心中白書   作:朱華麒月

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発狂心中

発狂心中

 ――心中――

 夜の海は身体を芯から冷やしていく。そっと掬い取った手は恐る恐ると云う様に、然し確りと握り返される事実に思わず笑みが零れる。

 正月を過ぎた、一月半ばの事だった。私と少年は、別々の場所で育ち、別々の人生を歩み、そして冬の夜、二人並んで海辺に立った。夜更けまでを中和した曖昧な空と海に映る風景に、特別な物は何も無かった。其れが心底心地良かった。自分の家の蒲団とそう変わりの無い薄さの布団で交わした言葉は、何だっただろうか……嗚呼、そうだ。お互い今日のことを振り返って思い出話をして、逢引みたいだねと云ったら少年が照れてしまったのだっけ。何れにせよ、此れから起こる事は一つだった。私と少年は夜更けまで少し眠り、普段は見る事の無い夢を見た。少し気疲れする夢だった事だけが悔やまれる。最後に口にしたのは宿の前の自動販売機で買った、甘さが喉に引っかかるあの珈琲だった。

 手を引いたのは何方が先だっただろうか。若しかしたら、少年かもしれない。雨が降る水の中へ私達は足を滑らせる。体が沈む。最早、寒いとすら感じない。肩を寄せ合い入水していく。全身を刺すような痛み、意識が遠ざかり、近づき、拡散し、収縮し拡大し拡大し拡大し……これが、五十回目のループだと気が付いた。

 

 ――記憶――

 私、津島治子(つしまはるこ)二十二歳は、一階がコンビニエンスストア、その他の階も他の事務所が入っているごく一般的なビルの中にある会社。クライン生命保険総合会社タテハマ支店に電話番として勤めていた。部屋の中はそう広く無く、仕事机の上に固定電話が一つ、壁の端に会議用の折り畳み机が一つ、パイプ椅子が数脚、スチール製の書類棚で区切られた裏には仮眠室がある程度だった。此処の事務所は電話を受け付けるだけなので基本私しか居ない。偶に上司の体格と記憶力が妙に良い網代(あじろ)という女性が様子を見に来るだけだ。其の日も私はいつもの様に会社に出勤してからふらふらと休憩室へ向かった。寝袋が置かれた仮眠スペース。使って良いと云われた事は無いが、使ってはいけないとも云われていない為それなりの頻度でお世話になっていた。他に誰が使っているようだが……別段気にする事では無いだろう。私が居る時は居ないのだからと潜り込む。偶にここから感じる目線に、まるで監視されている様だと考えつつこっそり隠していた干し貝柱をつまむ。そんな気付かれないように工夫してまで私の動向なんて見ても面白い物でも無いだろうに。なんて思いながら電話が来るまでゴロゴロしようと決め込む。が、ふと思い立ち裏へ回る。其処は生命保険関係の本や書籍がきっちりと並んでいる書類棚だ。唯、此の本達はどれも新しい物ばかりで使われた形跡がない。あからさまに形ばかりが過ぎて苦笑いが零れるが、一つだけ使われた形跡のあるファイルを見つけ、開く。中身は此の会社に就職する時に提出した私の資料だった。津島治子。年齢二十二歳女……と、目新しくも無い資料をペラペラと捲っていく。そして最後に現れた一文が目に留まった。”エージェントヘノ昇格検討中。昇格マデ任務遂行能力ヲ計ル。”

「という事は、私は今試されているのかな?今もどうせ見られているのだろう」

 だからと云って行動を改める心算も、ましてや怖気づく心算も甚だ無かった。私はまたごろりと横になりながら一つしかないデスクの固定電話から電話が掛かって来るのを待つ。それが私の、電話番の仕事だったから。掛かってくる電話は網代の電話以外は意味深で理解不能な物が多く、「今から言う数字をこの電話番号に入力する事」や「これから来る猫に握手をしてから電話を切ってもう一度かけ直してニャンと鳴け」など様々だった。まあ此処が普通の生命保険会社でないことは端から分かっていたが、別に犯罪に加担している訳でも無し、過労死するほど働かされているでも無し、こんな良い仕事は滅多に見付ら無いだろうと思いそのまま働き続けているのだ。

 そんな中の或る日、網代に或る仕事を言いつけられる。

「指定した人間と、指定した自殺サイトでコンタクトをとり、心中自殺を行うこと」

 最初に聞いた時、成程と思った。確かに毎日のように自殺未遂をしている私は適任だ。だがそんな事は関係が無いらしい。

「もちろん自殺が完了する必要はなく、適当なところで救助に向かう。この仕事が成功すれば、君にはもっと大きな仕事を頼むことになるかもしれない」

 私はにこやかに「其れは要らないかな」と答えつつ仕事について調べる。指定された人間、小宮麗(こみやれい)。十五歳の少年だった。サイトで出会った後話はとんとん拍子に進み、此方が場所は何処でも良いと告げると少年は夜宴海岸を指定してきた。H県にある寂れた港町、夜宴町の外れに在り、人通りの少ない海岸。確かに心中の場所としては好都合である。釣り人が偶に来るのか海岸沿いには民宿”ほおずき荘”が在るらしい。網代は先に行くと云っていたので恐らくは此処に泊まっているのだろう。

 そうこうしているうちに時間になった。そう、今日は待ちに待った心中の日なのだ。休憩室の寝袋の枕元に手作りの千羽鶴(何故か全部に足が生えている)をそっと添え、私は事務所を後にした。

 

 ――事情――

 僕がいつも散歩している夜の墓地。其処は洋風の墓地で墓石が平らに置かれ等間隔に並んで広々としている。墓地の脇にはうっそうとした木々が立ち並び、出入り口付近には管理人事務所がある。僕がここを歩いていると、何処からか声を聴くことがある。其の声に惹かれ此の墓地に何度も足を運んでしまうのだ。

 そんな墓地に今日も変わらずに歩いていた。ふと、ここの墓石は日本とは違うタイプだな……と思いちらりと見ると、真新しい墓石をずらしたあとがあった。……気は進まないものの、異形に変身すれば墓石の下を見ることもできるかもしれない、と思い立つ。折角の夜の逃げ道になにか異変があればいただけない、其れを確かめるためにもぬるぬると隙間から入り込む。墓石の下は空洞になっており、穴の下には棺桶も死骸も見つからなかった。更に、穴はどこか暗闇へと続き、唐突に岩にぶつかって終わった。これはこれで、死体なんてありふれたものではない何かから発せられた恐怖を覚えて仕方がない。妙な心情と引き換える成果物を入念に探しても、其れは特に見つからずに諦めて地上に戻る。少し散らかってしまったが、まあ死体も無いし墓参りする人も居ないでしょ。と気にも留めずに散歩を再開しようとすると、生い茂る木々の向こうで、何かが動いたような気がした。反射的に向いた方向には判断しがたい形状が在る。人間……?いや、何かかぶり物でもしている異形?と見つめていると幾人か連れだったその人影は、木々の奥に隠れて此方を見ているようだった。僕が目を向けた瞬間、身を隠してしまう。不思議に思い其方に向かうが直ぐに消えてしまった。悪仕掛けにしては精巧な犬の様な被り物だったなぁと下を見ると蹄状の足跡が目に入った。2本足で歩いたような痕跡だった。どう見ても鋭い鉤爪をもち蹄状の2本足で歩行していたようにしか見えない。

「別に、警察とかそういうのじゃ無いなら良いけど」

 置かれている環境は不思議事と真反対に位置した、目を逸らしたくなる現実的な闇なのだ。知識外にいる妙な生物や理解困難な趣味趣向の持ち主よりも、現実的で倫理的な人間に見つかる方がよほど怖い。助けてくれず家に連行するのならば、それは家に住まう暗澹と相違ないのだから。

 気分を払拭できるものは無いか、と目線をそっと管理人事務所へと移す。此処は夜には誰もいない。変身していれば僕だと分からないだろうとこっそりと忍び込んだ。背徳感や優越感と呼べる気持ちが浮き上がってくる、其れが僕ではない存在に成って得られるものという事には目を背けて、その気持ちを嚙みしめた。中へ入ると一般的な事務机や整備用の道具が置かれていて、妙に沢山の本が入った本棚もあったが目ぼしい物は無く、そのままぬるりと出て行った。本当は活字を取り入れる欲だってあるが、怪物じゃページは捲れないし、外で僕に戻っても月明かりじゃ文字は読めない。名残惜しさや勿体なさを切り捨てるのは慣れてると言えど、どこか虚しい。外に出て、耳を澄ませる。風情ある虫の声だとかを期待した聴覚に入るのは薄らとした声、意識に吸い込まれるようにひっきりなしに聞こえている。其れを聞いていると魅かれるような、朦朧とした気分に陥る。其れはとても心地よく、此の墓地に休み無くひっきりなしに通ってしまう原因だ。僕は呼ばれている。否定された存在に、どうしようもなく甘美な福音だった。

「ニョグタの祝福を受けしものよ、その身と生け贄を海に捧げよ。いずれそなたは夜宴海岸にたどり着くであろう」

 と。聞きなれない言葉に、怪訝な心情が乗り出してくる。一般常識に乏しい認識はあれど、前半は不自然なほどに覚えがない。然して覚えがある単語が続いたものだから、関心は其処に寄った。夜宴海岸は前にこっそりと調べた記憶があり、記憶にも新しい。H県にあるさびれた港町、夜宴町の外れにある。人通りの少ない海岸で心中の場所としては好都合である。物騒な思いつきではあるが、不思議と魅力的な要素に置き換えられているみたいだ。釣り人が偶に来るのだったか、確か海岸沿いに民宿”ほおずき荘”が在るらしい。他に記憶することがないのか、と自分に自虐めいた感想を抱く。こうもモヤ無く思い出せるのだからきっと知らず憧憬でも抱いてたんだろう、酷く他人事で、哀れにすら思えた。立ちすくんでいた僕へ急に声をかけられる。線が抜かれたように思考が断たれた、その反動で驚き尻餅をついたのも構わず話しかけてきたのは、落ち窪んだ目に酷い猫背の人間だった。長い髪をぼさぼさと垂らした人だった。つい驕った同情を抱いてしまうほどまともではなく、恐怖心が追い付かない僕もまたまともではない。いつの間にか傍らに立って話しかけてくる、僕は其れをすんなり聞き届ける体制に入った。

「手紙を出したのは私です。夜宴海岸で首尾よく生贄を捧げてください。もし困った事が有れば、まなみと呼んで下さい。其の時近くに居られたら、手助けをします。」

 其の人がそう言った直後にかつて嗅いだあの悪臭が漂ってきた。そして僕の意識が遠のいていく。抗い切れず落とした意識を拾い直した時、既に其の人は居なくなっていた。

「……。いや、まだ困ってないしな。首尾よく生贄を……」

 つい反射で呼びかけた名前を噤む。後に続いた言葉はまやかしに過ぎなかったが、言うに及ばないこともつい口に出してしまうものだ。けれども言い切れなかったのは、月に嘘を吐くのが憚られたから。なにもせず見守ってくれる、まるで味方のような金色の月、斜め上を見上げて全貌を確かめる。確かめて今一度、嘘は言いたくないと思った。

