◆ ◆
数分、あるいは数時間。
いずれにせよ——その体に、隠せぬほど疲労が蓄積した頃。
零崎人識は焦れていた。
(なんつーか)
警察署内に、すでに生きている人間は二人だけだ。
かつては、おそらくはいずれかの部署の事務方だったのだろう、密集するデスクに堆く書類が積まれた一室。入口と真逆になる窓際の机の陰に隠れて——零崎人識は息を殺していた。
(
違和感——というよりも、不和感。
この感覚は、かつて味わったことがある。
かつて戦った、最悪に等しくまるで程遠い破綻のような六人衆——裏切同盟。
暴力の世界にその名轟く恐るべき殺戮の名——
それら
かつて、零崎人識は彼らと戦った。
あるいは
そして今の状況は、その時と
(戦ってる、というよりも)
未知の何か。あるいは、既存のルールを超越した
そのような、零崎人識の
二十四回。
零崎人識が、恐寺単千代を
手元にあるのはせいぜいバタフライナイフとはいえ——歴戦のプレイヤーにして、おそらくは人類史上最高峰のナイフ使いであるところの零崎人識からすれば、さして戦闘巧者とは
ところが——
(俺は奴を殺せていない)
それは零崎人識が、数々の戦いを経て、殺人鬼として
殺意がなくとも、
恐寺単千代は、弱い。
超人的な身体能力があるわけでもなく、超越的な策謀能力を持つわけでもない。
極めて普通の、見た目通りの少女のようで。
だからこそ——恐ろしい。
(武器が通じないわけじゃない)
かつて零崎人識が戦った呪い名の中には、罪口という武器商人の一族がいた。
彼らはその特異体質として、
が。
恐寺単千代を殺せない理由は、
ふう——
と。
息を深く吐いて、零崎人識は体を弛緩させる。それはまさしく勘としか言いようがない予兆。数々の戦いを経て、零崎人識の脳の内側に刻まれたパターンの積み重ねによる言語化できない予測。
最速の攻撃は、脱力からこそ放たれる。
——ガイィイン、と。
鋼と鋼がぶつかる、不愉快な音色。
それは零崎人識が、ナイフを振り抜いた音色であり——そのナイフが、飛び込んできた銃弾とぶつかった音色でもあった。
「恐れ多くも、石川五ェ門の如しでございますね、零崎人識様」
声は入口から聞こえた。
銃声に追い縋るように。
零崎人識は、まだ机の陰に隠れたままだ。
なのに、
——跳弾。
超精度のそれが、窓枠のアルミサッシを反射板として、入口から人識へと弾丸を届けさせていた。
(——あり得ねぇ)
銃弾の扱いに長けたプレイヤーとは、かつて戦った覚えがある。
思い出すにも苦い記憶で、半ば封じていたけれど。
それはリボルバーを両手に戦う拳士であり、拳による近接格闘と銃弾による制圧を両立した壮絶な格闘術だった。
そう、あくまでも——格闘術だ。
プロのプレイヤーの世界で、銃弾を扱うのは素人の証である。
ある種の超長距離射撃を除き——ほとんどの銃器は、一流のプレイヤーにとって何の脅威にもならない。
銃を構え、狙いをつけ、引き金を引く。
その一連の動作は、人外魔境の暴力の世界を生き抜く猛者たちにとっては、あまりにも遅すぎる。
そんな手間をかけるくらいなら——拳を振り抜くだけで、銃弾よりも遥かに素早く、また遥かに破壊力の高い一撃を相手に与えることができる。
だからこそ——数ある銃器の中でも、特に殺傷能力の低い拳銃は、一部の極まったプレイヤーが戦闘補助として使う以外には、プレイヤー同士の戦闘の中に、介在する余地もない
はずだ。
はずなのに——
(どうして)
「
その声は、思ったより遠くから響いている。それはつまり、声の主が、入口付近から一歩も動いていない証拠だった。
あるいは、きっとあの能面のような無表情で。
こともなげに、佇んでいるのだろう。
実のところ——
(それは図星だ)
