未明の薄闇がまだ辺りを包んでいる時間、草臥れたような速度で荒廃した地を軍用トラックが揺れながら走行していた。車体は細かな傷まみれで、荷台の四隅から伸びる細い枠組みの上を覆うように被さる防水シートは所々破れ、雨が降り注げば、それを受け入れる広い度量を持ち合わせているようだ。
その荷台に座る新兵たち、その中に少女はいた。持参した荷物をぎゅっと抱え、硬く冷たい座席に身を沈めている。
少女の名はマルフ―シャ。
車外の風景は、暗い空の下、ぼんやりとした地形と破壊の跡が見え隠れするだけで、特定の景色を眺めることはほとんどできない。しかし、マルフーシャの心はそんなぼやけた景色さえ捉えられてはいなかった。
ーー帰りたい
周囲は戦争の傷跡が色濃く残り、焼け焦げた土地が広がっている。荷台の覆われた視界からは断片的にしか景色を見ることができず、そのほとんどは進んできた道に残された崩壊した建造物や放棄されたのであろう車両の残骸。
トラックに乗り込んだ最初の数十分のうちは所在なさげに視線をさまよわせていたが、今となっては虚無感だけが身体を支配するばかりだ。その顔は緊張も期待もなくひたすらに冷めていた。
荷物を膝に置き、揺れるトラック内で身を小さくしていると、道をを曲がる際の減速によるショックで頭上の荷物棚から荷物が落ちそうになる。
「危ない!」
目の前に座っていた、一人の兵士が咄嗟に機転をきかせてそれを抑える。声からして同年代の少女に聞こえた。
「ありがとう」
助けてもらったことになったので、一応お礼は言ったのだが、それもどこが他人事のようだった。
「あんた…」
少女は何か言いかけたが、結局は沈黙を受け入れた。
マルフーシャの態度に怒りを覚えたか、様子を心配したか、あるいは呆れたか定かではなかったが、それもなんらどうでもいいことだった。
そこで気づく、どうやら先ほどのカーブで崖道に入ったようだ。
ポッカリと無限に続くかのように穿たれた深淵が、後部荷台のシートの隙間から覗いた。奈落の入口の側面を軍用トラックはガタガタと揺れながら、未舗装の道を慎重に走る。
その間、マルフ―シャは背もたれのない硬い座席に座り、視線を堅い荷台の緑塗装の禿げた剥き出し部分をじっと見つめていた。とくに塗装が好きだとか、鉄臭いものが好きなわけではない。
ただそうする以外何もすることがなかった。
強いて理由をつけるのであれば、奈落は怖かったのだ。
そのまま吸い込まれてしまいそうな気さえした。
今の不安定な自分をそのまま消してしまうような、そんな感覚。
荷台は静かで、唯一聞こえるのはエンジンの轟音と時折車輪に巻き上がる土砂の音、そして隣同士で囁く新兵たちの声だけだった。自然とマルフーシャは彼らの話に耳を傾ける。
「衛兵は使い捨てだって聞いた」
自分もさんざん聞かされた話を横の兵士たちが、過去を繰り返すように全く同じ内容を話すのをききながらも、やはり自分がこれからどうなるのか、まったく想像できなかった。
そんな風に無為に時間を過ごし、どれだけ時間が経っただろうか。
砂を踏みつぶし、小石を巻き込み、地面の凹凸で車体が揺れる。もう一度カーブを曲がると、崖道から抜けて平原に出たようだった。
窓の外の景色も徐々に変わり、周囲の荒涼とした草原からより整備された地域へと移り変わっていく。
トラックが進むにつれ、徐々に空は明るくなり始める。
睡眠不足の眼球に差し込んだ、地平線の向こうから昇る太陽は血のように赤く、その光がトラック内部に射し込み、マルフーシャの顔を照らし、心に深い影を落とす。
マルフーシャは目を細めた。眩しいからではない。目的地が見えてきたのだ。
遠くに見えた基地が形を成しだすと、嫌でも、これから始まる新たな生活に思いを馳せた。
――カゾルミア、古い世界の遺産と新たな技術が錯綜する国。それがマルフ―シャの18年間を過ごした国の名前だった。
冷たい北風が吹き抜ける辺境の地に位置し、長い冬と厳しい自然環境に人々は耐え忍ぶ。都市の景観は、鉄道線路が絡み合い、蒸気と煤で覆われた工業地帯と古めかしい石畳の通りが混在する。古い城壁の影には、革新的な機械が日々の生活を支え、人々はそれに順応しながらも、時には機械に反発する。
史上もっとも早く近代化を果たし、その圧倒的工業力で世界を制覇するかに思われた大国。そしてたった一人の科学者の亡命でその夢とともに音を立てて崩れ去った亡骸。