 生贄が必要なほど高尚な生き物じゃない、今から求めるのは、僕の不安を晴らしてくれる人間だ。……なんだ、生贄と変わらないのではないか、否定しづらくなってどうもやりづらい。

 月に目が眩んで焦点を移した。辺りの闇は深い。故に、安心する。

 夜はまだ終わらないみたいだ。

 

 ――邂逅――

 長い電車の旅路、私は持って来ていた小説も読み切り、すっかり手持無沙汰になっていた。規則正しい音に揺られながらふと、会社から教えられた自殺サイトが気になり検索エンジンを開く。アドレスが受け渡し制、完全会員制のサイト。幾つかのメッセージが行き交う中で私が少年に声をかけたのは偶然……いや、必然だった。利用者がどう考えても少なかったのだ。だから私は少年を見つけ出すことが出来た。見つけた後、とんとん拍子に話が進み、夜宴海岸に誘われた時はてっきり向こうにも話が行っているのかと思い接していたが、どうやらそうではないらしい。少年はしっかり調べていて、海岸沿いの民宿ほおずき荘で人目が無くなる夜まで此処で過ごそうと提案され、私は其れに了承した。そういえば、ほおずき荘も調べていなかったなと思い立つ。色々検索文を変えて調べてみるが、いかんせん陸の端だからなのか、会社で簡単に調べた事以上は見つけられなかった。

 調べ終わり、一息ついたところで丁度降りる駅が呼ばれる。ついと顔を上げるとあんなに沢山居た人達が綺麗に居なくなっており、私だけ取り残された電車内はすっかり冷え込んでいた。まるで近所に遊びに行くかのような手荷物を持ち、釦を押して電車を降りる。降りるのは私だけかと思っていたがそうでは無かったようだ。二つ先の車両からひょこりと人が降りて来たのが見えた。

「やあ、君が小宮麗君かい?」

 声を掛けられた少年は驚いたのかびくっと飛び上がりつつも、おどおどとしながら答えてくれた。

「はい、えっと、僕が小宮麗です」

「よかった、私は津島治子だ。改めてよろしく頼むよ。」

 そう言うとほっとしたような顔をする少年。気が弱そうで、何処と無く非現実的な印象を受けた。お互いに軽く挨拶をし、本来の待ち合わせ場所に向かって歩き出す。ぎくしゃくと付かず離れず後ろを着いて来た足音は、距離感を計りかねているのかたどたどしい足取りだ。其れは駅を出て、ちょっと先のバス停に向かって行く間も変わらない。どうするか考えあぐねていると、不意に足音が止まった。振り返れば少年は、先程の不安に溺れていた瞳を一転させてキラキラとした目で目下にある海を眺めていた。

「綺麗……」

「海は初めてかい?」

 急に声をかけたからか、びくっと頭をかばう姿勢で警戒された。しかし私が何もしないと分かったからか、ゆっくりと手を下ろし深呼吸をしてから海の方へと視線を向けて答えてくれる。

「あっすみません!……はい、こんなに綺麗で……本当に塩辛いんですね」

 初めて見せる年相応の姿に私は安堵し、思ったことを告げる。

「うん、矢張り君は笑顔の方がいい」

「ふぇ!?」

 急に甲高い悲鳴のような音と共に真っ赤に染めあがった顔が此方を向いた。

「やっと私を見てくれたね?」

 目と目が合う。青……いや、海の様に鈍く、暗く深い蒼。しかし、月夜に照らされればきっと、宝石や、あの海に負けない程に輝くだろう。

「すみません!不快な思いをさせてしまいましたか……?」

 不安、羞恥、困惑、恐怖……どの表情を出していいのかわからない為か努めて無表情でいようとしている少年に私は弁解をする。

「いやいや、綺麗な瞳だのに、死ぬ前にきちんと見られないのは勿体無いと思ってしまってね。随分と乱暴な手を使ってしまって此方こそ申し訳ない。でも、是だけは言わせてほしい」

 そっと、怖がらせない様に警戒されない程流れるように顔を近付ける。

「笑顔の方が良いというのは私の心からの本音さ」

 口をパクパクとさせ俯いていった少年は、私の最後の言葉に撃沈してしまったようだ。私は「おや、バスの時間が迫ってきているねぇ」と呑気に告げゆっくりと歩きだした。後ろで小さく深呼吸音が聞こえ、小さな足音が一定間隔で着いて来たのを確認し、私はそっと微笑んだ。

 

 

 ――旅路――

 私たちがバス停へ辿り着いた時、見計らったかのように小型のバスが目の前に停まった。三日に一本程度だというのに……いや、だからなのか、ビシッと制服を着たバスの運転手が自動でドアを開けてくれるのを見届け、少年を先へと促す。あたふたとする少年に「窓側は私は苦手でね」と、さらりと告げると大人しく先に入ってくれた。

「このバスは夜宴町までですよ。お客さんたち、何処まで行くんですか?」

 腰を落ち着けると、若い男女を珍しいと思ったのかバスの運転手に質問を投げかけられた。

「このまま、夜宴町までですよ」

 隣で、運転手には見えていないだろうにこくんと少年が頷いた。それに気づいているのかは定かではないが、運転手は返答に対し、何かを言いたげな雰囲気を醸し出していた。

「何か、問題でもありましたか?」

「いや……なに……あそこは、人喰いが出るって噂が在るから、気を付けた方が良いですよ」

 と、随分と間を置いてから告げられる。そんな噂が在るなんて、調べても出てこなかったなぁと考える私を乗せて、バスはゆるゆると走り出した。

「人喰い……」

 少し恐怖を含んだ呟きが聞こえた。

「成程人喰い……其の人喰いに頭から丸ごとって云うのも悪くないかもねぇ」

「何でそんなケラケラしているんですか……」

「ええ!だって!中々経験できない事だろう!?」

「それは確かに1回切りでしょうけど……」

 未知の存在にワクワクと心躍らせる私に若干引き気味の少年が相槌を打つ。

「僕は普通の死に方がしたいです。人間らしい死に方で……」

 そう呟いた少年は、窓の外の海を眺めていて、顔こそ見えなかったものの、切実な願いが込められている様だった。

「……少年、緊張しているね。心中は初めてかい?大丈夫!このお姉さんに任せてくれ給え!」

「その口振りじゃその……つしまさん?……津島お姉さんには何回か在るみたいな言い方ですけど……」

「まあ、これだけ生きていればね、心中の1回や2回、それなりには経験しているよ!」

「え゙っ……。」

 顔が引きつる少年。

「それじゃあ……その……津島お姉さん……「まあ全部失敗したけどね!」……あれ?まあ、そうですよね。じゃないと此処に居ませんもんね!」

「そうだねぇ」

 くすくすと笑う私に少し照れながらも先程の恐怖は吹き飛んでいったらしい疑問を持った顔で問いかけられる。

「で、でもそしたら、一緒に心中した人は、如何なさられたんですか?」

「勿論そのままお別れしたとも」

「そっか……」

 私の返答にちらっと表情が曇る。最初の頃よりも心を許してくれたのか少しづつだが注意深く見ずとも分かるようになった気持ちの揺らぎに喜びつつ問いかける。

「不安かい少年。死ねないのが、怖いかい?」

「あ、いや、まぁ……多分其れも有ると思います。けど、それ以上に……」

 海が近づいて来たのか、ざざぁと波の音が入ってきた。其れに耳を傾け、一呼吸分の空白の後。

「死ぬ時はせめて、他の人と一緒に死にたいなぁって」

 一際大きな波の音が届く。今までの心中相手も「貴方と共に死にたいのだ」と云ってきた。然し結局は生存本能に敗れ、藻掻き、結論。「嗚呼、死ななくて良かった」と踵を返すのだ。「神様の思召しだ」や「もう二度とやるもんか」など……。

「まあ、今回成功すれば良いだけの話さ。気楽にいこうじゃないか!」

「はい……いや、気楽にっていうのも如何なんでしょう……」

「ん?どうかしたかい?」

「ああいや、なんでもないですよ」

 本当にこの少年は揶揄い概が有る。ちょいとつつけばすぐ赤くなる。

「でも。津島お姉さんってなんでそんな何度も失敗しても心中を?」

 まあ、気になるだろう。少年も言っていた通り何度もしようとするなんてなかなか無いだろう。

「ああ、云い辛かったら大丈夫ですけど……」

「いやはや、逆にここまで失敗すると、何回目で成功するのか気になったりしないかい?」

「心中にチャレンジ精神は見出しませんよ!?」

「そうかい?共感してもらえなくて残念だ……」

 もちろん嘘だ。そんな事、後から持ってきた理由に過ぎない。けれど普通の人なら此れで馬鹿らしくなって是以上は聞かれることは無い。

「……それに、在るはずだと思うんです」

 話を変えようとした所で少年に言われる。

「一回目の、心中する理由が」

 さも当たり前の様にこちらを見上げて問いかけてくる。其の目線は今まで通り目ではなく他の顔の部品にあるが、本当に思ったから問いかけてきている様に思えた。普通の人は聞かない。と云うよりも、これから死ぬのに簡単な理由さえあればあとは興味がないのだ。誰も彼も一人は嫌で、度胸が無く臆病。それでいて何処までも独り善がりだからこそ、そんな一番最初なんて、考えないと思っていたのだ。

「……なんだと思う?」

「え”……あー……」

 いきなり質問を質問で返されるとは思ってもいなかったのか驚きつつ此方の反応を伺ってくる。私は努めて笑顔でいるが、内心は心底驚いていた。その間もうーんと色々とうなっている少年を見ると段々と本当に可笑しくて笑みが零れる。

「に……人間関係の縺れとか?」

「ちがーう」

「仕事で失敗しちゃったとか」

「違うねぇ」

「うーん……えっと」

「おや、着いたようだよ?」

 私がそう言った瞬間、見計らったかのようにバスが止まりドアが開く。

「じゃ、この話はまた次回に」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

 そう投げかけられながら二人分の駄賃を払ってお礼を云い、先導するようにバスを降りた。バスから降りれば直ぐ目の前は海で、海を眺めつつ目的地に向かうのも悪くないとは思うのだが、何せ時間がかかる。相も変わらずに愛おしむ様に海を見ている少年に「少し待って居てくれ給え」と声をかけ、タクシーを取ろうとするが、流石という所だ。来るまでに一時間以上もかかると云われて渋々ながら断った。時刻はとうに夕暮れ時。申し訳程度の小さな店も忙しなく店じまいの準備をしていた。屋根も無い所で段々と冷えていく海を何時間も眺め続けているよりも、海を見ながら旅路を急ぐ方がよっぽど良い。幸いなことに此処から歩いても三十分もしない。

