◆ ◆
「へぇ、犬を飼うことにしたんだね」
「ええ、そうなんですよ。ただ、もともと野良犬でしてね。躾がまだ行き届いていないので、粗相をするかもしれませんが、診てもらえますか?」
「大丈夫大丈夫。ばっちこいさ。私は身長百六十センチ以下の少年の糞尿はご褒美にカテゴライズできるタイプの人間だから」
「なあ、こいつ以外に誰かまともな医者はいなかったのか?」
人識が白い目で言えば、真横からため息が返ってきた。
「愚かですね人識くん。
萩原子荻の呆れた声に、人識はグッと押し黙った。返せる言葉がなかったからだ。
人識は病院に連れてこられていた。
正確には病院ではなく、京都大学構内の医学部、その実習室だ。一応、附属病院と地続きではあるので、ギリギリ、病院であるとも言える。
その辺りは曖昧なのが、大学病院という施設だった。
真っ白い室内で、人識はため息をつく。胃に穴が空いている患者そっちのけで、談笑に励む子荻と医者を眺めながら。
人識は、かつて出会った闇医者を思い出していた。あの医者も、死にかけのハムスターみたいにびくついているくせに、その実態は傷病者に興奮する変態だった。あれ以上の——あるいはあれ以下の医者などそうそういないだろうと思っていたのだが、今目の前に現れた少年趣味のスカトロマニアに比べれば、まだしも遥かにマシであったと言えるだろう。
「——さて、おしゃべりを続けていたいところだが、これ以上患者を待たせるのも酷だ」
そう言って、
「零崎人識くん、だったかな」
「ああ、そうだよ。そういうあんたは——」
「
「つまり、私と同じです」
「最も、年は一回り以上違うけどね」
口を挟んだ子荻のせいで感覚が麻痺するが、しかしその話を信じるならば、眼前の彼女も三十代で准教授の役職についているということで、凄まじいエリートであるということがわかる。
人識は改めて彼女を観察した。
高い背。引き締まった体格。白衣を羽織ってはいるが、その下はいわゆるスクラブで、現場肌の医者であるらしい。
裸眼、癖のある、うねりの強い短髪。彫りの深い顔立ちと浅黒い肌は、どこか海の向こうの気配を感じる。
「今時はこーゆーのもコンプライアンス的にNGなのかも知んねーけどさ。水枕先生はハーフかなんかかい?」
「別にNGではないよ。少なくとも私にはね。で、その質問は半分イエスで半分ノー。つまりハーフではなくクォーターだ。祖父がブラジル人でね」
どうやら、人識の観察眼も捨てたものではなかったらしい。ブラジルか、確か、サッカーが強い国だ。人識のぼんやりとした世情感では、その程度の認識しかできない。
実際のところ、ブラジルという国は戦前から日本人移民が非常に多く、今現在も、世界最大の日系人コミュニティが存在する場所だ。その関係上、日本の側にもブラジルにルーツを持つ日本人が一定数おり、彼女もそんな一人であるのだが——人識はそのような事情も知らず、ただ単純に「背が高いのはそのおかげなのだろうか」とだけ思った。……言動にさえ目をつぶれば
「そして、水枕先生なんて水臭い呼び名はよしてくれ。これから私は君の主治医になるのだからね。是非とも愛と親しみと友情を込めて、
「ダジャレじゃねぇか」
「実のところ、医者じゃなかったら小学校の教師か漫画家になりたかったんだ」
ケタケタと笑う彼女に、人識は深々とため息をついた。変人中の変人だ。医者ってのはどこか気が違ってないとなれない職業なのだろうか。
「ま、安心していいよ。私は確かに、あまり真面目な性格をしているとは言い難いが、しかし医師としての倫理観まで捨てているわけではない。それが
——彼女を紹介してくれたのは、もちろんのこと萩原子荻だ。学部こそ違うが、同じ学内の准教授同士ということで、親しい仲にあるらしい。それこそ、人識のような
彼女の年齢を考えれば、同じ准教授同士、というのはむしろ敵愾心が煽られそうな関係性である気もするが、そこはさすが萩原子荻というわけなのだろう。
——あるいは、ピンポイントで消化器内科の医者を紹介されたあたり、この学内の医者には、概ね伝手があるのかもしれない。探りを込めて視線を向けた人識に、子荻は肩をすくめた。世界が変わっても、人脈作りのテクニックは鈍っていないらしい。
「ええと確か、君は胃に穴が空いてるんだっけ?」
彼女は新しくカルテを作りながら話を始めた。本来ならば電子なのだが、記録に残ってしまうことを懸念してか、わざわざ紙で作ってくれているようだった。
「多分な。とりあえず、胃に痛みを感じて血反吐を吐き散らかしたのは間違いないぜ」
「その血、赤かった?」
「あ? ああ。そりゃあ血だからな」
「ふうん、じゃあ本当に穴が空いているかもね」
