ハジメが自分の最弱ぶりと役立たず具合を突きつけられた日から二週間が経った。
現在、ハジメは訓練の休憩時間を利用して王立図書館にて調べ物をしている。その手には〝北大陸魔物大図鑑〟というなんのひねりもないタイトル通りの巨大な図鑑があった。
なぜ、そんな本を読んでいるのか。それは、この二週間の訓練で、成長するどころか役立たずぶりがより明らかになっただけだったからだ。力がない分、知識と知恵でカバーできないかと訓練の合間に勉強しているのである。
そんなわけで、ハジメは、しばらく図鑑を眺めていたのだが……突如、「はぁ~」とため息を吐いて机の上に図鑑を放り投げた。ドスンッという重い音が響き、偶然通りかかった司書が物すごい形相でハジメをにらむ。
ビクッとなりつつ、ハジメは急いで謝罪した。「次はねぇぞ、コラッ!」という無言のにらみをいただいてなんとか見逃してもらう。自分で自分に「何やってんだ」とツッコミ、再びため息を吐いた。
ハジメはおもむろにステータスプレートを取り出し、ほおづえをつきながら眺める。
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南雲ハジメ 17歳 男 レベル:2
天職:錬成師、守りし者
筋力:21
体力:21
耐性:21
敏捷:21
魔力:21
魔耐:21
技能:錬成、言語理解
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これが、二週間みっちり訓練したハジメの成果である。「刻みすぎだろ!」と、内心ツッコミをいれたのは言うまでもない。ちなみに光輝はというと。
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天之河光輝 17歳 男 レベル:10
天職:勇者
筋力:200
体力:200
耐性:200
敏捷:200
魔力:200
魔耐:200
技能:全属性適性・全属性耐性・物理耐性・複合魔法・剣術・剛力・縮地・先読
高速魔力回復・気配感知・魔力感知・限界突破・言語理解
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ざっとハジメの五倍の成長率である。
おまけに、ハジメには魔法の適性がないこともわかった。
魔法適性がないとはどういうことか。この世界における魔法の概念を少し説明しよう。
トータスにおける魔法は、体内の魔力を詠唱により魔法陣に注ぎ込み、魔法陣に組み込まれた式通りの魔法が発動するというプロセスを経る。魔力を直接操作することはできず、どのような効果の魔法を使うかによって正しく魔法陣を構築しなければならない。
そして、詠唱の長さに比例して流し込める魔力は多くなり、魔力量に比例して威力や効果も上がっていく。また、効果の複雑さや規模に比例して魔法陣に書き込む式も多くなる。それは必然的に魔法陣自体も大きくなるということにつながる。
例えば、RPG等で定番の〝火球〟を直進で放つだけでも、一般に直径十センチほどの魔法陣が必要になる。基本は、属性・威力・射程・範囲・魔力吸収(体内から魔力を吸い取る)の式が必要で、あとは誘導性や持続時間等付加要素が付くたびに式を加えていき魔法陣が大きくなるということだ。
しかし、この原則にも例外がある。それが適性だ。
適性とは、言ってみれば体質によりどれくらい式を省略できるかという問題である。例えば、火属性の適性があれば、式に属性を書き込む必要はなく、その分式を小さくできるといった具合だ。