あの少女——恐寺単千代は、異常なほど巧く拳銃を使う。
ニューナンブ。警察の標準装備である、豆鉄砲の代名詞。犯人逮捕のため、人権重視のお題名を掲げ、殺傷力を極力落とした九ミリパラベラム。射程距離、威力ともに、お世辞にも褒められる銃ではなく。また何より、
(撃ってほしくないところに撃ってくる)
それが、彼女の銃弾だった。
だからこそ。
「その秘訣を教えてくれるってんなら、教えてもらいたいもんだね」
零崎人識は——あえて立ち上がった。
物陰から脱し。
姿を晒して、相対する。
恐寺単千代は。
予想通りの、無表情だった。
「恐れ多くも、さすがの勇気でいらっしゃると賞賛させていただきとうございます」
まるで恐れなど感じていないだろう表情で、彼女は言う。
「その勇気に敬意を表して、恐れ多くもお答えさせていただきますと——おらは別段、拳銃を巧く扱ってなどいないのでございます」
その言葉に——人識は、ある種の安心を覚えた。
あるいは、その答えを、人識はすでに予想していたとさえ言える。
——都合二十四度、零崎人識は単千代を殺せると確信し、そしてその確信を実行に移し——その度に、
狙いなど、定めていないように見える銃の一発。それが巡り巡って、人識の致命傷として襲いかかってくる。
それから
殺す側が殺され、殺される側が殺す。
都合、二十四度の逆転劇。
その全てに、零崎人識は敗北していた。
人識は思う。
どんな戦闘巧者であっても、あれだけ的確な射撃を、戦闘の中——それも予測不能の動きによって猛スピードで自分を殺しに掛かってくる相手を前に、放つことなど叶わない。
精密射撃は、誤差に殺される。
跳弾を利用した射撃など、わずか一ミリ、銃口が逸れただけで狂うのだ。
そして、
「そんなこったろうとは思ったぜ。
なんて、それが冗談で済まないことが、最大の脅威なのだけれど。
人識は内心自嘲する。
曲弦糸。
かつて零崎人識が、とある相手を殺すために身につけたスキル。
目に見えないほどの極細のワイヤーを使い、時に相手の体の自由を奪い、時にその体を
人識が使えるのは、大元の山一つを覆って余りある人外技に比べれば遥かに劣化したものであるとはいえ——それでも、放たれる寸前の銃口をたった数センチずらす程度、わけもない。
そして——無警戒に部屋に入り込んできた間抜けの、首を刎ね飛ばすことも。
「そうなってない、ってのが、最大の証拠ってとこか」
人識は、両手をポケットに突っ込んだ。
「殺意の反射。あるいはもっと直接的に、攻撃の反射、か? レーベル違いのロリコンみてーにそのままはねっ返すってわけじゃあなくて、
リフレクトならぬ、カウンター。
被食者と捕食者、殺人者と被害者。攻撃者と防御者。その全てを入れ替える、人外魔境の因果逆流。
それが、恐寺単千代の呪いの正体だ。
先ほど。
人識は扉を開けた単千代に対し、即座に攻撃を仕掛けた。極細のワイヤーによる、首狙いの一撃。成功すれば、間違いなく絶命に足る一撃であり——だからこそ、その瞬間に訪れた銃弾は、
「恐れ多くも——お見それしました、と称賛させていただきます」
恭しく。
彼女は一礼する。
そのあまりにも隙だらけの仕草を、けれど人識は狙わない。
狙えない。
狙うことなど——できようもない。
「おらが身は、呪われております。おらが今の未熟の身より、遥か幼く柔い頃より、おらはすでに
彼女は語る。一縷の感情さえも見せぬままに、淡々と。
「おらを殺すものを、殺してしまう。決して望んでではございません。ええ、ございませんのです。ですがどうしてか——おらは
一体、どうしてなのでしょうね——なんて。
人識が教えて欲しいことをそのままに呟きながら、けれどあくまでも無感動に、能面のような無表情のままで、彼女は無情にも、首を傾げた。
