ありふれた願いで世界最強   作:崇大

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HAGANE

橋の両端に現れた赤黒い光を放つ魔法陣から漂う不吉な気配が、場全体を支配していた。通路側には直径十メートルもある巨大な魔法陣が展開され、階段側には無数の小型魔法陣が散らばっている。それらは一メートルほどのサイズながら、圧倒的な数で不気味な光景を生み出していた。

 

 小型魔法陣から次々と現れるのは剣を構えた骸骨のような異形の兵士、トラウムソルジャー。その眼窩から漏れ出す赤黒い光が蠢く様子はまるで生きているかのようだ。彼らの数は瞬く間に膨れ上がり、その湧き続ける勢いは留まることを知らない。

 

 だが、ハジメが最も危惧したのは、そうした骸骨兵ではなく、むしろ通路側に広がる巨大な魔法陣から感じる底知れない脅威だった。

 

 その正体――巨大な魔法陣が召喚したのは、四足で大地を踏み締める巨体の怪物。兜のような角飾りを頭部に備え、その姿はトリケラトプスを連想させるものの、それは明らかに異常だ。赤黒く輝く瞳には殺意が宿り、鋭い爪や牙を見せつけながら覇気を纏う。角から噴き上がる炎が周囲をさらに不穏に染め上げていた。

 

 この圧倒的な怪物を目にしたメルド団長は、恐怖と責任感からか細い声で名称を呟いた。「ベヒモス」。その名が持つ意味を理解した団長は息を飲み、その次の瞬間、地鳴りとともに荒々しい咆哮が響き渡った。それだけで場の空気は一変し、圧倒的な存在感が辺りを覆い尽くす。

 

 騎士団長としての責務を果たすべく、メルド団長は一瞬で態勢を立て直し、指示を飛ばす。

 

「アラン、生徒たちを率いてトラウムソルジャーを突破せよ! カイル、イヴァン、ベイル! 障壁を全力で展開して時間を稼ぐんだ! 光輝、お前たちは今すぐ階段へ進め!」

 

 声に従い隊員たちが動き始める中で、光輝は困惑と抗いたい思いから進むべき方向に迷いを見せる。

 

「待ってください、メルドさん!俺たちも戦います!ベヒモスが一番危険なんですよね?ならば――」

 

「黙れ!」

 

 メルド団長の声が怒りと焦燥感で響いた。

 

「お前たちが今勝てる相手ではない!ベヒモスは六十五階層で最強として恐れられる化け物だ。かつてどんな冒険者でも歯が立たなかった存在なんだぞ!ここで時間稼ぎするのは私だ!」

 

 険しい顔と強烈な決意を示す言葉に圧倒される光輝。しかし撤退する勇気を出すこともできず、釘付けになる。

 

 前代未聞の危機に直面したクラスメイトたちは恐怖と混乱の中で各々動き出した。中には必死で階段へ向かう者もいれば、その場に怯えて動けない者もいる。女子生徒・園部優花は突然背後から押され倒れ込む。振り返った瞬間、大柄なトラウムソルジャーが彼女の頭部めがけて剣を振り下ろそうとしていた。

 

 死を覚悟した刹那、鋭い衝撃が耳をつんざき、優花の視界の中で火花が弾け飛んだ。

 

「動けるなら早く立って!」

 

 その力強い声はハジメのものだった。彼は虎一から託された古びた剣を握りしめ、迫りくるトラウムソルジャーの重い一撃を真正面から受け止めていた。肉体錬成で強化された身体と、八重樫流の洗練された防御技術が、最弱職の彼に、第38階層の魔物に立ち向かう力を授けていたのだ。

 

 剣の力を押し返し、見事に骸骨兵の体勢を崩したハジメは、すかさず左手を地面に叩きつけながら叫ぶ。

 

「錬成――!」

 

 その瞬間、ハジメの魔力が地面に染み渡り、足元が突如として隆起する。優花を狙っていた剣は空を切り裂き、鋭い音とともに地面へ叩きつけられた。さらに、隆起は波紋のように広がり、複数のトラウムソルジャーを橋の端まで押し流すと、そのまま奈落の底へ沈み込ませた。

 

 魔力回復薬を飲み干しながら息を整えたハジメは、地面に倒れる優花のもとへ駆け寄る。そして、彼女の手を掴み取り、促すように引き起こした。

 

 茫然自失で動けない優花に微笑みながら彼は声をかける。

 

「さあ、行って。前に進むんだ。大丈夫さ。あんな骨っこなんか怖がることはない。他のみんなだってチート級の能力を持ってるんだから安心して。」

 

