人識くんと出夢くんの本編後のお話です。よろしくお願いします。
第一話『エントランスヒューマニズム』
◆ ◆
君の世界は最低だ。
◆ ◆
「ああん? なんだあこりゃあ」
なんて間抜けな声を
二度と京都には近づかない、なんて誓いを立てたのも今は昔。どこぞの欠陥製品が狐面の人類最悪と決着をつけてから——決着をつけなくてから半年弱。あほたれの妹に乗せられて人類最強にちょっかいをかけてしまい、代償として面倒な仕事に巻き込まれてからしばらく。
末弟——と呼ぶつもりはないが、石凪砥石改め零崎問識と名を変えた少年を、日本全国を練り歩いてようやっと見つけたロリコン大将——それも元、と呼ぶべきなのだろうが——になすりつけてから、一週間。
零崎人識がいたのは、京都駅だった。
京都駅。
と、一口に言っても、広い。京都の中では当然、最大とも言えるターミナルだ。そりゃあ同じ関西圏でも、悪名高き梅田迷宮を地下に抱える大阪駅ほどではないにせよ、府の名を冠した府の顔となる駅なのだから、その広大さは生半のものではない。
その京都駅の、中央口。いわゆる烏丸口とも言われる、京都タワーの真正面に構えられた、まさしく京都の玄関口。
シーズンになれば観光客や修学旅行生の団体で溢れかえり、オフシーズンであっても人混みが絶えることの無いその場所に、零崎人識は立っていた。
ようやっと厄介なお荷物を他所に押し付け、晴れて自由の身になった零崎人識である。あとは悠々自適な一人旅とでも洒落込むか、と——あるいは未だに貧乏暮らしの一人旅を強いられているであろう妹を振り切るためには、仮にも零崎のくせしてやたらとリッチな生活をしていた(実は人識が知らないだけで、零崎一賊の大半は、パトロンを見つけるなり副業をこなすなりで、割とバブリーな生活をしている者の方が多数派だったのだが)件の大将からむしり取った金で、海外にでも高飛びしようかと、手近の関西空港を目指し、この京都駅に訪れていた。
の、だが。
どうにも、おかしな様子である。
(ずいぶん、人が少ないな)
本日は土曜。桜はすでに散り、しかしゴールデンウィークにはまだ早い、隙間の頃。観光客が多いと言える時期ではないにせよ、順当に休日で、改札口にはそれなりに人がごった返していて然るべきはずである。
しかし、どうしたことか。
少なくとも人識の視界に目に入る人影の数は、せいぜいが数人。
普段なら人に満ちているはずの、大階段へ向かうエスカレーターや、駅の外の広場——バス停やあるいは地下街に行くのであろう人影まで含めても、二十人にも満たないだろう。
明らかに——異様。
静まり返った、とさえ言えるかもしれない、そんながらんとした京都駅の光景なんて、一生のうち一度見れるかどうかではあるまいか。
「なんでえなんでえ、喪中か何かか?」
なんて馬鹿げた呟きをしながらも、しかし、警戒に身を固める。
あるいはいつぞやに、馬鹿馬鹿しくも人違いから始まった地獄の連戦の開闢の時のような、意図的な人払いである可能性を、人識は考慮していた。
とはいえ、通行人がある程度残っている以上、そこまで本気で警戒しているわけではないが——
(だからこそ、とも言える)
あるいはそのような油断を誘うために、あえてこのような通行人を残した、とも言えるかもしれない。
かつては自らの鏡写したる欠陥製品に、「結界の類は克服した」などと大言壮語を吐き、事実かつては時宮の操想術を突破し、一里塚木実の空間製作も退けた人識だが——それを絶対と思えるほど馬鹿にはなれないしなるつもりもない。
あるいは残っている通行人全員が刺客、ということもあり得る。
全員が全員、どう見ても単なる素人の一般人にしか見えないが——だからこそ、最も恐ろしい刺客となり得る。ましてや呪い名の連中であるなら、その手のプレイヤー特有の気配なんて持っている人間の方が稀であろうし。
なんて考えながら、徒手空拳でどこまで戦えるかと身構えている人識に——
「あの、すいません」
なんて、声がかかる。
「あ?」
と、言葉にすれば一文字だが、濁点付きの敵意たっぷり、チンピラじみた反応を返して、声をかけてきた人間に向き直る。
そこにいたのは、女だった。
二人組。あの澪標姉妹のようなそれ——ではなく。
どこにでもいる普通の、女、二人組。
「なんだ、逆ナンか?」
「えー違いますよー」
きゃはは、と、年頃の女特有の、作ったような甲高い笑い声を返されて、どうにも。
人識は、困惑していた。
刺客の類ではない、のは、明らかだが。
だとするなら、果たして、何故零崎人識のような男にわざわざ声をかけるのか?
