◆ ◆
はるばるやってきたのは、堀川今出川近郊のマンションの一室だった。
地上三階。三◯四号室。
それがこそ、京都市内連続殺人事件における、室内で行われたただ二つの殺人事件の内、その片割れを担う現場だった。
殺されたのは
死亡時刻は夜の二十三時から深夜一時の二時間。第一発見者は近所の住人で、扉の前を通る時血の匂いがした、として通報があった。事実、被害者は玄関前で死んでおり、その血は
死に方は頭に一撃。弾け飛んだ中身が、壁やドアの内側のへばりつくような惨状だった、とのこと。
「——それって、おかしくないですか?」
現場保全のためなのだろうか。未だ血の跡が染み付いたままの壁を眺めながら、実口六は言う。
かつて便利に使っていたアンチロッキングブレードはあの人類最強に奪われてしまったけれど、鍵開けのスキルはそればかりではない。
「おかしいって、そりゃ何が?」
人識は、過去に己一人で入り込んだ時と変わり映えのない部屋をぼんやりと眺めながら言う。
「つまり、被害者はこの狭い玄関で、頭を爆散せしめられて死亡したわけでしょう?」
その証拠に、壁面やドアには血やそれ以外の内容物が飛び散った痕が刻まれている。
「それなら当然、
玄関というのは狭い空間だ。
マンションという集合住宅。堀川今出川の一等地でとなれば、一部屋一部屋の床面積はまさしく猫の額になる。
あるいはあの戯言使いの住処ほどではないにしても。
狭苦しく、スペースがなく、玄関なんて出入りのためだけの空間は——当然、狭くなる。
ドア一枚分の横幅。左右は壁で、正面は当然扉が閉じている。ドア及び左右の壁に血飛沫が刻まれている以上、犯人は廊下側から被害者を殺したことになるわけだが——
「そうなると、絶対に血を浴びる羽目になるんですよ」
ドア一枚分の横幅。それは事実上、人一人分のと言い換えることもできるだろう。
電話ボックスの中で、巨大な水風船を割る想像をしてみると良い。当然、閉じた四方に水飛沫が飛び散る。その閉じた四方のうちのいずれか一方を、犯人自身が担うことになってしまうのが、玄関という空間なのだ。
「でも待てよ、被害者が内側から弾け飛ぶような死に方をしたってんならそうなるのも然るべきってなもんだけどよ、被害者の頭をこう、廊下からドアの側へ弾き飛ばすように粉砕したとしたらどうだ?」
つまりは、バットでボールを飛ばすように。
廊下側からドア側へ、被害者の頭をフルスイングして殺したのだとすれば、その血飛沫をドア側だけに偏らせることも不可能ではないのではないだろうか?
あるいは『
「その考察は確かにハイセンスですが——現実はナンセンスです。被害者の頭は、
ちょうどこんなふうに、と、人識の頭に六の掌がぽすりと乗せられる。背の高さをアピールされているようで甚だ不愉快だった。
「さらに言えば、床や天井、壁への飛び散り方をみるにも、真上から叩き潰されて、
ほら、と床を指さされ、そこには確かに——廊下側へと血飛沫が飛んだ痕が残っていた。
「ついでに言っておくと、シャワー室や何かが使われたという形跡もなかったようですね」
つまり、血飛沫を洗い流した、という線もない。
「いくら深夜といっても、血反吐がこびりついた状態で犯人がそこらを逃げ回っていた、っていうのはちょっと、考えられない気がするんですよね」
単純に不愉快でしょうし——なんて六の感想はともかくとして、確かにいくらなんでも、それは痕跡が残りすぎる。
警察を撒き続けている脅威の殺人犯がやるにしては、お粗末すぎる殺し方だ。
あるいは——匂宮出夢がやる殺し方としては。
「さらに不可解なのは、
「ああ? そりゃあ——」
駆けつけた警察によるところ、玄関の鍵は空いていたという。死体の状況や血飛沫のつき方を鑑みるに、外から無理やり開けられた形跡はなく、追い詰められた被害者が開けた、というような様子でもない。他の窓などはそもそもはめ殺しで、出入り可能なのはドアだけだった。だからこそ、犯人は開いていたドアから侵入した、ないし被害者自身が招き入れたのではないか、と推察されたわけだが——
「それならどうして、犯人の方が内側にいるんですか?」
それは——そうだ。
どう考えたっておかしい。
実口六が提唱するように、あるいは零崎人識が直感したように、
ならば、どういうことなのだろう?