「少年、歩こうか」

「はい」

 言葉数は少なく、ゆっくりと沈んでいく日の光に照らされながら海辺を歩く。慣れない砂辺は歩き辛いのか度々よろける少年を見て、私はそっと手を伸ばす。少し頬を染めながら恐る恐ると、しかししっかりと握り返される手は互いに冷えていたのか、温かいのか冷たいのか分からない。違和感が解け、曖昧になった頃にはもう既に日が沈み、月明かりだけが海をキラキラと照らしていた。

 ほおずき荘に着いた。予約を承ってくれた主人は今日は不在で、随分と不愛想そうな従業員が代わりに対応をしてくれた。無関心なのは此方も都合が良い為気にせずに部屋へと向かう。軋む扉を開けると古びたブラウン管テレビが素っ気なく置かれ、薄い布団が敷かれた以外何もない部屋が出迎える。そう、此処に帰ってきた。五十回も。

 

 ――悪夢――

 

 悪夢。そう、悪い夢。暗く昏い開けた場所で、吊り下げられた巨大な石の椅子に裸で座っていた。私を縛っている重たい鎖は酷く冷たかったが、段々と白熱し肌をジリジリと焼いてゆく。身動きもとれず抵抗も出来ず唯々されるがまま焼かれている。

「時間を乱す者に、永遠の、鉄槌を……」

 不意に聞こえた声は重たく、実際鉄槌のように私を押し潰した――――

 

 

 目が覚める。

 そこは深夜ニ時のほおずき荘だった。起き上がって周りを確認すると敷かれた布団の上に倒れていたようだ。私たちは民宿ほおずき荘に着いてすぐ、部屋に向かって深夜二十一時までをだらだらと過ごし、どちらと言うこともなく海へと沈んでゆく。それを四十九回繰り返したのだ。何度も生死を彷徨った私でさえふらりと血の気が引くくらいには滅入ってしまった。私はこの少年……いや、小宮君と何度も何度も死を経験した。死への恍惚感。そして……。"独りは嫌だ"。不意に湧き上がる恐怖心に嫌悪感を抱く。然しどうにも止められない衝動に従う様に、隣に居た筈の小宮君を見る。小宮君は起き上がった状態で呆然としていた。

「津島お姉さん……あれっ……何処に、居るんですか……?」

 震える声で呼ばれる。求められる。安心、してしまった。何度も何度も繰り返される中で随分と絆されてしまったものだ。

「此処に居るよ……?大丈夫かい?」

「あ、いや、大丈夫、大丈夫です!気にしないでください……」

 深い海の様な瞳には焦りや恐怖が浮かんでおり、一生懸命右目を隠しながら、動揺を悟られまいとする姿はまるで叱られるのを恐れる子供の様で……いや、本当に此の子は子供なのだ。

「右目が、おかしいのかい?」

 指摘した瞬間、身を強張らせる。心配かけまいと、否、怒られる理由と作るまいとひた隠そうとしている様に思えた。

「いや、大丈夫です、大丈夫です!本当に、気にしないでください……」

「嗚呼その通り、大丈夫だ。とりあえず、落ち着き給え。」

 そっと目線の高さを合わせる。そのまま目を合わせ、そっと頭を撫でる。触れた瞬間にビクリと肩を揺らすが、撫で続けるうちに震えも収まっていき、次第に右目の焦点が合っていく。恐らく回復したであろう後も暫くは撫で続けた。

「右目、大丈夫そうかい?」

「はい……だい、じょうぶ、です……。その……さっきまで見えなかったんですけど……気のせいだったのかな……。兎に角今は、問題無さそうです」

 戸惑いつつもホッとした様子に私も肩の力を抜く。

「よかった。恐らく精神的なものだったのだろう。取り敢えず、水分を取るといい」

 自分の鞄からペットボトルの水を取り出し手渡す。

「ありがとうございます。すみません……迷惑をかけてしまって……」

「いやいや、これから一緒に心中をするのだから。このくらいはどうという事は無い」

「……それ、ですけど。本当にこのまま、もう一回心中が出来ると思いますか?」

 こくりと一口水を飲み落ち着いたからか、先程の辿々しさは無くなっている。

「嗚呼、其れについてだが、ループを解いてから一緒に心中すればいいだけの話だろう?」

 ペットボトルを返されると共に投げかけられた問いを私はあっけらかんと答えた。

「ループをって……随分簡単に言いますね……僕なんか何がなんだか分からないのに」

「勿論私も何も解らないよ?」

「……あれ?」

「まあそれでも、どんな事にも何かしらの対処の術はある筈さ」

 そう。やり方が解らなくても目標さえ解っていればどうにかなるものだし、始まったものはいつかは必ず終わるものなのだから何も問題はない。

 不意に、小さく笑う声が聞こえた。

「初めてかもしれません」

 笑みを含んだ声は先程まで……いや、四十九回目までは無かった安堵という感情を含んでいた。

「何がだい?」

「今まで、頼れる大人と、あんまり接していなかったので……今の津島お姉さんはすごく……その……頼もしく見えます」

 頼もしく。なんて普段なら言われない評価を告げられ、少し目を瞬かせる。然し少し振り返ってみると成程確かに。もう手遅れなことは分かっているが私は戯けた顔に切り替える。

「そうかい?それは良かった!だがしかし小宮君……良く知らない大人を信用してはいけないぞ」

「ふふっ……五十回も死んだんですから流石に“良く知らない”は卒業していると思うんです。」

「ふふっ、確かに」

「下手すればもうこれで……あ、いや……」

「どうかしたのかい?」

 何かを言いかけた小宮君を言及するが、咳払いで流されてしまう。

「それよりも、ループを終わらせるっていう話でしたよね?」

「……まあ、そうだね?」

 何を言いかけていたのか。なんて野暮な言葉は飲み込んで肯定を告げる。

「やっぱり、この街が原因なんでしょうか?」

「うーん……今は情報が少ない。決め込んでしまうのは得策ではないだろう」

 膝に置かれた手を掬い取り、両手で包み込むように握る。

「だから、先ずは調べられる所からから一緒に調べていこう。そうすればこの町が原因か、というのも自ずと見えてくるさ」

「はい……!」

 そっと握り返された手は、何時かの時よりも酷く温かかく、柔らかかった。

 

――ほおずき荘――

 

「じゃあ手始めに……やたらめったらにはなっちゃいますけど、この宿についてですかね?」

 小宮君がきょろきょろと忙しなく周りを見てから告げる。

「そうだね、私も勿論協力しよう」

「はい、お願いします」

 顔を見つめ頷き合う。それを合図にお互いに動き出した。

 

 ほおずき荘は2階建ての民宿。2階は宿泊施設、1階には食事場と大浴場。確か食事場は簡単な食事が食べられる定食屋兼飲み屋だったはずだ。宿自体そこそこの大きさがあり、宿泊部屋はここを含めて3つほどある。その他にトイレ、キッチンスペース、浴室がありそれなりに不便の無い設備だ。

 

 ある程度丁寧に調べても時間はあるだろうと今泊まっている部屋を見る。小宮君はもう既にガサガサと布団を調べていた。部屋にあるのは他に古びたテレビ、押入れ……ふと洋服掛けに目が留まる。ふらりと近寄りよく見ると、鋭い鉤爪の様な物でズタズタに傷つけられている。周りも注意深く観察してみるとあちらこちらにも鉤爪の跡があった。大方人間サイズの異形が出入りしているという考えに非現実的だと思ったが、そもこの状況自体が非現実的だと気付き苦笑いしてしまう。

「あ、津島お姉さん。これ……」

「おや、どうしたんだい?」

 不意に声をかけられて振り向くと、小宮くんがおずおずと紙を差し出してきた。

「その……さっき、津島お姉さんの布団から……すみません勝手に見ちゃって!」

 言いづらそうにしながら差し出すそれは、“網代理(あじろことわり)”と書かれており、連絡先、そして私の勤めている”クライン生命保険総合会社タテハマ支店“の名前が記載されただけの簡素な名刺だった。

「ありがとう。此れは私の上司の名刺だね」

 他でもない、この心中旅行を指示した上司の名刺だ。

「大方、ポケットに入れていた物が落ちてしまったのだろう。見つけてくれてありがとう」

「いえ……あの……」

 何か言いたげな少年から名刺を受け取り、そのまま笑顔で先を促す。しばらくは言うか悩んでいたようだったがやがてゆっくりと口を開ける。

「生命保険会社……?」

「嗚呼、そうだよ?」

「なんだか、ちょっと変な話ですね」

 くすりと笑いながらそう告げられた。

「生命保険。をしている会社の人が、心中を求めて右往左往なんて、可笑しいかい?」

「はい、ちょっとだけ」

 頬を染めて年相応に笑う姿に、つられて私も笑ってしまう。

「と言うより、津島お姉さん自体が……その……保険会社関係なく、可笑しい気はしますけど」

「この会社は私以外にも可笑しい人はいっぱい居るけれど」

「えぇ……類は友をってやつですか?」

「いやいや、私は一般人の枠だとも」

 人。な筈だ。という事曖昧な線引きをしなければならないのだから妥当である。その点私は胸を張って人だと言い張れるのだから間違っていない。

「まさか。何回も心中を失敗して、それでも尚さっきみたく、高らかに。“心中しよう”って言える人は中々居ませんよ」

「そうかい?」

 無言でふんふんと頷かれてしまった。まあ確かに中々居ないと言う点においては納得せざるを得ない。

「ところで、その……何かしてたの、遮っちゃいました?」

 そういえば。というように問いかけられる。

「いや?特には遮られていないよ」

「ならよかった……」

「ただ、バスで聞いた、あの“人喰いの噂”。あれは伊達にできないらしいね」

 コンコンと洋服掛けをノックする。布団にちょこんと座っていた小宮くんはてててとこちらに駆け寄ってきた。

「本当だ……でも、いつの間に?」

「泊まった時は覚えて……」

「無いね」「無いですね」

 そこでパチリと目が合い、同時に告げた結論に自然と笑い合う。

「僕達が留守にしていた間、この宿にいた誰か……?」

「若しくは、寝ている間。とかね?」

「だとしたら僕達はそれこそ、心中が叶いそうなものですけど」

 ついと爪痕をなぞり乍ら呟かれる。深々と木を切り裂ける爪で殺されたら痛い事は明白だろうに、意図も容易くそう告げた少年には、自分と似たものを感じた。

「まあでも、今回はそれで心中は出来なかったんだ」

「……残念ですか?」

 切り替えるように、茶目っ気混じりにそう問われる。

「いやぁ、残念だよ!」

 期待に応えるように、此方も笑顔で答えると想像通りと言ったように笑顔が返ってくる。

「前の四十九回と、違う心中が出来たのなら、若しかしたらループは抜け出せていたのかも知れないね」

「嗚呼、そっか……じゃあ、別のところにしますか……?」

 そのまま明るく告げた私とは裏腹におずおずと問いかけて来た。この場所に何か思う所があるのだろうか。もしかして今回の事も……とも過ったが、考え得る利点が無いのであり得ない。それはそれとして、私にとっては“心中”が大事なのであって場所は些細な問題なのだ。