この省略はイメージによって補完される。式を書き込む必要がない代わりに、詠唱時に火をイメージすることで魔法に火属性が付加されるのである。
大抵の人間はなんらかの適性を持っているため、上記の直径十センチ以下が平均であるのだが、ハジメの場合、全く適性がないことから、基本五式に加え速度や弾道・拡散率・収束率等事細かに式を書かなければならなかった。
そのため、〝火球〟一発放つのに直径二メートル近い魔法陣を必要としてしまい、実戦で全く使える代物ではなかったのだ。
ちなみに、魔法陣は一般には特殊な紙を使った使い捨てタイプか、鉱物に刻むタイプの2つがある。前者は、バリエーションは豊かになるが1回の使い捨てで威力も落ちる。後者はかさばるので種類は持てないが、何度でも使えて威力もじゅうぶんというメリット・デメリットがある。イシュタルたち神官が持っていた錫杖は後者だ。
そんなわけで近接戦闘はステータス的に無理、魔法は適性がなくて無理、頼みの天職・技能の〝錬成〟は鉱物の形を変えたりくっつけたり、加工できるだけで役に立たない。錬成に役立つアーティファクトもないと言われ、錬成の魔法陣を刻んだ手袋をもらっただけ。
一応、地面に落とし穴や突起物のようなものを作り出せるようにはなってきたし、規模も少しずつ大きくなっている。それに加えて〝秘密の特訓〟にも励んではいる。
とはいえ、この術は対象に直接手を触れないと効果を発揮しないため、敵の目の前でしゃがみ込み、地面に手をつけるという無謀な行動を取る必要がある。結果として、戦闘の場面では結局ほとんど役に立たないことに変わりはない。
一方で、〝守りし者〟について調べてみたものの、有力な文献はほとんど見つからなかった。
さらに、〝聖刃〟という言葉は、ハジメが召喚された直後に教皇イシュタルが発したものであり、それが彼の心を揺さぶる。「やはり、自分に向けられた言葉だったのか……?」という疑念がハジメの中で膨らんでいく。しかし、具体的な答えを見つけるには至らない。結局のところ、与えられた彼の天職は〝錬成師〟という戦闘には不向きな職業と、謎めいた〝守りし者〟あり、どちらも現在の状況下では戦いに役立つ力を持っていなかった。
この二週間ですっかりクラスメイトたちから無能のレッテルを貼られたハジメ。仕方なく知識をためこんでいるのであるが……なんとも先行きが見えず、ここ最近すっかりため息が増えた。
いっそ、旅にでも出てしまおうかと、図書館の窓から見える青空をぼーっと眺めながら思う。だいぶ末期である。
ハジメは行くならどこに行こうかと、ここ二週間誰よりも頑張った座学知識を頭の中に展開しながら物思いにふけり始めた。
(やっぱり、亜人の国には一度行ってみたいな。異世界に来た以上、ケモミミを見ないなんてありえないし。でもなぁ……あの国は樹海の奥地にあるんだよね。それに、話を聞く限りでは、亜人は差別されていて、奴隷以外だと外ではほとんど見かけないらしいんだよなぁ。)
ハジメの知識通り、亜人族は被差別種族であり、基本的に大陸東側に南北にわたって広がる【ハルツィナ樹海】の深部に引きこもっている。なぜ差別されているのかというと彼らが一切魔力を持っていないからだ。
神代において、エヒトをはじめとする神々は神代魔法にてこの世界を創ったといわれている。そして、現在使用されている魔法は、その劣化版のようなものと認識されている。それゆえ、魔法は神からのギフトであるという価値観が強いのだ。もちろん、聖教教会がそう教えているのだが。
