ──!」
閉じ込められていた感覚が、身体中から飛び出そうとしている。瞼をきつく閉じて、岩の上にうずくまった。頭が痛い。背中が痛い。身体中が痛い。心臓が大きく脈打つ。耳障りな音。自分の口から、叫び声が出ている。
頭を抱え、そして気づいた。ほどなく痛みは収まり、ゆっくりと顔を上げる。頭の横に知らない感触がある。撫でるとザラザラとして、叩くとコツコツと音が響く。
足元を確かめながら静かに立ち上がる。うずくまっていた身体を労わるように、巻きついていた黒い蛇のようなものが、しゅるりと解けた。
山羊のような角。悪魔のようなしっぽ。と、なれば、自分の背中に現れているものは、見えなくてもわかる。
ヴィヴィアンは足元を蹴った。立っていた岩場から足の裏が離れる。箒もないのに、身体が浮かび上がっている。頭の後ろで風を切る音が聞こえる。コウモリのような翼が、ひとりでに羽ばたき、ヴィヴィアンの身体を空中にとどまらせていた。杖を振るのと同じくらい、無意識だった。飛び方はわかっている。夢の中で何度も飛んだのだから。
──大丈夫。私は私。ちゃんと意識を保てている……!
心を落ち着かせ、目を凝らす。視界は相変わらず暗い。けれど、行くべきところがはっきりとわかる。
黒い崖の一点を見つめる。洞窟の入口は、あそこだ。そこからとても、強く、惹かれるものを感じた。
重心を前に傾け、海面まで高度を下げた。崖の割れ目へと入る。濡れた岩肌に翼が擦れ、少しの痛みをおぼえた。緊張が増す。
闇の魔術は痕跡を残すと言うけれど、ヴィヴィアンが感じたのはレギュラスの気配だった。彼の気配が、足跡のように……いや、残り香のように、洞窟の奥から漂っている。ヴィヴィアンを導いている。
『レギュラス! そこに居…………え?』
彼の名前を呼んだはずだった。耳に聞こえたのは、自分の声ではなかった。金属のこすれるような音。まるでコウモリの鳴き声だ。
夢魔は本来、ヒトと意思疎通のできない『動物』だ。しかし、そんなことで、うろたえている場合ではない。ヴィヴィアンは前を向いた。
崖の中のトンネルを抜けると、小さな部屋のような空間に出た。難なく着地する。
硬い岩壁に囲まれた部屋は、行き止まりのように見えた。けれど、夢で見た通りなら、壁の一部が奥へと続く入口になっているはずだ。
(たしか、この辺り……)
壁へ近づこうとして、ヴィヴィアンはハッと口を覆った。錆びた鉄のような熱い血の匂いがした。
息を呑み、地面を見下ろすと、ぽつぽつと垂れた血の跡があった。赤い血の色が目の奥でチカチカと明滅し、暗闇の中で鮮やかに、浮かび上がっているかのようだった。
レギュラスの流した血。やはり、あの夢は本当に……。
ヴィヴィアンは、洞窟を飛んだ際に擦れて傷のついていた翼で、血の残る床のすぐ側にある岩壁を撫でた。夢魔の翼から流れた血でも反応してくれるといいのだけれど。そう心配したのもつかの間、血をつけた壁が消えて岩のアーチが口を開いた。ヴィヴィアンは急いで奥へと踏み入った。淡い緑の光に照らされた、禍々しい湖が目の前に広がった。
そのとき──
バシッ!