「いや、君がここが良いと言ったんだ。だからここで死のうじゃないか」

「ありがとう、ございます」

 噛み締める様に、ゆっくりと告げられる。

「じゃあ!他にももうちょっと調べてみて、何か分かったら言いますね」

「嗚呼、こっちも探してみるよ」

 改めてお互いに笑い合い、探していない所は無いかと頭を向ける。小宮君がテレビの方に行ったのを見て、私は洋服掛けの隣の押し入れに手を伸ばす。開け放ってみると、籠った様な黴臭さが鼻についた。只の黴臭さならいざ知れず、何処となく動物の様な香りも混じっているので不思議に思いつつも覗き込む。……が、中身は空だった。何もないと落胆した瞬間。

 ピッと軽い音、そして小さな悲鳴。

「我々、“イスの種族”は、存在を認識された。全ての痕跡を___くては___嗚呼_____の鉄槌が________“タイムパラドックス”」

 最後の単語だけ妙に鮮明に聞こえた。

「なっ……何今の……」

「おや、大丈夫かい?」

 ふと小宮君を見ると、どうやら先ほどのテレビで驚いて尻餅をついてしまっていたらしい。そっと手を差し出すと「大丈夫です」と自力で立ち上がり恐る恐るといった様子でもう一度テレビの電源を押すが、何もつかなかった。

「先刻、タイムパラドックスと言っていたね」

「はい、何かのドラマじゃあるまいし……」

 タイムパラドックス……タイムトラベルにおいて過去の事象を改変した場合に起こる不一致。確かこの説は2つほど有力な説があったはずだ。

「まあ実際、ここでもし私達が、死なずに生きていたとしたら、タイムパラドックスが起こってしまうかも……なーんてね」

「という事は、えっと。未来で僕達が死んでて、その過去に当たる今の僕達が生きると……っていう事ですか?」

「まあ、そういう事になるね」

 些細な改変でも、未来が大きく変わってしまう可能性があるという説だ。小宮君も知識は有るのか、ふんふんと頷く。

「でも、どうなんでしょう。案外、事故死とかで“僕達は死んだ”とかで結果は変わらないかも知れませんね」

 今度は私が頷く。

「確か、タイムパラドックスって案外、改変も次第に収束していくって、そういうのあった筈ですし」

「辻褄合わせ。というわけだね」

「そうです」

 些細な改変は次第に収集し大きな影響はない。というもう一つの説だ。

「うん、私もその節は大好きだ」

「……何より、人間、どうせ死にますからね。だとしたら……」

 その後に続くはずの声は虚空へ消えていってしまった。

「どうか、したのかい?」

「……ん、ああ、いや。すみません。なんでもないです」

「言える時になったら、言ってくれたまえ」

 そう告げると何故かじわじわと小宮君の顔が赤くなっていった。

「いえ、単純にこう……あんまり頭悪く無いのに、そう言う感じに振る舞っていただけです……特になんも無いです……と、とりあえず!次の部屋調べてみませんか?」

 照れているのか。と気づいた時には既に話題をすり替わられていた。大方、年相応に振る舞おうとして恥ずかしくなったという所だろう。そのまま突くのも悪く無いと思ったが、それで話してくれなくなってしまうのはどうにも勿体ないなと流す。

「嗚呼、そうだね。次は何処へ行こうか」

「んー……確かあと二つほど他の部屋があったはずですし、そっち見てみませんか?」

「そうしようか。もしかしたら、人喰いが潜んでいるかも知れないしね……?」

「こっ怖いこと言わないでくださいよ……」

 そう言葉では言っているが、怖がっている様子はない。

「それじゃあ、折角二つありますし、手分けして探しましょうか」

 スッと氷が刺さったかの様に冷えた。一人になる。その事実を認めた瞬間、柄にも無く慌ててしまう。

「僕は奥の方の部屋に行くので……」「いや、さっきも言った通り何か居たら危険だ。二人で一緒に行動しよう」

「わかりました。」

 キョトンと目を丸くした後に了承。中々無理があるのは分かっては居たが、そこを突かないでくれている優しさに少しだけ安堵する。

「却説、そうと決まれば先ずは片付けだね」

 いそいそと布団を整え荷物を纏めると、小宮君も見よう見真似で片付けを手伝ってくれる。

 部屋も片付け終わり、忘れ物がないことをお互いに確認をして部屋を出た。

 

――二つの客間――

 

 狭い旅館である為隣の客間はすぐ着いた。ノックも何もせずに開けて入ると、「そんな無遠慮な……」と苦笑いしつつ小宮君が後に続く。中の構造は私たちが止まった部屋と何ら変わらない殺風景な部屋だった。小宮君はキョロキョロと見回し、古いテレビに向かって行った。懲りないなぁと思いつつ、自分もまた洋服掛けへと足を向ける。テレビのスイッチの音、ノイズの音。ただそれだけが聞こえてくる。何処か波を聞いている様な気持ちになりながらこちらに意識を移した。

 先程よりは少しマシなカビの匂いを嗅ぎながら洋服掛けを覗き込むと、忘れ物だろうか、ポツンと折り畳みナイフが転がっていた。確認して、何の仕掛けもない事を確認してから小宮君の方へ向かう。彼も何かを見つけて報告しようとしていたのか、此方の様子を伺っていた。そこで私が手に持っている物が気になる様でしげしげと見つめられる。渡そうと思っていたし、丁度良いだろう。

「これは君が持っていると良い」

 刃が誤って出ない様に折り畳みナイフを差し出す。

「これは……?」

「なあに、護身用さ」

 紙を持っている手とは反対の手で受け取られる。

「護身用……ってもしかして……!」

 慣れない手つきでナイフをいじる。急に刃が出てきたのを驚いたのか悲鳴と共にナイフを取り落とした。急いで足の上に落ちる前に回収して刃を仕舞う。

「あ___すみません……本当に、僕が持つんですか……?」

 不安そうにそう問われる。ここまで動揺されるとは思ってもみなかったので少し心配になる。

「おや、刃物は苦手だったかい……?」

「いや……大丈夫です。ちょっと、驚いちゃって」

 少しだけ逡巡した後に無理に笑い手を差し出してくる。

「無理はしていないかい?」

「っはい」

 覚悟を決めた様にはっきりと言ってくれて少し安心した。私は何かあっても、身を守れる様に持っておいて欲しかったのだ。ただまだ刃物の扱いに慣れていないのが心配だ。

 私は自分の腕に巻かれている包帯を適当な長さに切り、そのままナイフに巻きつけた。

「……よし、これである程度は安心するだろう?」

「……はい」

 少しだけぎゅっと握り仕舞い込む。仕舞い終わって安心したのかこちらの腕を不思議そうに見つめている。それもその筈。包帯が巻かれていた筈の腕には特に何の外傷も無いからだ。そんな熱烈な視線を受けながら私は調査していない押し入れに向かう。何か聞きたげにしていたが、私が目線に気付いて居て何も言わないのを察したのかそのまま残念そうに着いてきた。

 押し入れを開ける。灯りがついているのも関わらず、部屋は暗くて中が良く見えない。それでもと目を凝らすと一つ、異様な物が転がっていた。指。それ自体は見慣れた物なのだが、ソレは単体で、腐りかけていて、それでいて周りに血なんて一つも無いのだから異様としか形容できなかった。

「特に……ここは何もなさそうですね」

 覗き込んでいたらしい小宮君が問いかけてくる。丁度見えていなかったようなのでそのまま自然に押し入れを締める。

「収穫はその折り畳みナイフ一本位かな?」

「あっいえあの、これ……」

 ぎゅっと片手でナイフを仕舞った場所を掴んでいたので指差せば、首をブンブン振りながらもう片方の手を差し出してきた。少し寄れてはいるが几帳面な字が並んでいる紙片が手渡される。

  “鬼の伝説について、調査をしに来た者である。夜宴海岸には、本当に鬼が居る。彼らは死体をバラバラにし、其れを、あるべき場所に持ち込み、祈りを込めて食らう。其れが、彼らの儀式なのである。死体にする為に、人を殺す事も有るだろう。「ほおずき」は「鬼灯」と書く。此の事実はここが、鬼の宿である事を示している。鬼と出会いたくなければ、出来る限り早く、ここを立ち去る事だ。”

「きっと“人喰い”っていうのも、それに書いてある“鬼”なんでしょうね」

「なるほどね。あまり探しすぎると危険。という事かな?」

「ですね……下手したら、一度ここを出たらあとは戻らない事を予期した方が良いかもしれません」

 こくりと同意を示す。流石に先程の物を見てしまっては、鬼が居るにせよ居ないにせよ危険だろう。なんて事を考えていると。

「それに……鬼の棲家に帰るのもなんか……怖いですし」

「そうだね」

 少し照れくさそうに視線を逸らしつつ小宮君は言う。つられて笑顔になりながら気合を入れ直す。

「まあ取り敢えず、今のところは何も無いから。鬼に注意して先に行こうじゃあないか」

「はい」

 頷いたのを確認して部屋を出る。最後の部屋へ向かおうと一歩踏み出した時、何かの鳴き声が聞こえた。「にゃおん」と鳴いている声。猫であれば良かったのに、どう聞いたって人間の声。巫山戯た様子であれば良かったのに、何処か狂気的なその鳴き声。本来であれば危に近寄らず。なのだが、部屋の前に着く頃にはこの声に聞き覚えがあることに気づいてしまい、後には引けなくなってしまっていた。

「つ……津島お姉さん……やめておきませんか……?」

 全くもって同感だが其には答えず、代わりにスッと携帯を取り出す。

「えっ?」

 押し慣れた番号を入力して躊躇いも無く通話釦を押す。本来であれば其の儘耳に当てるべき所をそっと降ろして部屋の中に聞き耳を立てる。通話釦を押す頃には小宮君も気がついたのか、そっと扉に耳を傾けていた。当たってほしく無い予感ほどよく当たるもので、聞き慣れた着信音が部屋の中で軽やかに流れている。先程から変わらず聞こえる鳴き声と相まってそこだけ愉快な事になっているのは明白だった。

