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「助けてくれ」
「……泥んこ遊びは十五歳までに卒業して欲しいんですけどね」
「長い目で見過ぎだろ」
泥じゃなくて血だよこれは——と、とっくに乾いて黒ずんだ汚れを指しながら、人識はため息を吐いた。
対面する彼女は、昨日とは打って変わっての、清廉な白衣。その下こそ私服だが——上物の一枚で、随分印象の変わるものだ。
これが、大学教授サマの威厳、ってやつか、と人識は内心ひとりごちる。——正確には准、なのだが基本的に、アカデミックな場というものはそれこそ十五歳で卒業してしまった人識だ。その違いなど、わかるはずもない。
——基本的に、ほとんどの大学では准教授以上の常勤講師には、専属の研究室が与えられる。つまり萩原子荻が准教授の役職を与えられている以上、この京都大学総合人間学部にも、萩原研究室が存在するのは自明の理だった。
整理の行き届いた部屋、というのが、第一の印象である。
殺風景、という言葉をオブラートに包んで飲み込みながら、人識は椅子に座ったままぐったりと項垂れる。
精魂尽き果てた、とまでは言わないが。
零崎人識は、心底疲れ果てていた。
見た目上の怪我こそほとんどないものの、脳内干渉を受け続けた影響で体の内側はめちゃくちゃだ。おそらくは穴が空いているだろう胃はもちろん、大脳辺縁系をいじられたせいでめちゃくちゃになっているホルモンバランスなども問題だった。
各種脳内物質が異常分泌されていた反動か、今はもう、何もする気が起きない。
正直、他の誰かに見つからずこの研究室にまで辿り着いたことも、今の人識からすれば自分を褒め称えてやりたいくらいの偉業だった。
「あんたなら出来ないってことはないだろ? 頼むよ」
人識は素直に頭を下げた。できることなど、もうそれくらいしかない。
医者に罹ろうにも、今の人識は保険証どころか戸籍すらない不審人物だ。診てくれる病院などあるはずもなかった。
また身体的な問題が解決したとしても——警察署で起きた空前絶後の大量殺戮に居合わせ、あまつさえその主犯と大立ち回りを演じたという事実も、なんとかして隠蔽しなければ、動きにくくなることは間違いない。
可能な限り痕跡は消してきたつもりだが——あくまでつもりだ。
主犯が死に、生存者不在となった現場を『不思議なこともあるものだなぁ』で放っておいてくれるような警察などどこの世界にもいるはずがない。
以前の世界で彼が起こしていた通り魔事件とは規模が違う。何か手を打たなければ、いずれ警察の手が人識の首根っこを捉えるだろう。
それらの問題を一挙に解決できる力を持つ存在など、今の彼には萩原子荻しか思いつかない。
というか。
「頼れる人があんたしかいないんだよ」
萩原子荻以外、頼れる知り合いが一人もいなかった。
「じゃあ一人でのたれ死んでください」
心底どうでも良さそうな声で、彼女言った。
あまりにも辛辣な物言いに、思わず人識の頬がひくつく。
「……ほっときゃいずれはそうなるだろうけどよ。俺、もう動く気力もないから、死ぬとしたら多分この研究室で死ぬぜ」
「それはありがたいですね。死体が出たのがここなら、処理の方法も色々選べますし」
肝が冷えるようなことを言う萩原子荻だが——その肝が壊死するかどうかの瀬戸際だ。
人識は仕方なく、会話を懇願から取引に切り替える。
「聞いてくれ、策士サマ」
疲れ果てた体に鞭を打って、彼は椅子に深く座り直し、萩原子荻と視線を合わせた。
「俺は今日、明らかに元の世界で言うプレイヤークラスの殺人狂とやり合った」
「それはもう聞きました」
「
人識はじっと目を見る。彼女の目から感情は読み取れないが——しかし。
「……どう言う意味です?」
言葉を引き出すことは、出来た。
「あんたは昨日言ってたよな。十八年間生きてきたが、自分と同郷の存在と出会うのは俺が初めてだ——って」
「確かに、そう言いましたが——」
「立て続けに、二人目だぜ」
人識は言う。子荻は目を細めた。
「もちろん、今日殺し合ったあいつが、そもそも俺たちと同郷なのか、たまたまこの世界にブチ狂って生まれた異常者なのかはわかんねーぜ。だけど、あんたの口ぶりから察するに、こっちの世界にゃ
その前提が——崩れた。
「なあ、策士サマよ。これは
人識の言葉に——萩原子荻は答えない。
「あんたは前の世界じゃ暴力の世界を丸ごと手玉に取って遊んでたような怪物だ。世界が違うからと言って、それが出来ねぇとは言わねぇよ。だがそれは、
