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先手必勝、と言う言葉がある。
この言葉はある意味で正しい。
たとえばそれこそ、先手後手と言う分類のある対人遊戯であれば、先手側の優位性はほとんどのそれにおいて明らかだ。相手の行動を縛り、こちら側の行動への対応を強制させる。先手側はほぼ無限に等しい選択肢を持つのに対し、後手側は必ず、先手が起こしたアクションを鑑みて、それに対応できる一手を打たなければいけなくなる。
これは何も盤上遊戯に限らず——現実の戦闘においても全く同じことが言える。
基本的に、政治的な要因が絡み始める戦術戦略と言う規模でのそれを度外視した、純粋な戦闘において、
大前提として、それは
人間は死ぬ生き物だ。
それは機能として、そもそも、人間のシステムの内側に、死が存在している、という意味で、言い換えれば——正常な機能として、死ぬことが前提として組み込まれている。
だからこそ、基本的に、多くの戦闘というものは、その大半が
頭を潰されれば、首を切られれば、心臓を撃ち抜かれれば、肺を穿たれれば、肝臓を刺されれば、酸素の供給を止められれば、大量に出血すれば——
人間は、容易く死ぬ。
そして、人間の
それこそ——ナイフ一本で、人は殺せる。
だからこそ、
ただし。
零崎人識には、二つ、考えるべきことがあった。
一つは戦場に出てくる者が、必ずしも戦闘者であるとは限らないこと。
そしてもう一つは——先手必勝の語源となった、「先んずれば人を制す」と言う言葉を生み出した殷通は、それを言った直後にこそ殺されているということだ——
◆ ◆
必殺の意思を込めて、零崎人識は飛びかかった。猫が鼠を仕留めるように。あまりにも素早く、爆発的な一撃。
捜査本部室内は広く、相対する恐寺単千代が部屋の奥の机の上に立っていると言う位置関係上、距離はそれなりに遠かった。
だが、それが何の障害になると言うのだろう?
零崎人識。恐ろしきは、その天賦の才。
わずか一歩。すでに観覧者は処分されたあとであったが、もしも誰かがその光景をみていたならば、外側からは、そうとしか見えなかっただろう。
ほとんどわずかの時間経過もなく、人識は一拍で距離を詰めた。机の上に佇む単千代は、反応さえもできないままに棒立ちしている。
腕を振るう、と言う意識さえもなく、自らの体の延長線上にあるナイフを、疾風の如き速度で単千代の首筋に叩き込む。
それは間違いなくその肌と肉を裂き、頸椎の隙間を正確無比に貫いて頸動脈を引き裂く——はずだった。
その一撃を避けられたのは、ほとんど偶然に近かい。
零崎一族の特異体質。殺意に対する超反応。それが
だからこそ、間違いなく、それが致死の一撃であったと気付いたのは、飛びかかる人識が咄嗟に空中で体を捻り、その結果として——目測から遠ざかり、手前の床に無様に転がってからのことだった。
ダァン、と言う炸裂音は、三回響いた。厳密には、最初の一つは音速を超えた弾丸が起こしたソニックブームであり、最後の一つは、その弾丸が床に着弾した音だった。
では残る中間の一つはと言えば——
放たれた弾丸が室内の柱の角にあたり、
「な——」
人識は、思わず声を上げる。
転げた姿勢からは、もう起き上がっていた。床に叩きつけられた程度で、動きが止まることはありえない。ましてや——戦闘中だ。跳ね起きた人識は、しかし
(今の銃弾は、間違いなく
壁に当たって跳ねる前の弾が——