そのような事情から魔力を一切持たず魔法が使えない種族である亜人族は神から見放された悪しき種族と考えられているのである。
じゃあ、魔物はどうなるんだよ? ということだが、魔物はあくまで自然災害的なものとして認識されており、神の恩恵を受けるものとは考えられていない。ただの害獣らしい。なんともご都合解釈なことだと、ハジメは内心あきれた。
なお、魔人族は聖教教会の〝エヒトさま〟とは別の神をあがめているらしいが、基本的な亜人に対する考え方は同じらしい。
この魔人族は、全員が高い魔法適性を持っており、人間族よりはるかに短い詠唱と小さな魔法陣で強力な魔法をくり出すらしい。数は少ないが、南大陸中央にある魔人の王国ガーランドでは、子どもまで相当強力な攻撃魔法をはなてるようで、ある意味、国民総戦士の国といえるかもしれない。
人間族は、あがめる神の違いから魔人族を仇敵と定め(聖教教会の教え)、神に愛されていないと亜人族を差別する。魔人族も同じだ。亜人族は、もう放っておいてくれといった感じだろうか? どの種族も実に排他的である。
(う~ん、樹海が難しいなら西の海を目指そうかな? 確か、エリセンっていう海上の町があるらしいし。ケモミミが無理でもマーメイドは一度見てみたい。これぞ男のロマンってやつだよね。それに新鮮な海鮮料理も食べたいし)
【海上の町エリセン】は海人族といわれる亜人族の町で西の海の沖合にある。亜人族の中で唯一、王国が公で保護している種族だ。
その理由は、北大陸に出回る魚介素材の八割が、この町から供給されているからである。「壮大な差別理由はどこにいった?」と、この話を聞いたときハジメは内心盛大にツッコミを入れたものだ。
ちなみに、西の海に出るには、その手前にある【グリューエン大砂漠】を超えなければならない。この大砂漠には輸送の中継点として重要なオアシス【アンカジ公国】や【グリューエン大火山】がある。この【グリューエン大火山】は七大迷宮の1つだ。
七大迷宮とは、この世界における有数の危険地帯をいう。
ハイリヒ王国の南西、グリューエン大砂漠の間にある【オルクス大迷宮】と先ほどの【ハルツェナ樹海】もこれに含まれる。
七大迷宮でありながらなぜ3つかというと、他は古い文献などからその存在は信じられているのだが詳しい場所が不明で未だ確認はされていないからだ。
一応、目星はつけられていて、大陸を南北に分断する【ライセン大峡谷】や、南大陸の【シュネー雪原】の奥地にある【氷雪洞窟】がそうではないかといわれている。
(やっぱり砂漠は難しいか……となると、もう帝国に行って奴隷を見るしかないのか。でも、奴隷として扱われているケモミミを見るなんて、平静でいられる気がまったくしないな……。)
帝国とは、【ヘルシャー帝国】のことだ。この国は、およそ三百年前の大規模な魔人族との戦争中にとある傭兵団が興した新興の国で、強力な傭兵や冒険者がわんさかと集まった軍事国家らしい。実力至上主義を掲げており、かなりブラックな国のようだ。
この国には亜人族だろうが使えるものは使うという発想で、亜人族を扱った奴隷商が多く存在している。
帝国は、王国の東に【中立商業都市フューレン】を挟んで存在する。
【フューレン】は文字通り、どの国にも依らない中立の商業都市だ。経済力という国家運営とは切っても切り離せない力を最大限に使い中立を貫いている。欲しいモノがあればこの都市に行けば手に入ると言われているくらい商業中心の都市である。
(はぁ~、結局、帰りたいなら逃げるわけにはいかないんだよね。ってヤバい、訓練の時間だ!)