「小宮君」

「は、はい」

「私の知り合いが……うん、可笑しな事になっているようでね、何かあったら大変だから逃げる準備をしておいてくれ給え」

「わ……かりました。でも、大丈夫ですよ。僕は津島お姉さんを置いて逃げないので」

「否、私は何かあったら逃げるとも!」

「えへへ……そしたら一緒に逃げましょうか」

「ああ、そうしようか」

 心持ちは決まったと扉に向き直った瞬間。

「……おいてかないで、くださいね」

 消え入りそうな声と共に服の端をキュッと掴まれる。「おいていかないで」という気持ちは自分にも身に覚えがあった。

「勿論だとも」

 せめて自分だけでもその願いを叶えてあげよう。

 扉を開けるとその部屋の様子は、今までの部屋と同じ殺風景な部屋で、だからこそなのか部屋の中心で起こっている異常がよく目立った。

 私の上司である網代が畳をバリバリと引っ掻きながらにゃおにゃおと鳴き、先程までは聞こえていなかったが「私は猫だ……可愛い猫なのだ……」と強迫観念じみた呟きもしていた。暫く状況を飲み込めていない間も網代は暴れ回り、その瞳が私を捉えた瞬間勢いのまま此方にかけてきた。

「ああ、津島治子君か。ほら、君も早く猫にならなくては!」

 幸いな事に私しか見えていないようで小宮君には見向きもしていないが、念には念をと背中で隠しつつ気を逸らす。

「網代先輩、どうして猫なんかに?」

「何故。と聞かれても……何を言っている?猫になるのは当たり前だろうほら早く君も猫になるんだ!」

 四つん這いになり意味の分からない事を始終並べている姿に目眩がしそうだが、恐らくは何かショックなものでも見てしまって混乱しているのだろう、と予測付けた瞬間。

「こんばんは、お客さんかな?」

 突如として背後から声がかけられた。直感的に、部屋よりも声の主の方が危ないと強引に小宮君の腕を引っ張り立ち位置を入れ替える。

「ああ、すみません。聞いたことのある声が聞こえたもので」

「そうかい」

 咄嗟に出た言い訳に表情を変えず。ただ此方を見ている細目の男。

「この部屋にいる彼女が私の上司でして。勝手に入ってしまって申し訳ありません」

「ああ、彼女は発狂してしまったからね。話は出来ないよ」

 事も無さげに言い切り、ぬるっと部屋に入り込んだその様子に何処か人間ではないと思ってしまう。

「私はこの部屋に、彼女と泊まっているものだ。何か用事かな?私に話せる事なら、話しても構わない」

 つまりは“話せない事も有る”という事だ。怪しい事この上無い。しかし其れを此処で言及出来無い位にはこの男性は危険な香りがした。

「……網代先輩とは、どういったご関係で?」

「ビジネスパートナーだよ。まあ、旅行する時に便宜を図ってもらえるよう契約している」

 当たり障りの無い関係。取っ掛かりすら与えられないので、網代さんをどうにかしない限りは詳しい話は聞けないだろう。

「彼女は発狂している。と仰ってましたよね?」

「ああ」

「私は網代先輩とお話がしたくて。精神的なものには心得があるのでカウンセリングをさせて頂いても?」

「構わないよ」

 意外な事にこの要求は通った。下手な事を考える前に早速準備に取り掛かる。精神の落ち着け方は人それぞれで難しい。小宮君に関しては典型的な例為比較的簡単だったが、網代さんはかなり酷い状態だ。

「網代先輩、落ち着いて下さい。」

 先程よりも少しだけ専門的な処置をしている間も、男性はなんとも無しに眺めているだけで特に此方に対して行動を起こしてこないのが怖かった。

「さあ、網代先輩、どうですか?」

「君もとっとと猫になるんだ。さあ!早く!猫に!なるんだ!にゃー!」

 駄目だこれは。先程よりも大人しくはなったが、久しぶりのカウンセリング。腕が鈍っていたのだろう。それに私はこの道を少し齧っただけで専門では無い。仕方のない事だ。猫の催促をしてくる網代先輩を放置して、細目の男性へと向き直る。

「因みに網代さんはいつから発狂してしまったんですか?」

「いつから。か……つい先程。とも言えるし、大分前から。とも言えるな」

 その瞬間、緩んでいた糸が張り詰めた様に空気に切り替わる。

「……もしかして、四十九回前から。とか?」

「まあ、具体的な数字こそ明確にはしないが。つまりはそういう事だ」

 息を呑む音が聞こえる。自分の物か小宮君の物かは今は大差が無いほどに、この空間のに沈黙が降りる。

「この街だけが。この街がループしている為ではない。固定された時間の中しか動かなくなってしまった。そしてこの街だけが独立した空間になってしまったらしく、街から出る事もできない。この様な状況下において人は一般的に発狂する」

 機械的に喋っていた男性が不意に此方に目線を向ける。

「君達も発狂している筈だ。」

「……そうですね。私も多少身に覚えがあります」

「だろう?」

「津島お姉さんが……?」

 小宮君が此方に目を向けたのが分かった。何も隠していた訳でない。支障がなかったから放置していただけだ。今はそれよりも聞かなければいけない事ができてしまったので、不安そうな顔の小宮君には笑顔をで返し、男性に向き直る。

「ありきたりな質問にはなってしまうが、いいかい?」

「ああ、構わないよ?」

「貴方は一体何者なんだい?」

「時枝至(ときえだいたる)。工学者でこの県の中部大学に意属している。」

 思わぬ切り返しと共に名刺が渡された。自分も返して見てみると、先ほど言われた内容しか書かれていないシンプルなデザインで苦笑いをする。が、恐らくはこれ以上は答えられない範囲なのだろうと引き下がる他なかった。

 私が気になる質問を終えて一息つくと、小宮君がおずおずと問いかけた。

「さっき、ビジネスパートナーって言ってましたけど、何をしているんですか?」

「何をか……単に、今回の件については旅行に来ただけだよ。色々な物を便宜してもらってはいるがね。君の気にする事ではないさ」

 此方も線引き。其れに気がついたのか小宮君はこくりと頷いて先程同様私に目線を向ける。何かを知っている様だが、いかんせん此方の分かっている情報が少ない。網代先輩もあのままにしたまま宿を出ることは出来ないので、もう一度寄ることになるだろうと立ち上がる。

「この宿には人喰いが出るらしい。気を付けてくれたまえ」

「ああ、気をつけるとするよ」

「それでは、先輩の事よろしくお願いいたします」

 ぺこりと頭を下げる。そういえば、と鞄をゴソゴソ漁り、何故か入っている猫耳カチューシャを頭に乗せる。「猫度が上がった!素晴らしいぞ!」と乗せられた網代先輩はにゃんにゃん喜んだ。何故か目線が刺さっている気がするが気のせいだろう。と小宮君に「行こうか」と声をかけて部屋を出ようとする。

「……なんで二人はこの街を出ないんですか?」

 振り返れば、時枝の方を見つめて問いかけている小宮君の姿があった。

「さっきも言っただろう?この街は一つの独立した空間になっている。今、何人たりともこの空間の外に出る事は出来ないんだよ」

「そっか……そっか。ありがとうございます。では」

 噛み締める様にそう呟き、此方へ振り返る。その顔は安心している顔だった。

 次の部屋へ向かう途中。開きっぱなしのドアが目に入った。廊下にあるトイレだ。目に留まったのは壁に飾られた一枚の絵だった。

 洞窟の中の様子。黒い不定形なモノが蠢いている様子が描かれていて、暗い印象の洞窟を更に暗く演出していた。あまり眺める物ではないなとふいと目線を逸らすと、ついと裾を掴まれる感覚。

「おや、どうしたんだい?」

「あ、いや……その、ちょっと不安で……駄目ですか……?」

「構わないとも」

 実際、此方としても掴まれていると安心出来る。願ったり叶ったりだ。

「えへへ……ありがとうございます」

「他にも、何かあったら言うといい」

「はい」

 返事に頷き、ギシギシと古びた廊下を歩く。控えめな足音が続く。

「でも、正直今は少し、こう……心が安らいでるって言うか、安心はしてるんです」

「そうかい?」

「はい。下手したらその……津島お姉さんと出会って、それから今の今までで、一番安心してると思います」

 キュッと裾が引かれる。それと同時に自分もかなり気を許して、安心している事に気付かされた。

「それはよかった」

 目的の部屋の前に辿り着いた。

「だって、此処から出られないって事は、誰も此処に来ないじゃないですか」

「そう、だね」

「僕にとっては、それがひどく……嬉しくて」

 誰も此処に来ない。恐れている物からの隔離。ふと、この状況が続けば、少年は心中をしなくて良いのではないか。という考えがよぎった。

「……君が嬉しいのなら、私も嬉しくなるよ」

 その言葉を聞いたからか、彼は「えへへ……」と、今までで一番の笑顔を見せてくれた。先ほどの考えを頭を振って忘れるよう努める。小宮君の心中理由が私と同じとは限らないのだ。そう言い聞かせ、私はドアに手をかけた。

 辿り着いた台所は釣りをした客がそのまま捌けるようになのか、普通の台所より少し大きいだけでなんの変哲も無い様子だ。私はそのままふらふらと缶が置いてあるスペースへ行き、漁り始める。

「何を探しているんです?」

「蟹缶がね、あったら嬉しいな〜と思って」

 そう云うと小宮君も律儀に探そうとしてくれる。此処は任せても良いかと周りを見渡し、流し台の側に目が行った。水の入ったコップの中に足の小指が入っている。切断面は余りにも綺麗で今度こそ作り物に思いたかったが、断面からゆっくりと流れ出し、コップの底に溜まり続ける赤色がそれを否定する。ふと思い返して、過去に見つけた指が網代のものでは無い事を確認して安堵する。手の指も足の指も、欠けてはいなかった。

「やっぱり、暗いと特に見つかりませんね」

 棚を調べ終わった小宮君が声をかけてくれた。

「まあ、共用の台所にある方が可笑しいからね」

「あ……そっか」

「因みに此方は人喰いが居そうな痕跡はあったけれど……見ない方が賢明だろう。なぁに、ちょっとした小道具さ」

 何か言おうと口を開き、それをやめて。

「分かりました。……じゃあ丁度近いのは定食屋ですかね。残りは浴槽と玄関くらいかと」

「だねぇ」

 同意すると、テコテコと私の後ろへ周り先ほどと同じ様に裾を掴む。

「行きましょうか」

 

 

 階段下の定食屋に近づくと次第に声が聞こえてきた。咀嚼音と共に、男性と小宮君と同じ位の少女の声だ。

「父さん、これっていつ迄続けるつもりですか?」

「充分にお育ちになって目覚めの時が来る迄だよ」

「はぁ……早く目覚めの時が来るといいですね。しかし、我々の様な不完全な存在も祝福を受けられるのでしょうか?」

「それは……分からない。その点がなんだね?」

「勿論、裏切るつもりは無いのですが……はぁ。それに流石に飽きてきました。」

「それは父さんもそうだよ。」

 父さん。と呼ばれているのだから親子なのだろうけれど、見た目は全く似ても似つかない。だがしかし、本質的な部分。中身とでも言うのだろうか?直感的にはそっくりだった。2人揃って猫背に、落ち窪んだ目、血色の悪い肌。