 その言葉とともに彼女の背中を力強く叩いたハジメ。突然の励ましに驚いた表情を浮かべた優花だったが、次第に顔に決意の色が戻ってきた。やがて瞳を輝かせながら、「うん! ありがとう!」と元気よく声を上げると、一気に駆け出していった。

 

 一方で、ハジメは地形操作でトラウムソルジャーたちの動きを封じつつ状況を見極める。戦場ではクラスメイトたちが次々と武器や魔法を乱用しており、無秩序な攻撃で衝突やミスが相次ぎ、このままでは命を落とす者が出かねない有様だった。

 

 アランが必死に場の統率を試みるも効果は薄く、混乱は広がるばかり。さらに魔法陣から新手の敵が続々と召喚され、戦況はますます悪化していく。

 

「このままじゃまずい……!」

 

 剣を構えたまま、周囲を鋭く警戒するハジメはその背後に剣で光る円陣が浮かび上がると、蒼白い輝きが彼の全身を包み込み始めた。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 一方で、巨大なベヒモスは障壁へ向けて執拗な突進を繰り返していた。

 

 衝撃波が波及するたび橋は不気味に軋みを上げ、障壁には次第にひびが広がっていく。その維持はもはや限界に近づいており、メルド団長自身も必死に障壁の強化を試みるが、その効果は微々たるものだった。状況を鑑みれば撤退しか選択肢がないのは明らかだというのに、光輝は頑なにそれを受け入れようとはしない。

 

「嫌だ! メルドさんたちを置いて行くなんてできない! 全員で生き残るんだ!」

 

 その強い言葉に、メルド団長は苦々しい表情で歯ぎしりをしながらも葛藤の色を隠しきれない。一方で、雫は毅然とした態度で光輝を説得しようとするが、その固い意志には微動だにしない。さらに傍らで同調する龍太郎の姿を見た途端、雫は苛立たしげに声を荒げる。

 

「状況に酔ってるんじゃないわよ!」

 

 彼女の厳しい叱責が空気を凍らせる中、不吉な乾いた音が場に響いた。その瞬間、全員の視線が障壁へと集中する。「聖絶」と呼ばれる王国最強の防御魔法。その守りの要だった障壁には巨大な亀裂が広がり、今にも崩れ落ちそうになっていた。

 

「ぐわぁぁッ!?」

「カイル! ベイル!」

 

 障壁を支え続けていた騎士たちが、魔力の逆流による衝撃で次々と吹き飛ばされていく。その場に踏みとどまり、必死に抗うメルド団長も膝をつきつつ、辛うじて支えている状態だった。それでも、その努力も虚しく、障壁という最期の砦が崩壊するのはもはや時間の問題となっていた。

 

 突然として辺り一帯に大気を震わせる咆哮が響く。

 

『ウオオオオオオオオオオオオオオオオオ!』

 

「っ!?」

「うわっ!?」

「……」

「……だ、誰だ……?」

 

 絶望と修羅場が彩る激戦の中、不意に現れたのは銀色の甲冑に身を包み、威風堂々と立つ謎めいた存在だった。その姿は虚空の闇から染み出してきたかのようで、その場にいた誰もが言葉を失う圧倒的な存在感と共に障壁の前に現れる。空気そのものが変わったようで、大気は張り詰め、一点の風も流れない静寂が訪れる。

 

 その者が纏う銀色のプレートアーマーは、鈍く光りながら陰鬱な冷気と威圧感を漂わせている。一見すると、日本の甲冑にも似た意匠だが、異世界的な要素が随所に光っていた。重厚な草摺が歩みを護り、鋭く突き出た肩当てには層状の鋼鉄板が幾重にも重なっている。全体的に目にするだけで、この世界には属さない存在であることを確信させる異質性が宿っていた。

 

 さらに目を奪われたのは、その細部に施された緻密な装飾だった。鋭く突き出た獣の角を模した兜の吹返、冷たく蒼白い光を宿す瞳、西洋ゴシック建築を思わせるような重厚で反り返った鉄靴。その異世界的な要素が紡ぎ出す姿は、見る者を圧倒させるほどの凄絶な美しさと威圧感を放っていた。そしてその手に握られた銀色の直刀は、無駄な装飾を一切排した実用性優先のシンプルな設計。それゆえにこそ、その無駄1つない刃が、背筋を凍らせるような冷酷さを感じさせる。それは単に斬るためではなく、相手の急所を確実に貫くことだけに特化した、洗練された死の道具だった。

 

 そしてその者が静かに佇むだけで、周囲を支配していた激烈なベヒモスの殺気は跡形もなく消え失せ、代わりに張り詰めた静寂が場に広がった。その沈黙は見えない刃となり、人々の胸を締め付けるような恐ろしい緊張感を生み出していた。

