目を醒ますとベッドの上だった。
ああ、悪夢の世界は終わったんだ。私自身が終わらせた、私だけの悪夢の世界。
夢の世界で私の分身である悪夢の姫をその手で葬ってから、彼女に別れを告げて進んだ先は私にとって希望の無い現実世界だった。
動かない脚を装具で固定しこの齢で車椅子生活を余儀なくされる身体。あの悪夢の姫の華麗で残虐で屈辱的な蹴りを繰り出せる健脚とは真反対のなんの役にもたたない脚。
あの日無惨に壊された、何の力も希望もない、ただ弱いだけの女。
無理に起き上がろうとすれば力は入らなくてベッドから転がり落ちる。大きな音が鳴ったが医療スタッフはまだ来る気配が無い。当然か。私は起き上がる事を想定されてなどいなかったのだから。
惨めだ。悪夢の中で残虐のかぎりを尽くした悪夢の姫も現実に出てくれば惨めに地面を這いつくばる事しかできない。どのような意図があったにせよ私の為に尽くしてくれ、私の事を悪夢の世界から送り出してくれた自動人形に申し訳なくすら思う。
這いつくばりながら部屋の隅にある車椅子のもとに進んでいく。こんな姿を晒すのがこの姿でよかった。私の悪夢の姫にこんな姿は似合わない。車いすに手をかけ足置きを掴み強引に身体を起こそうとするが何も置いていない車いすは支えとしては不適格で浮き上がり、手を離せば車いすが壁と接触する大きな音が鳴る。
ガラリと部屋のドアが開けられる。そこには褐色の美丈夫が私を見てすぐに駆け寄ってきた。何か慌てているようだ。ああ、私はまたベッドの上に戻らされて永い眠りにつかされるのか。嫌だ、嫌だ嫌だ。
その手を振り払うように振るうが這いずって移動したことによる腕の疲労と、長い間の昏睡による体力の減少によりたいした力は出ない。しかしそのふるった腕にあの夢の中と同じ赤い光を纏っていたことを感じる。部屋の把握も曖昧で頭も混乱している今の私ではそれが上手くいくことはなかった。しかし今私が置かれている場所は何処なのだろうか。ダークサイドヘブン?それとも現実?
カビンの割れる音を聞きながら私は混乱と恐怖と焦燥と疲労で意識を手放した。
再び意識を取り戻した時にはベッドの上で隣に先ほどの美丈夫が私の事を見張るように見ていた。医師は私が起きてしまった事を確認すると簡単な検査をしそそくさと出ていってしまった。
悪夢の中で使える力が今も使えることは理解したが夢の中のような足ではないため美丈夫の話を聞くことにする。私はいまだ悪夢に捕らわれているのか悪夢のような現実に帰ってきたのか。
「冬野かなたさんだね。刻明館学院の」
「はい。冬野かなたです」
確認のように問われた事に肯定する。長期臥床により声が出づらいためゆっくりと。探偵であるという目の前の美丈夫、安室と名乗った彼からはその後私が眠る前の事を聞かれた。私の意識不明の原因は蒼魔灯公園での事故⋯⋯である。聞かれてもそれ以上の答えはないしそれ以上を答える義理もない。ごめんなさいとか細い声で言うとこちらこそ酷な事を聞いたといわれた。
どうやら私と同じ刻明館学院の生徒と私が入院していたみかげ労災病院のスタッフが謎の意識不明になり眠り続けているらしい。⋯⋯そうなのねと興味なさげに返事をすると安室は私に鋭い視線を向けてくる。
「今頃悪夢でも見ているんじゃないでしょうか」
「それはどういう意味だい、かなたさん」
「何ってそのままの意味ですよ。彼らは眠っていて、夢の中で正気を失うような残虐かつ見ほれるような華麗で、甘美なほど屈辱的な、そんな悪夢でも見ているんじゃないかって、そう思っただけですよ」
私の言葉になんだそれはとでも言いたいような表情を安室は向けてくる。ぶしつけで心の奥を探ろうとする瞳。私はそれ以上は語らない。もう要件は済んだだろうと言わんばかりに安室から視線を逸らす。
……私が魔神の贄に選ばれたように、この世界は悲劇に満ち溢れている。私が現実に帰って来たのか、それともまた別の悪夢の中に居るのか?
