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「いるかい、ぷに子ちゃん」
端末はタブレットだった。端末のスペックは、通信に大した影響を齎さない。最低限の送受信さえできるのならば、トランスファはそこに侵入できるのだ。
だから彼女がホテルの一室で、何も映らないタブレット端末に話しかけた直後、画面にいつか見た由比ヶ浜ぷに子の顔が表示されたことは、何も驚くべきことではなかったと言える。
「『お久しぶりでございます、ご主人様』」
若き日に、あるいは幼き日に出会った由比ヶ浜ぷに子と、まるで変わらないその表情。無機にして冷徹。血の通わぬ相貌。それは今やコンピュータグラフィックスにしか過ぎず、実像を持たぬ姿に成り果てているわけだけれど、だからこそより一層、その存在感は増したようにすら感じる。
哀川潤は由比ヶ浜ぷに子に言葉を返す。
「ああ、久しぶり。会えて嬉しいぜ。だけど一点訂正するならあたしのことを主人と呼ぶな。あたしを主人と呼んでいいのはあたしだけだ」
その言葉に、由比ヶ浜ぷに子は片眉を上げた。
「『ではお姉様、と』」
「お姉様、って、あたしはアマノカズミかよ。『よくってよ』とでも返せばいいのか?」
なんて軽口のように言いつつも、哀川潤は足を組む。
「まあいいや、ご主人様よかまだマシだ。せいぜいあたしのことを、姉と慕い敬うがいいさ」
両手をあげて言えば、ぷに子は「『ではそのように』」と画面の中で一礼をした。実際、哀川潤にとって、由比ヶ浜ぷに子は妹のようなものだ。『ご主人様』に比べれば、遥かに正当な呼び名と言える。
「『つきましては、どのようなご用事でしょうか、お姉様?』」
小首を傾げて、ぷに子は可愛らしくも問う。
「『現在、ぷに子は至上命題に基づき、問題への対応中で——』」
「その至上命題について、話があるのさ」
彼女は片手を広げた。タブレットのインカメラが、その様子もぷに子に伝えていることだろう。
「『世界を終わらせることを、止めたい、と言うご要望でしょうか?』」
予想できることだ、とでも言いたげなその表情に、彼女は予定されていたカウンターを喰らわせる。
「まさか。その逆だ。あたしはあんたに協力したいんだよ、ぷに子ちゃん」
その言葉に——由比ヶ浜ぷに子は、きっかり一秒沈黙した。
そして——
「『どのような協力でしょうか、お姉様』」
と、答えを返す。
——第一関門はクリア。哀川潤は内心で独りごちる。この状況で、嘘が看破される可能性もあった。そちらの場合のプランも考えてはいたが、信じてもらえる方がずっと都合がいい。
もっとも、まだ本当に信じてもらえたか、と言う点では微妙なところだが。
相手はトランスファ、人工知能だ。信じるも信じないもなく、ただ真偽どちらのパターンも演算する。それだけのことで、その結果、少なくとも今は対話を選んだ方が、
だがしかし、それでも、仕込みは上々だ。
「あんたのやり口は、いささか非効率的だ」
哀川潤は堂々と言った。
「アメリカの軍事システムをハッキングして、核ミサイルをばら撒こうってんだってな。ご大層なことだが、そんなことで世界が滅びると思っているなら大間違いだ。お前の策は百パーセント失敗するし、
彼女は断言する。ハッタリを貼るなら大きく、絶対的に。まるでそれが真実であるかのように、揺らがぬ口ぶりで断ずるべきだ。
由比ヶ浜ぷに子は沈黙したまま、次の言葉を待っている。おそらくはその裏で、哀川潤からの言葉の意味を演算しているのだろう。
「まず、お前には
「『敵?』」
鸚鵡返しに、小首をかしげる。人工知能らしくない仕草は、対人向けの防御なのだろう。つまり、愛嬌がある方が有利であると言う演算だ。それはきっと的を得てはいるのだろうが、哀川潤には通じない。
「ああ、そうだ。あんたには、
そして——彼女はマイクロSDカードを取り出した。それを、タブレットに挿入する。そこに含まれているのは——
「私たちの敵——