冷酷な軍事国家だと。人はそう呼ぶ。事実そうだとマルフ―シャも思う。妹がいなければ今頃徴兵なんぞは軽く蹴ってこんな国逃げ出していたことだろう。
無機質な工業機械と鉄鋼の町並みが広がるこの国は、経済格差が激しく、内地には高層の光り輝く摩天楼が立ち並ぶ一方で、その影では廃棄ガスを煙突から吹き出す工場と煙に覆われた貧困地区が広がっている。街の中、国内は敵国の航空機械兵の脅威に常に晒され、いつしか国境の門は重厚な鋼鉄で固められ、各所に厳重な監視塔が設置されて、無許可での出入りを厳しく制限するようになった。
カゾルミアの社会は、一部のエリートと多数の貧困層に大別され、エリート層は科学技術の進歩により一層の富を蓄える一方で、底辺の市民は日々の生活に苦しむようにできている。しかしそれは固定階級を意味しない。能力あるものは勝ち上がり、無き者は堕ちていく究極の能力主義社会。
国民階級は一等国民から十等国民まで細かく分けられ、それぞれの階級が市民の運命を左右する。一等国民は豊かな内地に豪邸を構え、国家の恩恵を一身に受ける。その一方で、十等国民は更生施設で永遠に終わらない"指導"を受けるか、工場や鉱山で過酷な労働に従事し、疲れ切った表情でその日暮らしの生活を送る。
戦争による資源の枯渇も深刻で、割りを食うのはいつも下級国民だ。政府は軍事力に重きを置き、内政よりも国防を優先する方針を取って下の苦境には目も向けない。そのくせ下級国民には倹約と監視と制限を押し付けるのだ。
"カゾルミアの過酷な気候と同じく厳しい財政は、その住民の堅固な忠誠心を形作っている"
これは、カゾルミアを表す際には、今では決まって囁かれるようになった、諸外国の人間が口にする皮肉だ。
高い科学力、熾烈な開発競争における電熱線技術の確立。こうした自信は、カゾルミアを周辺国全てとの戦争状態に突入させた根幹だが、開戦理由はそれだけに起因しない。
ーー厳格に区分けされた階級は、国民の競争心を煽り、経済を発展させる。
しかし、その絶えず高まる身分の奪い合いは不正を生み、行き過ぎた国家主義は暴走し、ついには破滅への引き金を引いた。
10年だ。
カゾルミアはこの10年間、常に戦時体制を敷いており、国民は次の大規模な衝突に向けて準備を進めていた。
そして、4年前ついに開戦を果たした。
それからはあっという間だった。独裁の鉄の手は今までと比にならぬほど国を固く握り締め、人々を国家の機構に深く縛り付ける。凄まじい速度で拡大する貧困。加速する軍事中心経済。公然とは語られないが、厳しい統制の下で横行する官僚たちの悪事。
徐々に腐り果てていく国で人々は厳しい規律と法律に縛られ、違反者は容赦なく更生施設へと送られる。
施設は国の隅々に存在し、しばしば「教育施設」として国民に紹介されるが、実際には10等国民への拷問と虐待が日常的に行われている〖おもちゃ箱〗である。
この国も最初からこうだったわけではない。
確かに以前より、強烈な国家主義は、しばしば他国との摩擦を引き起こし、周辺国との間で絶えず緊張を生んではいた。しかし本格的に事態が可笑しくなり始めたのは〖指導者〗が変わってからのことだ。
その結果、かつては豊かな商業と交易で栄えたが、長引く戦争と政治の不安定さにより、今ではその影は薄れつつある。町の隅々に立つ壮大な硝子と鋼鉄の工場は、一日中煙を噴き出し、無理やりにでも動く心臓のようにカゾルミアの経済の中心となっている。しかし、工場の隆盛とは裏腹に、多くの市民は貧困に喘ぎ、富の不平等は日に日に深刻化している。
これが事実であり。独裁者という病を抱えた大国の末路だった。
その圧制の陰で密かに抵抗の動きが組織されることもある。
彼らは地下で秘密の集会を重ね、静かに、しかし確実に組織を拡大し、独裁政治に対する抵抗の炎を燃やし続け、様々な行動を起こした。連絡用の紙がこっそりと街角で配られ、武器をかき集め、旗を燃やす。そして最後には自らが火炙りとなった。
あるいは夜な夜な、秘密の印刷所では悪事を批判する記事が印刷され、密かにそれが勇敢で愚かな若者たちによって街の隅々に張り出され、翌日にはその者たちの首が近所に配られる。