なにせ、零崎人識の姿といえば、まだらに染めた銀髪に、今時ヤンキーでさえ真似しないだろう顔面刺青。赤いジャケットにタクティカルベスト。指抜きグローブ、安全靴。どう見ても「声をかけよう」という勇気が出てくるような外見ではない。
はずである。
むしろ、避けられて然るべきである。
なんて考えると、どうも自分が異常な格好をしているようで(事実ですよ、と彼の妹が見ればそういうだろうが)少し気が滅入ったが、ともかく。
普通に見て、その侮られがちな童顔を差し引いてなお「怖い」と思われるような相貌をしていることは自覚している。
人識の(本人の認識では)華麗なファッションセンスに感じ入って逆ナンを仕掛けてきたというわけでもないのなら、一体どんな意図があって——?
「なんだよなんだよ。俺が芸能人にでも見えたってのか? 傑作だな——はっ、だとしたら残念。今日はオフでね。サインも握手もお断りだ」
なんて茶化していえば、女たちはくすくすと笑う。ただ、それはおかしくて笑っている、というよりは、どことなく浮足だったような、期待するような笑みだった。
「すごーい、本物みたい!」
「ねー!」
なんてはしゃがれるが、おいおいおい。
なんだ、本物みたいって。
ここにいるのは正真正銘、この世に二人とない零崎人識ご本人様だぜ——と、思いはすれど。
しかし言えるはずもなく。
意味を測りかねる。
いわゆる裏の世界でさえ、名が通っているとは口が裂けても言えない零崎人識だ。むしろ、公式には死亡したと扱われていて、あの人類最強との約束のために活動もできない人識の名が通るはずもない。
ならば当然、このような普通の世界に生きる人間が、人識を知っているわけがない。
ならば——「本物」。それは、何を指して言っているのか? さてはて、本当に芸能人か何かと勘違いされているのか。顔面刺青が公共の電波に乗れるようになるとは、日本もずいぶん先進的になったもんだ——なんて冗談を考えつつも。
「かはは——傑作だぜ。本物みたい? 俺の偽物がどっかで看板下げてぶらついてたってのか? あいにく、俺はどこにでもいる普通の一般人でね——なんて言っちゃあ、欠陥製品の真似事だが、しかし本物も偽物もありはしない。俺はこの世に俺だけだ。あんたらみたいなねーちゃんらに呼び止められるような覚えはないぜ。人違いはよしてくれ」
と、捲し立てた。
それは別段、深い考えがあってのことではなくて、普通に。
ただ何かの勘違いをしているとしか思えないこの一般人を追い散らかそうとして発した言葉だったが。
「きゃー!」
「本物だー!」
意図に反して、いろめき立たれた。
いよいよ、困惑するのが人識である。
何をこの女どもは興奮してるんだ。まさか、なんかヤバい薬でもやってるんじゃないだろうな?