事実上、彼女を攻撃することは、自分を攻撃するようなものだ。
鏡を相手にする、なんてレベルでさえなく。
自傷を超えた、自滅行為。
彼女と敵対しようと思うのならば、それを超える術を持ち出さなくてはならない。
「しかし、人識様」
「何だよ、単千代ちゃん」
「まあ、ちゃん付けで呼んでいただくなど——恐れ多くも恥ずかしゅうございます。この恐寺単千代、今年で三十路を迎える身にて、もはや女子として扱われるには、とうの立ちすぎた老婆の身にございます」
昨今の晩婚化を思えば殺されても文句は言えないだろうセリフを吐いた彼女だけれど、衝撃を受けたのは人識もだった。
こいつ、この見た目で三十路かよ。
メイド服を着せれば、どっかの欠陥製品が喜びそうだ——なんて、思考の散乱は。
間違いなく、致命的な油断だった。
「おらの身に刻まれた呪いと、捧げさせていただきます滅殺は、あくまでも別の技巧にてございます」
がは——と。
血を吐いたのは、人識だった。
(何が起こった——)
予兆は全くなかった。単千代は人識に対して、なんのアクションも起こしていない。それは今この室内を曲弦糸の結界で覆っているからこそなんの疑いもなく確信できる。
恐寺単千代は、指一本動かしてすらいない。
だと言うのに——
人識は血反吐を吐いた。腹部に迸る激痛と、喉を焼く胃酸の混じった感触。吐き散らした血から僅かに香る刺激臭。呼吸に問題がないと言うことから考えても、胃ないし消化器系からの出血であることは間違いないようだが、ダメージが出ているのはそこだけではない。
背筋に走る寒気と、異様なほどの手足の震え。激しい動悸。眩暈。全身から溢れる冷や汗。耐えきれず、人識はその場に膝をつく。
取り落としたナイフが床にぶつかる音が、どこか遠く聞こえた。
(毒か?)
その場に崩れ落ちながら、最初に疑うのはそれだ。
かつて彼が相対した裏切同盟の一員にも
その時の経験から言えば、毒、と言う攻撃手段に対し、人識は対抗手段を全くと言っていいほど持っていない。
この警察署に立ち入ってから茶の一杯すら口にしていない自分にだって、毒を仕込む隙はいくらでもあっただろうと推察できるし、場合によっては、空気そのものに毒性のある物質が散布されていた可能性だって考えられる。戦闘が始まるよりも前からそのような攻撃を受けていたのなら、人識にそれを防ぐ手段はなかっただろう。
だからこそ、それは最も信憑性の高い原因に思えたのだけれど——
(それにしちゃ——)
——タイミングがおかしくないか?
記憶を振り返る。
一番初め、単千代と捜査本部で出逢った時、彼女は人識の背後にいた警官を殺害した。人識はてっきり、それは単千代のオートカウンターが発動したものだと思っていたのだけれど——今にして思えば。
(あの死に方は、今の俺と全く同じだ)
突然、大量に吐血し、そしてそのまま倒れ伏す。
それが単千代による攻撃であったことは間違いない。しかしだとするのならば、それは
それが毒による攻撃だったのならば、その場にたまたま居合わせた相手に対し、任意のタイミングで毒の効果を発揮させるなんてことは、どう考えても不可能だ。
(毒ではない、のだとすれば——)
人識は必死になって可能性を考える。
——考える?
(なぜ、俺はまだ考えることができている?)
再び机の陰に、意図せずして隠れる形になりながら、人識は思う。
吐き散らした血。漂う鉄臭。もしもこれが致死性の攻撃であるのならば、人識はとっくに死んでいるべきはずだ。それが——崩れ落ちてなお、意識は連続したまま、気絶することさえもない。
(——そうか)
血溜まりの中、紅の鏡面に反射する自分の顔の、あまりの情けなさに——人識は笑った。