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深度三に及ぶ大火傷。それも背中の大部分という広範囲で、皮膚移植やら何やらに、それだけの期間が取られてしまった。
その上で、退院こそできたものの、未だ完治には至らず、人識の背中には、未だ痛々しく手術痕が残り、包帯が巻かれている。
の、だが。
「そんなことはお構いなしに、ってわけだ」
「何をぶつぶつと言っているんですか人識くん」
「なんでもねぇよ。ただの戯言さ」
傑作ですら——なく。
人識は——隣を歩く
あの悪夢のように焼け爛れた夜から数えて、一週間後の今日。
零崎人識は
目的地は、交差点ほど近くの商業ビル。
烏丸通りに面する前面を二階層分ぶち抜くガラス張りのその二階に、爛々と輝く大垣書店の四文字。
マクドナルドの真上にあるそこがこそ、二人の目的地であった。
「さ、時間はもう直ぐです。行きましょう、人識くん」
促されるままに、地味に珍しいカフェ営業のマクドナルドの真横から、エスカレーターで二階へ上がって行く。
「んで? なんで俺は本屋に連れてこられているわけなんだ?」
広々とした店内。大型書店らしく取り揃えはよく、それでいながら空間がうるさくはない。居心地のいい本屋だった。
平積みにされている本をざっと眺めながら、人識は問いかける。
「まさかここにナルニア国への帰り道が開いてんのか?」
「それなら案内するのはクローゼットですよ。ですが……そうですね。ある意味では近いかもしれません」
ほら、行きますよ、なんて手を引かれて連れられた先では「サイン会にお並びの方はこちらです」なんて店員が声を張り上げている。どうやら、どこぞの作家がやって来ているらしい。
「……サイン会?」
人識はキョロキョロと周りを見回す。作家の名前を確認しようと思ったのだ。
「何を立ち止まってるんです。早く行きますよ」
「待てよあんた、横入りはマナー違反だぜ」
「私がそんな低次元なことをすると思いますか? 手筈は整えていますよ」
なんて言って取り出したのは、二枚の整理券。番号はそれぞれ〇〇〇一と〇〇〇二。つまり最初とその次だ。
……ちなみに、人識と子荻は大学病院からここまで一緒に来たので、事前に並んでいたというわけではないはずである。果たしてどんな手段でそれを手に入れていたのか、あえて聞くことはよしておくべきだろう。人識はそう判断して口を噤んだ。
ていうか四桁ナンバーって、一体何人来る想定なんだ。それだけ客が来て本当にサインを書き切れるのか——などと考えているうちに、子荻はその整理券を店員に手渡して、横に並ぶ列をごぼう抜きに先端へと進んでいく。人識は流されるままにそれを追いかけた。
先頭に近づいて行くに連れて——徐々に、開けたスペースの一角に建てられたその看板が見えてきた。
立て看板の文字は、次のとおり。
『掟上今日子の設刑図発売記念——
「——————は?」
人識はぽかんと口を開けて、吐息を漏らす。
その文字列はどういう意味だ? あれ、西尾雉新って覆面作家じゃなかったっけ? ていうか俺とその作者が出会っちまうってのは、それは本当に大丈夫なのか——
なんて色々と思考は巡るけれど、しかし。
人識は、そこへたどり着いてしまった。
特徴のない男だ、と思った。あるいは人識だからそう思うのか。この世の誰にでも似ているようで、この世の誰にも似ていない。実に不可思議で奇妙で奇異で、捉えどころのない男だった。
新刊を平積みにした横長の机。白いクロスがかけられたそれの向こうで、簡易的なパイプ椅子に座っている。
その男が、西尾雉新なのか。
本当に——?
「初めまして、西尾先生。ファンです」
きっとかけらも本音ではないのだろうその言葉を言いながら、子荻は本を差し出した。用意周到にも、平積みされているそれと同じ最新作。
「お名前は、誰さんへにしましょうか」
その印象と同じく、まるで掴みどころのない、言葉に言い表すことが不可能な声色で、その男は言う。子荻はそっと微笑んで、「『子荻ちゃんへ』でお願いします」と言った。
「子荻ちゃん、ですか」
彼は苦笑する。
「では、そちらの彼は『人識くんへ』?」
「はい。是非ともそれでお願いします」
おそらくは人識も含めて、コスプレイヤーか何かだと判断したのだろう。彼はくすりと笑って一つ頷いた。
本のページを開き、余白の部分にサラサラとサインペンを走らせる。それを呆然と眺めながら——人識はただひたすらに困惑していた。
「ほら、もう少ししゃっきりしたらどうです?」
神様の御前ですよ——なんて、戯言にも程がある。
機能不全に陥った人識を置いて、子荻は前へ向き直る。
「ねえ、西尾先生」
「なんでしょう?」
「あなたにとって——萩原子荻とはどんなキャラクターですか?」
「そうですね——あえて言えば、絶対に敵に回したくない人、でしょうか」
「なるほど。ありがとうございます。参考になりました」
なんて、会話が過ぎ去って。
パチリとペンのキャップを嵌め直す音でようやく、人識は正気に戻った。
「次の方、どうぞ」
その言葉が示すのは、もちろんのこと——零崎人識。
彼は震える足を叱咤して、テーブルの前へと歩を進めた。
「ほら、人識くん」
子荻は言って、鞄から一冊の本を取り出した。
クビシメロマンチスト——人間失格・零崎人識。
それは奇しくも彼が書いた中で初めて零崎人識が登場した書籍で、なんのつもりだと言ってやりたいところだったけれど、しかし人識はそれを飲み込むしかなかった。
人識が受け取った本を差し出すと、彼はそれを手に取って、ページを開く。
「なあ——先生」
ペンのキャップを取った彼に、人識は口を開いた。
なぜ、そんなことをしたのか、人識にだって説明はつかない。
ただ、そう、言ってしまえば、きっと反射のようなものだった。
たとえば水に潜って水面から飛び出た時、思わず息を吸ってしまうように。外から帰ってきて家の玄関を開けた時、意図せずただいまと口にしてしまうように。
まるで本能的な倒錯が、郷愁にも似たノスタルジックが、人生の中で一度も体験したことのない衝動と混乱が、人識の口を突いたのだろう。
「あんたはこの小説を書いたんだよな」
「そうですね」
「なら、零崎人識って男もまた、あんたの脳みそが捻り出したキャラクターだってわけだ」
自虐にも似てそんなことを言いながら——人識は何かをこぼすように、その言葉を口にした。
「なら——」
零崎人識って男はさ。
「結局、誰かを愛していたのかい?」
サラサラと走らせていたペンを止め——彼はそれにキャップをはめる。
ぱちり、と小さく音が立ち——彼は口を開いた。
「そうですね——」
僕も全ては知りませんけれど——
なんて。
悩むような、と言うわけではなく。
ただ、優しい表情であるように見えた。
「——匂宮出夢のことは、相当好きだったはずですよ」
そう言って返された本を受け取りながら——人識は笑った。
「——かはは。間違ってるぜ、あんた」
原作者だってのに、読み込みが全然たんねーよ。
くるりと後ろを向いて、人識は言う。
「
言って、人識はその場を立ち去る。「ちょっと、人識くん——」なんて、慌てた子荻が後を追う。
人識はもう振り返らない。
そこにはもう、なんの意味もない。
ただ、二人の人間が出会った。
起こったことは、それだけだった。
この小説に登場する西尾雉新と言うキャラクターは実在の人物・団体とは一切関係がありません。
人識くんが勝手に自分の創造主だと勘違いしているだけです。