結局、ただの現実逃避でしかないと頭を振り、訓練の時間が迫っていることに気がついて慌てて図書館を出るハジメ。王宮までの道のりは短く目と鼻の先ではあるが、その道程にも王都の喧騒が聞こえてくる。露店の店主の呼び込みや遊ぶ子供の声、はしゃぎすぎた子供を叱る声、実に日常的で平和だ。
(やっぱり、戦争なさそうだからって帰してくれないかなぁ~)
ハジメは、そんなありえないことを夢想した。これから始まる憂鬱(ゆううつ)な時間からの現実逃避である。
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訓練施設に着いた時には、すでに多くの生徒たちが集まり、談笑したり自主練をしたりしていた。どうやら思ったより早く到着したようだった。ハジメは時間を無駄にすまいと、「自主練でもするか」とつぶやきつつ、支給された細身の西洋風の剣を引き抜いてみせた。
しかし、その刹那、突然背後から衝撃が走り、ハジメはよろけながらも何とか倒れるのを堪えた。だが、その勢いで抜いた剣が自身の目の前で危うい態勢となり、冷や汗が流れる。見知った顔ぶれに、ハジメは眉間にしわを寄せつつ心底嫌そうな表情を浮かべる。
そこには、やはり檜山大介率いる"小悪党四人組"がいた。この連中は、訓練が始まって以来なにかとハジメに絡んではからかってくる存在だ。ハジメが訓練そのものを憂鬱に感じる理由の半分は、彼らによるものである(ちなみに、もう半分の理由は自分の無能さに対する苛立ちである)。
彼らはいつものように嘲笑混じりの言葉を投げかける。
「おい、南雲! 何してんだよ? お前が剣持っても意味ねぇだろ。ほんと無能だよな~」
「おいおい、檜山、それ言いすぎ~。まあでも、ほんとだけどな! ギャハハ!」
「訓練に毎回顔出してんのもウケるわ。俺だったら無理だ。恥ずかしくてな! ヒヒヒ!」
「なあ、大介、なんだか可哀想だから、稽古つけてやるってどうよ?」
笑い声を上げながら馴れ馴れしくハジメの肩を組み、人けの少ない方へと引っ張っていく四人組。それに気づいたクラスメイトたちもいるようだったが、見て見ぬふりを決め込んだ。
「いや、一人でやるから大丈夫だよ。放っておいてくれて構わないから」
ハジメは一応断りを入れる。それも申し訳なさそうな口調で。
「はあ? 俺らがお前みたいな無能を鍛えてやろうって言ってんだぞ? マジ失礼なんだけど」
そう言うや否や、檜山はハジメの脇腹を力任せに殴った。激痛に顔を歪ませるハジメだが、何も言わず耐えるしかなかった。
檜山たちは次第に抵抗なく暴力を振るうようになっている。いきなり大きな力を手に入れた思春期特有の暴走なのかもしれない。しかし、それが自分に向けられる以上、理屈では割り切れない。反抗する強さなどないことも自覚しているハジメは、ただ唇を噛み締めるほかなかった。
人目につかない場所まで連行されると、檜山は容赦なくハジメを押し倒した。「訓練」の始まりだと言いながら、四人でハジメを取り囲む。
背後から突然、剣の鞘で背中を叩かれた瞬間、「ぐぁ!」と悲鳴が漏れる。その後もさらに攻撃は続く。中野が火属性魔法〝火球〟を放ち、それがおそろしい熱となって迫る。体勢を崩したままのハジメは必死に転がり避けるものの、その隙を見つけた斎藤が今度は風魔法〝風球〟を放つ。その威力でふっ飛ばされ仰向けになると、胃液がこみ上げ呻き声を漏らしながら、痛みに体を丸めた。
魔法そのものは下級のごく小さなものだが、それでもプロボクサーに殴られたかのような威力がある。その理由は、相手の魔法適性の高さと、国から支給されている魔法陣が刻まれたアーティファクトだ。
「おいおい、南雲、マジで弱すぎるって。お前、やる気あんのか?」
檜山が嘲笑を浮かべながら蹲るハジメの腹をさらに蹴りつける。ハジメは込み上げる吐き気を懸命に堪えるのがやっとだった。