という、大きな音が洞窟に響いた。空気を割くような……クリーチャーが、『姿くらまし』をした音だ。
ならば、レギュラスは……。
夢の内容を思い出してぞっとした。
ヴィヴィアンは再び地面を蹴って、湖の上を飛んだ。風もないのに湖面は荒れていた。そこかしこで何かが、魚のように跳ねている。水がぶつかり波が立つ。湖面から顔を出した何かが、新たな侵入者を見上げていた。何十もの、青白く、生気の見えない顔。死体……亡者だ。
この世のものとは思えない、地獄のような光景だった。
しかし、怖くはなかった。今のヴィヴィアンが恐れることは、レギュラスを失うことだけだった。辿ってきた気配は、探さなくてもわかる。緑の光を放つ中央の小さな島。そこを目掛けて飛び、そして、大きく息を吸い込んで、湖面へと急降下した。
バシャンと飛沫が上がる。水の冷たさに悪寒が走る。それ以上に、水の中の光景はおぞましいものだった。
餌に飛びつく魚のように、亡者がうじゃうじゃとひしめき合っている。彼らが群がるその中心に、ヴィヴィアンを導いた気配の源があった。それが、まるで、淡い光を放っているかのように見えた。ヴィヴィアンの心を照らす、希望の光だった。
『レギュラスを離して!』
声は獣の咆哮のように水中を伝わった。亡者たちは一瞬、怯んで動きを止めた。警戒するようにヴィヴィアンのほうへと一斉に顔を向ける。虚ろな目をした生気のない顔。かつて人間だったもの。きっと彼らは利用されているだけなのだろう。闇の魔術をかけられ、生者を引きずり込むよう命令されている。しかし、所詮は死んだいきもの。同じく闇に寄った生物として、
亡者たちの隙間から見えたレギュラスは穏やかに目を閉じていた。まるで死を受け入れようとしているみたいだった。そんなのダメ! あなたは生きている! だって、光が灯って──。
『レギュラス……! お願い! 目を開けて!』
彼に向かって一心に叫ぶと、夢から覚めるように彼がパチリと目を開けた。生者の匂いに引き寄せられるように、亡者が再び動き出す。
『離せ! 私の獲物だ!』
自分が何を口走っているのか、わからなくなってしまうほど、一心不乱に声を荒らげた。すると、レギュラスに群がっていた亡者が、弾かれたように距離を取った。
ヴィヴィアンはレギュラスのほうへ手を伸ばした。けれど、翼を動かそうとすると浮かぼうとするばかりで、うまく潜れない。何度も叫んだせいで息も続かない。
夢魔になったからって水中で自由に動けるわけじゃない。ヴィヴィアンの夢魔の血は、溺れた夢魔を魔法使いが助けたところから始まった。わかっていたはずなのに、考えなしに飛び込んでしまった。
──望まれてもいないのに助けに来て、こんなんじゃ、呆れちゃうわよね。
そう思ったとき……レギュラスの顔に、微かな笑みが浮かんだような気がした。そして彼は、ヴィヴィアンのほうへと向けて、ゆっくりと腕を持ち上げた。
あと少し。指先を掠める。あぁ、届かない! もう少しなのに……!
ヴィヴィアンは水の中で無闇にもがいた。
そのとき、手に何かが当たった。首から下げていた
かつて、チェーンを留めるのが苦手なアリアドネのために、ヴィヴィアンが魔法をかけてチェーンの長さを伸ばした。だから──
握った手の中から伸びたチェーンが、ゆっくりと沈み込むように水中を漂う。そして、レギュラスとの間を繋ぐ。それはまるで、帰り道へと導く標。
──絶対、帰ってくるんだよ……レギュラスと、二人で!
その言葉と共にペンダントを託し、ヴィヴィアンを送り出してくれたアリアドネ。彼女の想いが、形になって助けてくれているかのようだった。
レギュラスの手がチェーンを掴んだ。重みが腕に伝わってくる。希望が再び胸に灯り、気力が戻ってくる。チェーンを引っ張り上げ、レギュラスの手を掴んだ。冷たい水に晒され、自分の手の温度さえわからなくなっていたけれど、彼の手の感触──弱々しく握り返してきたことだけは、驚くほど敏感に感じ取ることができた。