それならば、殺人鬼としての超直感に頼るまでもなく、銃口の動きや視線で看破できる。
だからこそ、それができなかったのは。
銃口が、
反射的に撃ったのだ、と思った。
人識の速度に対応できず、思わず出鱈目な方向に——それこそ怯えて悲鳴を出すのと同じくらい反射的に、狙いもつけないまま引き金を引いてしまったのだ、と思った。
跳弾を計算に入れた、精密射撃を超える超精密射撃。完全に無警戒だった零崎人識は、咄嗟に霊感が働かなければ、間違いなくその頭蓋骨に風穴を開けられていただろう。
「おやおや、いかがなさいましたか、零崎人識様」
余裕綽々——でさえもなく。
冷や汗を背筋に伝わせる人識とは対照的に、汗ひとつかかず、それどころか——
眉ひとつさえも動かぬ、能面の様な表情のまま、恐寺単千代は、小首を傾げた。
「恐れ多くも、単千代は殺人が不得手にてございまして、お恥ずかしい限りではございますが、床を血で汚してしまっております。お先に、お気をつけてとご注意をさせていただくべきでございました。まことに申し訳ありません」
もちろん、人識は血で足を滑らせたわけではない。そんな素人同然の不様を晒せるほどの無能であるのなら、とっくの昔に死んでいられる。
そうでないからこそ、零崎人識は生きてきたのだ。
少なくとも、今日この日この時までは。
「銃使いとは、傑作だな」
立ち上がって、人識はナイフを構え直した。
それは先ほどまでとは違い、防御としての構えだ。
もしまた先ほどのような射撃が来れば、弾いて切り抜ける——そのような意図が含まれた、待ちの姿勢。
一言で言えば——零崎人識は、守りに入っていた。
その様子を、やはりまるで理解できぬとばかりに小首を傾げたままで、恐寺単千代は、じっと見ている。
「はあ。恐れ多くもお聞かせ願えるのならば——この単千代の銃の扱いに、何かおかしな点がございましたでしょうか」
そう言う意味じゃねぇ、と言ってやりたかったが、しかしある意味で、おかしい点があったかと聞かれれば
まず——純粋に、意図的な跳弾で何かを狙って撃つと言うのは至難の技だ。
銃弾というのは、その様な使用を想定して作られてはいない。
あくまでも直線距離上にある対象を撃ち抜くための機構で、何かに反射させることが可能な作りにはなっていない。
音速以上の速度で銃弾を飛ばすと言うシステム上、基本的に飛ばされる側の銃弾にもまた、着弾時には凄まじいエネルギーが襲いかかる。
人体の様な脆い構造でさえ——骨などにあたれば銃弾側も砕けてしまう場合があるし、そもそも物によっては、当たった時に砕けることを前提としてその破片をばら撒くことに特化した弾丸なんてものもある。
砕けるまではいかないにせよ——銃弾とて不壊の金属というわけではないのだから、多かれ少なかれ衝撃を受けて歪む。そうなれば——どのような方向に飛んでいくかなど、予測できるはずもない。
いずれにせよ——壁や柱に弾丸を当てて、それを反射板として跳ね返らせるだなんて神技は、文字通り神でもなければ不可能な技だ。
だと言うのにも関わらず、眼前の少女はそれをこともなげに——あまつさえ動く対象を正確に狙って行った。
(いや——動く対象を狙って、でさえもない)
人識は思う。
動く対象の、
そんなのは——神技すらも超えた、怪物の業だ。
「……なかなかとんでもねープレイヤーじゃねぇか、単千代さんよ」
挑発の意図さえ無い純粋な称賛。そして諦念の声でもある。
相手が跳弾を利用する銃使いであるならば、室内と言う領域はあまりにも分が悪い。
(外に出るか?)