そんな事はどうでもいい。私はこの長くない命が燃え尽きるまで生きる。それ以外に目標も何も無いのだから。
その日東都の病院を訪れていたのは偶然だった。公安でマークしている男が入院しており何か接触があるかもしれないということで応援で訪れていただけであった。その男の病室の廊下にある別の部屋。多床室ではなく個室の病室でガタっと音が鳴る。
なんの音だとその病室に音を殺して近づく。疑いすぎだが何らかの罠の可能性も捨てきれず病室のドアに沿い聞き耳を立てる。ペタリペタリと這いずるような音と幾度も床に身体を叩きつけるような音が聞こえる。
しびれを切らして扉をがらりと開けて中に入れば、10代だろう病衣の少女が車いすにもたれかかりながら、油で質感の悪くなった黒髪の奥から鬼の形相で睨んできた。
遠ざかるように、その細い腕を横に振りながら、か細い声を上げる彼女に無理やり近づくのは憚れるが、彼女が中でしていた行為は彼女自身を傷付けるものであっただろう。自傷他害の恐れがあるとして彼女の身体を確保し落ち着けようと思う。
しかし彼女は一向に拒絶の視線を向け続ける。やがて疲労が先に来たのだろう。手を払いながら、手の力で身体を引いていたからかもう体を支えている手の方が力なくへたりと折れる。背中からぺたんと倒れこむ。意識を手放したように掲げた腕が俄かに赤く光ったような気がした。
瞬間、数舜前まで自分がいたところで何かが割れる音がする。振り返ればそこには陶磁製の何かの破片が散乱していた。この部屋に陶磁製なものなんてなかった。もしあったとして床頭台から飛んできたらこのように破片は散らばるだろうか?そもそも床頭台から飛んでくる理由もない。
そうだ、彼女はと意識を失った彼女に注意を向ける。無事を確認すれば再び件の破片に目を向ける。
「……っ!!」
破片が消えていた。白昼夢かとも思うが感覚が否定する。白昼夢じゃないならどんなオカルトだ。陶磁製のものに当たれば人は傷つく。さっきのが自分に当たっていたら。ぞわりと背中を何かが走る。
彼女の名前をナースコールで呼び出した看護師から彼女の名前を聞くと、看護師うっかり漏らしたその名は冬野かなたという名前だった。昏倒した彼女をベッドに戻すのもイヤイヤといった、関わりたくないという感じが見て取れた。
その後は医局が忙しくなった。目を覚ますはずがないだとか、他の患者達がいる病院にも連絡を入れろといった具合に。
慌ただしく医者は出ていくと何故かこの場には僕と彼女が取り残されていた。医者の話を盗み聞いて合点がいった。調べると彼女は刻明館学院の生徒で、刻明館学院及び近隣のみかげ労災病院で多発していた原因不明の昏睡状態にあった生徒の一人だ。
「冬野かなたさんだね。刻明館学院の」
「はい。冬野かなたです。」
僕はつとめて刺激しないように、柔和な笑みを携えて質問する。彼女の発言から昏睡事件の解決の糸口を掴めるかもしれない。未知の病気なのか、何らかの事件なのか。どちらにせよこれが未解決のままでは良くはない。
彼女は長い間寝ていたからか細い身体と、一層にか細い声で僕に話をしてくれる。負担を強いている事に申し訳なく思うが、彼女の瞳が僕には引っかかった。
酷く澱んだ瞳だ。クラスメイトの話をしても彼女はその澱んだ瞳のまま驚いたり、悲しんだりといった素振りは全く見せない。いたく冷静に、冷酷なまでに平静でいた。まだ意識が朦朧としており話を飲み込めていないのかもしれないが、彼女の人柄に疑問を抱いた。
「今頃悪夢でも見ているんじゃないでしょうか?」
「それはどういう意味だい、かなたさん」
不意に出た、嘲るような雰囲気で発せられた言葉に憤り鋭い視線を向けてしまう。彼女は禍々しいと形容するのが正しいだろう雰囲気で、声色こそ発声器官が寛解してないからか平易でもの静かなものだが、それは眠っているクラスメイト達に対してなのか、憎悪、嫌悪といった負の感情を見せたと思えば悦に浸るような顔を歪ませ、目線は興味を逸しているような、今目の前にいる少女が一人の人間なのかと疑いたくなるような様相で語った。
「何ってそのままの意味ですよ。彼らは眠っていて、夢の中で正気を失うような残虐かつ見ほれるような華麗で、甘美なほど屈辱的な、そんな悪夢でも見ているんじゃないかって、そう思っただけですよ」
その瞳の奥に燃えるような赤い髪をした女性の姿を見た気がした。