その瞬間、世界に光が溢れた。ヴィヴィアンはレギュラスの手をしっかりと握り、慣れない翼をめいっぱい広げ、水を蹴った。一気に水面まで飛び上がる。咳き込んで水を吐き出し、息を吸う。レギュラスの身体を抱き寄せる。彼もまた同じように荒く息を吐き出している。息をしている。
(ありがとう。アリアドネ……)
ヴィヴィアンは握りしめたペンダントを再び首から下げた。安心する暇もないまま、亡者が懲りずに集まってくる。彼を横抱きにし、振り払うように水面を蹴り、空中へ浮かんだ。
亡者は魚のように飛び上がってくるが、空は飛べない。私たちには届かない。
レギュラスを抱えているのに、とても身体が軽かった。悪夢は過ぎ去った。彼が無事でいてくれるなら、もう何も怖くない。
ヴィヴィアンは亡者たちを煽るように水面のスレスレに浮かんだ。そうして、できるだけ遠くに彼らをおびき寄せてから、元来た場所へと向かって瞬時に飛んだ。
ゴツゴツとした岩壁を、今度は翼で引っぱたくようにして、新たな擦り傷を作りながら、岩のアーチを再び開かせた。それから、崖の中のトンネルをひとっ飛びして、広い海面に出た。星を目掛けて垂直に飛び上がり、崖の上に着地した。地面に足をつけたら、流石にふらっとして、共に倒れ込むようにレギュラスを下ろした。
「……どうして……君が……」
彼はヴィヴィアンを見つめる。目が合う。助かった。間に合ったんだ。喜びと怒りと色んな感情が溢れてくる。
『なんて無茶なことを……っ!』
自分の口を押さえる。やはりコウモリの鳴き声のような音が口から出ていた。
「無茶なのは……君もだろう? その姿……一体、何をしたんだ……」
『私の声、聞こえているの?』
「あぁ、もちろん……聞こえているとも。君の声だ……」
レギュラスが立ち上がろうとして、ふらふらと地面に崩れた。
『早く誰かに診てもらわなきゃ!』
「大丈夫……しばらく寝ていれば治るよ。クリーチャーが、そうだった」
夢の中で見た光景を思い出す。レギュラスが弱っているのは溺れたせいだけじゃない。あの禍々しい毒液。クリーチャーが『例のあの人』にさせられたことも、きっと同じだったのだろう。
レギュラスは大丈夫だと言うけれど、油断はできない。とはいえ、『姿くらまし』しようとしても、弱った身体が耐えられるという保証はない。
ヴィヴィアンは助けを求めるように辺りを見回した。当然ながらこんな深夜に人の姿はない。けれど、崖沿いの少し先に、星よりも近い明かりが見えた。マグルの家だろうか。翼の生えた人間の姿を見ればマグルは驚いてしまうだろうが、レギュラスをこのまま海の夜風に晒しておくわけにもいかない。ヴィヴィアンは、隣人が病人を追い返すほど非情ではないと信じることにした。
レギュラスを抱えたまま、しばし息を整え、再び飛び上がる。
明かりの正体はすぐに見えてきた。古びた灯台が発するものだった。人の気配はしない。落胆しかけたが、そばに小屋を見つけた。灯台守の住処だったのだろうか。もう何年も使われていない様子で、扉も壁も崩れてボロボロだった。これじゃあ夜風を凌げない。しかし──魔法使いにとっては、何の問題もない。杖を取りだして魔法をかけて小屋を直す。濡れた服の水を飛ばし、レギュラスを修復したばかりのベッドの上に寝かせた。
『レギュラス……っ』
「安心して……一時的に、弱っているだけだ。命に、別状はない……でないと、亡者を用意する必要がない。『あの人』が……そんな無駄なことを、するわけがない」
『わかったから……もう喋らないで……』
ヴィヴィアンは自分のローブを脱いで、彼にかけてあげようと思った。けれど、翼で破れてびりびりのボロ布になってしまった。あぁ、ままならない。
レギュラスが目を閉じる。大丈夫。息をしている。彼の言うことが本当だと信じたい。けれど、生気が希薄になっているから説得力は──
──いま、わたし、“生気”って……?
あぁ、なぜ私は。当たり前のように、“それ”が見えているの?