この殺人は、一体どのようにして、
と。
そこまで——考えて。
零崎人識は——ふと、廊下の奥を見た。
そこには。
「——なっ!」
咄嗟に、人識は六を庇うように前に出る。
「健気なものなのだな、零崎人識」
撫で付けられた七三の金髪。痩せ型。高い鼻に青白い肌は、本人が白人系である証明というよりも、むしろ不健康さの方が際立つように見える。
服装は純白のスリーピーススーツ。室内だというのにも関わらず、高貴にも純白のホールカットを履きこなし、首にはポルカドットのモノトーンネクタイ。グラスコード付きの金縁丸メガネをかけている。
宝石が散りばめられた無垢金の腕時計の文字盤を見つめながら、彼は言った。
「十一分三十四秒コンマ四」
「あ?」
「
その言葉に——人識は戦慄する。
「十一分、三十四秒——だと?」
「正確にはそれにコンマ四秒追加なのだな」
重箱の隅を突くような指摘は、けれど明らかに誤差だ。
気付く余地などまるでなかった。この部屋に入り込んで以降、人識は何度だって廊下の奥を見ていたはずだ。だというのに、
隠形、なんてレベルのそれではない。完全な存在感の断絶——!
「何者だ、てめぇ——」
「なんだかんだと聞かれたら、答えてあげるが世の情け、なのだな」
紳士はくい、とツルの縁を摘んでメガネを直し、立ち上がる。
「おいどんの名は——
なの、だな——と。
とってつけたような語尾を付けつつ、自称なのかよ、とツッコミたくなるような名乗りを終えて——
いつのまにか。
彼は人識の真横を通り過ぎて、
「なっ!」
驚愕、脅威、恐怖——
人識の全神経が全力で警鐘を——鳴らさない。
「——お主は何者なのだな?」
同じく、蛇に睨まれた蛙のように動けずにいる実口六に——天吹夭折は問いかける。
まるで不可解だと言わんばかりに。
まるで不自然だと言わんばかりに。
まるで不愉快だと言わんばかりに——眉を顰めて。
「全く、計算外のことばかりが起こるのだな」
ここに来るのは——零崎人識ただ一人で良いというのに。
天吹夭折は言って、人識の方へと振り返る。
零崎人識は——動けない。
まるで何もかもを見失ってしまったかのように、
「見えなかろう、なのだな。そうだろうとも。なにせこのおいどんは、
その言葉を——零崎人識は聞き取れない。
「掃除人たるこの天吹が、このように穢らわしい殺し方しかできぬことは恥ずべきことであるが——しかし恥じれることは、生きた人間だけの特権なのだな」
恥と後悔だけが、生きる証明——なの、だな。と。
やはり、とってつけたような語尾で、彼はいう。
零崎人識には——聞こえない。
「そろそろ、天には風が吹く」
天吹夭折は、言いながら——いつから持っていたのだろう? 大型のゴルフバッグから、巨大な
「お掃除セット、ナンバーエイト——
その名の通り、伸びる穂先の一条一条までもが総銀製の、輝くような箒。それは間違いなく埃や煤ではない『
だからこそ。
「——っぶねぇな!」
ガイィン、と。
鳴り響いた金属音は、振り下ろされた箒が、人識のナイフとぶつかった音だった。
「——ふむ、これが零崎一賊の殺意感知、なのだな」
人識に攻撃を弾かれ、けれど夭折は一切狼狽えなかった。
まるで初めからそうなることを理解していたかのように平然と、顎に手を当てる。
「けれど、感じ取れるのはそこまで——なのだな」
その言葉がまるで図星であるということもさえ、零崎人識は気付けない。
零崎一賊は、殺意を感じ取る力に長ける。それがゆえに、殺意を持って行われる攻撃はそれが意識外からの攻撃であろうとも、それこそ反射的に反応できる。
しかし、逆説。
反応できるのは、殺意にだけだ。
「理科の授業を受けたことはあるかな?」
あるいは、
呟く声に、しかしかき消されることはなく。
しゅうううー、と。
微かに。
ほんの微かに——音がしている。
それは部屋の奥から聞こえるそれで、けれど
「
なの、だな。
ばたり、と。
たった今平然と開き、出たばかりの扉を閉じる。
「いくら零崎とても、
夭折は言いながら、腕時計の文字盤に目を落とす。
「三」
その装置は、取るに足らない機能しか持たない。