一瞬、人識の意識が窓に向く。
しかし、遮蔽物のない外へ出た人識を、相手がわざわざ追ってくれる理由は一つもない。
室内から、普通に、狙い撃ちにすればいいだけだ。
それに何より、人識に遠距離攻撃の術はない。
人識の殺人技術はあくまでもクロスレンジに特化した物で、ロングレンジの撃ち合いでは、防戦一方になることが確定している。
(なら——)
人識が選んだのは後退だった。
「おや」
意外、とばかりに声が上がるも、そんな声は無視する。
人識は極力、的を減らすように身を屈めて、転がるように部屋を出た。
完全に視線を切ってから、脇目も振らずに全力疾走する。
廊下を走り抜け、角を曲がり、さらにそこにあった部屋のドアを潜って——ようやく、振り返った。
「……」
弾丸が飛んでくる気配は——ない。
「逃げられた、か?」
あるいは、
後者であれば、屈辱的なことであるが——同時に、隙もあると言うこと。
前者である方が、人識としては、かえって恐ろしい。
「恐寺、単千代——ね」
その名の通り、あまりにも恐ろしい相手だ。
恐れ多くも、なんて、まさしくこちらのセリフでしかない。
何より恐ろしいのは——
「あの拳銃」
彼女が手に握っていたそれは——
「——動くな」
と。
脳裏に銃の形状を思い浮かべていた人識の思考を、低い声が遮った。
「あ?」
振り返れば——そこには。
拳銃を構える
(あ——そうか)
当たり前の話だが。
ここは警察署だ。
警察署には当然——警察官が務めている。
恐寺単千代が虐殺せしめたのは、あくまでも京都市連続殺人事件の捜査本部の人員(プラス人識の案内役の警官一人)だけだった。
それ以外の人員は——当然。今もまだ署内に詰めているのが当たり前で——けれど。
「待ってくれよおまわりさん。今そんなことしてる場合じゃなくてだな——」
「黙れ! 武器を捨てろ!」
パン、と上に向けて空砲が放たれる。これで次は実弾だ。当然、警察官とは言えプロのプレイヤーからすれば素人同然の相手が放つ弾丸など、軽々と避けられるわけだが——
(今、あいつに来られたら——)
そんな嫌な想像ほど、けれどよく当たるのが人生だった。
「ここでしたか」
空砲の音を頼りにしてか。
人識の背後の扉を開けて、恐寺単千代が室内に入り込む。
人識は咄嗟に転がるように扉の前から離れ、付近のデスクの陰に隠れる。
突如現れた少女に対し——
「な、なんだお前は!?」
警官は動揺の声を上げる。
それも当然だろう。
場に似つかわしくない和服の少女。それが手に持っているのが、
ニューナンブは、日本警察の正式装備として採用されている拳銃だ。
つまり彼女は、今まさに——
「じゅ、銃を捨てなさい!」
人識に言ったよりも言い方が和らいでいるのは、決して相手が少女だったからと言うだけのそれではないだろう。
距離を詰められない限りは凶器としてその性能を発揮されないナイフに対して、拳銃は、同じロングレンジで攻撃してくる。
素人はそう考える。
だからこそ、ナイフを手に持っていた人識よりも、銃を手に持っている単千代をこそより大きな脅威と想定したのだろう。
警官は一層厳しい声で「銃を捨てろ!」と叫んだが。
「……?」
恐寺単千代は。
ただ首を傾げるだけで。
あまつさえ——
「なぜ、おらが貴方様の言葉に従う必要があるのでしょうか」
と、心底不思議そうに言って、しげしげと、手に持つ銃を眺めた。
それを見て——とうとう。
「う、うわあああ!」
耐えきれなくなった警官は、引き金に指をかけた。
瞬間。
どう、と。
響いた銃声は、警官の銃によるものではなかった。
構えることすらもせず。無造作に持ち上げていた、単千代の拳銃。
その引き金は引かれた後で——
「あ、ぱ……」
放たれた銃弾は、ダン、ダンと、二回の跳弾の音色を残し——警官の眉間を、克明に穿っていた。
「……不思議な方でしたねぇ」
雉も鳴かずば撃たれまい、と言う言葉が、人識の脳裏に浮かぶ。
「さあ、零崎人識様。続きを致しましょう」
そんな声が、まるで平坦な声色で響き。
「全く、傑作にも程があらあなぁ」
零崎人識は、机の陰で小さくつぶやいた。
殺人鬼も殺し屋も人類最強も欠陥製品も関係ない、現実の世界にやってきたと言うのに——物語は未だ、零崎人識を離してはくれないらしい。
あるいは。
零崎人識の目前に広がる現実は、血に塗れているべきだと言うメッセージか。
いずれにせよ——
状況は最悪。形勢は劣勢。
敵はごく一部の例外を除けば過去類を見ないほど高みにあるプレイヤーであり、そしてそれに相対する零崎人識に与えられた武器は、たった一本のおもちゃのようなナイフと、そしてわずかばかりの、敵愾心だけだった。
(ま、それでもいいさ)
零崎人識は、けれどあっけらかんと笑って見せる。
絶体絶命の状況に追い込まれてなお——彼はどこまでも、人間失格。
(決め台詞が二度目じゃカッコもつかないが——待ってな。恐寺単千代。すぐにあんたを——)
殺して解して並べて揃えて晒してやんよ。
不敵に言って、人識は机の陰から飛び出した。
あるいは。
人を殺すには、それで十分だと言わんばかりに。