ぼくのとなりの席で仕事をしているその人。
あるときからその人が豚にみえるようになり、そして「美」についての認識も変わり始めた。

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ぼくのとなりのぶたこさん

職場ではぼくのとなりにまるで豚のような女性がいる。

 

何をするにもうるさく大きな音をたてながらする人。品のかけらもなく豚のような体型をした人。独り言や他人の悪口が絶えない人。「ふはははっ うっひひひひ」と気味が悪い笑い方をする人。食事の時も口の中にものを含みながら汚く話す人。

 

その人はもう50半ば過ぎであるが、10~20代の若い子に有りがちな、わざと子どもじみた舌ったらずのしゃべり方をする。

 

またヘビースモーカーでもあり、持病で胃を悪くしているせいもあって、しゃべるとひどい口臭が漂う。

 

その人は最近のデジタル機器の扱いが大変不得手だ。

 

今どきどの会社でも情報伝達は電子メールや伝言用のアプリを使って行うのが普通だと思うが、うちの職場ではいまだに壁に立てかけた大きなホワイトボードを伝言板にして情報のやり取りをしている。

 

その人のスキルにあわせてそのようにしているのだ。

 

ぼくはそれが非効率だと異を唱えたことがあった。デジタル音痴のその人は「いままでそれでやってきたんだから」と強く抵抗した。

 

他の職員もその人が機嫌を損ねることによって仕事がやりづらくなることを恐れて、結局情報伝達はホワイトボードを使っておこなっている。

 

ぼくはホワイトボードから一番離れているところに座っている。

 

そのせいで取引先からの電話内容で、伝達の必要のあることを耳にするたびに、いちいち席を立ってホワイトボードの所まで歩き、伝言を書き込んで席に戻り、それを一日何十回も繰り返している。

 

そして、その人は山奥育ちのせいか出身地の方言なのか、一人称のことを「おれ」という。

 

職場でその人に言葉づかいを注意する人が誰もいなかったせいで長い間「おれ」だった。

 

最近になってやっと「わたし」と言えるようになったが、時々素に戻ったときにはやはり「おれ」という。

 

きっと入社時の面接は適当にされたのだと思う。

 

そして何だかんだ10年以上ぼくはその人の隣の席にいる。

 

だれもその人の隣の席にいきたがらないので、ぼくがその人のお隣り担当であるということを聞いたことがある。

 

その人より後から入ってきた数多くの新人事務員さん達は、その人からの悪口に耐え切れず心を病んで一人残らず辞めていった。

 

ぼくは慣れてしまって耐性ができたのかもしれないが、横から聞こえる数々の罵詈雑言にも気にしないようになった。

 

 

その人は考え方がとても直情的、短絡的で思考がとても読みやすい。

 

10年以上隣りだからその人が不機嫌のときの理由はだいたいわかる。

 

主として自分の思い通りにならないときにイライラを露骨に表情や態度に表す。

 

書類の束で強く机を叩いたりする。

 

しかし、たいてい人は自分にとってわかりやすいものに対して本気で嫌いにはならないものだ。

 

だから別にその人のことを嫌いじゃない。

 

ただ、あるときから、自分はその人の姿が本当に豚そのものにしかみえなくなった。

 

 

その人への印象が悪くなったとかの話ではなく、単純に目の錯覚現象の問題である。

 

このことはその人に申し訳ない事実である。

 

 

きっかけは些細なことだった。

 

何年か前の、事務所の人たちでのミーティングのときのことだった。

 

うちの職場には、その人の他にもう一人、所作のひとつひとつが美しい細身の先輩女性事務員の吉岡さんがいる。

 

ミーティングでは、吉岡さんの隣にその人が、まるでプロレスラーが足を広げて背中を丸めて前かがみになって腰かけるように、ぼくの目の前のソファーにその巨体を沈めた。

 

細身の吉岡さんのもの静かで美しい座り方と、その人の男まさりの腰かけ方の対比も結果的には錯覚を起させた一因なのかもしれない。

 

ただその人が豚にみえたときの瞬間のことは今でもはっきり覚えている。

 

ミーティングの話題が、別の営業所の人手が足りないという話題になったときであった。

 

議長役が、だれかヘルプにまわれるかと聞いたところ、いきなり、その人は手を挙げながら元気よく

 

「いぐ! いぐ! おれがいぐ! おれがいぐ! おれがいぐ!」

 

と大きな声で自分のアピールをし始めた。

 

 

その時ふと子供のころのある記憶が蘇ってきた。

 

(今はもう無くなってしまったが)近所の養豚所の豚がぴぎゃー、ぴぎゃーと大きな声で泣きわめいている記憶である。

 

一般的に豚の鳴き声は「ぶーぶー」だと思うが、自分が記憶している鳴き声は、どこか苦しげな悲鳴にも似た「ぴぎゃー、ぴぎゃー」だ。

 

それは養豚所から数百メートル離れた我が家までよく聞え、幼いころ毎日のようにその鳴き声を聞いていた。

 

豚の糞尿の匂いも風にのって我が家までとどき、その聴覚の記憶は嗅覚の記憶とともにあった。

 

自分は目を軽く閉じその人の騒がしさを耳にしながらも暫し心地よい懐かしさに浸った。

 

「いぎたい! おれ いぎたい! おれ いぎたい!」

 

その人の自分がヘルプに行きたいアピールは益々ヒートアップし、彼女の大声と迫力は、強制的に心地よい懐古に浸る自分を今行われているミーティングへと意識を引き戻した。

 

それから目の前のその人をじっと見たときに自分の視覚に異変が生じていた。

 

(あれ? なんか本物の豚が目の前にいる!? あれ?)