医学的知識がない人識には理解できなかったが、胃潰瘍による吐血の場合、胃液の影響を受けて黒褐色になる場合が多い。一方で、そうではない場合。つまり鮮血を吐瀉した場合には、胃酸を押し除けるほど多量の出血があったという意味になり、つまり人識の場合、本当に胃に穴が空いている可能性が高かった。
「それじゃ、急いで診察しちゃおうか」
そこに寝て、と備え付けの寝台を指され、人識はそちらに向かった。
「ああ、上は脱いでね。必要はないけれど、サービスしてくれるつもりがあったら下も脱いでくれていいよ」
人識は無言で上半身だけ裸になって寝転んだ。
「やれやれつれないな。ま、上半身だけでも役得だ。それじゃあまずは触診していくから、痛かったら『三味先生そこは痛いにゃん♡』と言って教えてね」
「なあ策士サマ、どうすればいい? 俺は治療が終わるまでの間にこの女を殺さずいられる自信がないんだが」
「頑張って耐えてください」
助け舟は来なかった。人識は深々とため息をつく。飼い犬生活も、楽ではない。
◆ ◆
人間としては落第もいいところであった水枕三味であったけれど、しかし彼女は少なくとも、嘘つきではなかった。
つまり、医者としては真っ当な技術を持っていた、ということだ。
案の定、胃に穴が空いていた人識には手術が施され、そしてそれは一切の瑕疵なく成功した。数日間の絶対安静こそ言い渡されたものの、概ね、治療完了と言っていい。
「日がな一日ベッドに寝転んで上げ膳据え膳。いいご身分ですね人識くん」
見舞いに来た子荻が、ベッドに伏せる人識を見下す。コロナ禍ゆえに、口元にはマスクがあって、覗いているのは目だけだった。冷たい瞳で、思わず凍りつきそうだ。人識は肩をすくめた。
「仕方ねーだろ。こっちは病人だぜ。少しは労われよ」
「無理矢理叩き起こさないだけ労っていますよ。まったく。あなたが寝込んでいる間、誰が私を守るんですか?」
「ボディガードは雇ってるんだろ」
胃の負担を考慮して、すりおろされたりんごを食べながら、人識は言った。手術のため秘密裏に入院してから、三日目になる。つまり一昨日に手術を行ったということで、本来ならばすりおろされていようがなんだろうが口から物を摂取していい状態ではないはずなのだが、そこは曲がりなりにも一線級のプレイヤーである人識だ。その肉体の回復速度は、いわゆる普通の世界の人間のそれを超えている。
あるいは、超えさせられている。
「ま、俺もいつまでもタダ飯ぐらいやってるつもりはねぇよ。俺だって、
人識はもう、今日中には退院してしまうつもりでいた。感覚としては、十割ではないものの、七割以上は回復している。
かつて出会った闇医者に言わせてみれば、寿命をすり減らして、なのかもしれないけれど。
それでも。
人識には、時間が惜しかった。
「本当なら、おまわりさんたちから聞けるはずだった情報も聞けずじまいだ。いい加減、読者の皆さんが焦らされすぎて耐えきれなくなってくる頃だろうぜ」
かはは、と。自分が小説の登場人物として描かれてしまっていたことを思えば、洒落にならないメタ発言をかましながら、人識は笑う。
「つーか、そっちの方はどうなってんだ? テレビなんかで見る限りじゃ、なかなか大騒ぎみてぇだが」
なにせ、警察本部が
センセーショナル、なんて言葉では済まされない、空前絶後の衝撃的大事件である。日本国民にとっては、生半なテロや戦争なんかのニュースよりも、その衝撃は遥かに大きかった。
「ま、
そのおかげで、動きやすくもありますが、という言葉は、もちろん胸の奥深くに仕舞い込んだ。
零崎人識という手札を抱えることができたアドバンテージは、想像を遥かに超えていた。
現状、
彼女は今、公権力に対して大きな
人識の成した殺人と、彼がもたらした情報をもとに、
「少なくとも、人識くんがお縄につくようなことだけはあり得ませんよ」
「そりゃよかった、首輪に加えて手錠までとなったら、いよいよ身動きしようがねぇからな」
自虐的に言う人識だけれど、子荻としては
そんな事情もあって——
「ま、そんなわけで」
彼女は人識に数枚の紙束を渡した。
「餌の時間です」
それは人識が求めていた情報——つまり、今京都で起きている連続殺人事件の
「ちなみに言うと、あなたが寝込んでいる間に一人増えました」
最後のページがそれですね、と言いながら、子荻はベッドサイドの椅子に腰掛ける。
「現状、被害者は十人。昔、あなたが起こしたそれに差し迫りつつありますね。ま、警察本部鏖殺事件に比べれば、今やどちらもどんぐりの背比べになってしまいましたが」
十人。
かつて人識が起こしたそれに、あと二人。
差し迫る——と、子荻はそう言葉を選んだけれど、しかし単純なキルスコアだけで、この連続殺人を人識のそれと比較するのはあまり意味がない。
実のところ、人識がかつて起こした連続殺人には、ただ二人を除いて誰にも知られなかった明確な目的があって——それに対し今回の事件は、少なくともその点では絶対に違うと断言できる。
「……ま、