人識の内心を無視して、女たちはさらなる爆弾を投下する。
「あの、一緒に写真撮ってもらってもいいですか?」
いいわけあるか。
「いやなんでだよ。俺を動物園のパンダかなんかと勘違いしてんのか? 俺と写真なんか撮ってどうすんだよ」
「インスタにあげようかなって……」
「インスタぁ?」
聞いたこともない単語に首を傾げる。ネットサイトの名前か何かだろうか。そういえば、最近はミクシィだかゼクシィだか言うソーシャル・ネットワーキング・サービスが流行り始めて、一般人もネットをやるのが珍しくなくなってきたとか、大将に聞いたような。
いずれにせよ、仮にも零崎一賊の殺人鬼が、ネットに顔写真なんてばら撒かれるわけにはいかない。
「なんだかしらねぇが、撮影お断りだ。魂抜かれちゃたまらねぇ。どうしてもってんなら、事務所を通してくれ」
「え、企業所属なんですか?」
んなわけないだろ。
どこに殺人鬼を雇う企業なんてあるというのか。企業イメージの損害どころの話じゃない。暴力団への資金提供よりなお悪い。
話の噛み合わなさに眩暈がしてきた人識は眉間を揉んで、話を強引に変える。
「あー……あんたらの頭が茹だってるのはよくわかった。それはいいから、ちょっと教えてくれ。ここは天下の京都駅だってのに、今日はずいぶん人が少ないように見えるが、なんかあったのか?」
正月だってこの百倍は人がいるだろう。と、問うた人識だったが——
「なんかって……」
「そりゃ、コロナだし……」
コロナ?
太陽面爆発、か?
まさか太陽風の影響で電車が動かないとか、そんなインフラ未整備なのか?
「というか、お兄さん、コスプレするにしてもマスクはつけないと危ないですよ?」
コスプレ? と首を傾げつつ、そういえば。
人識は気付く。そのどこにでもいる二人の奇妙な共通点。
二人とも——マスクをつけているのだ。
それを人識は、てっきり花粉症か何かのためだと思っていたが——気づけば。
マスクをつけているのはその二人だけではなく、それどころか——
まばらに行く通行人。その全てが、一人の例外なくマスクを着用しているのだった。
「……危ないって、ヤバい病気でも流行ってるわけ?」
なんて、かつて感染血統と呼ばれた呪い名とも矛を交えた人識が、それを口にするのはいささか皮肉であり、事実ほとんど冗談として言ったのだが——しかし。
「もー冗談きついですよ!」
「
まさかの肯定。首を傾げる人識に、さらに追撃。
「今はどこもかしこも、新型コロナウィルスの話で持ちきりじゃないですか!」
新型コロナウィルス?
聞いたこともないウィルスの名前。別段、情報通を自称するつもりもないが、最低限の世情くらいは知っているつもりだ。
しかし人識は、そんな名前を見たことも聞いたこともない。
「……あのさ、それって何時ごろから流行り出したんだ?」
「え、去年の暮れくらいからでしょ?」
「海外はもっと前からじゃなかったっけ?」
なんて顔を見合わせる二人組。
去年の暮れよりもっと前、というまさにその時、人識はその海外にいたのだが、しかしそんな話は聞いたこともない。
「それより、お兄さん、すごいクオリティ高いコスプレですけど、往来でその格好はマナー違反じゃないですか?」
「しかもノーマスクだし」
突然服装を批判されて人識は面食らう。まあ、疫病が流行っているというのならマスク批判は仕方ないと思うにしても、格好にまでダメ出しされる謂れはないはずだ。
しかも——コスプレ?