 

 その時、その静寂を断ち切るかのように、彼の声が場内に響きわたった。その声は圧倒的な存在感を際立たせ、瞬く間にその場全体を支配する力を持っていた。

 

『光輝君』

 

 名前が呼ばれた瞬間、その声には透き通る透明感とともに、隠しきれない熱い激情が込められているのを誰もが感じ取った。そして場に居合わせた全員が、無意識に息を呑んでいた。その声は、決して初めて聞くものではなかった。むしろ、それは彼らの心の深い場所に刻まれた、紛れもなく知り得た声だったのだ。

 

「――ハジメ……なのか?」

 

 その問いかけは思わず漏れたもので、不安や驚き、期待さえも入り混じった震える音色だった。

 

 『ここは任せて』

 

 彼の短く切り出したその言葉には、かつてクラスメイトたちが知っていた優しく包容力のある面影が宿っていた。しかし、その銀色の鎧に身を包んだ堂々たる姿は、以前の彼とは完全に異なり、一目で見る者に強烈な迫力と底知れぬ威厳を刻みつけていた。

 

 ハジメの放つ言葉には、かつての彼からは想像もできないほど深い威厳が宿っていた。それは以前の彼が纏っていた不安や臆病さを一切感じさせないものだった。その代わりとして、彼の声には幾多の困難を乗り越えた者だけが持ち得る、揺るぎない「強者の余裕」が溢れていた。

 

 呆然と立ち尽くす光輝の隣で、香織や雫、そしてクラスメイトたちは言葉を失っていた。彼らの記憶にあるハジメは、いつも控えめで、自分よりも他人を支えようとする穏やかな笑顔を浮かべる少年だった。しかし今、障壁の前に立つ銀色の背中は、もはや巨大な山脈にも似た圧倒的な存在感を放ち、彼一人で迫り来る絶望を断ち切ろうとしている。その姿は、さながら無慈悲なまでに冷徹な守護神のようだった。

 

 

 

「南雲君……本当に君なの……? その姿、一体どうして……」

 

 震える声で香織がその名を呼び掛ける。しかし、ハジメは振り向くことなく、その兜の隙間から洩れる冷たい青白い光を、目の前の敵であるベヒモスに鋭く注ぎ込んでいた。

 

 その瞬間、ベヒモスは未知の圧力に屈したかのように、大地を揺るがせながら突進を始めた。その巨体は時速数百キロもの速度に達し、まるで質量兵器のように凄まじい威力を放ち、橋全体が今にも崩壊しそうな断末魔の軋む音を響かせた。

 

『メルド団長。……障壁はもう長く保ちません。僕が囮になります。みんなを階段まで連れて行ってください』

「わ、分かった! 恩に着るぞ、坊主!」

 

 メルド団長は確信した。目の前にいるこの人物─銀色の鎧を身にまとったハジメだけが、この死神の鎌を素手で押し留め、運命の糸を無理やりねじ曲げることができる存在なのだと。だからこそ、わずかな逡巡もなく命じた。

 

「総員、退避だ!」

 

 メルド団長の力強い号令が空気を切り裂く中、銀色の鎧を身にまとったハジメは、迫りくる巨体に向けて静かに一歩を踏み出した。その歩みには微塵の迷いも感じられず、重厚な甲冑がすれる音すら耳に届かない。ただ、深閑とした死の気配だけが彼の周囲を支配していた。

 ハジメの足が止まった瞬間、まるで世界全体が静止したかのような錯覚が戦場を包み込んだ。その直後、ベヒモスの猛突進がハジメに迫る。

 

 ――キィィィィィィィンッ!

 

 耳を裂くような鋭利な金属音が空間を貫いた。

 それは単なる一撃ではない。ベヒモスが持つ圧倒的な質量と突進のエネルギーを極限まで集束させて放たれる、まるで物理法則を嘲笑うかのような異質な体術だった。だが、その猛攻の中、ハジメは抜群の洞察力と隙のない動きで、質量兵器と化した巨大な怪物の死角へと影のように潜り込む。そして、握り直した銀色の直刀を迷いなく深々と喉元へ叩き込んだ。

 

 狙いは正確だった――喉元で魔力の奔流が渦巻く唯一無二の急所。

 

 ガ、アッ――!?!?!