それは羽川翼自身から提供されたデータではあるものの、一切の嘘偽りも誇張も比喩も存在しない、純然たる客観的な事実の羅列だった。あるいはここではない別の世界——そう表現する事が適切であるかはわからないが、
そのデータを、由比ヶ浜ぷに子は静かに読み取る。
そして——
「『——演算が完了しました。確かに、
彼女が障害となる確率は、七十八パーセント、と続ける。
「ほらな、あたしの言った通りだっただろう?」
自慢げに言いつつも、まずは胸を撫で下ろす。とりあえず、こちらの想定通りには動いてくれたようだった。
しかし想定外だったのは、その演算速度だ。
早すぎる——あまりにも。
データの読み取りから、わずか一秒も経たずに、そのシミュレーションを完了させた。
トランスファ——いくら二百年後の未来を想像して生まれた技術の産物といえど、いやだからこそ、この時代ではそこまでの猛威を振るえないはずなのに——この速度。
間違いなく、脅威だ。
「世界を終わらせるにあたって、
「『承りました、お姉様』」
マッチポンプは、これにて成立。あとは赤く燃え盛るマッチの炎が、果たしてポンプで消せるや否や。
かつてには零崎人識の前にては、策士の皮さえ被ってみせた羽川翼であるけれど、しかしその技量が姿なき電気信号にさえ通じるかどうかは、未だ、明かされぬままだった。
■■
「それで、私たちは一体何をしているのでしょうか」
無桐伊織はぽかんと口を開けていた。その口に、宇治抹茶ソフトクリームを乗せたスプーンが差し込まれる。爽やかで奥深い抹茶の香り。甘くて美味しい。伊織は機嫌が良くなった。
「それはもちろん、観光だよ」
羽川翼はそう言った。
京都市内からは遠く離れて、宇治である。
無桐伊織と羽川翼は、二人並んで平等院表参道を歩いていた。
石畳の小道。道中、中村藤吉本店で購入した抹茶ソフト(豪華にも、あんこと白玉がトッピングされている)を食べながら、ゆるりと。春先の麗らかな気候が気持ち良い、観光日和だった。
「写真が撮れないのは、ちょっと残念だけどね」
デジタルデトックスと思えば、ちょうどいいかしら、なんて言いながら、羽川翼は微笑んだ。携帯は、二人とも適当なコインロッカーに預けて来た。それは彼女の言うようにデジタルデトックスなんてわけではなく、だからこそ——
「えっと、今私たち、世界を滅ぼすAIと戦ってる真っ最中なんですよね?」
伊織はそんな疑問を口にする。
それがどうして、観光なのだろう。そんなこと、している暇があるんだっけ?
「大丈夫、そっちに関しては、今は哀川さんが対応してくれているから」
元いた世界の年代はともかく、現在の実年齢で言えばほとんど同い年であると言う事情から、羽川翼は伊織に対して、親しげに対応してくれていた。それが余計に、気が抜ける。まるで伊織がまだ『普通』だった時代に戻ったかのように——戻ってしまったかのように、腑抜けそうになる。
けれど——
けれど。
真実のところ、腑抜けてなんていられない。
なにせ今、伊織と羽川翼は——
「そうならないために——私も一応、いろんな人に
にっこりと笑って、彼女は言う。その笑顔に思わず絆されそうになるけれど——それが。
伊織にはなんだか、恐ろしかった。
ふ、と。気を抜けば。
もし哀川のおねーさんが襲ってきたら、
そんな危険な魅力が——羽川翼にはあった。
(この人は——一体何者なんだろう)
伊織が『零崎』であるからこそ。
それを想像することにさえ、奇妙な予感を感じる。
一歩踏み込めば。
行き着くところまで行ってしまうような——
そんな危うい予感を。
「翼ちゃんは」
だからこそ、伊織は深く考えることもなく、その言葉を口にする。
「なんだか、ちょっと怖いですね」
なんてその言葉が、彼女に一体どんな影響を与えるのかも——知らないままに。
少女たちの午後は過ぎて行く。
穏やかに。
麗らかに。
淑やかに。
涼やかに。
少なくとも、表面上は。
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