亀と書かれたオレンジ色の道着を着ているわけでも金髪を逆立てて肩パッドと大剣を装備しているわけでもあるまいに、なんの話だ。
「おいおい、俺の格好がコスプレじみてるって? 傑作だぜ。ずいぶんな悪口もあったもんじゃねーか。一体全体、この俺がどこのアニメキャラに見えるってんだよ」
と、人識はそれに、答えなど帰ってこないと思って、なんの気構えもなく言った。
だが。
「え、どこのアニメキャラって……その格好——」
ガラ空きの肋骨に短刀を差し込むように、あっさりと。
「——零崎人識ですよね?」
彼女らはその名を、呼んだのだった。
◆ ◆
「……零崎人識、ね」
ヨドバシマルチメディア京都。
単なる電気屋を超えて多種多様な業種の店舗を内包する、まさしくマルチメディアの呼び名にふさわしいなんでもありのショッピングビルの第六階。飲食店街とフロアを二分する巨大な本屋で——零崎人識は立ち読みをしていた。
マナー違反、と言われればその通り。ぐうの音も出ないが、それを咎める者はいない。
なにせ、客がほとんどいない。
新型コロナの影響で、自粛中、なのだろう。
全く、右倣えの国民性には頭が下がる。そのおかげでこうして誰に憚ることもなく立ち読みに勤しめるのだから、余計に。
「かはは、それにしても、ずいぶんな言われようだな、全く。あの欠陥製品からの視点ならともかく、天の声さんにまでまるで訳の分からねー頭のイかれた男みたいに描写されちまってるじゃねぇか」
なんて、目立たぬように、という意図からすればほとんど意味がないだろうけれど一応マスクを着用し(先ほどの二人組から分けてもらった。今はマスクも品薄らしい)、人識は開いていた本を棚に戻す。
その背表紙に刻まれたタイトルは——『零崎人識の人間関係』。
「——傑作だぜ」
自分の人生がエンターテイメントの一部であったと知った時、笑えばいいのか嘆けばいいのか。
ドン・キホーテにでも尋ねに行くか?
なんて、冗談にもなりはしない。
「我思う、故に我あり——」
すがるには頼りない格言を口ずさむ。
二十年と少し。殺人鬼として、人間失格として、誰に憚ることもなく生きてきた零崎人識だが、自分の存在に疑問を抱くことは多々あれど、自分の実在に疑念を抱く羽目になったのは、これが初めてのことだった。
「なんてな」
言って、それがから元気じみた蟷螂の斧であることはわかっていた。
結局、長々と立ち読みをしていたにも関わらず一円も落とさずに本屋を出て、人識はエスカレーターに乗った。
昼時から何も食べずだが、流石に、この状態で飯でも食っていくかという気分にはならなかった。
「この調子だと、金が使えるかどうかもわからんしな」
人識にしては本当に珍しく分厚い財布の中身が、こども銀行券とさして変わらなくなっている可能性もあると思うと、どうにもやるせない気持ちになってくる。
携帯は——電波すらも拾わなかったし。
「ま、対応してない可能性の方が高いが」
圏外を指し示す携帯電話。刻まれた日付は二〇〇三年。けれど——
「二〇二〇年、ね」
浦島太郎はこんな気持ちだったのだろうか?
十七年の時間跳躍は魔法少女の特権だろ、なんてメタ発言は、しかし世界そのものがメタ空間になってしまったこの状況ではなんの面白みもありはしないだろうけれど。
問題は、この世界が人識にとって知っているようで全く知らない別世界である、というところだ。
「スマートフォン、だっけか。かはは、あれが持ち帰れたら俺も億万長者だろうな」
人類最強の請負人が何故だか使っていた気もするが、人識が元いた時代にはなかったはずのタッチパネル式携帯電話。
いや、携帯電話というよりかは、むしろ小型のパソコンと言うべきガジェットだが。
この時代では誰もが持っていて当たり前のそれを、しかし人識は所持していない。
この世界では骨董品の二つ折り携帯をポケットにしまって、一階。
まさしく今議題として上がったスマートフォンの販売コーナーを後ろ髪引かれつつ通り過ぎて、外。
晴天、である。
まばらな通行人は皆一様にマスクをつけて、広い道を窮屈そうに間隔を開けて歩いている。
手には板切れのようなスマートフォンを持って、何が楽しいのやらその画面を一心不乱に見つめながら、俯いた猫背の行進だ。