彼の生気。命の源。白い光の
『そんな……夢魔の血は、祝福じゃなかったの……?』
ヴィヴィアンはベッドから、一歩、二歩と、後ずさった。ドクンと心臓が鳴る。まるで胸を叩きつけるように。思わず咳き込んで、反動で深く息を吸う。吸った空気とともに、嗅いだことのある匂いが胸に広がった。初めてキスをしたとき、そして、彼への愛を感じたとき。決まって香るあの美味しそうな甘い匂いが、ベッドに横たわるレギュラスから発せられていた。
『あぁ……やっぱり、そうなのね……私は、誰のことも、好きになっちゃいけなかった……!』
レギュラスに背を向け扉に駆け寄る。
途端、ガチャリと鍵の閉まる音がした。ドアが開かない。振り返ると、寝そべったレギュラスが杖を持ち、扉のほうへと向けている。それから、起き上がろうとする。
『ダメよ! 寝ていないと』
近づくことも出来ないまま叫ぶ。
「目が、覚めたら……君が、いなくなっているかもしれないのに……眠ってなんて、いられないよ」
『……わかったわ……どこにも行かないから』
ヴィヴィアンはレギュラスの姿が見えないように腕と翼で視界を塞ぎ、部屋の角にうずくまった。
*
色んな思い出が、頭の中を巡った。初めて魔法を使ったとき。初めて自分の杖を持ったとき。初めてホグワーツに来たとき。
なんだか、走馬灯みたい。ホグワーツでの思い出は、良いことばかりじゃなかったけれど、レギュラスに出会って、アリアドネと友だちになってから、世界が輝いていた。三人で過ごした時間。三人だけの秘密の場所。初めての友だち。初めての恋。喧嘩。そして仲直り。
悪い夢を見て、アリアドネと約束をした。レギュラスを助けて、帰ってくるって。それから、どうしたんだっけ。早く帰らないと、みんな心配してる……。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。いつの間にか眠っていた意識が、ふと浮び上がる。うずくまったままの視線の先に、窓の外からの朝日が……いや、夕日かもしれない。それを確かめようとして、しかし、立ち上がれなかった。
身体が重い。力が入らない。風邪? 少し違う。風邪のときは寒くなるものなのに、今はとても身体が熱い。わけもなく暴れ回りたい気分が、熱になって身体の中で渦巻いているようだった。それに、とても、おなかがすいている。
『ん……』
ゆっくりと顔を上げながら、小さく呻くと、
「ヴィヴィアン? ヴィヴィアン……!」
必死な顔をしたレギュラスが、慌ただしく目の前にやってきた。彼をベッドに寝かせたことは覚えている。身体を起こすのもやっとだったのに、今はふらつくことなくヴィヴィアンの前に駆け寄り、膝をついて視線を合わせている。
『良かった……動けるように、なったのね……』
息を吐くと、彼は少しだけ柔らかな表情になった。
「今は僕より、君のほうが危険な状態だ。顔色がひどく悪い」
レギュラスの言う通り、彼の生気はずいぶんと回復している。そう考えてから、自分の目が未だに“そのまま”であることに気づく。
「変身術ではないな。無理に身体が変化したんだろう。ずいぶんと体力を消耗したはずだ。すまない、気づけなくて」
『さ、触らないで!』
肩へ触れようと伸ばされた彼の手をとっさに払う。不意に揺れた翼が小さく風を起こし、彼が尻もちをついた。あぁ、ダメ。傷つけてしまう。彼にも見えているはずだ。この姿が。
「落ち着いて。怖がらなくていい」
『何を言っているの!? 怖がるべきなのは、あなたのほうよ!』
「僕は大丈夫だから……」
レギュラスが再び近づく。
『やめて! 傷つけたくない! 誘惑なんてしたくない! 嫌よ! 来ないで!』
今の自分は夢魔そのものだ。彼の言うとおり、消耗している。そして夢魔の本能は、どうすれば消耗した体力を、補えるのかがわかっている。
レギュラスから美味しそうな匂いがしている。食べたい。吸い尽くしたい。キスをしたときのような渇望が、あのとき以上に貪欲に彼を求めている。
「誘惑なんてされていない。僕は自分の意思で、君を大切だと思っている」
『あなたを、失いたくない……今の私は夢魔なのよ!』
おなかがすいた。おなかがすいた。おいしそうなごはんがいるのに、どうして食べちゃいけないの?