 

 六十五階層を支配し、恐怖の象徴として君臨していたその怪物が、「最弱」と蔑まれてきたただ一人の少年に打ち負かされ、その巨体を大きく反らしながら絶叫した。

 その咆哮には、勝利を確信していた魔物の戸惑いと、生まれて初めて感じる死の予感による震えが滲み出ていた。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ベヒモスの相手をハジメに任せ、光輝たちは階段を目指して進む。その階段の近くでは、クラスメイトたちがトラウムソルジャーに包囲され、混乱した様子で右往左往している姿があった。

 

 彼らは訓練で身につけたはずの技術をすっかり忘れてしまったかのように、それぞれが独自のやり方で戦闘を試みていた。しかし、その戦い方は非効率的であり、敵の増援を食い止めることができず、未だに打開策を見つけられていない状況だ。現時点では彼らの高い身体能力が辛うじて命をつないでいるものの、この無秩序な状況が続けば、それすらも長くは持たないだろう。

 アランの声が必死に響き渡り、混乱を極めるクラスメイトたちをなんとか階段へと誘導しようとする。

 

「落ち着け! 編成を乱すな! 魔法職は広域殲滅を後方から、前衛は道を切り開け!」

 

 しかし、その指示は恐怖に飲み込まれた彼らの耳には届かない。近距離で炸裂する炎の魔術が戦士職の足元を揺るがし、反射的に飛び退いた彼が別の仲間へと体当たりする。その一瞬の隙をつき、トラウムソルジャーは音もなく鋭い軌跡を描きながら攻撃を仕掛けてきた。

 

「やめて、来ないで……! 」

「くそっ、数が多すぎる! 誰か助けてくれ!」

 

 悲鳴が戦場に響く中、一条の銀光が疾風のごとく駆け抜け、空気を裂く音が響いた。

 

「――天翔閃!」

 

 真っ白な斬撃が轟然と放たれると、トラウムソルジャーたちの中心を切り裂き、爆発的な力で吹き飛ばしていく。同時に、橋の両端にいたソルジャーたちは、その余波で弾き飛ばされ、闇深い奈落へと落ちていった。

 

 斬撃のあとには、再び雪崩のように押し寄せるトラウムソルジャーが群がり道を埋め尽くした。だがその刹那、生徒たちの目には一瞬現れた隙間から上階へ続く階段がはっきりと見えた。それは渇望していた希望の光だった。どれほど努力しても届かなかった未来への扉が、ようやく目の前に開かれつつあった。

 

「皆!諦めるな!道は俺が切り開く!」

 

 光輝の叫び声が響き、再び天翔閃が敵陣を切り裂き、仲間たちの士気を高める。その銀翼のような輝きと共に彼のカリスマ性が、一行に新たな活力をもたらしていた。

 

「お前たち!今まで何をやってきたんだ!訓練を思い出せ!さっさと連携を取れ!まったく、馬鹿どもが!」

 

 団長が吠えると同時に、一閃のごとき鋭い攻撃が発動。彼の剣は、まるで天翔閃に匹敵するかのように次々と敵を切り倒す。その力強い声と存在感に、生徒たちの沈んでいた心は一気に奮い立った。鬱屈していた気分は上向き、手足には新たな力が宿る。さらに心を落ち着かせる香織の魔法が加わり、情勢はさらに動き始める。この魔法は単なるリラクゼーション程度の効果しか持たないものだが、光輝たちの勇敢な戦いと合わさることで、その効力は計り知れない力を生み出した。

 

 治癒魔法に秀でた者たちは負傷者を癒し、高い魔法適性を持つ者たちは後衛へと下がり、強力な魔法の詠唱を開始する。一方で前衛は堅実な隊列を形成し、敵を倒すためではなく後衛を守ることを最優先に動き方を整えていた。

 

 治療を終えて再び戦場に復帰した騎士団員たちも加わり、反撃の合図が高らかに鳴り響く――怒涛のような波状攻撃が展開され、チート能力を持つ者たちは、魔法と武技による驚異的な連携で敵陣を押し返していく。その圧倒的な速度は、ついには敵が魔法陣で生み出す魔物の召喚ペースすら凌駕するほどであった。

 

 そしてついに、階段への道が完全に開ける。

 

「皆!続け!階段前を確保するぞ!」

 

 光輝は、その号令と共に突進していく。ある程度回復した龍太郎と雫も後に続き、とどめる暇もなくトラウムソルジャーの包囲網を切り裂いて突破していく。その動きは、まるでバターをナイフで滑らかに切り分けるかのようだった。

 

 こうして、一行全員がついに包囲網を突破する。一方で背後では、またも橋と通路が骨の壁によって塞がろうとしていた。しかし光輝はその目論みを阻むべく魔法を放ち、再び敵を蹴散らす。

 

 その間、生徒たちの表情には混乱の色が浮かんでいた。目の前には、希望に満ちた出口へと続く階段が見えている。ここから一刻も早く立ち去りたい――そう生存本能が強く訴えかけてくるのだ。それでも、彼らの視線は完全に釘付けだった。銀色に輝く一人の背中、その人物が「化け物」と対峙し続ける姿から目を離すことができなかったのだ。