どうにも、気味が悪い。
「きさらぎ駅で降りちまったらこうなるのかね」
人識としてはまさしくタイムリーなフォークロアであり、この世界ではとうに使い古されたネタを呟きながら、往来を行く。
当てがあるわけではない。
何かをどうにかしなければいけないが、何をどうしていいのかわからない。
人識が今置かれているのは、そんな状況だった。
「ワンダーランドに迷い込んじまったアリスは夢から覚めて現実に帰れたが、しかし現実世界に迷い出てしまったワンダーランドの住人は、どうやってもといた夢に帰ればいいのやら」
零崎人識。
大人気小説連作、戯言シリーズの主要人物。
スピンオフ、人間シリーズの最終巻に於いては堂々たる主役を務め、読者の心を掴んだアンチヒーロー。
作家、西尾維新が生み出した、小説の中のキャラクター。
「傑作だぜ」
どうやらこの世界では、零崎人識とは、そんな男であるらしかった。
◆ ◆
朗報が一つある。
金が使えた、ということだ。
「とりあえず当面、飢えることがないのは助かった」
ビジネスホテルの一室で、ベッドに倒れ込みながら人識はつぶやいた。
殺されて死ぬならまだしも、殺人鬼が金欠で飢え死になんて、そんな死に方は笑えない冗談だ。
それもこんな、訳のわからない世界で。
「身元不明の餓死者の死体なんて、お巡りさんも困っちまうだろうよ」
と、引き攣るように笑って。
さて。
人識は困り果てていた。
とりあえず死ぬことはない。
死ぬことはないが、生きることもできない。
「かはは、全く、ある意味目的達成だな」
こんなところまでは伊織ちゃんも追ってはこれねぇだろうがよ、と。
異世界、である。
少なくとも、人識からすれば。
あるいは異世界、という表現が正しいかさえわからない。
もっと言うなれば、上位世界、とか、観測世界、とか、そんな表現を使うべきなのか?
「たまんねぇよな、まったくさ」
携帯電話の契約は、身分の証明が絶対的に不可能な人識には無理にしても、パソコンを買うことくらいはできた。
無線LAN内蔵型のノートパソコンは、ホテル備え付けのWi-Fiに接続すれば、インターネットにアクセスできる。
「……西尾維新、ね」
これからは神に祈る時にその名を唱えるべきなのか?
なんて傑作ではない、戯言。
ウィキペディアのページを流し読みする。
西尾維新。二〇〇二年、クビキリサイクルでデビュー。以後同作をはじめとする戯言シリーズを怒涛の勢いで刊行。二〇〇三年には清流院流水のJDCシリーズに属するダブルダウン勘繰郎や世界シリーズのはじめとなるきみとぼくの壊れた世界など、完全新作を相次いで発表。デビュー三年目となる二〇〇四年にはさらに戯言シリーズのスピンオフとなる人間シリーズや、新本格魔法少女りすかシリーズを開始。二〇〇五年には戯言シリーズを完結させ、二〇〇六年にはのちにアニメ化され大ヒットする物語シリーズが始動。二〇〇七年にはこれもアニメ化する刀語を十二ヶ月連続刊行。二〇〇九年には漫画原作として週刊少年ジャンプで連載を開始し——二〇一〇年。
零崎人識の人間関係、四冊同時刊行。
以後も精力的に執筆を続け、二〇二〇現在も絶賛活動中。
「かはは……講談社に行けば出演料でも請求できるかもな」
誰を慰めるそれなのか、冗談を口にしつつ人識は思う。
俺は、創作物なのか?
本家本元中学二年生の時にだって考えもしなかった、自我の問い。
零崎人識として生きた記憶は、ある。小説にも書かれていないような細かなエピソードや、消息不明とされていた時期にどこで何をやっていたかも、きっちりと、記憶している。
しかし、同時に。
小説に書かれていることと全く同じことを、たしかに経験してもいる。
少なくとも自分が認識している範囲でも——クビシメロマンチスト、ネコソギラジカル、零崎双識の人間試験、零崎軋識の人間ノック、零崎曲識の人間人間、そして——零崎人識の人間関係。
そこで描かれている零崎人識の物語を、自分は確かに経験している。
物語。
物語、だ。
あの狐面の人類最悪は、常々語っていた。
世界には、物語がある、と。
その物語こそまさしく、あの小説たちなのであるとしたら。
ならば——ここにいる零崎人識は。
果たして本当に、生きていたのか——?