 ふっと会話がやみ、2人同時に此方を向く。その正気のない瞳が私たちを認めるとお父さんと呼ばれていた年配の男性から声がかけられた。

「こんな時間にどうされました?」

 確かに。時計を見れば

「いやぁ、少し夜食の気分で。空いていませんでしたか?」

「いいや?やっていますよ。そうですね、何がいいですか?」

 スッと席からカウンターに移動してメニューを差し出してくれる。少女の方は裏へ行った様だった。

 メニューは定番のものが並んでいて、定食屋兼居酒屋といった印象を受けた。

「そうですね……たこわさを一つ。」

 蟹缶の所為で空いた隙間に丁度入りそうな物を選んで一息つく。慣れた手つきで蛸を切り、ワサビも和えたら完成。淡く透けた水色の小鉢に入れて前にことんと置かれる。

「うん!やっぱり新鮮な蛸は良いね〜美味しい。因みに其方の可愛らしいお嬢さんは娘さんですか?」

「ああ……まあ、そんなところだよ。」

 中々煮え切らない返事にどう返そうかと思案する前に、水をちみちみと飲んでいた小宮君が口を開く。

「お母さんに寄ったんですかね?目の色だって……」

「そんなところだよ。僕にはよく似なくてね。」

「こんな時間からお手伝いなんて、偉い子ですね」

「ああ、こっちも随分助かっているよ」

「随分……仲が良いんですね」

「そう見えるかい?」

「はい。じゃないと、子供は親の手伝いなんてやりませんよ」

 特に返事は無く見つめ返される。

「まあ、例外はありますけど……でも、僕にはそう見えました。」

 それに気付いたか否か、何方にせよ含みのある言い方で告げ、またちみりとお水を飲んだ。珍しく食ってかかる様子に呆気に取られては居たが、様子を見るに満足したのであろうという事が分かり、自分も質問をする。

「そういえば、入る時に聞こえたのだけれど、あともうちょっと。というのは何か新しい料理でも考えていらっしゃったんです?」

「それは……言えないかな。君なら、分かるだろう?」

「いやぁ〜私にはさっぱり」

 会社で感じたあの雰囲気。目線に少し懐かしさを感じつつはぐらかす。

「そうか。いずれにせよ、早めに部屋に戻るんだよ」

 たこわさを食べ終わったのを見てそう促される。特にこれ以上聞くものも無かったので促されるまま席を立つ。

「ああ、そういえば。ここに来るまでに色々な所を見て回ったのですが……2人は“人喰いの化け物”なんて信じていますか?」

「人喰いの化け物?いや、さっぱり聞いたことがないね」

「おや、そうですか」

「てっきり、早く部屋に戻る様にっていうのはそういう事かと思ってましたけど」

 今度は目も合わせずにそう返される。

「単純に、今が朝早いからね。まだ午前3時ぐらいだし」

「案外、客とかが色々、そういう話をしていそうなものですけど……」

 よほど気になったのか先程までと比べ饒舌だ。でも実際、明言することを避けている様に見える。まるでこの噂を隠したいかの様な。

「……そうですか。にしても、午前3時にだと少し妙な時間ですけど、案外そういう時間にここに来るっていうのも良いですね。客が誰もいないので、すごく心地がいいです。」

「そうかい?」

「ええ。ただやっぱり、昼とか夜は繁盛してるんですか?」

「こんな寂れた街に、人が来ると思っているのかな?」

「あはは……でもほら、例えばお友達とか。そういう常連とかは来るかもしれませんし」

 余りに苦し紛れだったからか、「ふう」と溜息をつかれてしまった。ここら辺が引き際だろう。

「では、美味しかったよ。ご馳走様。」

 と勘定し店を出る。特にその後何も言葉は交わさなかったが、見えなくなるまでずっとあの目線が突き刺さっている様な気がした。

 

 最後の部屋は浴室。誰も居ない事を確認してから入る。温泉などでは無く普通のお風呂の様に男女別れずに脱衣所、浴室だったので服のまま入る。清掃された後の様で水が抜かれていた。なんの変哲も無い浴室に見えるが、入った瞬間血生臭いと感じた。しかし血の跡などは確認できない。

「やっぱり、なんも無いですね」

「そう……だね」

「じゃあ、荷物まとめて行きましょうか」

 入る時からそわそわとしていたが、限界が来たのだろう。何も無い事を確認するとそそくさと外へ出てしまった。

「荷物をまとめる前に、もう一度網代先輩の所へ行っても良いかい?」

「はい。良いですよ」

 

 

「にゃーーーん」

 ドアを開けて出迎えてくれたのは網代の鳴き声だった。

「やあ、また会いましたね。」

 そう言いながらにっこりと微笑み、網代の耳元で一言二言耳打ちをする。すると先刻までうにゃうにゃと猫の様に寝転んでいた姿からスッと立ち上がった。

「……おや、随分と疲れていた様だな。」

 ビシッと背筋の伸びた姿は先程の堕落などなかったかの様に堅苦しくなっていた。

「え……えぇ……」

 何を言ったらこうなるのか。という目線に軽くウインクをして誤魔化す。

「おやおや網代先輩。猫にはならなくても良いんですか?」

「猫?なんのことだい?遂に頭でもやったのかい?」

「はは、面白い冗談ですね。先輩が言っていたじゃ無いですか。早く猫にならなければ〜って。ほら、頭についてる。」

「……つけた覚えはないのだが。」

 あわあわと自分と私を交互に見る小宮君に気付き、猫耳をむしり取って私に猫耳をつける。

「わぁありがとうございますー」

 棒読みを隠すことなくそのまま口に出す。で、何の用だという目線と、着けたままなのか……という目線を浴びつつ会話を続ける。

「いやぁ……先輩が狂っていたので心配したんですけど、これなら大丈夫そうですね。」

「ああ、私は大丈夫だ。気にしなくて構わない。」

「では、私はこれから先輩の言っていた通り心中してこようと思うのですけれど……」

「そうか。期待しているよ。」

「……と思っていたのですが、このままだと心中が成功しないので。先輩の知っている事とか、教えていただきたいなと思いまして。」

 そこでやっと機械の様に表情を変えずこちらを見ていた網代先輩の目線が、部屋の隅で寛いでた時枝へ向かう。

「私は彼以上の事は知らない。時間が繰り返している事。この空間が閉じている事はもう聞いたのだろう?」

「はい。このループの原因についてなどは?」

「さあ?それは私には分からないかな。」

「これは、工学者的な感なのだが。恐らくは機械的なトラブルだろう。機械が見つかれば良いのだがな……だが、この街には工学者除けが施されていてな。自分で調べてもよく分からない点が多いんだ。自分の様な、一流な工学者ともなると、こういったトラブルに巻き込まれる事もあるんだよ。」

 いつの間にか隣に立っていた時枝が言う。中々に不可解な点も多いが、機械的なトラブルで今のこの状況が出来上がっている。という事は本当なのだろうという気がした。

「是非一度、他の体験の事もお聞きしたいですね。」

「三日三晩では語り尽くせまい。一先ずはこの事態をかいけつしてからが良いだろう。」

「そうしたら、私は心中して死んでしまう。」

「冥土の土産はお預け。ですね。」

 くすりと笑いながら小宮君に言われる。

「ま、そうなるな。」

 時枝も同調した為この話は聞けないようだ。

「来世でまた会ったら、聞かせて下さい。」

「ああ、そうしよう。」

 こうして網代と時枝と別れ、荷物を纏めて民宿を出る。2人とも持ってきた荷物はごく僅かで、そう時間はかからず民宿を出る。まだ日は昇っていない見晴らしのいい海岸は遮るものが何も無いので夜風が骨まで染みる寒さを歩く。

「流石に何も無いと寒いね。街行ったら少しはマシになるだろうけれど、行くかい?」

「はい。寝ているかもしれませんが、もしかしたら住んでいる方たちにお話が聞けるかもしれないですし。」

 それもそうだ。と砂浜から階段を登りアスファルトを踏み締める。少し歩くが近くに大通りが有った筈だとそこを目指して歩き始めた。

 

 

ーー夜宴町ーー

 其処は酷い有様だった。近づいていくにつれて大きくなっていく喧騒に嫌な予感はしていたが、実際に見ると余りにも酷い状態に目を見張るほか無かった。

 家にある本を撒き散らす人。大きな声で叫び続ける人。土を食べ続ける人。硬直して立ち尽くしている人……ちらほらと見かける玄関のしめ縄や正月飾りが何処となく滑稽に見えてしまった。そんな事を思っていると裾を掴む力が少しだけ強くなる。

「ね……津島お姉さん……」

 小宮君に街の様子が見えない様にそっと自分の影に隠す。トントン、と背中を叩いてあげると落ち着いてきたのか、段々と呼吸も落ち着く。

「酷い……」

「小宮君は、人が苦手かい?」

「あー……はい。苦手というか、あんまり得意じゃないです。と言うよりは、よく知らない人が、怖いです」

「成程」

「でも、大丈夫ですよ。今はお姉さんがついてますから」

 ぎゅっと覚悟した様に云う小宮君。流石に此処まで来て何も収穫がないと言うのは嫌なのだろう。人と関わらない調べ物として本を読んで貰おうと拾いはしたが、少し嫌な予感がする為渡したくはない。

「では、何か大声で叫んでいるのを聞き取って欲しいんだ。私はこの本を読んでいるから何かあったら云ってくれ給え」

「はい。お願いします」

 ゆっくりと深呼吸をして耳を澄ませ始めるのを確認してから本に目を落とす。散らばった本の中から目についた一冊を持ってきた。“タイムパラドックスについて”という記載。

 “もし時間を乱し、タイムパラドックスが起きてしまった場合、世界が分裂する。世界は一度滅び、作り直され、世界線が分たれてパラレルワールドが発生するのだ。この現象を在る学者は「アフォーゴモンの鎖」と名付けた。アフォーゴモンとは神話の中で伝えられる神の名である。彼は過ぎ去った事をやり直したいと考えている者の役に立つと言われる、時空間の神である。しかし、その力を借りる際は代償を伴うともされる。”

「代償については書かれていない……まあ、お決まりだね」

「ん、お姉さんは読めました?随分と騒がしいですけど……」

「ああ。タイムパラドックスについて詳しく書かれている本だったよ。読むかい?」

「はい……さっきの声、夜宴様、神様に対するお祈りの言葉でした。その夜宴様が地中にいて、なんでも、僕達が心中しようとした所は夜宴様の住まう所だったみたいです。どうやら、夜宴神社が縁のある地みたいですよ」

 本を渡してすぐ、ある一人が私に縋り泣きながら小さな声で語りかけてきた。

「これは大きな声では言えないのですが廃墟が怪しいんですよ。あそこは昔研究所だったんです。詳しいことは知りませんがそうに違いないんです。ある日爆発事故が起こって廃墟になったんです。これはもう20年前のことなのですが。でもあの事故は陰謀だったに違いないんだ!誰かに爆破されたんですよ!その証拠に、建物の中から死体が一つも見つからなかったんです。気づいてると知られたら私の記憶も消されてしまう!黙っていてくれますよね?」

