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電車のドアが開いた瞬間、哀川潤は猛然と飛び出した。ともすれば光さえ置き去りにしてしまうんじゃないかなんて、そんな錯覚さえ覚えるほどの素早さで、彼女は列車を飛び降り、駅のホームをかける。青いカモノハシのマスコットが特徴的な、関西圏をホームとするICカード、ICOCAを自動改札に叩きつけ、コンクリート造りの駅構内を駆け抜ける。
「ぷに子ちゃんよ、羽川翼は今どこにいるんだい?」
スマートフォンを耳にあて、彼女は問う。その答えは、しかし意外なものだった。
「『——現在演算中です』」
「あ?」
先ほどはすでに、羽川翼の居場所を特定したと言っていたはずだった。それが——どうして今更になって?
「『失礼致しました、お姉様。正確な情報をお伝えします。羽川翼の現在地に該当する場所は——現在、
「は——?」
その言葉に、衝撃を覚えつつ——哀川潤は、さらに目を見開くことになる。
「——どういうことだ」
目の前を、
腕を組んで、仲睦まじく——二人の羽川翼が。
「時計を持っているのはだーれだ、ってことなんだよね」
背後から現れた鉄牙るるが言う——
「……そんなん、ありか?」
流石の哀川潤も、それには頬を引き攣らせる。徒競走、なんてレベルでは全くない。とんだ
「ありに決まってるんだよね。鬼ごっこは何も——徒歩限定とは言ってないんだから」
氷のような表情で、彼女は冷たく言い放つ。
「改めて、ルール説明しとこっか。捕まえてもらうのは、
ってわけで。
「改めて、用意スタート——なんだよね」
走り出した鉄牙るるの
全力も全力の疾走をかけて——息を切らしながらも。
哀川潤は笑う。それはイコールで、彼女が正真正銘のピンチであるという意味でもあった。
「ふざけてくれるぜ、翼ちゃん」
走りながら、道中を見渡す。
一体いかなる道理によるものなのか——宇治市の住人は今や、
それは幻覚や認識操作なんかではない、物理的な変化として、だ。
事実上——トランスファによる有利を潰されたに等しい。
あくまでも、カメラやマイクを頼りとして羽川翼を追っている以上、同型同音の対象が無数に存在すれば、必然——その居場所を特定することなど不可能になる。
もちろん、行動や会話の内容などから、本物とそれ以外を区別することは不可能ではない。ないはずだけれど——
「この後どこに行く、翼ちゃん?」
「そうだね、せっかくだし宇治上神社にでも行ってみようか、翼ちゃん」
そこかしこで行われる——異様な会話。
つまりこれらの住人が
「想躁術——だな、こりゃあ」
哀川潤は理解する。
それは裏世界においても禁忌に等しい六つの名——
人間の精神を操作する、邪悪なる技法。
まさか街全域を対象に、それを発動させるなんて
「最悪だよ、羽川翼」
哀川潤は引き攣った笑みを浮かべる。
今、宇治市の住人たちは
それならば、その認識の原因である想躁術を、順々に解除していけば、いつかは本物の羽川翼を特定することも不可能ではないのだろうけれど——その方策は、追跡者の存在が邪魔をする。
「逃がさないんだよね、哀川潤」
鉄牙るるは、執念深く哀川潤を追い続けていた。付かず離れず——疲れず逸れず。一定のペースでバイクを蒸し、哀川潤に追従し続けている。
彼女の存在があるからこそ、哀川潤は、悠長に想躁術を解除して回る暇がない。
常に全力で移動し続けなければ——追いつかれてしまう。
だからこそ——
「わははっ!」
哀川潤は笑う。
そして——
「羽川翼がいっぱいいるってんなら——」
ば、と。手を伸ばす。
「——片っ端からタッチしていきゃいいってわけだ!」
ボーナスゲームだぜ、なんて叫びながら、彼女は道行く羽川翼たちに、次々と手を触れていく。