なんて。
「思春期かってーの」
人識はノートパソコンを閉じた。
そこを掘り下げたって、意味はない。ナイーブでセンチメンタルな感傷に浸って哲学しても、何が起こるわけでもない。
重要なのは、少なくとも人識の主観としては、これまで生きてきた世界と全く別の世界に来てしまったという大事件を、どう解決するかだ。
自分が人間か人形かなんて、後からいくらでも考えればいい。
「……いやそもそも、無理してまで帰りたいと思うようなステキな世界でもねぇんだがな」
むしろ、こちらの方が好き勝手生きられるかもしれない。
あの真っ赤な人類最強とて、世界の壁を越えてまでチンケな殺人鬼一人をしばきにはこないだろうし。
「かはは、そう思うと案外、考えるべきはどうやってこっちの世界に根を下ろすかの方かもな——」
戸籍なしでの生活には慣れてきたが、しかしどうせなら快適に過ごしたい。スマートフォンだって欲しいし。
それを強いられていた原因がはなから存在しないのだ。やりようはいくらでもあるだろう、と。
とりあえずは気楽に考えて、人識は備え付けのテレビをつけた。
意味があっての行動ではない。
なんとなく、手持ち無沙汰で。
面白い番組やってないかな、くらいの気持ちで。
軽はずみに、電源を入れた。
しかし——
『次のニュースです』
人識は知るべきだった。
『府内で起こる連続殺人事件について、新たな被害者が発見されました。昨日未明、鴨川公園で発見された死体は、体の一部が抉り取られたような——』
物語とは得手して、そんな軽はずみから始まるものだということを。
◆ ◆
「塩ラーメンと唐揚げ、後チャーシュー丼ご飯大盛りで」
「すいません今ご飯切らしてて」
「あ、そう。じゃ代わりに味噌ラーメン」
「すいません今味噌切らしてて」
「何もかも切らしてんじゃねぇかこの店は。塩ラーメンと唐揚げも本当に出てくるんだろうな?」
結局塩ラーメンを二つにして、人識は店員との気の抜けた会話を終えた。
腹が減っていたのだ。なにせ、昼も何も食べていなかったのだから。
訪れたのは、西院近くにあるラーメン店。かつて欠陥製品とふらついていた頃には、多分別の店だった。いやそもそも、人識の記憶にある店舗が、こちらの世界にも本当にあったかさえ疑問だが。
「単純に未来ってわけでもねぇからな」
傾物語の逆バージョンって感じか?
もはやメタ発言にも躊躇がなく、へらりと笑ってため息を一つ。
世界の壁を超えた日にも、腹は減る。人識の肉体に、ホームシックは存在しないらしい。
「……どーすっかな」
日銭を稼ぐ程度なら、わけはない。日雇いのバイトでいくらでも食いつなげる。少なくとも、殺人鬼家業よりは遥かに楽に。
戸籍の偽造に関しては手間がかかるが、一ヶ月もあれば成し遂げる自信はあった。
だから、当面の問題は、ないといえばない。
順当に、純粋に。日々を生きるだけならば、道は見えている。
だからこそ——
露骨、だ。
連続殺人。
かつてここではない京都を震撼させたその事件の犯人は、何を隠そうこの零崎人識であったわけだけれども、どうやら現実世界とやらにも、気合の入ったご同胞がいるようだった。
いや、『ご同胞』なんてものがいてもらっては、それこそ人識にとっては最悪なのだが。
血ではなく流血によってつながる零崎一賊。その唯二——と思い込んでいたら、どうやら唯四くらいの生き残りだった(今後さらに増える可能性あり)人識からしてみれば、世界を超えてまで『ご同胞』が現れるなど、笑えない冗談だ。
何より。
「……似てるっちゃ、似てるんだよな」
こんな時、スマホが有れば手早く見返せるのだが。
無い物ねだりはしていられない。いっそスるか……なんて思考が脳裏をよぎるも、流石に打ち消す。せっかくのまっさらな(まっさらすぎて困っているのだが)経歴が手に入ったのに、それを自分から穢してどうする。