そんな愛すべき祖国であるが、旗色が悪くなってきたのか。もう長らく常時発動状態の国家総動員法に基づいて徴兵年齢が引き下げられ、ロスヌイ農業高等学校を卒業してパン屋として働いていたマルフ―シャはこの度めでたく新設された職種である衛兵に就労した。
徴兵が行われ始めたのがに二か月ほど前、訓練を受け、そして今、そのままトラックにすし詰めにされ工業製品のごとく出荷されたというわけである。
そんなわけで膝の荷物を抱え直し、トラックの揺れに体を任せながら、今さらになってこの状況から逃れる方法があるかどうか自問自答してみる。
それを咎めるようにして、頭上のオンボロ荷物棚から再び、不意に荷物が落ちてくる。
「いた!」
マルフーシャは痛みを訴える頭部を擦りながら鬱屈とした感情が沸き上がるのを抑えた。
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1
基地の門は重く、その音もまた低く鈍い。朝早くからその門を通り抜ける兵士たちの姿には、まだ夜の名残があり、目には隈が深く刻まれていた。門そのものは厚い鉄でできており、その表面には時間の流れを刻んだ錆が所々に浮かんでいる。重苦しい鉄の門が開く時、ひときわその音が空気を震わせる。あたかもそれがこの場所の厳格な規律を語るかのように。
基地の門を囲む高い鉄製の壁に沿って、散在する銃座が朝露に濡れて黒光りしている。防衛陣地は、厚い砂袋でがっちりと固められており、その上には緑色の苔や小さな花が点在しているが、花壇のごとき平和な光景とは裏腹に、銃座の中では機関銃が冷たい金属の輝きを放ち、常に外に対する警戒の目を光らせている。
各銃座は死角をなくすように配置されており、その形状は半円を描くように土嚢が積み上げられている。土嚢の表面は多くの天候を経て硬化し、表面にはひび割れが見られることもあるが、問題はない。銃座からは直接基地の入口が見渡せ、入口の門が開くたびに、そこに待機する兵士が短い指示を発して、同僚に情報を伝える。
銃座内の兵士たちは、身を乗り出すようにしてその重い機関銃を操作している。機関銃は黒くて大きな銃身が特徴で、--そう銃だ。
当たれば死ぬ。なのに、あれよりも遥かに口径が大きい武器が"門の向こう"には待ち構えている。マルフーシャはそこへ行って戦わなければならないのだ。
ーー妹のために
逃亡兵の妹となれば更生施設送りになるだろうし、生活のことを考えると仕送りだってしなければなるまい。
国のため、家族の為、あるいは金のために。国家は資源欲によって戦争に突入し、愛によって戦争が遂行される。なんとも理不尽なことだ。
元来、戦争とは経済であった。資源のためあるいは復讐的資源の獲得のために人は戦い、金のために軍という道具を作って戦ってきた。
傭兵が戦い、金銭が支払われるように。貴族が兵を率い戦う代わりに平時に特権を得るように。
戦争には契約がつきまとう。近代化が進むにつれて、兵器の強さ、すなわち複雑さと高価さは留まるところを知らず、それを扱う兵士にも同じことが言えた。高度な兵器を扱うには、それに見合った知識と論理的思考がなければならない。いくら屈強な肉体を持っていてもヘリ操縦にはなんの役にも立たない。
戦争は変わった。しかし変わらないものもある。
御恩と奉公。政治と戦略。王と軍。上と下。
それが社会の仕組みであり、経済を動かすために必要な機能だった。そしてそれゆえ戦力を持つものは、戦争遂行者の特権を享受していた。そしてそれを決める者もまた戦力を持っていた。
そう、権力とはいつの時代でも、元の根幹を辿れば暴力に行きつくものだ。しかし手段としての戦争は効率化を求められた。貴族の代わりに将校が、騎士の代わりにヘリが、名誉の代わりに生命保険が、剣の代わりに自動小銃が。
数字として消費される命は、軍用コストとして計上され、そうして後に必要なものだけが残った。殺意と技術と兵器。必要なのはそれだけだ。
そして削ぎ落とされたそれらを最も効率的に運用するべき出来上がったのが、蛮勇の代わりに冷静で計画的な将官と戦争計画を持ち合わせた、恐らく世界で最も真剣に非倫理な殺戮を論理的に考える組織、近代的な軍隊、マルフ―シャの新しい職場だ。もうパンをこねる必要はない、機械の塊を撃ち落とし、弾の消費を抑え、門を守るのだ。
それが、如何に非効率的で、搾取的な、戦争遂行のメリットが極限まで削ぎ落とされた手取り5万の軍用コストとしての生き方であったとしても――