 

「ねぇ雫ちゃん」

「何?」

「南雲君、あの姿は一体どういうこと?」

 

 雫は香織の問いに言葉で答えることができなかった。ただ、手に握った一本の銀刀をしっかりと構え、その圧倒的な存在感でベヒモスをねじ伏せる背中をじっと見つめていた。かつて「無能」と揶揄された少年の面影を、懸命にその姿の中に探し続けながら。

 

「あれは……「ハガネだよ」、光輝!」

「はがね?」

 

 香織は戸惑いながら声を漏らした。激闘の最中、光輝が口にしたその言葉の真意をすぐに理解できた者はほとんどいなかった。しかし、彼の瞳には確かな信念が宿っていた。

 

「間違いない、あれは八重樫家に代々伝わる鎧『ハガネ』だ」

 

 光輝の発した一言がその場の空気を一瞬で塗り替え、張り詰めた静寂が空間を支配した。驚きのあまり声を失った雫は、目を大きく見開きながら、恐怖に立ち向かうことすらできず、ただ銀色に輝くハジメの背中をじっと見つめるしかなかった。

 

「光輝、今なんて言ったの? ハガネって……まさか、お父さんの⁉」

 

 それは、雫の家系である「八重樫流古武術宗家」に代々受け継がれてきた、名もなき鎧――俗に「ハガネ」と呼ばれるものであった。称号や派手な装飾とは無縁のその銀色の鎧は、ただ静かに佇むのみ。しかし、その内側には「ハガネの心」と呼ばれる唯一無二の力が秘められていた。ところが、本来なら雫の父・虎一が所有しているはずのその鎧が、奈落の底で南雲ハジメを纏っているという光景を目の当たりにし、雫は全身が凍りつくような衝撃を受けていた。

 

「……どうして、南雲君が……お父さんの鎧を?」

「わからない。でも、あの噂は本当だったんだな」

 

 光輝はハジメの背中をじっと見つめながら、まるで独り言のように言葉を紡いだ。

 

「3年前、師範が行方不明になる前日、ハジメが師範からハガネを継承したという噂は本当だったんだ」

 

「……3年前の、あの噂」

 

 雫は光輝の言葉を聞き、思わず息を呑んだ。

 

 それは彼女の父であり、八重樫流古武術の現当主でもある虎一が原因不明の失踪を遂げる直前の出来事だった。当時、門下生たちの間で密かに囁かれていた噂が存在した。それは、「三強」の一人と称されていた南雲ハジメが、当主である虎一から直々にハガネの鎧を受け継いだというものだった。

 

 あまりにも突飛すぎて、雫をはじめ誰もがその当時ただの冗談だと笑い飛ばしていた噂。それが今、この異世界の深淵、絶望の橋の上で現実として明らかになっていた。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 雫たちが困惑する中、ハガネ――ハジメは、激しく火炎を吐き続けるベヒモスを冷徹な眼差しでじっと見つめていた。

 

『攻撃には一貫性がない。むしろ仕留めるより、どこか楽しんでいる?』

 

 その予感は見事に的中していた。当初はただ本能の赴くままに動いているかのように見えたベヒモスだったが、ハガネを目にした瞬間、その態度は一変した。その瞳に宿っていたのは、破壊と殺戮を渇望する魔獣の冷徹な輝きではなく、遠い昔の懐かしい記憶を思い起こし、無垢な歓喜に震えるやわらかな光だった。

 

 六十五階層の王として君臨するベヒモスにとって、これまで出会った人間たちは単に踏みつぶすだけの取るに足らない存在だった。だが、今目の前に立ちはだかる銀色の戦士は、これまでのどの人間とも違った。静けさと力強さを纏ったその立ち姿、揺るぎない覇気から漂う威圧感。それは、かつて迷い込んだ幼いころの自分を厳しくも優しく導いてくれた「あの少女」を鮮明に心によみがえらせるものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ベヒちゃん!――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 銀色の兜の内側で、ハジメはベヒモスの急激な変化を鋭敏に感じ取っていた。

 

 先ほどまで荒れ狂う暴風のごとく放たれていた殺気が、突如として純粋な「武」への渇望や、どこか親愛に似た不思議な熱意へと様変わりしている。ベヒモスの喉奥から響く音も脅威を示す咆哮ではなく、まるで久しぶりに古い友と再会したかのように喜びを表す、地を揺るがすような低く深い唸り声へと変わっていた。

 

『……僕を誰かと勘違いしているのか?』

 