それからも彼に対する“稽古”という名の暴力が続いた。耐えがたい痛みの中、ハジメは自分だけがどうしてこんなに弱いのかと奥歯を噛み締め、悔しさを押し殺していた。本来なら反撃すべき場面だとわかってはいた。しかし─ハジメは剣を鞘に納めた。
(師範……)
ハジメは師範の言葉を心の中で繰り返していた。「ハガネの心を持て」という教えが、今も強く胸に刻まれている。
ハジメが八重樫道場で剣道を始めたのは、小学校3年生の時だった。きっかけは両親の勧めであり、それが自然と彼を道場へと導いていった。当時、父親が「何かスポーツを習わせてみよう」と思い立ち、近所で評判の良い剣道道場へ通わせることに決めたのだ。また、両親には彼に友達を作らせたいという願いも込められていた。
道場では、同年代の雫や光輝と共に稽古に励む日々が始まった。信頼され、尊敬を集める厳格な師範の指導のもと、彼らは剣道技術を磨いていく。その中で、ハジメと光輝は自然とお互いをライバルとして認識するようになる。
二人の剣道スタイルには違いがあった。光輝は基本に忠実なスタイルを徹底しており、型をしっかり守ることに重きを置いていたが、フェイントには弱く、一度崩されると立て直すのに手間取ることが多かった。さらに自身もフェイントをあまり使わないため、雫に対して一本を取られる場面もしばしば見られた。一方のハジメは、基礎を大切にしながらも応用力を使うタイプだった。気まぐれにフェイントを仕掛けたり、片手で竹刀を巧みに操り相手を翻弄するなど、多彩な攻撃パターンが持ち味だった。ただし、彼には「戦う覚悟」や「勝利への執着心」といった熱い感情は見られず、それが彼独自の特徴でもあった。
ハジメが剣道で求めていたものは、「負けないこと」「避けること」、そして「守ること」だった。他者を打ち負かすことへの抵抗感が深く、その性格は剣道において時に致命的な弱点となる可能性を秘めていた。今、異世界という過酷な環境下でその弱点が自分自身にどれほど決定的な影響を与えているかを嫌というほど思い知らされている。幼い頃から争い事を嫌い、対立や敵意といった感情が自分には向いていないと感じていた彼は、衝突を避けるために自身が折れる道を選び、それが最善策だと信じ続けてきた。
周囲にはハジメを「優しい」と評価する者もいれば、「臆病者だ」と揶揄する者もいた。しかし、そのどちらでもない中間で揺れているのが本当の彼だった。自分自身がどんな人間なのか、その本質はハジメ自身にも掴みきれず、答えを出せないままだった。
そんな未だ揺れ続ける心を圧し折るように、突如として荒々しい少女の怒声が空気を切り裂いた。
「何やってるのよ!」
その声に檜山たちは一斉に「やべっ」と焦った顔をする。それもそうだ。その声の主は檜山たち憧れの存在、白崎香織だったのだから。彼女だけでなく、八重樫雫や天之河光輝、坂上龍太郎も一緒だった。
「あ……いや、誤解すんなよ? 俺たち、南雲の特訓につき合ってただけで――」
「南雲くん!」
檜山が慌てて弁明するも、それを無視して香織は咳き込みながら蹲るハジメへ駆け寄った。ハジメの痛々しい姿を目にした途端、彼女の頭から完全に檜山たちの存在が消え去ったようだ。
「特訓って……でも、随分一方的みたいだけど?」
雫が淡々と指摘する。檜山は口ごもり、「いや、それは……」と曖昧な返答をするが、雫は続けざまに言い放つ。
「言い訳はいいわ。同じクラスメイトを二度とこんな風に扱うべきじゃないわね。」
「くだらねぇことやってる暇があるなら、自分の鍛錬でもしてろ。」
龍太郎まで加わり正論を叩きつけられると、檜山たちは気まずそうな笑顔を浮かべながらその場を立ち去った。
治癒魔法によって香織がハジメの傷を癒していく中、彼は苦笑いしながら感謝した。
「ありがとう、白崎さん。助かったよ。」
