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「——お顔が見えないと言うのは、寂しいものでございますね」
しずしずと、単千代は人識を隠す机の方へと足を進める。もはや糸の結界も、その主を失って崩れ落ちた。彼女の歩みを遮るものはなく、しゃなりしゃなりと着物の擦れる音だけが響いていた。
趨勢は決した。零崎人識は崩れ落ち、もはや立ち上がることさえもできない。かろうじて聞こえた呼吸音から、生きてはいるらしいが、それならばあとは頭なり心臓なりを、銃で弾いてやればそれで終いだ。単千代に射撃の心得はほぼ全くと言っていいほどないが——なに、銃口をピッタリと貼り付けて撃ち込めば、外すことなどありえまい。
そう思い、彼女は机の陰へと歩を進め——
「——え?」
そこに、零崎人識は
立つ鳥が濁した湖面のように、血溜まりだけを残して、彼は跡形もなく——消え去っていた。
「一体どこに——」
「動くな」
視線を彷徨わせようとした単千代の首筋に、背後から、ナイフが添えられる。それは彼女の肌に傷ひとつ付けず——ゆえにこそ、彼女はそれに
単千代は、無表情のまま——息を呑む。
「ど、どうして——」
「どうして俺があんたの背後にいるか、って?」
かはは、と軽快に笑いつつ、人識は話を続ける。
「なんてことはねぇ、あんたが近づいてくるのは音でわかったからな。そのまんま、進んでくるのに合わせてこっそり机を裏周りしただけさ。隠れんぼじゃあ必須テクだぜ」
「恐れ多くも、それはどちらかというと反則寄りなテクニックであるような気がしますが——ではなく」
人識のペースに乗せられかけながらも、単千代はそれを取り戻す。
「恐れ多くも、おらがお聞かせ願いたいのは——
一度は血反吐を吐き散らかし、倒れ伏した人識が——なぜ未だ、動くことができているのか。
その答えは——
「んなもん、
かはは、と。
底抜けに、どこまでも明るく笑い飛ばして——人識は、彼女の手から拳銃を奪い取る。
「全く、間抜けにも程があるよな。この零崎人識ともあろう男が——みすみす敵の言葉を信じるなんてさ」
人識は言って、拳銃をくるくると指で回し、自分のポケットに突っ込んだ。
「呪いだのなんだのと、ご大層に言ってくれちゃったりなんかしてたわけだが、タネが割れればなんてことはねぇ。あんたの
脳内干渉——それは読んで字の如く、他人の脳に干渉するスキル。
かつて人識が戦った中にも、全く別の技術系統ではあるが、そのスキルを扱うものはいた。
「本来は拭森のお家芸なんだったか? あいにくと詳しくはしらねぇがよ。いずれにせよ——あんたは、俺の
大脳辺縁——それは脳の中でも、特に情動と本能を司る部位であり、その主な機能の一つとして、自律神経系の制御とホルモン分泌の制御があげられる。
「俺があんたに受けた滅殺——これだって、どう考えても名前負けだけどな。いずれにせよ、あんたから受けた攻撃で引き起こされた症状を、よく思い返してみようか。吐血に目が引かれがちだが——胃の痛み、嘔吐、悪寒、手足の震え、眩暈、動悸、発汗。これってのはどう見ても、
そう、人識を襲った症状は、毒でも病でも外傷でもなく——
「血を吐いたのは、ストレス性の急性胃潰瘍ってとこか。かはは——理由はわかっても傷は消えねぇからな。今も胃の底がシクシク痛くて仕方ねぇよ」
しばらく辛いもんは食えそうにないな、なんて冗談を挟みつつ。
「つまり、あんたは俺の脳に干渉して、
おそらく——
「干渉の条件は
思い返すのは、最初の遭遇。
「よくもまあ、人殺しに理由はいらないなんて大嘘つけたもんだぜ。あんたがあれだけの、
不必要なほど残酷な殺人。部屋一面に広がる血反吐。それらは全て
人識を恐怖させ——
「だが、それはうまくいかなかった。後ろの婦警さんには効果抜群だったみてーだけどな——ま、俺も場数は踏んでる方だ。血の池程度、地獄のうちにもはいらねぇよ。かはは、せいぜいレジャー施設ってとこだぜ」
知ってるか? 血の池温泉って実は富山にもあるんだぜ——なんて毒にも薬にもならない豆知識を披露しながらも、人識は続ける。
「だからあんたはやり口を切り替えた。とにかく俺を追い続けて——
そして、そのストレスが十分以上に溜まった時——彼女は人識を術に嵌めた。
「そりゃあ突然血を吐かされた時にゃあびっくりはしたがね。あいにくと、その程度でパニクるほど平和な神経してねーんだよ。もし、俺があんたに心底ビビり散らしてたなら話は別だったかもしれねぇけどな。富士急ハイランドのお化け屋敷で襲われてたらやばかったかも知れねぇぜ。でも、残念ながらあんたは選択を間違えた。ストレスの掛け方を間違えた。俺を襲う前に、せめて人間シリーズは全巻読破しておくべきだったな。そしたらこの零崎人識君が、
人識を術中に嵌めるには——そのストレスは弱すぎた。
彼の精神の平静は——崩れない。
あるいは——初めから崩れている。
壊れたものは——それ以上、壊しようがない。
「またしても——お見事、と。恐れ多くも、そう称えさせていただくほかにありません。さすがは、零崎人識様でございます。未熟の身であれど、この恐寺単千代、持ちうる限りを尽くしたおもてなしにてございました。それを破られた以上、もはやおらに出来ることはございません」
しかし。
「恐れ多くも——