「お手付き禁止とは言われてねぇからな——総当たりだぜ」
物理的なブルートフォースアタック。考えることを放棄して、
「んなっ——」
それに驚いたような声を出すのは、背後の鉄牙るるだった。
「おうおうどうしたよるるちゃん。まさかこの程度の攻略法、想定してなかったとは言わねぇよなぁ?」
シニカルに笑って、哀川潤は言う。
「もちろん——想定してるに決まってるんだよね」
と。彼女が言った瞬間——
脇道から、
哀川潤は、転がるようにしてそれによるタッチを避ける。
「こっちも本物以外はタッチされても無効だけれど——誰が本物かはもちろん、教えてあげないんだよね」
現れた、
「面白い——たかだか増えた程度であたしを捕まえられるってんなら、やってみろ」
彼女は言いながら——ギアを一段階引き上げる。彼女は加速しながら、しかし考える。
本物の羽川翼は、果たして何を考えているのか、と。
■■
「るるちゃんよぉ、聞きたいんだけどさぁ!」
宇治橋通り商店街を駆け抜け、道ゆく羽川翼にタッチし続けながら、彼女は背後の鉄牙るるに聞く。バイクのエンジン音に負けないように、大声で。
「このゲーム、『タッチされたのに黙ってる』ってのは、もちろんナシと考えていいんだよな!?」
その疑問に、鉄牙るるは素直に頷く。
「もちろんナシなんだよね。もしも羽川翼自身がタッチされたなら、その時点でこちらは素直に負けを認める」
「でもさ、それってのは保証がねぇだろ?」
羽川翼の群衆は、彼女にタッチされるたびにきゃあと可愛らしい悲鳴を上げるが、ゲームの終了は告知されない。
「極論、黙ってられたとしたってこっちは確かめようがない状態なわけじゃねぇか。こっちとしちゃあ、口約束だけじゃ安心できないね」
「それはもちろん理解できるんだよね。だからこそ——あなたの読心術がその証拠になるんだよね。本物の羽川翼は
「へぇ、悪くないね。しかしそれならよ、逆にあたしの方が、実際はそうじゃないのにも関わらず、『こいつは今あたしにタッチされて負けたと思った』って主張すりゃあ、私の勝ちになっちまうんじゃねぇの?」
「愚問なんだよね。哀川潤が——そんなチンケな真似をするわけがない」
自信満々に言われた言葉に、哀川潤は思わず笑う。
それはまさしく大当たりだ。口ではそんなことを尋ねながらも、哀川潤にはそれを実行する気などさらさらなかった。
「オーケイ。その条件で納得したぜ。それじゃあ改めてゲームを楽しむとしようかね」
言って——彼女はまず、自分の不利を埋めることにした。
すなわち——自分が一人であるという不利を。
「ぷに子ちゃん」
「『はい、お姉様』」
「この周囲で、あたしから
「『承りました』」
わずか一秒も置かず、ぷに子は精査した情報を、哀川潤のスマートフォン上に表示する。走りながら、彼女は横目でそれをみた。
「うげぇ、結構多いな」
「『六十六件です』」
「今はコロナ禍だっつーのに出歩く人間の多さときたらよ。じゃあこのうち、乗り物に乗ってるやつは?」
「『四十八件。うち自転車が九件、車が二十一件、電車が十八件です』」
「電車ぁ?」
「『はい。JR奈良線の利用が十一件、京阪中書島行きの利用が七件』」
「そうかい、エリアは宇治市全域だもんなぁ!」
宇治近郊、ではないのである。一つの市そのものが範囲内なのだ。
「『追跡いたしますか?』」
「いや、いらねぇ」
遠ざかるもの、だけで抽出するのは無理がある。移動速度や距離から見ても、全てを網羅するのは難しいし、そもそもその中に本物の羽川翼がいるとも限らない。ならば——
「ぷに子ちゃん」
「『はい、お姉様』」
「
その言葉に——由比ヶ浜ぷに子はきっかり一秒沈黙した。
「『承りました』」