しかし香織は泣きそうな顔でブンブン首を振り、「いつもあんなことされてたの? それなら私が――」と怒りに燃えた表情で檜山たちの去った方向を睨む。その様子に慌てたハジメがすぐさま彼女を制止する。
「いや、そんないつもってわけじゃないから! ホント気にしないで!」
「でも……」
それでも納得できなそうな香織に再度「大丈夫」と笑顔を見せるハジメ。渋々ながら、ようやく香織も引き下がる。
「南雲君、何かあれば遠慮なく言ってちょうだい。香織もその方が納得するわ」
渋い表情をしている香織を横目に、苦笑いしながら雫が言う。それにも礼を言うハジメ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ハジメが雫たちに礼を述べ、痛む体を引きずりながら列に戻ったその時、訓練官であるメルド・ロギンス団長が鋼の靴音を響かせて近づいてきた。
全員揃っているのを確認した彼は、場を圧倒するような豪快な声で言い放つ。
「よし、全員いるな!今日もみっちり鍛えてやるから覚悟しとけ!」
その声が訓練場に響き渡ると、クラスメイトたちは緊張した面持ちになる。だが、その中には未だ不安定な足取りのハジメへ向けられる視線も少なからずあった。その眼差しには嘲笑や哀れみ、時には無関心の色が含まれており、それらすべてが彼の胸に重くのしかかる。
この日の訓練内容は実践形式の対人戦と、各自の天職を活用した技術の鍛錬だった。ハジメはというと、訓練場の端で冷たい石畳に片手をついて座り込む姿が目立っていた。
(……触れないと始まらない。それが僕の"錬成"なんだ)
自分自身に言い聞かせるように、ハジメは精神を集中させる。魔力適性がない彼は他の生徒たちのように空間に魔法陣を描くことはできない。その代わり、手袋に刻まれた魔法陣を使い、直接物質そのものに触れて魔力を流し込む方法しかなかった。「ドシュッ」という小さな音と共に石畳の表面から数センチ突起が浮き上がる。
「ふぅ……ふぅ……」
それだけで肩で息をし始める。魔力量自体は一般的な値があるはずなのに、それを効率よく変換する術もなく、何より敵に近づかなければ発動できない錬成という特性は、実戦ではまさに自殺行為だった。
(守りし者……この名前が泣いてるな)
ステータスプレートに記されたもう1つの天職。図鑑を調べても「盾術士」や「守護騎士」のような一般的な職業は載っていたが、『守りし者』という名には一切心当たりがない。それに加えて思い出されるのは教皇イシュタルの言葉、「聖刃」。あの時、確かにイシュタルは何か驚きの表情を見せていた。すぐに見間違いだと言ったものの、あの瞳の奥に隠されていた動揺は見逃せなかった。
「坊主!何をぐずぐずしているんだ!次は実戦形式だぞ!」
メルドの厳しい声で現実へ引き戻され、ハジメは慌てて体勢を整え立ち上がった。次の訓練は模擬剣を使った一対一の模擬戦。ハジメの対戦相手は何とも皮肉なことに檜山だった。
「おい、無能。さっきの続きでもやってみるか」
檜山は不敵な笑みを浮かべながら木剣を構える。その挑発じみた態度にも動じることなく、ハジメもまた上段に構えた。ハジメの構えは、ステータスこそ低いものの、長年八重樫道場で叩き込まれた基礎が滲み出る見事なものだった。しかし、それを目の当たりにしている檜山に感銘を受けるような殊勝な心根はない。あるのは、自分よりも下であるはずの男が、香織に守られ、あまつさえ凛とした構えを見せていることへの苛立ちだけだ。
「始めッ!」
メルドの鋭い号令が響く。
直後、檜山が地を蹴った。レベルの差は圧倒的だ。ハジメの目には、檜山の動きがまるで加速したかのような錯覚さえ覚える。
「死ねよ、無能がッ!」
上段から叩きつけられる木剣。ハジメは反射的にそれを受け流そうとした。剣道で培った「いなす」技術。だが、現実は非情だった。