首にナイフを当て、まるで追い詰めたような姿勢でいるけれど——その膠着は、お遊戯にも等しい見掛け倒しだ。
そのナイフをこれ以上深く押し込むことが不可能である以上、それは脅しとしてさえ成立しない。
けれど、それを指摘されてなお——人識は、かけらも動揺しない。
「だから言っただろ。
その言葉に、単千代の肩が僅かに跳ねる。
「冷静に考えてみりゃおかしいんだよ。あんたのその呪いが本物であるにしたってさ、自分を殺そうとした相手を殺してしまうってんなら、
都合二十四度、人識は単千代を殺そうと試み——その全てに失敗した。
あの勇気ある不幸な警官のように、殺されてはいない。
血反吐こそ吐かされてはいるものの——五体満足で、生きている。
「その答えは、あんたに俺が
「そのような戯言を——」
「ほざいてるのはあんたの方さ。だってそうだろう? あんた、銃がうまく使えないなんて
その言葉に——今度こそ。単千代は、身を竦ませた。
ニューナンブ——正式名称をニューナンブM60。その名の通り、一九六〇年に開発された、現代から数えれば六十年以上前の銃であり、すでに生産終了して久しいにも関わらず、未だ日本の多くの警察官が使用している。威力、射程距離共にお世辞にも良いとは言えない銃であるが——唯一、
誤解されがちだが、この銃は決して名銃とは言えずとも、粗悪品ではない。短い銃身も相まって、一見して集弾精度が低そうなイメージを持ってしまうが、こと短距離——五十メートル以内の射程範囲に限れば、命中精度はむしろ高いのだ。だからこそ、開発から六十年以上経った今でも、現役の武器として使用されているのである。
「あんたは
人識が跳弾による攻撃を受けた時、
人識自身の認識を超えて迸ったそれは、まさしく
「それを自分自身の勘だと勘違いして——だからこそ避けたあと、感じた怖気の大きさのあまり、それが致命傷だったはずだと
考えてもみろよ——
「
つまりは単なる
跳弾を利用した超精密射撃——銃口を逸らしてさえ成立するような因果逆流。
そんな能力は
「しかし——だというのなら、あの警察官はなぜ死んだとおっしゃるのです!」
「んなもん、
あの時、人識は単千代から逃れるために机の陰に隠れ——
「いくら豆鉄砲っつても、銃は銃だ。真正面から撃ちゃあ、
警察官と単千代が正面から相対していた以上、もしも警察官の眉間に跳弾した弾が命中するのなら、その弾は
今、恐寺単千代が生きている以上、そんなことはそれこそ——ありえない。
「な、ならば——あなたがナイフで弾いたあの弾丸は! あれは間違いなく跳弾によるものでしかありえないはずでございましょう! 何よりあの時、あなた様は
アルミサッシを利用した跳弾——それを防いだ時、人識は窓側を向いていた。
「ああ。あれこそうっかりしていたぜ。もし俺が
実を言うとさ——人識は言いながら、奪った銃をポケットから取り出した。
「あの時、俺は
窓ってのは。
「
鏡ほどはっきりとじゃあねぇけどな、なんて、当たり前のことを言いながら。
あの時、人識は窓の反射を利用して、ドアを開けた単千代の姿を目視していた。それにより——奇しくも、脳内干渉の使用条件が
「だから、俺は
だからあの時、零崎人識は——追い詰められてなどいなかった。
ただ、
もしも彼が単千代の姿を見ずにして、曲弦糸による殺傷を試みていたのなら——それは呆気なく成功していたことだろう。
「それが嘘だってんならさ」
人識は。
取り出した銃を、単千代に返した。
「
首に刃を当てたまま——人識は言う。
刃の上に、しとりと。
「あ、ああ——」
震える手で、彼女はそれを構える。奇しくも、構図は先と似て、けれどその前後だけが逆。単千代は、窓枠に向けて銃口を向ける。
ガラスには震える彼女と、彼女の首筋に刃を当てる、
「さあ、撃てよ」
人識は言って——ナイフを振り上げた。
「
ダァン、ダァン。
発砲音に被せて、輪唱するように響く二重の轟音。
放たれた弾丸が、窓のサッシに当たって——
「……はは、お見事。大当たりじゃん」
身を預けるように倒れ込んできた、単千代の顔を覗き込んで、人識は笑う。
冷や汗に塗れ、恐怖一色に染まった彼女の眉間には——跳ね返った弾丸が、見事な一穴を穿っていた。
かくして、戦いは終結する。
第一戦。
『人間失格』零崎人識VS『
誰にも知られぬまま始まり、誰にも見届けられぬまま終わった異色の闘争を制したのは、奇しくも先手必勝の故事通り、我らが零崎人識だった。
恐れるものなど何もなく、震える体すら鬼の身である彼の前に、恐怖使いなど役者不足にも程があり、だからこそこの闘争は、その過程になどなんの意味もありはせず、誰が目にしたところであっても、間違いなく順当な勝利であった。
それはつまり、
曰くして。
先手必勝の故事の元となった殷通は、それを言った直後に殺されてしまったわけなのだけれど——彼が殺されたのは、
結局のところ、先手必勝という言葉は、どのような視点で見たとしても、あるいは正しいと言えるのかもしれない。
だからこそ、この故事から本当に受け取るべき教訓があるのだとすれば——それはきっと、
いずれにせよ。
世界を跨ぎ、現実という名の異界にまろびでた零崎人識は——第一の脅威を退けた。
それは誰の目にも映らぬとしても、確かな開戦の狼煙に他ならず。
ゆえにこそ。
物語は加速する。
誰が望むとも、望まざるとも。