思い返したのは、事件の被害者の姿。
もちろんそれを知っているのは、人識が犯人であるからだ——なんて唐突すぎる自白パートが始まるわけではなく。
どうやら遺体の発見者が、ネットに写真を上げてしまったらしい。
当然、すぐに削除はされたのだが、その手の情報は一度出回ればなかなか消えない。少し探せば、いくらでも閲覧可能だった。
もっとも、昔に比べれば消えるのが早いが——と、人識が生きていた『今』を無意識に『昔』と言い換えていたことに気付き、苦笑。まるで老人になってしまったような錯覚を覚える。
ネット上の治安がいい……というより、取り締まりが厳しくなっているのは、さてはて時代のそれゆえか、はたまた現実と物語の差か。
事実は小説より奇なり——なんて言葉は前提として小説が『奇』なものであるという共通認識から生まれた言葉だ。
ともかく。
写真、である。
モザイクも何もかかっていない、シャッターを切った(この表現ももはや死語か)そのままの、生々しい遺体の画像。
そんなものは山ほど見てきた——もっといえば作り出してきた人識であるけれど、しかしノートパソコンの画面越しで他人が作ったそれを見るのは、いささか新鮮な体験だった。
いや。
新鮮なだけなら、よかったのだが。
「偶然、か?」
と。
口に出して、しかしその言葉自体が、そうであってほしいという願望の現れのように思えて、人識は舌打ちをした。
似ている。
それはもちろん死体の人相が人識の知り合いに似ているだなんてびっくり超展開ではないし、それが人識のかつて殺した誰かとそっくりだ、なんてわけでもなく。
似ているのは。
人識がよく知る、
「土手っ腹に、大穴ね」
まるで猛獣が
それと似た傷口を腕の一振りによって作り出す人物と、人識はかつて友人のようでいて、最終的には敵だった。
その横顔を、今でも思い出す。
「……なぁんて、馬鹿馬鹿しいよな」
「全くです」
傑作でさえ、なく。
つぶやいた独り言には、しかし返るはずのない返事があった。
背もたれのない椅子が故に、ひっくり返りそうになった人識を受け止めてくれるものはなかったが、しかしそこは仮にも殺人鬼としてぶいぶい言わせてきた彼である。どれほど心乱されていようとも、その身体能力に瑕疵はない。超人的な体幹でバランスを取り戻し、強引に姿勢を戻したあと、声の主へと振り返った。
「わざわざ二つもラーメンを注文しておいて、物思いに耽るとは」
麺が伸びますよ。と、至極真っ当な指摘を入れて、視線を向けた先で、少女はレンゲに乗せた炒飯を頬張った。
……というか、あるじゃねぇか、ご飯。
それとも炒飯と白飯は別勘定なのか?
「餃子の王将なんかだと、炒飯はそれ専用のご飯を炊くそうですね」
初めから炒飯ように味がついているのだとか。
と、雑学を披露しながら、少女は目線を向けないままに食事を続ける。白一色のワンピースという、絶対にラーメン屋に着てきて良い服ではない、油汚れを天敵とする衣装を纏いながらも、しかし彼女は一切服を汚すことなく、それでいて口の周りだけは汚れを気にせず豪快に、次々と料理を口に運ぶ。
「あなたも食べたらどうですか」
あまりのことに、思わず目を開いて見つめていた人識に、そのように薦める彼女。
「おお……」なんて、気圧されたように曖昧な返事を返す人識だが。
しかし。
気付かぬ間に配膳されていたラーメンに、今更手をつける気にはなれなかった。
なにせ、人識の隣に座っていたのは——
「兄貴のメル友の……」
「その覚え方は侮辱と同義ですよ」
ピシャリと言い切る大人びた少女と、我らが零崎人識は、かつて物語の内側においては、直接の面識はなかったけれど、それが故に。
正々堂々手段を選ばず、真っ向から不意打つ策士——