 銀色の兜の奥に隠されたハジメは、まるで独り言のように低く呟いた。その静かな声が届いたのか、目の前の巨獣ベヒモスは愛情を帯びた仕草で鼻を鳴らし、前足で地面をゆっくりと掻く。彼が見ているその姿は、恐怖と共に冒険者たちを数え切れないほど屠った「六十五階層の王」としての威容とは全く異なるもの。かつてある少女に命を救われ、その剣さばきに心打たれた一匹の「生き物」としての本質を目の前に映し出している。

 

 しかし、戦場という場所はそんな一瞬すら許さない。

 

 ハジメだけではなかった。ベヒモスの柔和な態度を「隙」と見逃さない者が他にもいた。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 クラスメイトたちは訝しげな表情を浮かべていた。それも無理はない。目の前には避難できる階段があるのだ。一刻も早く安全地帯へ向かいたいという感情は当然と言える。

 

「みんな、ちょっと待って! 南雲くんを助けなくちゃ! 彼が一人であの怪物を食い止めてるのよ!」

 

 香織の訴えに、クラスメイトたちは「何を言っているんだ」とでも言いたげな顔をしている。それも仕方がない。なにせ、ハジメはこれまで“無能”として扱われてきたのだから。

 

 しかし、困惑する彼らがトラウムソルジャーたちを挟んで橋の方に目を向けると、そこには確かにハガネを纏ったハジメとベヒモスの姿があった。

 

「あれ、なんだよ……? 何してるんだ、あいつ?」

 

「あの魔物、南雲に押されてる?」

 

 次々と漏れる疑問の声。そのとき、メルド団長が厳しい口調で指示を飛ばした。

 

「その通りだ! 坊主がたった一人であの化け物を押さえ込んでくれているおかげで撤退できたんだ! 前衛組はトラウムソルジャーどもを近づけるな! 後衛組は遠距離魔法の準備だ! 坊主がベヒモスを抑えていられるのも時間の問題だ。やつが離脱したら、一斉攻撃で化け物を足止めしろ!」

 

 腹の底にまで響くような団長の怒声に、生徒たちは気持ちを引き締め直した。それでも中には階段の方を未練たっぷりに見つめる者もいた。

 

 無理もないことだ。つい先ほど死にかけたばかりなのだから。一秒でも早く安全地帯に行きたいと思うのは人間として当然だ。しかし、容赦ない団長の「急げ!」という怒声に、その未練を振り払うようにして生徒たちは再び戦場へと舞い戻った。

 

 メルド団長の怒声は、怯えで固まっていた生徒たちに不安を打ち消すような重圧を与え、騎士として、そして「勇者」の仲間としての規律と覚悟を無理やり刻み込んだ。

 

「動け! 坊主の渾身の戦いを無駄にするな! 八重樫、天之河、全員を引っ張れ! 白崎、お前は前衛の治癒を担当しろ!」

 

 メルドの命令を即座に察したアランが、生徒たちの背中を押して硬直を解き始める。

 

「……光輝! 行きましょう!」

 

 雫は未だハジメの姿に目を奪われていた光輝の腕を掴み、そのまま半ば強引にトラウムソルジャーたちの群れへと引き戻した。光輝はハジメへの信頼と、自らの勇者としての責務に突き動かされ、聖剣を握り直す。

 

「わかった! 天翔閃!」

 

 その豪快な一撃が階段前に密集していたトラウムソルジャーたちを一掃する。その瞬間が皮切りとなり、混乱していた生徒たちも次々と正気を取り戻し、自分たちの「チート能力」を解放し始めた。

 

 龍太郎は轟音と共に拳を地面へ叩きつけ、骸骨兵たちの足元を崩壊させて動きを封じる。その背後から魔法に長けた生徒たちが炎や氷の嵐を放ち、メルド団長の指示通り、ハジメとベヒモス周辺を囲むように「死の境界線」を築いていく。

 

 一方で、香織は傷を負った騎士たちや混乱の中で傷ついた生徒たちに次々と治癒魔法を施しながらも、その瞳だけは決してハジメから離れることはなかった。

 

(南雲君……どうか無事でいて……!)

