◆ ◆
「私は地下鉄ですので」
言って、子荻は市営地下鉄四条駅へ消えていった。おそらくは、大学に戻るのだろう。どうやら本当に、サイン会のためだけにここまで来たらしい。
ちなみに——今日は平日だった。
人識は阪急烏丸駅の前でそれを見送って、振り返る。人識もこの後移動だ。と言っても、子荻とは違い徒歩でだが。
この後には——実口六との待ち合わせが控えているのだ。
正確には、萩原子荻と出掛けるついでに待ち合わせた、と言った方が正しいのだが。
要件は、約束の報酬——つまり、人識へのインタビューである。
この一週間、人識は入院により面会謝絶状態だったため、彼ともまた会うことはできていなかった。起こったことがことだったので、心配のメールは何度か来ていたのだが、直接顔を合わすのはあれ以来これが初めてになる。
場所は前回と同じくティーハウスリプトン四条店。これまた前回と同じく奢りであるなら、また甘味が楽しめるな——なんて思いながら、四条通の地下を走る地下通路を東向きに歩き出そうとしたところで——
「よう、
柱の影から——そんな声が、掛かった。
「あ、あんたは——」
思わず——背筋が凍る。
死装束のような白の着流し。
冥府から訪れたような清涼の痩躯。
マナー違反にも柱に背をもたれ、手には一冊の漫画本。
漫画版化物語——十一巻。
二人の吸血鬼ハンター——ドラマツルギーとエピソードが表紙を飾るそれを読みながら、彼は人識に目もくれずページを捲っていた。
彼は。
「……今、わざわざ俺の前に出てきやがったってことは、俺のことを殺す算段でも付いたってことか?」
人識は精一杯の虚勢を張った。
萩原子荻は、今は電車の中だろう。頼れる味方は周囲にはゼロだ。
人識は即座にナイフを取り出——そうとして、周囲の目を思い出し舌打ちをする。
(嫌なシーンで姿を現しやがったな)
少なくとも、迂闊に先制攻撃を仕掛けるわけにはいかない。
万が一それが
いや、それこそが本来、正しい有様だとも言えるのだが、ともかく——
なんて、焦る人識を置き去りにして。
「『俺のことを殺す算段でも付いたってことか?』ね。ふん。誤解があるようだな、零崎人識。俺は何も、わざわざお前を殺そうとしてなんざいねぇよ」
「刺客を二人も差し向けておいてよく言うぜ」
「『刺客を二人も差し向けておいてよく言うぜ』か。ふん。別段、俺としては刺客を差し向けたつもりもない。死角なら今突いたがね。俺は蘆景にお前を殺せだなんて一言も言っていないし、もう一人の方は誰だか知らんが居たとするなら
「ああ?」
人識は不快げに眉を寄せる。
どうにも、言葉が信用ならなかった。
「嘘だと思うなら思えばいい。そんなことはどちらでも同じことだ」
男は言って、さらにページを捲る。
「蘆景には、ただ『ここには俺の敵の
「あいつは思いっきりお前の命を果たすためだのなんだのとほざいていたが」
「あいつは意外と見栄っ張りなんだよ。そもそも、俺はあいつに命令するような立場じゃない。あいつは『十三階段』の所有物であって——
今度こそ——人識は思い切り、顔を顰めた。
「あいつは思いっきり、十三階段の十二段目だのなんだのと叫んでやがったが」
「そりゃあ勝手に言ってるだけだよ。俺はあいつを十二段目に加えたつもりはない。あいつは小心者なのさ。
そんなだから。
「
いつのまにか。
西東天の真横には——一人の女が立っていた。
「お初お目にかかる、零崎人識。吾輩の名は
それは。
針のような鋭い声色だった。
「この度は、私の『作品』が迷惑をかけたようだ。すまなかったな。どうか私の顔に免じ水に流してくれ。以後、よしなに」
わずかに頭を下げることさえもなく、直立不動のままそう言って、その女は腕を組んだ。
やや季節感を無視した細身のロングコートに、ダメージ加工の施された革の学帽をかぶっている。顔は——それに免じてという割には、どこにでもいる、十人並みの顔に見える。
両目を覆うスクエアの黒縁メガネだけが、唯一の特徴だろうか——なんて、思った最中。
「
彼女は、顔に手をかざす。
「
手のひらが一枚、通り過ぎた後——そこには、
「なっ——」
「クク、驚いたかよ零崎人識」
驚かずには、いられるものか。
その手の相手と何度か戦ったことのある人識だからこそわかる。これは幻覚や錯覚なんかではない、物理的な肉体の変化だ。それをこうも易々と、一瞬で成し遂げて見せるなんて——
「こいつは
メイキング!
これが、
戦慄する人識に、けれど和装の男は表情のひとつさえも変えない。
「今回は、木の実を連れて来れなかったからな。こいつが
視線避けにはもってこいだぜ——なんて、その本質は決して、顔を変え正体を隠す程度のことではないだろうに、男はこともなげにそう言った。
「——って、ああ? 『連れて来れなかった』だと?」
人識はそのワードに、どうにも引っ掛かるものを感じた。
「おいおい待てよ。俺をこんなわけの分からんメタ空間に連れてきやがったのは、あの空間製作者じゃねぇのかよ」
それとも、だからこそ姿を表せないということか——と思う人識だけれど。
「『俺をこんなわけの分からんメタ空間に連れてきやがったのは、あの空間製作者じゃねぇのかよ』、ふん。冗談はよせよ、零崎人識。——
その考えは——一刀に切り伏せられる。
「あいつのスキルは、この手の
言って、男はさらにページを捲った。
「そもそも、俺たちにお前をこの世界に連れてくるなんてそんな芸当、できるわけがない。なにせ、俺たちがこっちの世界に来れたのだって——
それは——どういう意味だ?