そこまで考えたところで、思考を止める。
いくら教育を受けたところで政治というものを、絶えず変化する曖昧な生き物を思考や知識ではなく、感覚として生々しく感じることのできる人間だけが、戦争の意味を知っているのだろう。
たとえ理由もわからず、兵が殺し合っても、政治家だけはそうでなければならない。逆に言えば上がすべてを把握していればいい。
その役割こそが、彼らが直接戦争に参加しない特権を保証する根拠なのだから。
マルフーシャは自分はそういった類の人間ではないことはわかっていた。
だからこれは仕方のないことだと、今もこうして揺られながら納得しようと足掻いている。
ーー自分はあの人とは違うのだと。
いつのまにか門をくぐると、一面に広がるのは整然とした基地の風景である。中央にそびえ立つ司令部の建物が見えてくる。
司令部前には整然と並べられた戦車と装甲車が駐車されており、その光景は物々しい。もっとも、機械兵にどこまで通じるかは疑問だ。
厚い壁と小さな窓が特徴で、外敵からの攻撃を防ぐための設計がなされている。建物の屋根は緑色の銅板で覆われ、時間と共に風化した痕跡が見られる。その銅板は光に反射して時にきらめく。
車道は直線的に配置されており、どの道も司令部には直接通じるよう設計されていた。基地の周囲には訓練場が広がり、そこでは兵たちが朝の訓練に励んでいた。彼らの一斉に行う足音と掛け声が、朝の静けさを打ち砕く。
宿舎が立ち並ぶ中央区画が視界に入ると、その姿は朝霧のヴェールを纏ってぼんやりと現れた。高い塀と鉄条網で囲まれたその施設は、厳格な警備が敷かれており、入口には軽装備の兵士が警戒に当たっている。基地の門は重厚な鉄製で、横にずらされる音は音は金属のぎしりとした不協和音を鳴かせる。
門を潜ると、広大な敷地が広がっており、そこらじゅうを埋めるようにして天幕、戦闘指揮所や野戦病院が乱立していた。
それらの景色を背にし、建物の一つの薄暗い地下に停車した。他の衛兵たちは各々の指示された地点で降りた。残っているのはマルフ―シャと他の数名のみだ。金髪の子は途中で降りたようだ。
トラックに乗っていた人間たちは別に同じ部隊の仲間というわけではなく、あくまで同じ基地に同時期配属されるというだけの関係である。
荷台から降りた。不足分を取り返すかのように息を吸うとひんやりとしたものが肺を満たす。地下の空気は冷たく、重苦しい雰囲気が漂っていた。
コツコツ
高そうな革靴の音が、コンクリートに反響する。それを聞き、その場にいた人間は全員姿勢を正した。将校特有の、歩き方というものがある。軍人特有の歩き方とはまた少し違う、人の上に立つ教育を受けたものの足運びだ。
そうして、予想どおりの容貌の人物がマルフーシャたちの前に現れた。
「君たちに特別な使命を与える」
男は決定事項を告げるように…いや事実決定事項を告げた。
「この基地には、スパイが潜り込んでいる。報告者には報酬を用意しよう、必ず見つけ出せ」
いきなりの説明、しかしここにいる人間は一切の感情を顔に貼り付けてはいない。
「知っての通り、現在スパイ行為が横行しており、厳しく処罰することが望まれる。しかし、我々憲兵隊だけでは密かに行われるスパイ行為を取り締まるのは困難だ。
よって諸君らのような、民間の徴兵された兵士を我々の目として扱う、情報収集の手法については一任する、確認するが、既に訓練は受けているんだな?」
監査官、中尉の階級書を肩につけた男は、何故かマルフーシャを見て問いかけを発した。
「受けております」
一瞬の緊張の後、仕方がないのでどうにか返答を返す。
「よろしい」
それに満足したのか、深く頷いて踵を返した。
「では各自所定の配属場所にいけ、解散!」
お偉いさんはそれだけ言うと。建物の中に引っ込んでいった。腕時計を見ると、もうすでに遅刻であった。
トラックは離れて行ってしまっていた。
ひょっとすると地上に出るのは歩きなのだろうか。
偉い人はいつもそうだとマルフ―シャはいい加減、溜めていたものを吐くため、あるいはこの時のために溜めていたといった風に。大きな、本当に大きなため息を吐いた。
「はぁあああ」
いわゆる、クソデカため息である。
ーーーーーーーーーーーーーー
2
地上に出ると冷たい風がマルフーシャの長いこげ茶色の髪を吹き付けた。同時に、基地の喧騒がよりはっきりと聞こえてくる。
