身長2m28cmの大男、平成元年の日本に転生する   作:はるあき 007

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17歳-30 彼女たちの事情 絵里の場合

2002年4月15日

 

死のうと思っていた。

人生が暗闇に包まれていて、明るくなる兆しが見えなかった。

 

 

 

そのイジメは突然始まった。

最初は、本当に些細なことだった。

机の中のノートがなくなったり、上履きが隠されたり。

話しかけても、急にみんなが黙ったり。

廊下ですれ違うたびに、くすくす笑われたり。

 

でも、そういう“小さいこと”って、毎日続くと全然小さくない。

 

制服に落書きされた日、私は洗面所の鏡の前でしばらく動けなかった。

消そうとしても消えなくて、泣きそうなのに涙も出なかった。

ただ、胸の奥がじわじわ冷たくなっていった。

 

理由は、分かっていた。

 

主犯格の美嘉は、同じクラスの作馬のことが好きだった。

その作馬が、ある日、なぜか私に告白してきた。

 

本当に意味が分からなかった。

私は別に彼のことを好きでもなかったし、むしろあまり話したこともなかった。

クラスメイト達はカッコいいとか言ってたけど、私はそう思ったことが無かった。

だから普通に断った。

 

それだけだ。

本当に、それだけだった。

 

でも美嘉にとっては、それで十分だったらしい。

 

「絵里が奪った」

「わざと気を引いた」

「振ったとか嘘でしょ、感じ悪い」

 

そんな話が、いつの間にか本当のことみたいに広がっていた。

 

違うって言いたかった。

私は何もしてないって叫びたかった。

 

でも、誰も聞いてくれなかった。

 

一度だけ先生に相談しかけたことがある。

でも、「女の子同士のちょっとしたトラブルでしょ?」みたいな顔をされて、途中でやめた。

 

家でも言えなかった。

心配かけたくなかったし、何より口に出したら、本当に自分がいじめられている側になる気がしたから。

 

だから、ずっと黙っていた。

 

気づけば、教室の空気を吸うだけで息が苦しくなっていた。

お昼休みが怖かった。

教室を出るたびに、また机に何か書かれているんじゃないかと手が冷たくなった。

 

そのうち、ふと思うようになった。

 

いなくなれば、全部終わるのかなって。

 

別に、勇気があったわけじゃない。

本気で何かを決めていたわけでもない。

ただ、ベッドの中で天井を見ながら、消えてしまいたいって思う夜が増えた。

 

朝が来るのが嫌だった。

学校に着くのが嫌だった。

自分の名前を呼ばれるのも嫌だった。

 

・・・でも、ある日、突然それが終わった。

 

本当に、びっくりするくらいあっさりと。

 

机の落書きがなくなった。

陰口が止まった。

廊下で笑われなくなった。

美嘉は私を見なくなった。

 

最初は、何が起きたのか分からなかった。

 

後で知った。

とんでもない新入生が来たのだ。

 

東雲大、中学一年生。

背が高くて、目立って、しかも―腹が立つくらい顔が良かった。

 

いや、イケメンすぎた。

 

なんなのあれ。

中学生であの完成度って反則でしょ。

鼻筋通ってるし、瞳は綺麗だし、無駄に落ち着いてるし。

しかも運動までできるとか、ちょっと設定を盛りすぎてる。

 

で、美嘉は、その転校生を見た瞬間、作馬のことなんてどうでもよくなったらしい。

しまいには「作馬ってあんまりイケメンじゃなくない?」とか言い始めた。

 

・・・本当に、どういうこと?

 

私の数か月の地獄、そんな理由で終わるの?

 

呆れた。

拍子抜けした。

そして、少しだけ救われた。

 

だって、終わったのは終わったから。

 

私はまた、教室で息ができるようになった。

人の目を見て話せるようになった。

笑うことを思い出した。

 

もちろん、すぐに全部元通りになったわけじゃない。

傷ついた心は、そんな簡単には治らない。

しばらくは、誰かが笑うだけで自分のことかと思ったし、教室に入る時は今でも少し緊張した。

 

でも、それでも。

あの新入生が来てくれたことで、私は確かに助かった。

 

 

しかも、本人はたぶん何も知らない。

自分が誰かを救ったなんて、これっぽっちも気づいていないって顔をしていた。

 

でも、私のことだけじゃない。

彼は色んな人を救っていたけど、ずっと素知らぬ顔をしていた。

 

態度の悪い不良グループのリーダーを締め上げたときも、

ひどい体罰をするせいで嫌われていた体育教師を、柔道の授業で一時間投げ続けて改心させたときも、

高木にできた蜂の巣を、脚立も使わず駆除した時も、

裏庭に出た猪を蹴り飛ばして退治した時も、

彼はそれが当然という顔をしていて、一つも誇らしい様子を見せたことが無かった。

 

正しい事を粛々とやる。

それで何か対価を得ようなんて思っていない。

 

その精神が、私は素晴らしいと思ったのだ。

その高潔さに、私はあこがれてしまったのだ。

 

だから決めた。

私は陰から、彼のサポートをし続ける。

たとえ彼に気が付かれなくても。

何の対価が得られなかったとしても。

 

 

 

 

 

 

2005年1月22日

 

私は高校生になっていた。

東雲君との距離は離れてしまったけど、私は相変わらず彼を追っていた。

 

いや、追っていたって言うとちょっと危ない人みたいだけど、違う。

ちゃんと健全な範囲だ。

試合結果をチェックして、記事を読んで、たまに動画を見返して、

あとファンクラブの会報を欠かさず読むくらいである。

 

・・・十分重い?