「貴重な情報をありがとう。勿論黙っておくとも」

 そう云うと彼は満足したのか何度もうなづき、近くで丸まって動かない人にも話し始めた。

「これは大きな声では言えないのですが……」

 そんなものなのだろう。

「読み終わったかい?」

「はい」

 ふぅ。と一息ついた少年に声をかける。

「取り敢えず、廃墟が怪しいという情報を手に入れたから、一度海岸に行ってその次に廃墟か神社か決めようか」

「そうですね。その……案外また、死ねるかもですし」

 えへへ、と頬を掻きつつ目を細めて此方に笑いかける。

「ああ、そうだね。若し一緒に死ねそうだったら、一緒に死のうか」

「……はい」

 満ち足りた表情で頷き、海岸の方へ向いてくいと裾を引かれる。無意識であろうそれに気づかないフリをして海岸へと歩みを進めた。

 

 外はシトシトと小雨が降り注いでいた。暗く寒い冬の夜だ。防波堤の向こうに降りると砂浜が広がっている。ここに向かうのももう慣れたものだった。ふと砂浜を見ると、人影は無いが足跡が点々と残されている。そのまま海岸の先を見ると廃墟の様な物も見える。

 辛うじて持っていた折り畳み傘を刺してはいたものの、濡れて海風にさらされた寒さは凌げない為、隣で「へくちっ」と可愛らしいくしゃみが鳴る。

「流石に冬の海は寒いですね……」

「そうだねぇ。上着の一つでも持ってくれば良かったのだが」

 なんて茶々を入れつつ、自然と近づく距離と暖かさに、充分だなと思う自分も居る。

「あれ?まだ雨で消えてない足跡……僕たちみたいな物好きが他にもいるんですね」

「ついて行ってみるかい?」

 その問いかけにはにかみながら肯定される。ついて行こうと近付いてみれば、その足跡は蹄状の形。足跡の深さや並びから人間程の大きさで、二足歩行までしている。

 生物に関しては少し齧っていた為、その異様さがよく分かってしまった。こんな生き物は存在し得ないのだ。だと言うのに目の前には存在している証拠或る。そんな事実から逃れるように顔を背ければ、同じように覗き込みつつも不思議そうに首を傾げていた小宮くんと目が合った。

「……足跡はここで途切れているね。廃墟の方へ行こうか」

「はい」

 今まで通りの返事だが、何かを察したのかきゅっと裾を掴む手に力が入ったのを感じた。それに安心しながら廃墟へと足を向けた。

 遠くから見たら四角い建物の残骸という感じだったが海辺の木々でよく見えなかった分、近付いてみるとしっかりとした建物だった。先程の足跡もあるしと小宮君を呼び止め扉に聞き耳を立てる。

「いかんせん扉が厚い様だね。何も聞こえない。まあ、どうにかなるだろう」

 そう言って足を踏み入れる。

 中に入れば施設自体はそう古くはないらしく、研究所の様に見える。煤けた跡や転がった残骸、剥き出しになった鉄筋から嘗て爆発したのであろうと容易に想像できる。見回ってみると、一部分だけ部屋として残っているのが確認できた。その間小宮君はしきりに瓦礫を見ては首を傾げていた。各云う私も気になりはしたのだが生憎こういう物理系は専門外なので早々に切り上げる。

 爆発の惨禍を免れたその外壁には、模様がびっしりと描かれていた。何の模様か検討も付かないが、何かから部屋を守っている様に見える。しかし鍵は付いていない為遠慮もなしに踏み込む。

「此処がかなり怪しいね」

「そう……ですね」

 中では何かが投影されていた。其れは一本の鎖であり、揺れている様子はまるで生きているんじゃないかと錯覚させた。この光景には見覚えがある。ループの切っ掛けとなったあの夢。鎖に繋がれて延々と焼かれてゆく悪夢とそっくりだった。其れから逃れる様に部屋を見渡せば、起動したままのパーソナルコンピュータと倒れた棚が目に入る。有用な情報が手に入りそうだと小宮君を見れば、先ほどまでより裾を強く掴んでいる。

「小宮君、私がその映像から何か分かるか調べるよ。その間に、あの棚を調べてはくれないかい?」

「分かりました」

 ジャリっと砂を踏む音が響く。棚まで辿り着いたのを確認してから目線を目的の物へと戻した。

 3Dホログラムの映像。先程は気付かなかったが、鎖にしめ縄がかけられており、宗教的な印象を受ける。鎖の端はどこかへ消え失せており、その鎖の持ち主が不可視である事を示しているかの様だ。確かしめ縄は、神の領域と人間の領域とを分け隔てる結界とされていた筈だ。神を不純物から守るとも、人間を神威から守るとも言われている。

 そこまで思い当たった辺りで小宮君がファイルを抱えてやって来た。

「僕にはちょっと難しいので……一緒に読んでくれませんか?」

「ああ、勿論」

 ファイルを受け取り開いてみれば、「この研究施設の目的」なんて銘打った途轍も無く長ったらしい文が綴られていた。

 

【この研究施設の目的】

 この研究施設は“アフォーゴモン”によって過去改変を行いたいという者によって設立、運営されている。その為、イス人を研究対象としながらも、イス人の目を忌避し、イス人に対する魔術的防御を行ってきた。イス人はアフォーゴモンの怒り、そしてその怒りによる世界修正を恐れている為である。もしイス人、或いは関連カルトにこの施設が発見された場合我々の身は無事では済まないかもしれない。運が良くて記憶操作を受け、運が悪ければ命さえ許されないだろう。地下にイス人の“停滞キューブ”を設置した。若しもの間、時間を止める事が可能になるだろう。それを起動する余地が我々にあれば良いのだが。

 これを見ている人がいるという事は、この施設に何事かが起こった後なのだろう。地下の“停滞キューブ”はカスタムした物で動かし方によっては時間のループや逆行など、悪用が可能である。過去に起こった事の改変も可能になるかもしれない。可能な能力を持つ工学的な技術者がこの記録を見た場合、地下の“停滞キューブ”を止めてくれ。停滞キューブを停止した場合、その時間軸は即座に修正される。また、過去改変が行われる場合がある。

 

「ふう」と一息つけば、くすりと笑い声が返って来た。

「やっぱり、難しいですよね」

「そうだね。それに情報が足りない。調べられるのはあとパソコンだけかな?折角だし、一緒に見ようか」

「はい」

 どうやって電気を通しているのかは分からないが、電源の付いているパソコンに目線を向ける。

 

 【アフォーゴモンの封印】

 アフォーゴモンは既に過ぎ去った事をやり直してくれる神である。このコンピュータのデータ内にアフォーゴモンの一部分が封印されている。アフォーゴモンに祈る場合コンピュータを爆破して封印を解き、しめ縄を持って急いで海に入水する事。水の冷たさによってアフォーゴモンの白熱した鎖から、ほんの僅かな時間逃れられる。その僅かな時間、神との接触に耐え切ることさえ出来れば、発狂せずアフォーゴモンに祈りを届けられる。アフォーゴモンに過去改変を願う場合、世界がそこから分岐する。より良い方の分岐に向かう事ができるか、全く関係ない分岐に向かうか、悪い分岐に留まるかは運次第である。また、未来は未確定であり、修正される為どの未来に進んだ、或いは進まなかったかを人間が知る事はない。

 

 その下に、コンピュータを時間制御によって爆破させる方法も書いてあった。手順は簡単だった為私でも実行可能のようだ。ただ、しめ縄は此処には用意されていないので調達する必要があるだろう。

「お姉さんは……その……あふぉーごもん?に祈って、変えたい過去とかってあるんですか?」

「私かい?」

 読み終わったのか小宮君に尋ねられる。

「私は…………特にないよ」

「え゙」

「そう言う君はどうなんだい?」

 何か言われる前に質問を返す。それが気に障ったのか少し膨れっ面になって応えられる。

「む……なんだかはぐらかされた様な。僕は、あー……どうだろう」

 顎に手を置き、暫く唸ってから口を開く。

「変えたい気はするんです。でも、何をどう変えたら、どう変えたいのかがあんまりわかんないですね」

 最後はへへへ……と笑いつつも直ぐに表情が曇った。

「もしかしたら、過去を変えたいって訳じゃなくて俺とし……僕として、産まれたく無かったのかも……」

 そう告げられた後、沈黙が暫く続く。静かに様子を伺って居たが、助け舟を出した方が良いのかもしれない。

「そうしたら……そうだね、今私達がしたいと思って居るのはこのループを止めて一緒に心中する事。だろう?」

「はい」

「そうしたら方法としては二つある。先ず一つ目はこのキューブを普通に止めて、ループを止めてから一緒に心中する。もう一つは、過去を一個変える為、パソコンを爆破してから……ループを止めて一緒に心中する」

 道を明確にする。やりたい事を筆頭に置いて考えると、案外答えは単純だったりするのだ。

「どうせ死ぬなら……うん。どうせ死ぬんだ」

 ずっと下を向いていた青い瞳が私を射抜く。

「僕も、多分。変えたい過去なんて、無いと思うんです。きっと、神に願う程のものは」

 やっと見つけた。そう言わんばかりの晴々した表情で答えを告げられる。そっと掬われた手は優しくも力強く握られた。

「でも、ループした原因が変えるべき過去だとしたら、その時は祈りましょうか」

 にこりと笑いながらそう告げられる。

「そうだね。一緒に、祈ろう」

 

――心中準備――

「しめ縄……さっきの、丁度声の大きい人が言っていた夜宴神社。あそこなら貰えますかね?」

「神社なら、しめ縄だ。ありそうだね」

 部屋を出ると一気にしけた灰色の空間になる。そんな廊下だった場所を歩きながら話し合いを進める。

「じゃあ、それは気に留めておいて……うーん、こっちの“あふぉーごもん”とか“いすじん”とか……違う、“いすびと”?こっちはあんま分かんないですけど……」

「まあ、要点さえ分かれば良いと思うよ」

「お姉さんは分かりました?」

「いや〜私も全く?」

「え゙、ほんとですか?」

「本当だとも〜」

 ある種族には検討は着いたが生憎、神様という部分は本当に分からない。

「分かんないなぁ……」

 不満そうに言いながらも、先程の“答え”のお陰か表情も態度も楽しそうにしている。

「それじゃあ、ここは他に……無さそうですし神社に向かいますか?」

「部屋には無かったけれど、廊下の瓦礫も調べてみても良いかもね?」

「そうですね。何か落とし物でもあれば良いんですけど」

 暗い中瓦礫に近づいてよくみると、矢張り血の跡が残っており、巻き込まれた人がいる事が窺えた。ふと其の儘地面へと目線を移せば、引きずられたかの様な血の跡がある。追いかけようと足を踏み出した瞬間。