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 周囲ではクラスメイトたちが位置を調整しつつ、次々と魔法の弾幕を展開していた。しかし、ハジメはそれら全てを「背景」に過ぎないものとして意識の外に排除し、自身の集中を乱されることなく決戦の時を迎える準備をしていた。兜の奥で青白く輝きを放つ彼の鋭い視線はただひとつ、目の前に立ちはだかる獣――ベヒモスだけに注がれていた。

 

 どこか意思を感じられるその姿に、ハジメは内心で呟かずにはいられなかった。その巨体から滲み出る純粋な闘争心は、戦いそのものを楽しむかのような無垢さを感じさせる。奇妙な共鳴がハジメの胸にも熱を灯し、彼の存在にさらなる活気を与えていく。

 

 錬成師という「最弱職」の肩書きに、戦闘の才能は初めから付随していなかった。ただ、生き延びるための防御技術を虎一から徹底的に叩き込まれ、限界を超えた肉体改造を施し、さらに錬成による地形操作を駆使することでここまで歩んできた。今、目の前で圧倒的な知性と威圧感を兼ね備えた“王”の存在に直面するや、その経験の全てが高速で整理され、精密な「戦闘理論」へと再構築されていく。

 

『――来る』

 

 そう直感した瞬間、低姿勢を取ったベヒモスが巨体に似つかわしくない速度で突進してきた。その角から吹き上がる焦熱の炎は、橋中の空気をも焼き払う勢いだ。

 

 動じることなくその場に立ち尽くすハジメ。そして至近距離まで迫ったそのタイミングで、ベヒモスの放つ炎が彼の兜を掠める。

 

 その瞬間、大気を裂くようなメルド団長の指令が飛び交う。

 

「前衛は下がれ! 後衛、全力で撃て!」

 

 ――それはまさにハジメが作り上げた完璧な機会だった。

 

 班員たちは香織の癒しによって心身を整え、その次の瞬間、全ての魔力を解放する。炎の嵐、氷柱の槍、雷光の攻撃が一斉にベヒモスへ降り注ぐ。その巨大な体は轟音と共に爆風に包まれ、大地から巻き上がった煙が暗闇を埋め尽くすほど広がった。残存する魔力の輝きが視界を白く染め上げ、橋全体が激しい衝撃波に揺れる。

 

 希望に満ちた声がどこからともなく漏れる。

 

「やった……!」

 

 しかし、その刹那。その希望は無情にも絶望へと塗り替えられる。

 

 轟く咆哮――。

 

「グオォォォォォォォォッ!」

 

 爆煙を払い散らしながら姿を現したベヒモス。その体は紅蓮の炎を纏い、空間すら歪ませている。背中の甲殻には亀裂が入り、真紅の血が滴り落ちているものの、その瞳には激しい渇望だけが宿っていた。「親愛」が失われたその目には激烈な破壊衝動が燃え盛り、戦場の空気はさらに緊張感を増していく。

 

「嘘だろ……あれほどの直撃を受けても、まだ動けるなんて――」

 

 龍太郎は目を見開き絶望の色を滲ませながら、本能的に後ずさった。

 

 仲間たちが放った魔法は驚異的な威力を誇っていた。それにもかかわらず、この怪物にとっては逆効果だったのかもしれない。暴れ狂う野生の衝動が、「戦士としての怒り」に変貌するきっかけを与えてしまったようだった。ベヒモスの曲がりくねった角から放たれる赤黒い光が橋の石材を溶かし、周囲を熱で蝕み始めている。

 

 冷静でありながら鋭さを伴った声が響き渡る。その言葉には揺るぎない決意が込められていた。声の主は南雲ハジメ。彼は右手に握った直刀を構え直し、身体を落ち着けて集中を高める。その姿勢は八重樫流剣術の中でも最上級の「奥義」を完全に体現していた。

 

「南雲君! 無理だよ、一人じゃ戦えない――!」

 

 香織が必死で止めようとするも、ハジメは振り返らない。ただ黙然と立ち続けるのみだった。砂埃が舞い上がり、ベヒモスの低い唸り声が空気に重さを加える。ハジメは静かに前へと一歩踏み出し、短い言葉を放つ。

 

「来い」

 

 その瞬間、空気が研ぎ澄まされたように周囲が張り詰める。ベヒモスが凄まじい咆哮を上げながら、巨大な体で突撃してくる。その迫力に香織たちは怯むが、それに対しハジメは深く息を整え、静かに言葉を紡ぐ。

 

「僕を信じて」

 

 低い重心で構える彼の剣先が微細な振動を見せ、やがて淡い光をまとい始める。次の刹那、スムーズな動きでハジメの身体が弧を描くように横へと流れた。その動きを捉える間もなく、ベヒモスの巨大な爪が空を裂き、大地に深刻な傷跡を刻む。しかしそこには、既に彼の姿はなかった。

 

 一閃。

 

 閃光のような軌跡がベヒモスの砂の鎧の肩を切り裂く。その刃の輝きが消え去る間もなく、続けざまに二撃目。そして三撃目、四撃目――。斬撃の連続によって空間が軋むほど歪み、そのたびごとにハジメの姿は違う位置へ移動していた。正面から側面へ、さらには背後へと瞬時に変わるその速さにはベヒモスはついてこれない。

 

『光を受けて闇へ還れ!』

 