ざっと被害者の一覧を見ただけでも、それは理解できる。その時点で、この事件が人識の起こしたそれとは全く別ベクトルの目的から巻き起こされた連続殺人であることは明らかだ。
であれば——その正体はなんなのか。
「はっきりと言えば」
萩原子荻は、指を立てて言った。
「私は
主語の欠けた言葉は、つまり不必要であるからだった。
空白に何が置かれるのかは、この場においてもはや語るまでもないことだ。
「……ま、それに関しちゃ、俺も
「そんなにですか?」
それはもちろん、
「根拠はねーよ。ただの勘」
傷口が似ている、程度なら人識もこれほどこだわりはしない。
しかし、一方で。
被害者の
「被害者は全員、
それは共通項と呼ぶにはあまりに些細で、けれど無視するには大きな殺意の類型。
その殺され方は——その殺し方は。
見えずとも——意図を感じる。
「いずれにせよ——今の京都にゃ頭のイカれた殺人鬼が潜んでやがるってわけだ」
「自白ですか?」
「バカ言うなよ。俺はまだこっちじゃ一人しか殺してねぇっつーの」
殺人鬼家業は休業中だぜ——なんて、一人殺している時点でそんな言い逃れは通りようもないと思うのが子荻の感想ではあったけれど。
「実際問題、住んでいる街に正体の見えない人殺しが潜んでいる、と言うのは、暮らしていく上で気持ちの良い状態とは言えませんね。外を出歩くにも、それなりに気を張らなくちゃいけませんし」
こんな場所にいられるか、私は部屋に帰らせてもらう——なんて言っては死亡フラグですが。冗談めかして肩を竦め、子荻は言った。
「
人識という刃を、どこに振るうか。
短期的な安全という意味では、それこそ懐刀よろしくそばに置いておくのもいいだろうが、
一連の事件に、
警察署に現れたプレイヤーに関しても、その目的は頑として不明だ。この事件にどこまで関係があり、またどのような意図を持っているのか。それがわからない以上、ただ安穏と相手の出方を待つのは悪手でしかない。
手札が少ないからこそ、真っ先にそれを切るべきなのだ。
「
「御下命承りましたよ、ご主人様」
苦笑と共に言いながら、人識はベットから降りた。体は動く。鈍ってもいない。内臓にはまだ負担があるが、英気は十分養い終えた。
立ち上がった人識に、子荻は紙袋を手渡す。
「着替えと
それでは、なんて手を振って、子荻は部屋を出て行った。残された人識は、わずかな不安と共に紙袋を覗き込む。
「……かはは、策士サマもなかなか過保護じゃねーかよ」
だが、趣味は悪くない——なんて口癖は人識のものではないけれど。
手触りからして防刃素材なのだろう、黒いハイネックインナー。同じく防刃素材のサポーター付きレギンス。見た目に騙されそうにはなるが、その作りは作業用というよりも軍用のそれに近い、カジュアルレッドの安全靴。レッド×ブラックのTシャツ。タイトシルエットのミリタリージャケットに、フード付きの黒いベスト。同じく黒のハーフパンツとハーフフィンガーグローブには、ワンポイントで赤色の糸によるステッチがなされている。
どれもこれも、実に人識好みのデザインだ。気に入った。
紙袋から次々と取り出して、病院着からそれらに着替えて行く。
実のところ、たかが防刃仕様のインナーや、軍用程度の安全靴が、プロのプレイヤー同士の戦闘で意味を持てるほどの効果を発揮するかと言えばそんなことは全くないのだけれど、しかしだからと言って病院着のまま出かけるわけにもいかないし、何より見た目は素晴らしい。雇い主からの思いやりの詰まった支給品だ。せいぜいありがたく活用させてもらおう——なんて、人識が殊勝にも思った直後。
紙袋の底から、
「……あの女、まさか全部本気なのか?」
他が明らかに特注かハイブランドであろうことを感じさせる作りである中——一つだけ爛々と輝く、しわくちゃのビニールパッケージ。
九百八十円の値札が張り付いたままのそれは——誰がどう見ても、
パッケージに刻まれた名称曰くして、『きゅ〜と♡ケモミミシリーズvol.3〜ワンダフルドッグ〜(コスプレ用)』。見ているだけで頭が痛くなってくる文字列に、人識は思わず嘆息する。
「全く素敵なおまけだよ」
彼はそれをゴミ箱に投げ込んで、部屋を出た。
零崎人識、殺人鬼。
人としての尊厳など、とうに投げ捨てて久しい鬼の身であれど——恥と外聞までをも投げ捨てられるほどの境地には、未だ達してはいなかった。
沃懸濾過様にとっても素敵なイラストを描いていただきました。
挿絵として追加させてもらっています。
沃懸濾過様、ありがとうございます!
元ツイート
→https://x.com/loka_ikaku/status/1841500565848908062
追記:さらに文字なし差分、耳なし差分を頂きました! 挿絵として追加させてもらっています。沃懸濾過様、重ね重ね、ありがとうございます!