その人が豚に見えていた。

というより目の前にいるのは紛れもない本物の豚であった。

 

豚が懸命にピギャー、ピギャーと泣きわめいている。

 

自分は何度も目をこすったが、やはり間違いなく目の前には大きな豚がいた。

 

その人の首から下はいつも通りの制服姿であったが、首から上がなぜか豚になっているのだ。

 

それでいて豚の顔がその人の巨体にマッチしていて不自然さが全くないのだ。

 

まわりの人を見渡しても何事もないように普通にしていた。

 

これは自分だけに生じている視覚異常なのだろうと思った。

 

しばらくはミーティングの内容はそっちのけで、その人のことをチラチラとみていた。

 

宮崎駿監督作品の「紅の豚」の主人公のように、その人の豚としての姿は不思議と今目の前にある日常に違和感なく溶け込んでいる。

 

奇妙なことに見れば見るほど自然な感じがした。

 

豚になったその人はまるでごく当たり前にそこにいる。

 

今までとなんら変わっていないのかもとさえ思えた。

 

最初豚が出現したときの動揺はすぐにおさまった。

 

とりあえず、その人が豚に見えることは自分だけの秘密にしておこうと思った。

 

きっと信じてもらえないだろうし、また「豚に見える」ということば表現は普通に悪口と誤解されるからだ。

 

 

あれから何年もたつが、いまだにその人を見ると子供のころにみたブタの顔がその人と重り合う。

 

最初は人間としてのその人の姿が目に映るが、段々と顔から上が豚に見えてくるのである。

 

また、その人の声についても、気分が高揚し「おれ おれ」が出てやたらと饒舌になったとき、自分の脳内では豚の鳴き声に変換され「ぴぎゃーぴぎゃー」と聞こえてしまう。

人間はそれぞれ視覚や聴覚について脳内処理で誤作動を起こしていると聞いたことがある。

 

個人差はあれ音や色彩の情報は人によって受容のされ方が異なるというのである。

 

自分の場合、その人から得られる音と色彩の情報の受容において、それが子供のころ見た豚の情報と混ぜ合わされて融合されてしまっているのであろう。

 

あきらかに視覚情報の脳内処理の誤作動であるがどうにも治せない。

 

 

そしてしばらくして

自分の中の「美」というものについての認識の変化が生じ始めた。

 

豚の姿をしたその人のことを美しいと感じるようになったのだ。

 

感覚を通じて得られる音や色彩や形などのバランスが心地よく均整がとれているものと感じたときに人はそれを「美しい」と感じる。

以前はその人の容姿については、ぼくは「醜」としか感じていなかった。

 

悪意からではなく単純に「美」とは八頭身のモデルのような人を表し「醜」とはその対極をなす豚のようなその人のような人を表すという対比論からそう感じていた

 

しかしそれは他者の意見、多くはメディアによって植えつけられた単なる偏見で、自分自身から生成された生粋の価値感覚から感じとったものではなかったのだ。

隣の席でその人豚として座っている姿を見ると、実はその姿がとても美しいことに気付いた。

よく豚という言葉は悪口としていわれるが、豚の流線型のフォルムはとても形が美しく一つ一つの部位に全く無駄がなく均整のとれた造形美術ともいえる。

 

座った時にどっしりと目立つお腹回りのだぶついた肉つきや背中の重厚な肉厚はどうだろう。それらは全体的に丸みを帯びた曲線美にバランスをもたらす要の部位であろう。

 

はちきれんばかりの天幕は内奥から溢れるマグマのような生命活力をおさえつけているかのようだ。

 

それでいてとても柔らかそうで見るものに落着きを感じさせる。

 

仮にその人を描こうとデッサンを試みた場合アーチ曲線を多用することになり、それが整合性を伴り重なり合って一つの美しい豚のフォルムを完成させる作業となるだろう。

 

そして驚くことに一つとして無駄な曲線が存在しないのだ。

 

絵画においても細身の人より肉付きのよい人の方がモデルとして多いのは、曲線による美を表現しやすいからかもしれない。

 

でもはたして絵画としてこの神秘的な美しさを抽出し紙面に描きだすことはできるだろうか。それはミケランジェロのような神に愛された才能を持つもののみが踏み込める仕事の領域のことではないだろか。

 

その人は芸術そのものであり、得もしれぬ悦びを自分に与えつづけた。

 

そうしてぼくは、その人ことをとても美人だと感じるようになった。

 

ぼくはその人から造形美を感じるようになり、美しい作品を眺めるようにその人のことを眺めるようになった。決して下種な性的な対象で見ているわけではない。

 

このことはぼくだけの秘密であった。

 

職場ではだれにも理解されないだろうし、もし打ち明けたとしても頭がおかしい人を思われかねない。

 

盗み見してデッサンをしたい欲求に何度も駆られたが、仕事中にはもちろんできないし、その人にお願いしたところで了解が得られるはずもない。

 

そんな悶々とした日々がしばらく続いた。

 

 

それから何月か後不思議なことが起こった。

 

その人のぼくに対することばづかいや態度に少しずつ変化が見え始めた。

 

品というものが備わりはじめたのた。

 

 

「おれ おれ」ということもなくなり、他人に気遣いする優しさも見え始めた。

そしていつのまにかその人が豚に見えることはなくなっていた。

 

食事制限にも励んでいるようで、ぽっちゃりと言えるくらいにほっそりしてきた。

 

他の人からも付き合いやすい人と思われ刺々しさも見えなくなった。

 

身なりや所作や言葉遣いもきれいになったと噂されるようになった。

 

ぼくもたしかに綺麗になったと思うようになった。

 

 

しかしなぜだろう

 

 

ぼくはその人からもう「美」を感じ取れなくなっていた。

 

 


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