「総員降車!」「こっちだ急げ!」「誰か整備ができるやつはいないか!」
恐らく、どこかの門が襲撃を受けたのだろう。これがこれから日常になるんだと思うと、少女は少し不思議な気分になった、
憂鬱な感情と、髪を抑えながら、マルフ―シャは指定されていた場所へ向かう。
警戒区画と呼ばれる、いつ襲撃を受けてもおかしくない外門の直ぐ側に置かれた、宿舎だ。
マルフ―シャはその扉の前にたどり着いていた。
一応カギはかかっていないはずなので、ノックをした後に部屋に入った。
部屋の四隅には柱の役割を果たす鉄骨が立ち並び、狭い空間をさらに狭めている。
内装は、手前から壁に備え付けられた固定電話、冷蔵庫、ベッドにテレビ、奥にシャワー室。ベッド横に備え付けられたロッカーは冷たい金属製で、それぞれに番号が刻み込まれた金属板が割り当てられ、それが2つ横向きに並んでいた。
室内の様子を眺めるマルフ―シャに声がかかる。
「あなたがマルフーシャね?私は監査官」
幽霊…ではない。人間だ。
そう、室内には先客がいた。だがマルフ―シャは遅刻した身の上、たとえそれが上官のせいであっても、そんなの別のお偉いさんには関係ねぇのである。
そのことをよく分かっていたマルフ―シャは内装に意識を向けることで、ささやかな現実逃避を行っていたのである。
意識を部屋で待機していたお偉いさんに向ける。
――その瞳は、深紅のルビーのように輝き、夕焼けの空の一部を切り取ったかのような赤だった。
その鮮やかさ故に見る者の心を引きつけ、そしてその奥底に秘められた鋭さ。見る者はその瞳に一瞬で魅了され、その情熱に触れることを望むだろう。
身にまとう黒い将校用の軍服はキッチリと整えられ皺ひとつない。
その出で立ちも将校らしく、いやそれ以上の威厳と高貴さを兼ね備えている。肩には金色のエポレットが輝き、その刺繍はこれまでの功績を象徴している。
サイドに結ばれた髪は、まるで朝日の光を受けて黄金色に輝く麦畑を連想させる。その動きに合わせて風に揺れる稲穂のように柔らかく揺れ動き、根元を縛るようにして黒のリボンがそれぞれの髪束に結びつけてある。
精巧な陶器のように繊細な肌と、高い鼻筋、薄く柔らかい唇は桃色で、今はその口を堅く結んでいるが、きっと微笑んだときには、まるで春の花がほころぶように優雅にカーブを描くであろうことがマルフ―シャにははっきりと想像できた。
見入っていると、お偉いさんはお偉いさんらしい文言を並べ立てた。
「無能な低級国民を、国に奉仕させるのが私の仕事よ」
随分な言いようだと思ったが、5等国民の扱いなんてこんなものかと思い直す。身なりもマルフーシャよりいいし、髪にも艶があるように思えた。
「我が国での門兵の仕事は至って単純、門に近づくすべての"モノ"を破壊すること」
「我が国は現在、隣国全てと戦争状態にある、前線から抜けてきた兵士を叩くだけの簡単な仕事よ」
「最善を尽くしなさい」
マルフーシャはそれを聞きながら、精確には聞き流しながら、目の前の上司のボタンのズレが気になっていた。
意外と抜けてる人なのだろうか?
「了解」
彼女は内心と打って変わって軍人らしく返事をしてみせる。パン作りと同じで、最初の"コネ”は丁寧に労力をかけて、あとは適度にサボるのがいいということを知っていた。
そんなのだから、店に中々客が来ないということには、一向に気がつく気配はない。
さておき、マルフーシャは即席訓練校の成果か、元からの性格か、すっかり返事だけは一人前となっていた。国は責任を取れ。
「よろしい」
監査官は満足そうに頷くと、外へ出ていった。部屋にぽつんと一人残されたマルフーシャは、何をするか迷うことなく、ベッドに倒れ込んだ。
「あ〜、少し寝よう」
少女、マルフーシャ、職業門兵。まだまだたくさん眠りたい時期だ。
溶鉄のマルフーシャを知っていますか?
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原作を知ってる
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プレイしたことがある
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知らない