「そもそも、俺は
深淵を覗く時、ってやつだ——なんて、冗談めかして彼は言う。
「んじゃあ、誰が俺を呼びやがったってんだよ」
「さあな。そんなこと、俺が知るわけがないだろう。強いて言えば、例の
さらにページをめくりながら、放たれた言葉に、人識は今度こそ——絶句した。
「ん、どうした。急に黙り込んで」
男は初めて視線を上げる。それに対して、人識は問う。問わずには、いられない。
「あの殺人事件は——あの物理的熱血野郎が犯人じゃあねぇのかよ」
「おいおいおいおいおいおいおいおい。本気で言ってるのかよ零崎人識。冗談じゃあないぜ。察しが悪いにも程がある。考えてもみろよ。あいつのようなキャラクターに、
言って、和装の男は肩をすくめる。まるで全てが悪い冗談だとでも言いたげに。
「だが、あいつは自分を殺人鬼だと——」
「それを本気で信じたのか? さては馬鹿だな、お前」
酷い侮辱だ。抗議をしたいところだったが、口を挟む隙はない。
「たった今教えてやっただろう。あいつは小心者で、虚飾屋だ、ってな。あいつに無意味な人殺しなんて出来ねぇよ。殺人鬼なんて器じゃないのさ。動機もなけりゃ仕組みも性質も何もない。あいつはただそれっぽいことを言いながら、お前をビビらせるために吹いてただけだ」
「……なんか、俺が出会うやつそんなんばっかじゃねぇか?」
人識は言いつつも、しかしそれならば。
「じゃあ、本当の犯人はどこの誰だってんだよ」
「わざわざお前を呼び出すような人間なんざ、そりゃあ一人しかいないだろう」
言って——彼は、本を閉じる。
「この事件の犯人は——匂宮出夢に決まってる」
◆ ◆
「昔、
「あいつはとにかく、
「名作の続編ってのは、微妙になりがちだ。あいつもその類でね。新人類を生み出したいってのは結構なことだが、しかし人類という枠組みに、生命という枠組みに——枠組みなんてものに囚われている以上、あいつの描く続きは結局、形がどれほど変わっても同じパターンの繰り返しなんだよ。そんなだから二流なんだが、まあ本人はそれに気付かぬまま墓の向こうだ。
「ともかくとして——
「問題だったのは。
「問題が起こったのは。
「問題が起こる原因となったのは——
「あのジジイが現役時代、
「無論、そのほとんどは失敗に終わったわけだが。
「しかし失敗が成功の母というのは言い得て妙でな。つまり
「そう、あったんだよ——成功例が。
「お察しの通り——その一つが、匂宮出夢さ。
「ただしその成功の形は、あいつが求めるものとは違ったようだがね。そういう意味でも
「ま、喜連川茂連の思惑なんてのはどうでもいい。あのジジイの実験が成功したかどうかなど、そんなことはどちらでも同じことだ。
「重要なのは。
「匂宮出夢という
「と言っても、もう察しはついていそうだけどな。
「輪廻転生? おいおい、馬鹿言ってんじゃねぇよ。ネット小説の読みすぎってやつだぜそりゃあ——
「正式には。
「
「と。
「そんな名前が付いていたらしいぜ。
「結局は、匂宮兄妹の仕組みの応用だ。
「どちらかと言えば、本来は『
「いずれにせよ。
「匂宮出夢は——三つ目の
「三つの体に二つの精神——だったのさ。本来は。
「最も、本人は死ぬまで——文字通り
「つまり、残機一ってやつ。流石のお前もスーパーマリオくらいはプレイしたことがあるだろう? それだよ。
「
「そして匂宮出夢の死をキーとして、それが起動した。
「死んだ匂宮出夢は——こっちの世界で
「本人が望んでいたか望んでいなかったかはしらねぇが——
「しかしお前が呼ばれたということならば。
「きっと、そういうことなんだろうな」
◆ ◆
ひとしきり、話すだけを話し終えて、和装の男は去っていった。
縁が
なんて言葉を、去り際に残して。
零崎人識は——動けなかった。
ただ呆然と——柱の陰に立ち尽くす。
まるで世界の全てに取り残されてしまったかのように。
世界の全てに裏切られてしまったかのように。
呆然と。
忘我と。
茫茫と。
ただひたすらに——立ち尽くして。
ふと。
ポケットの向こうで、電子音が鳴り響いていることに気がついた。
『あ、もしもし? 人識さんですか?』
「……」
『いやー、時間になっても来られないんで心配しましたよ』
「…………」
『今どの辺にいらっしゃいます?』
「………………」
『あれ、人識さん? もしもし?』
「……………………なあ、六くんよ」
『ああ、びっくりした。聞こえてるなら返事を——』
「頼みがある」
『……どうしたんです?』
「俺に——もう一度、手を貸してくれ」
今度こそ——
「見つけなくちゃいけない奴がいるんだ」
ようやっと。
前置きの時間は終わりを告げる。
ここからがこそ、つまりは零崎人識の物語。
五年前。決定的に終わり果てた人間関係への、つまり今更の追憶だ。
かつて紡がれた、癒えぬ傷跡に滲む血の。
固く結ばれた、絆にも似た敵対の。
過ぎ去りて久しく、けれど今もなお鮮やかに輝き続ける、消えることのない、想い出の。
零崎人識と匂宮出夢の、人間関係の。
あるはずのなかった、その続編だ。
さあ、今こそ再び物語ろう。
それではみなさまお立ち合い。
幕を閉じた舞台の向こうへ、万感無量のアンコールを。