萩原子荻——策士。
その称号は、けれど彼女が、完全なゼロから掴み取ったものであるとは——言い難い。
「澄百合学園——あのお嬢様学園が四神一鏡の私兵養成施設だとは知らなかったけどよ、いずれにせよ、あそこは
「…………」
萩原子荻は答えない。
実のところ、澄百合学園の環境というものは、人識が語るほど理想的なものではなかった。資金繰りには普通に苦労していたし、あそこの生徒は全てが全て子荻の配下というわけでもなかった——むしろ自由に扱える手札をかき集めるために四苦八苦して、それに失敗して死んだというのが最終的な顛末だとさえ言える——し、結局のところ、暴力の世界を
彼は萩原子荻を過大評価している節がある。
節があるが——
「あんたには
あるいは、護衛でも、手駒でも、
零崎人識は——そう言った。
「私に——あなたを雇えというのですか」
「そうだ」
「……ボディーガードなら、すでにいるのですけれどね」
「そいつは警察本部を一人で皆殺しにできるような相手からもあんたを守り通せるのか?」
子荻は答えない。
人識は言う。
「この世界は
少なくとも——今までのように。
元の世界の残酷は、夢か幻だったかのように。
のんべんだらりと生きていくことは——出来なくなった。
あるいはそれをするのには、あまりにも不安が大きくなりすぎた。
安全が——揺らぎすぎた。
「自慢じゃないが、俺はそれなりに役に立つぜ」
まさか零崎人識ともあろうものが、面接の自己アピールの真似事をする羽目になるとは思ってもみなかったが。
しかし
「俺の戦歴は、あんたも知ってるだろう。なんなら俺自身より、あんたの方が詳しいくらいなんじゃないか?」
いわゆる
だからこそ、その言葉には信憑性と、抗い難い魅力がある。
そして同時に——リスクも。
「危険になったのは」
子荻は。
断固として、言葉を紡ぐ。
「
十八年。
子荻がこの世界で生きてきて、一度として
それならば——その原因は、一人目の出現にこそあるのではないか、なんて推察に至るのも、当たり前の話だろう。
「正直、そんなのはわかんねぇよ。俺が教えて欲しいくらいだが、ま、可能性でいうなら多分にイエスなんじゃねーの? だけど、それならそれで、
人識は言う。
いつどんなふうに爆発するかもわからない自走式地雷が、近所をふらふら
台風の目として、あるいは、
操作してしまう方が——
零崎人識は、そう言っていた。
「……しかしあなたを護衛として雇っていても、いずれなんの前触れもなく、元の世界に帰ってしまうかもしれない」
「少なくとも、帰るまでの間はあんたの犬だよ。存分に使って
「私がイエスと言わなければ、それはあと数時間ですね」
「そうだな。それはあんたが生きていられる時間かもしれない」
いいか? 人識はずいと顔を近づけて、子荻の瞳を覗き込む。
「俺はあんたの勧めを受けて、あんたの息がかかった警察本部に行った。その結果そこにはこの世界には今までいなかったはずのプレイヤーがいて、あんたの
人識の言葉に、子荻は顎に手を当てて——
「………………」
きっかり三秒、息を止めた。
「——わかりました」
子荻は——リスクを許容した。
あるいは、より危険性の高いリスクを、排除する選択肢をとった。
ふ、と息を吐いて、それまでの、堅苦しい策士としての表情を崩す。
大学教授として、ですらない、年頃の娘そのもののような表情で——彼女は笑った。
「そこまで言うのなら、ええ。受け入れてあげましょう。あなたのお兄様に
全く——いい笑顔で、言ってくれるもんだぜ。
人識は、諦念の混じった苦笑を浮かべる。
「よろしく頼むよ、ご主人様」
自らリードを手渡すようなつもりで両手を上げる。
しかしそんな人識に、子荻は首を傾げた。
「ああ? どうしたんだよご主人様——」
「いえね、人識くん——」
同じように首を傾ける人識に対し、彼女は心底不可解だとばかりに眉をハの字に歪めて、嗜めるように、それを告げた。
「——犬は、人語を喋りませんよ?」
ああ、これは選択を間違えたな——なんて。
命を保証されたのと引き換えに、それ以外の全てを失ったことに、今更気が付いた人識は——諦めたようにへらりと笑って、小さく「わん」と鳴いて見せた。
またまた沃懸濾過様(@loka_ikaku)から最高のファンアートをいただきました。
許可を得て、本文中に挿絵として追加させてもらっています。
沃懸濾過様、本当にありがとうございます!
元イラスト↓
https://x.com/loka_ikaku/status/1891140261150945650