「あ」

 ゴッと言う鈍い音が頭に響く。じんわりと熱が広がり、波の様に痛みが頭を包み込んだ。どうやら小さな瓦礫に足を滑らせ、近くの壁に頭を強かに打ち付けてしまった様だ。

「大丈夫ですか!?」

「あたた……頭は大丈夫だが、うん、かなり痛い。一度街に戻って治療セットを拝借したいくらいには」

「そうですね、取りに行きましょう」

 丁度良く、神社に行く途中で街を通るらしい。先程より足元を警戒する小宮くんに連れられながら街に戻ってみれば、本をばら撒いていた人の近くに治療セットが転がっていた為それを拝借して治療する。手際が良かったのが気になったのか不思議そうに見られていたが、特に聞かれなかった為教える事もなく足を進める。そうこうしているうちに神社に辿り着いた。

 

 海岸に立ち並ぶ防風林に隠れる様に建つ小さな神社。入り口には看板が掲げられている。本殿の奥は薄暗く、ここからでは何も見えない。神社の周りには目立たないけれど獣道がある様だ。草があまり生えていない為、最近でも使われているのであろう。

 入り口の看板を見やれば、この神社の成り立ちが描かれているようだった。雨や年数で滲んだ文字が、何処となく蠢いているように見えて、そんな事はないと頭を振って読む事に専念する。

 “夜宴海岸は、我々“夜の共宴”が長らく住処としてきました。夜の共宴は夜宴様を奉り、祈りを捧げてきました。夜と死を司るこの神は、知恵を授けてくれます。夜宴様は空腹な幼子です。夜宴様に供物を捧げる事で、より多くの知恵が授かれる事でしょう。いつの日か、夜宴様が長じた果てに、素晴らしい世界が訪れる事を我等は祈っています。”

「田舎町みたいな神様だ……っていう所感ですかね」

 それ以外何か無いかと暫く看板の文字と格闘していたが、やがて諦めてこちらに向き直る。

「にしても、夜を司る……じゃ、今はまさにこの夜宴様の時間って事ですか」

 同意し、釣られるように空を見る。分厚い雲が邪魔をしているが、所々に濃紺が滲み星が瞬いているのが薄らと見えた。

「……もしかしたら、僕たちが五十回目だ。と認識したのはそういうのがあるんですかね?」

「かも、しれないねぇ」

 昔から夜は人の理解の及ばぬ事が起こるとされている。だからこそ書いてある事はそんなありきたりな物に見えるが、経験してしまってる以上信じざるを得ない。

「本殿も見てみようか」

「はい」

 看板からそう離れていないのに、中がよく見えない本殿をそっと覗き込む。やがて見えなかった理由が分かった。そこは、洞窟を模した様な装飾が施された空間だった。空間の中央には盛り上がりがあり、不定形の様に形作られた彫刻の様に見えた。そこで奉られているものは到底神などと呼べるものでは無く、寧ろ今にも襲い掛かってくる様な怪物かの様に見えた。

「情報になりそうな物は何もない様だね……」

「はい。あとはあの道だけですね」

 神社の裏へ周り獣道を辿る。予想はしていたが、ここには沢山の蹄のついた足跡が残されていた。唯の獣であれば良かったのに、海辺で見た二足歩行の物と一緒の様で、警戒を強める。少しの森を抜けると、崖に刻まれた不安定な階段があった。その先は崖の中程にある洞窟で、この道を使わねば行けない様になっていた。

「ここからは体力勝負となりそうだね」

「そう、ですね……」

 自信なさげに頷く。

「行くのはやめておくかい?」

「いや……大丈夫です」

「まあ、何かあったら私が治してあげよう」

 そう言いながら先程使った救急箱を振る。お互いににこりと笑ってから洞窟に向き直り、前まで向かう。階段を降りる途中、洞窟に影がちらついた。其れは犬の様な頭を持つ、人間程の大きさの影。その影は此方を見ており、眼光が突き刺さる様に鋭い。明らかに此方を認識しているのに襲い掛かって来ない。洞窟から漏れ出る殺気に、その入り口が境界線な事は明白だった。ふと後ろを振り返り小宮くんを見る。彼も察している様で、瞳が不安そうに此方を見ていた。

「よし、戻ろう」

「はい」

 私達の目的はあくまでも“ループを止めて心中する事”なのだ。その方法がわかってる今、危険を犯してまで知りたい事など無い。

「しめ縄、神社にありませんでしたね」

「ああ。だが一つ思い出した所があるんだ」

 そう告げて微笑み、不思議そうな顔をしている小宮君に救急箱を見せる。少し首を傾げた後に気付いたのか、はっと目を丸くした。

「そう、未だお正月気分の人達が居るだろう?」

 

 並ぶ家々には、しめ縄のついた正月飾りがまだ付いていた。

「拝借しますか?」

「拝借しようか」

 じゃあ代わりに…と猫耳カチューシャを外ししめ縄があった場所にかける。

「やっと外すんですね……」

「おや、気に入らなかったかい?」

 再度つけて小首を傾げれば苦い顔で笑われた。

「まあ兎に角。必要なのは集まりましたか?」

「ああ。これで心中する準備が整った訳だ」

「……はい」

「却説、どちらにするかい?」

「んー……」

「まだ決まっていないのなら、廃墟に向かおうか」

「廃墟に?あ、停滞キューブ、ですか?」

「それもそうだし、コンピュータがないと始まらないだろう?」

 あ、と言いたげに口が開いたのを見て薬と笑う。

「大丈夫。まだ考える時間は沢山あるから」

 

――海――

 波の音。防波堤を抜けて砂浜を歩く。もう廃墟に入ったけれど、未だ小宮君は悩んでいるようだった。

「実は私はね……」

「はい?」

 軽く服を絞りながら話を続ける。

「君と心中する様に仕向けられていたんだ」

「えっ……ど、どういう事ですか!」

「先程、猫になろうとしていた、私が先輩と呼んでいた女性がいただろう?」

 直ぐに思い当たったのか、促す様に頷かれる。

「その上司から、君、小宮麗と指定した自殺サイトでコンタクトをとり、心中自殺を行う事。という仕事を告げられたんだ。勿論私は喜び勇んで受けたのだが」

「……なんで、そんな事を」

 絞り出す様な声。

「どうして心中しろと言われているかは、私には分からなかった。まあ裏で色々あるとは察してはいたがね。私個人に関しては、バスで言った通りだよ。少年の事はよく分からなかったけれど、こうして一緒に過ごしてみて、君が本当に心中したいんだな。という事は分かった。だからこそ、誠実にいきたくてね。そして、私が受けた仕事では、自殺が完了する必要は無く、適当なところで救助に向かう。と言われてしまっていてね、それでは私も君も報われないじゃあないか」

 不安げに瞳が揺れる。当たり前だ。大前提が覆ってしまったのだから。しかし、誤解はさせたく無いのでそのまま話を続ける。

「まあ、つまりは。私は過去改変をして、この仕事自体を無かった事にして。改めて、私と君、一対一の心中をしようじゃあないか」

 静かに瞳が閉じられる。騙していたのだ。正直、断られたって仕方は無いが……息を飲みながら答えを待つ。

「……僕とお姉さんが知り合ったのは、あのサイトでしょう?……また、出会えますかね?」

 手を掬われ、躊躇いがちに握られながら問いかけられる。

「出逢えるとも!だって、君と私は運命で繋がれているからね」

「心中する運命なんて、そんな。第一それじゃあ、今までお姉さんと一緒に死のうとしていた人達が浮かばれませんよ」

 そう言いつつも、言葉の端には笑いが溢れ出ていて、こちらを見る目は嬉しそうに見えた。拒絶ではなく受け入れてもらえた事に心の底から安堵し、繋がれた手の温かさから柄にも無く緊張していた事が分かって少し気恥ずかしかった。

「却説、私のしたい事は伝えたよ。少年、君はどうしたい?」

「僕は……あ」

 呟くように息を吐き、告げる。

「僕も一つ、思いつきました。でも、お願い事って二つ良いのかな……」

「勿論!一人一つで寧ろ丁度だろう」

「それじゃあ……」

 暫く目を伏せて考える。そして「うん」と一言呟く。目線が此方へ向く。私は頷く。

「お姉さんは死ぬ時、『誰かに迷惑が掛かる』そう言う事はやっぱり考えますか?」

「んー……考えない、訳ではないよ?」

「じゃあ……」

「でも、それでも。私はこの世界から、逃げ出してしまいたいんだ」

「っふふ……そっか、そっかぁ……」

 きゅうと握られる手が心地良い。

「君も、付いてきてくれるかい?」

「はい……!僕は、言ってしまえば死にたくなんか無いんです。でも、あんなとこからずっと、逃げ出したかった。逃げたかったんです、僕も。でも僕は、やっぱりお姉さんみたいに、頭が良かったりとか、そう言う訳でもないし……取り柄がなくてただ、ぼんやりそう思ってただけでした。でも……生涯ずっとそんなんだった僕が、今、心の底から願いたいのはやっぱり……あんなとこから抜け出して、お姉さんと心中する事なんだって。改めて思いました……ありがとうございます」

「此方こそ」

 海の様な瞳に溺れていく感覚がした。いや、もう既に手遅れだったのかもしれない。只今は、そんな事なんてどうでも良かった。

「僕は、絶対にこの手を離したくないです。だから、離さないでくださいね?」

「知っているかい?私は一度も心中の時、相方の手を離した事なんて無いのさ!」

「よかった……それなら、安心です」

 何度目か分からない。けれど今までで一番の笑顔で互いに笑い合った。

「じゃあ、行きましょうか」

「嗚呼」

 

 手を引いたのは何方が先だっただろうか。雲間の月光に照らされて微笑む、小宮君がついと手を引いた。雨が降る水の中へ私達は足を滑らせる。体が沈む。最早、寒いとすら感じない。肩を寄せ合い入水していく。全身を刺すような痛み、意識が遠ざかり、近づき、また遠ざかる。その最中、何かを垣間見た。私達を雁字搦めに縛る白熱した鎖。「祈れ、忍耐を示せ」と告げているような鎖が息苦しい。しかしその鎖の熱さも海の冷たさで掻き消え、凍りつく様な海の寒さは、いつの間にか抱きしめ合っていた互いの温度で溶けてゆく。心地よさに微睡み、そのまま眠る様に海の底へ沈んでゆく。

 この瞬間だけは、私たちの心中は、私達にとって、意味のある事だから。

 

――結末――

 目が醒める。眠り慣れた薄さの蒲団に包まれながら目を開ける。民宿ほおずき荘の天井。ころりと隣を見れば、小さな寝息を立てて小宮君が寝ていた。憑物が落ちたかの様に幸せそうな寝顔にそっと頭を撫でれば、薄らと海色の瞳が顔を出した。

 

 朝である。空はすっかり晴れていて、海はただ静かに打ち寄せている。久しぶりの日差しに目を細め、また蒲団に潜って二度寝でもしようかななんて考える。五十一回目の世界は穏やかだった。

 

 これから何をしようか?

 もう、私達を縛る物は何一つ無いのだから。

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