ガチンッ! という鈍い衝撃と共に、ハジメの腕に痺れが走る。受け流すことさえ許さない圧倒的な「筋力」の差。木剣を握る力が緩み、ハジメの体はたやすく弾き飛ばされた。
「ぐっ……あ」
「おいおい、構えだけは立派だったな! ほら、立てよ。特訓なんだろ?」
檜山は追撃の手を緩めない。転がるハジメに対し、容赦なく木剣を振り下ろす。ハジメは必死に地面を転がり、間一髪でその一撃を避けた。
石畳が砕ける。模擬戦とは思えない威力。メルドが止めに入るかと思われたが、彼は厳しい表情のまま動かない。実戦では不意打ちも、圧倒的な力の差も日常茶飯事だからだ。
(……このままだと、一方的に潰される)
ハジメは、避けた拍子に地面へ手を触れた。
魔力を、手袋の魔法陣に流し込む。
イメージするのは、檜山の足場。
「錬成ッ!」
ドシュッ! という音と共に、檜山の足元の石畳がわずかに盛り上がった。ほんの数センチの突起。だが、全力で踏み込もうとしていた檜山にとって、そのわずかな違和感は致命的なバランスの崩れを生んだ。
「なっ、……うわっ!?」
つんのめる檜山。ハジメはその隙を見逃さなかった。
痛む体に鞭打ち、飛び込む。剣道の「突き」の形。木剣の先が檜山の喉元へ肉薄する。
「……そこまで!」
メルドの声と同時に、ハジメの木剣が静止した。檜山の喉元、わずか数ミリの場所で。
訓練場に静寂が訪れる。周囲の生徒たちは、無能と呼ばれたハジメが、戦闘系天職を持つ檜山を一瞬とはいえ追い詰めた光景に息を呑んだ。
「……ハッ、冗談じゃねぇぞ! こんな小細工ッ!」
逆上した檜山が木剣を振り上げようとしたが、メルドの放つ凄まじい威圧感に射すくめられ、動きを止めた。
「そこまでだと言ったはずだ、檜山。……それと坊主、今の錬成は見事だった。自分の持てる札をどう使うか、その一点においてはお前が勝っていたぞ」
「……ありがとうございます」
ハジメは深く息を吐き、木剣を収めた。全身が悲鳴を上げている。勝利とは程遠い。もしこれが実戦で、檜山が冷静に魔法を併用していれば、自分は今頃死んでいただろう。
檜山は忌々しげにハジメを睨みつけ、吐き捨てるように列へ戻っていった。その背中には、以前よりも深い暗い執念が宿っているように見えた。
訓練の最後、メルドは全員を中央に集めた。
「明日から、いよいよ実戦訓練に移行する。場所は、王都からほど近い【オルクス大迷宮】だ」
その言葉に、生徒たちの間に緊張と興奮が走る。
七大迷宮の1つ。その名は、ハジメが今日図書館で調べたばかりのものだった。
「勇者一行として、お前たちのレベルを一気に引き上げる必要がある。イシュタル教皇猊下のお言葉によれば、魔人族の動きが活発化している。悠長に訓練している時間は残されていないということだ。……坊主」
不意に名を呼ばれ、ハジメは背筋を伸ばした。
「お前には過酷な場所になるだろう。だが、あそこには古代の遺物も眠っている。お前の天職が化ける可能性もゼロではない。……死ぬなよ」
「……はい」
ハジメは拳を握りしめた。
最弱の天職『錬成師』と、謎の『守りし者』。
教皇の言った『聖刃』。
自分達はなぜここに呼ばれたのか。その答えが迷宮にあるのかはわからない。だが、進むしかないのだ。
ハジメは夕日に染まる訓練場を後にしながら、胸の中のペンダントを握りしめた。
「ハガネの心……か。折れないように、しなきゃな」
その夜、ハジメは一人、天蓋付きのベッドの中でステータスプレートを見つめていた。
レベルは変わらず2。ステータスも平均21。
しかし、スキルの欄をじっと見つめていると、そこには今まで気づかなかった「変化」の予兆が、文字の端に微かに明滅しているような気がしてならなかった。
運命の迷宮遠征まで、あと数時間。
ハジメは、まだ見ぬ深淵の底に、自らの人生を激変させる「何か」が待っているとは、この時はまだ知る由もなかった。