 呻き声のような強烈な言葉と同時に、ハジメの剣は大きな弧を描き光の渦を生成する。それは回転と突進が融合した破壊力となり、一切途切れることなく斬撃を繰り出していく。その連撃は砂の鎧を砕き続け、再生する隙すら与えないほど激しく痕跡を刻み込んでいく。

 

 ついにベヒモスは動きを止め、生気を奪われたかのようにその場で崩れ落ちた。ハジメは最後の力を込めながら踏み込み、光を纏った剣を一気に振り抜く。

 

 残された砂は静かに風に散りゆき、その場にはただ静寂だけが取り残された。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 凄まじい轟音が大地を揺るがし、砂塵が橋の上で激しく渦巻いた。ハジメの放った圧倒的な一撃は、ベヒモスが誇る鉄壁の防御を正面から打ち破り、その巨大な躯体を静かに地面へと沈ませた。かつて「無能」と嘲笑されていた少年が握る剣は、今や誰もが息を呑むほどに鋭く、鍛え抜かれた「武」の象徴へと進化を遂げていた。

 

 勝利を信じられない誰かの震える声が、徐々に静寂を取り戻しつつある戦場に微かに響いた。

 

「……これで終わったのか?」

 

 しかし、ハジメだけは警戒を解くことなく構えを崩さない。兜の奥に宿る冷酷な青白い瞳は、未だ崩れ落ちた魔獣の残骸をじっと睨み続けている。その視線には、わずかな安心すら浮かんでいなかった。

 

 やがてハジメはゆっくりと振り返り、階段の方向へと足を踏み出した。階段付近に到着した彼の体が再び眩い光に包まれるとともに、鎧は瞬く間にはじけ飛び、その磨き抜かれた姿が戦場に新たな静寂をもたらすように佇んでいた。

 

 銀色の甲冑が光の中に溶け込むように、消え去った。残りわずかな輝きが静かに薄れると、その場に立っていたのは地味な服を身にまとい、わずかに肩で息をする南雲ハジメの姿だった。

 

 だが、その場にいた誰もが気づいていた。目の前にいるのは、かつて「無能」と侮られ、軽んじられていた少年ではない。伝説の鎧を操り、六十五階層の王を打ち倒した、一人前の「戦士」の姿だった。

 

 「……南雲君!」

 

 南雲の名を呼び、真っ先に駆け寄ろうとしたのは香織だった。その目には安堵が浮かぶものの、それ以上に言葉では表せないほどの衝撃が色濃く宿っている。一方、雫もまた、自身の家系に伝わる鎧『ハガネ』がなぜ南雲の手にあるのか――その疑問を胸に抱えながらも、震える手でそっと刀を鞘へ収めた。

 

 しかし、胸に溢れる再会の感慨に浸る暇は与えられなかった。

 

 ハジメの姿は、目を覆いたくなるほど凄惨だった。

 

 両目からは血が止めどなく流れ、口からも血を吐き、鼻や耳といったすべての穴という穴から血が滴り落ちていた。

 

 その血はとどまることなく足元へと流れ落ち、地面を赤黒く染め上げていく。

 

 ハジメの体から力が抜け落ち、まるで操り糸を断たれた人形のように、その場で静かに崩れ落ちていった。

 

 駆け寄った香織は、そのあまりに痛ましい姿を前に悲鳴すら上げられず、ただ必死に彼の身体を抱きとめた。彼女の腕に感じられるのは、かつての穏やかで優しい体温ではなく、燃えさかるような異様な熱と、それと対をなすような「死」の冷たい気配だった。




すでにお気づきの方もいると思いますので、この場を借りてお伝えします。本作は『ありふれた職業で世界最強』に『牙狼』の要素を加えた二次創作小説となっています。今回、ハジメが纏った「ハガネ」は『牙狼〈GARO〉-ハガネを継ぐ者-』に登場する「ハガネ」を意識したものです。放送を見て、そのかっこよさに感銘を受けたため、取り入れました。

『牙狼』シリーズに宿る独特の重厚な世界観、そして絶望に抗う「守りし者」の孤高の強さ。それらが、どん底から這い上がるハジメの物語と見事に共鳴する瞬間を想像したとき、かつてない化学反応が生まれるのではないかと思い、この物語を紡ぎ始めました。

作中で雫たちを驚かせた、この世界に本来存在し得ない「ハガネ」という不思議な鎧。それがなぜ異世界に現れたのか。そして、ハジメが師範から受け取ったものとは何なのか。この謎解きは、物語の進行とともに少しずつ紐解いていく予定です。

次回の更新もできる限り早くお届けできるよう、全力で執筆に励みますので、どうぞお楽しみに!
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