時間きっかりに、ほんのわずか火花を散らす。それだけの、小さな小さな装置。人を殺すことなど、とてもできない。
「二」
それが仕掛けられたのは、十二分前。
「一」
それは、穴を開けたガス缶だ。調理用の、食品を炙る際に匂いがつかないように、
漏れ出すガスは——当然。
「——零」
響き渡るのは、爆発音——
「馬鹿な——」
背を刺し貫かれた天吹夭折の、苦悶の声だった。
「なぜ、おいどんのことが認識できている——」
「多分、『なんでなのだな! どうしておいどんの居場所がわかったのだな!』みてーなことを言ってるだろうから教えてやんよ」
当たり前のようにドアを開けて、天吹夭折の背を刺し貫いた零崎人識だけれど——しかしその言葉から分かる通り、決して彼を認識できたというわけではない。
「——
人識の背後。その両の眼で天吹夭折をしかと見つめていたのは——実口六だった。
「私たちはあなたのことを、認識することはできません。しかしだからと言って、あなたは
その目を覆う眼鏡兵器——
「『
さらに言えば——大気中の成分分析機能も完備している。
スマートグラスの名の通り。
目に映る全てを
「ふ、ふざけるな……赤外線センサー如きがこのおいどんを認識できるものか——」
事実。
天吹夭折は、カメラに映らない。
機械でさえも認識を拒絶するのが、天吹夭折の特異体質。
だというのにも関わらず——なぜ——
「申し訳ないのですが」
実口六は、人差し指と中指でメガネを直す。
「この眼鏡兵器は、
「な、まさか——」
お主は——と。
その続きを口に出すことは、けれど永遠に叶わなかった。
代わりに、彼の口から吐き出されたものは——夥しい量の血潮。
ごぼり、ごぼりと、気泡混じりにそれがこぼれ落ちたのは、突き立つナイフが、肺に達したその証拠で——
喘ぐように、はくはくと。
未練がましく口を動かし。
それを最後に——天吹夭折は、その名の通り。二十余年の短い人生に、幕を下ろした。
◆ ◆
「夭折がやられましたか」
「予想通りとはいえ、思ったよりは早かったぜ」
「いや、むしろようやった方よ。相手は若造とは言え、たった一人で『裏切同盟』を殺めた男。敵としては最上位じゃ」
「だとしても、ろくな損害を与えられず瞬殺されてよくやった、か?」
暗闇の中に、四人の影が浮かんでいる。
まるでよく似た四人だった。
まるで違った四人だった。
嘘のように同じような四人だった、
何もかもがバラバラな四人だった。
彼らは、あるいは彼女らは。
その集合は、語らう。
「いずれにせよ——彼を亡くしたことは残念なことです」
「そうだな、得難い人格だったぜ」
「そうよな、惜しい人格よ」
「その通り、有用な人格だった」
悼むように、四つの口が相次いで開く。
「しかしあまり存在感はなかったですね」
「影は薄かったぜ」
「おったんかおらんかったんかようわからんやつじゃった」
「……あまり喋ったことはなかったな」
痛めつけるように、四つの口が相次いで開く。
思い思いの言葉を口にしながら——彼らは、あるいは彼女らは話を続ける。
「しかし嘆いても、仕方がない」
「ええ。仕方がありません」
「仕方ないぜ」
「仕方ないのぅ」
輪唱のように、頷きが連鎖する。
「これは必要な犠牲だった」
「そしてここからも必要な犠牲です」
入れ替わり立ち替わり、言葉が交差する。
「すでに欠けがありますが——しかしここからが、本当の地獄」
「『二十人目の地獄』に、習うわけではあるまいが」
くつくつと、笑い声が響く。
「これより」
「我らは」
「起動する」
「我が名は」
「等しく」
「ただ一つ」
「枷のように」
「檻のように」
「汚泥のように」
「怖気のように」
「我は断たれ」
「我は片割れ」
「我は集い」
「我は一つ」
「ゆえに」
「我が名は——」
——『
四つの声が、集うように揃い。
物語は佳境。
全ての因縁が墓の下から蘇り、絡みつくように交差する。
立ちはだかるは、第十三期イクスパーラメントの
かつて零崎双識と伝説的な共闘を成した、
第三戦。
『人間失格』零崎人識VS『断片集』。
それは当人さえも知らぬまま、あまりにも静かに、まるで見えざる幻想のように。されど確かな現実として、今この時、始まったのだ。