演算もまた、わずか一秒。その後に、スマートフォンに表示されたのは——
「『検索結果は六件です』」
「よし」
ビンゴ——と心の中で喝采する。現代社会で、スマートフォンを持たない人間など殆どいない。だからこそ、それを持たないならばそれは特異な特徴として浮き彫りになる。
それは光と影の関係性。トランスファに対する対策そのものが、最大のアラートとして作用してしまうのだ。
「じゃあその中で、
哀川潤は考える。なぜスタート地点を宇治に固定したのか。なぜ電車を降りた時点から開始だったのか。
それは、
自然界における競争では、真に捕食者から逃れたいのなら、ただ徒に隠れ潜むのではなく——その捕食者を
だからこそ、
「『検索結果は——二件』」
答えは。
「『
哀川潤はその言葉を聞いて——即座に反転する。追い縋る鉄牙るるのバイクを高跳びの要領で飛び越して、着地。逆走。そこには——哀川潤から逃れようとする、
そのうちの片方が——逃げられないと見てか、スカートの下から殺人的な大鋏を取り出したのを見て、哀川潤は、そのもう片方に狙いを定める。
「——つーかまえた!」
鋏を取り出した羽川翼を文字通り蹴り飛ばしつつ、もう片方の羽川翼の肩を叩く。そして——
「それは、こっちのセリフなんだよね」
ぱん、と。
肩に置いた手を、
「タッチ。哀川潤、捕まえたんだよね」
羽川翼の顔が、とろりと溶け落ち。
その内側から、
「は——?」
思わず、現実を見失ったかのように、大きく目を見開く哀川潤の背から——声がかかる。
「つまり、こういうことですよ、哀川さん」
振り返れば——彼女を追っていた、
その内側からは——当たり前のように
「キャスリング、なんだよね」
本物の鉄牙るるが、自慢げに言う。
つまりそれは、単純明快にして究極の必勝法。
羽川翼は鉄牙るるに化けて哀川潤を追い、鉄牙るるは羽川翼に化けて哀川潤に追われる。そうすることで、自然——
「——やられたぜ」
宇治市という広大なフィールド。ばら撒かれた膨大な羽川翼。バイクという反則じみた追跡手段。変則鬼ごっこという追い追われることを意識させるネーミング。全てが全て——この入れ替わりトリックから目を逸らさせるための策だった。
羽川翼。げに恐ろしきはその頭脳と、
もしも初見——鉄牙るるを装って哀川潤に接触した時に、
顔を偽り、己を偽り、真正面から物理と電子——二つの世界の最強を、まんまと騙し切ってみせた。
その鮮やかなる手口を恐れずして、他に何を恐れるべきか。
哀川潤は笑う。
新たな好敵手の——出現に。
「これで、演算リソースの三分の一はこちらのもの、ですね」
バイクから降りて、地面に転がった羽川翼——の皮を被っていた無桐伊織を介抱しつつ、本物の羽川翼は言う。
「『——承りました。演算リソースの三分の一を、解放します』」
哀川潤のスマートフォンから、そんな言葉が聞こえてくる。これは意外なことだった。哀川潤としては、由比ヶ浜ぷに子がちゃぶ台返しで約束を反故にする可能性だって考えてはいたのだけれど——彼女がそれをしなかったのは、羽川翼の評価を上方修正したからだった。
由比ヶ浜ぷに子にとって、
だからこそ彼女は素直に、約束を履行した。そのようにして——羽川翼の用意した盤上のルールに、従った。
「翼ちゃん」
「なんでしょうか」
「次は、負けないぜ」
哀川潤は——まるで世界を滅ぼすような、凶悪な笑みを浮かべてみせた。
「次も、負けませんよ」
羽川翼は——笑わない。
「それでは、今回は、これにて」
なんてぺこりとお辞儀をして、去っていく羽川翼の背を——二つの最強は見つめる。
かくして、彼女らは敗北した。
少なくとも、今日のところは。
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