赤子が駄々をこねるように、頭の中に響いている。しごく単純な欲求は、それゆえに残酷に、容赦なくヴィヴィアンを責め立てる。
レギュラスもわかっているはずだ。ウィングス家の夢魔の伝承。夢魔の性質。ヴィヴィアンが教えたのだから。夢魔は人の生気を養分とする。人の生気を吸わなければ生きていけない動物だ。人を殺す獣だ。夢魔の血はレギュラスを獲物としてしか見ていない。
「君を見捨てられるわけがないだろう! 僕は君に殺されたりなんてしない。何を言えば信じてくれる? 僕は『例のあの人』を出し抜いた魔法使いだ。君が思っているよりも、ずっと強くなったんだよ」
『死のうとしてた人の言うことなんて聞けないわ! 私は見たの! あなたが死ぬところを、夢で! 私がいなければ、あなたは……!』
強くなったと言われても、あの悪夢が脳裏から離れない。どれだけ強い魔法使いでも、死ぬつもりだったら意味がない。
「夢で……?」
レギュラスはそう呟き、ヴィヴィアンの顔から視線を下げる。胸元にはかつて三人で見つけたペンダントがぶら下がっている。アリアドネに預けていたペンダントが、ヴィヴィアンの元にある意味を、レギュラスならすぐにわかるだろう。
「そうか……『悪夢』とは、予知夢のことだったのか。だから僕の居場所がわかったんだね。夢魔の血が、助けてくれた……だったら、怖がっちゃいけない」
彼がペンダントに手を伸ばす。慣れない身体でまた暴れたら、傷つけてしまいそうで動けない。せめて匂いを吸わないように、ヴィヴィアンは息を止めて俯いた。空になった容器に彼の手が触れる。それだけなのに、まるで心臓に触れられたかのように鼓動が乱れた。白くしなやかな手の中に包み込まれるペンダント。首にかかったチェーンが少しだけ引っ張られ、うなじに冷たい感触が走った。
何気ない仕草、息づかい、そして匂い。その全てから逃れられない。逃げることを許してくれない。夢魔の身体がひとりでに、五感を研ぎ澄まそうとする。
刻まれた『おそれずに飲むこと』の文字を、彼の指がゆっくりとなぞる。ザラザラとした文字の凹凸を指の腹で確かめるように。何度も往復する。
あぁ、彼は何も、わかっていない。どんな小さな仕草さえ、ひどい、刺激になるのだと。柔らかい指の腹が、凹んで、擦れて、爪が少し、ひっかかって。その振動が、チェーンごしに、うなじへと伝わってくる。そんなところ、触られていないのに。どこも触られていないのに。
これ以上、何も、見ていられない。
「こっちを見て。僕の目を」
『……っ』
ヴィヴィアンの思いに反して、レギュラスは顎に指を添え、無理やりに上を向かせた。指一本、触れただけで、身体が熱さに震えた。彼の視線を真っ向から浴び、声の出し方も忘れてしまった。
「僕はあの湖に落ちたとき、死が訪れるのを待ちながら、君が僕のことを1秒でも早く忘れてくれるよう願っていたんだ。君と過ごした時間は、たったの4年間で、君のこれからの人生のほうがずっと長いのだから……」
そんなこと言わないで。と、声には出せなかった。けれど、彼と目を合わせるだけで充分だった。射抜かんばかりにまっすぐな視線。涙に覆われた瞳。混じり気のない灰色は、出会った頃のまま。自分だけの秘密の場所へ、ふいに足を踏み入れた男の子と、こんな風に見つめ合うことになるなんて、あのときは思ってもみなかった。ヴィヴィアンが焦がれ、守りたかったその眼差しが、一心に注がれている。
「君の姿が見えたとき、これは夢だと思った。最期に君に会いたいという、僕の心が見せている夢だと。けれど、君の手に引き上げられて、これは現実だとわかった。再び息を吸えたとき、僕は不覚にも……嬉しい、と感じてしまった。君のせいだ。君がいなければ僕は、生きていたいなんて、思わずに済んだのに」
あぁ……彼は今、生きているんだ。私は……間に合ったんだ。雪が溶けるように、とめどなく涙があふれてくる。頑なな心がいとも簡単に溶かされてしまう。
「君に救われた命だ。君が生きろと言うのなら、どんな苦難が待っていようと生きてみせるよ。でも、君と一緒じゃなきゃ駄目だ……ねぇ、僕を信じて」
レギュラスの指がヴィヴィアンの涙を拭った。手のひらが頬を包んだら、もう限界だった。彼の胸に飛び込んで、子どものように泣きじゃくった。
温かな体温と甘い香りに包まれながら、ヴィヴィアンはレギュラスにその身を預けた。