どうやら人間というものは、本当に記憶を喪失することがあるらしい。ぼんやりする頭をフル回転させて俺は結論にたどり着いた。今の今まで何をしていたのか、まるで見当がつかない。何やら一大事だったという記憶―――もはや記憶ですらない、感覚と形容する方が正しいのかもしれない―――がじんわりと頭の底に沈んでいるのみである。
上体を起こして周囲を見渡すと、白を基調としたこぎれいな部屋の隅に緑色の観葉植物が申し訳なさそうにちょこんとおいてあった。全体的に物は置いておらず、今横たわっているベッドと小さな引き出し、あとは観葉植物くんくらいしかない。ドアは黒めの茶色で木目を残した上品な作りになっている。半分開いた窓からは穏やかな風が流れ、土の香りの中にほのかに混ざる刺激的な苦い香り。なるほどここは病室なのだと気づくのにそう時間はかからなかった。大方誰かに介抱されたのだろう。あとでお礼を言っておかないとだ。
一度出した結論を混ぜ返すのは好みじゃないが、それでも記憶喪失ともなれば話は別。どんなに些細なことでもいいから思い出せないかとうんうん頭をひねらせ、大した成果はないだろうと薄々勘づいた頃、ドアから三回丁寧なノック音がした。どうやら誰かが来たらしい。別段断る理由もないので、「どうぞ」とだけ返しておく。ドアを開けて入ってきたのは、純白の看護服を身にまとったナースだった。
「おはようございます。お目覚めでしたのね。」
「ええ、つい先ほど。」
「それはよかった。あなた、搬送されてから五日も昏睡状態でしたのよ?」
どうやら俺は割と寝ていたらしい。まったく呑気な奴だ。
「それはお世話になりました。ありがとうございます。」
「あら、それはどうも。礼ならあなたを運んできた方に言ってくださいね。かなり苦労してるように見えましたわよ。」
予測通り助けて頂いたらしい。どんな方か知らないが、後で丁重にお礼しておこう。
「後ほど必ず。俺はハヤトです。ところでここはどこなんですか?実はほとんど記憶がなくて。」
「ハヤトさんですね、ありがとうございます。私はナースのジェシーと申します。以後お見知りおきを。記憶がない...なるほど。分かりました、担当に伝えておきます。そしてここはカンタゴニア国立病院。国中の
ナースは俺を安心させるかのようにニッコリ笑い、そう約束する。
―――違和感。カンタゴニア?聞いたことのない国だ。生憎勉強はできるほうではなかったが、それでも有名な国ではないだろうと想像はつく。それに
「カンタゴニア?存じ上げない国です。どこにある国なのですか?」
ナースは一瞬口をつぐみ、一瞬目をそらす。その目は混乱と不安が入り混じっている。
「本当?本当にカンタゴニアを知らないのですか?」
「ええ。お恥ずかしながら。地理はチンプンカンプンなものでして。」
「―――カンタゴニアは、この大陸唯一の国です。元々は農業を中心に栄えておりました。しかしおよそ100年前、大陸内の国家を統一した後は魔法研究を前面に推し進めて発展してまいりました。ただ、最近は研究の進捗があまり芳しくないと聞きます。」
ジェシーはそういって眉を顰める。表情が分かりやすい人だ。
そんなこと(というとジェシーに失礼ではあるが)よりもまずい単語が聞こえた。
「魔法研究、ですか?」
「そう、魔法研究です。新しい魔法の開発、魔法の改良、複数人での同時使用など、研究機関では日々魔法についての研究がなされています。」
俺は顔をしかめ、頭をフル回転させる。魔法は
―――もしかして。嫌な仮説が頭をよぎる。もしかすると。いや、そんなことはあり得ない。創作物の中の妄想だ。非現実的すぎる。世界は世界で、変わらないはずなんだ。
――――――本当に?
違和感が止まらない。100通りの理由をあげても足りないくらいに馬鹿馬鹿しい仮説。小学生ですらわかる不変の真理。それらすべてを、先ほどからの違和感がひっくり返す。冷や汗が出る。聞いたことがない国、
沈黙を破る。
「―――日本という国を知っていますか?」
「ニホン、ですか?―――聞いたことがないです。」
「アメリカは?イギリスは?ロシアなら知っているでしょう?」
無意識のうちに語気があがる。
「...すみません、すべて知らないです。」
「パソコンは知ってますか?スマホは?SNSとかやってらっしゃるんでしょう!?」
もはや怒鳴りつける勢いで、俺は思いつく限りのものすべてをジェシーに聞いた。彼女は黙ったまま、バツが悪そうにうつむく。俺はすべてを悟り、ベッドに背中から倒れこむ。
どうやら俺は、正真正銘の異世界に迷い込んでしまったらしい。