うるさい。

 

とにかく、その日も私はファンクラブの掲示板を眺めていた。

 

最初は、いつもの噂話だと思った。

「ダイがまた異常な食費を叩き出したらしい」とか、

「あの体格で成長期がまだ終わっていないらしい」とか、

そういう半分ネタみたいな投稿。

 

でも、その中に少しだけ気になる書き込みがあった。

 

「最近かなり金欠らしい」

 

私はその一文で手を止めた。

 

・・・金欠?

 

いや、待って。

東雲君は確かに身体が大きい。

つまり食費も服代も靴代も全部バカみたいにかかるのは分かる。

でも、それにしたって金欠って。

彼の居る施設はかなり裕福だと聞いていたのだが。

 

さらに読み進めると、もっと生々しい話が出てきた。

 

遠征費。

トレーニング設備。

栄養管理。

海外挑戦の準備資金。

 

なるほど。

単に食べすぎてお金がないってことじゃなくて、

才能のある選手が上に行くためのコストに押しつぶされかけている感じなのか。

 

私はPCを見ながら、眉をひそめた。

 

「・・・それ、放っておいていい話じゃなくない?」

 

もちろん、私はただの高校生だ。

個人で何千万も出せるわけじゃないし、スポンサーを紹介できるコネもない。

 

・・・いや。

 

コネなら、ひとつだけあった。

私は机の前でしばらく考えてから、携帯電話の連絡先を開いた。

叔父:近藤健吾

 

母の弟。

仕事の関係でJBA周辺に出入りしていて、国内外の関係者とも顔が広い。

普段は飄々としているくせに、変なところでやたらと鋭い男だ。

ただし、面倒くさい。

 

私は数秒迷ってから、メッセージを打った。

 

「ちょっと聞きたいことあるんだけど」

 

返事は早かった。

 

「珍しいな。男の相談か?」

 

私は即座に打ち返す。

 

「違う」

 

・・・いや、完全に違うとも言い切れないのが腹立つ。

 

しばらくして、叔父から電話がかかってきた。

 

「で?何だ、ダイ君のことか?」

 

「なんで分かるのよ」

 

「お前がバスケの話をするとき、九割彼絡みだから」

 

ぐうの音も出ない。

 

私は観念して、本題を話した。

ファンクラブ経由で、彼がかなり資金面で苦労しているらしいこと。

もし本当に海外挑戦を考えているなら、早めに動ける環境が必要なんじゃないかということ。

 

叔父は最初、ふんふんと気のない返事をしていた。

でも、途中から声のトーンが少し変わった。

 

「・・・なるほどな。

で、お前はどうしたいんだ?」

 

「どうしたいって・・」

 

私は少し言葉に詰まった。

 

本音を言えば簡単だ。

 

東雲君には、ちゃんと上の舞台に行ってほしい。

金がないとか環境が整わないとか、そういうしょーもない理由で止まってほしくない。

 

でも、それをそのまま言うのは、なんか悔しかった。

だから私は、少しだけ言い方を変えた。

 

「せっかく才能があるのに、そこで止まったら日本バスケ界の損失でしょ」

 

叔父が、電話の向こうで笑った。

 

「建前が下手だなあ、お前」

 

「うるさい」

 

「で、要するに、欧州のセカンダリースクール関係者に面白い素材がいるって流せばいいわけか?」

 

「・・・できるの?」

 

「できなくはない。

ただ、向こうも暇じゃない。

“日本にすごい中学生がいます”だけじゃ動かんぞ」

 

「だったら、プロデビューをもくろんでるって流して」

 

「お?」

 

「本人にその気があるなら、見る目のある人なら引っかかるでしょ。

若くて、デカくて、実力もある。U18での活躍を見ていた関係者はたくさんいるはず。

しかも日本じゃ抱えきれないなら、欧州の方が早い」

 

電話の向こうで、叔父が少し黙った。

 

「・・・お前、思ったより容赦ないな」

 

「そう?」

 

「自分の好きな選手を、さっさと国外に売り込もうとしてる」

 

「好きって言ってない」

 

「はいはい」

 

その軽い返事が癪に障った。

 

でも、叔父は最後にはちゃんと真面目な声になった。

 

「分かった。

ヨーロッパのバスケ関係者何人かに、そういう噂を流してみる。

正式な推薦じゃない。

ただ、“日本におもしろい怪物がいて、本人も外を見てるらしい”って程度だ」

 

「それで十分よ」

 

「オーケー。じゃあ明日から動き始めるよ・・・ちなみに、彼の事が好きならお前も

 

「ありがと。よろしくね!」

 

電話を切ったあと、私はベッドに倒れ込んだ。

 

天井を見ながら、少しだけ心臓が速いのに気づく。

 

・・・やってしまった。

 

いや、別に悪いことじゃない。

たぶん。

きっと。

 

でも、もしこれがきっかけで彼の人生が動いたらどうするんだろう。

もし逆に、余計なことをしたせいで、彼のバスケ人生に混乱を招いたら?

 

私は枕を抱きしめた。

 

「・・・まあでも」

 

そこまで考えて、ふっと笑ってしまう。

 

あの人なら。

あの人なら、たぶん、どこに投げ込まれても生き残る。

 

中学の時、ただ入学してきただけで教室の空気を変えた人だ。

東京で一番荒れた中学として有名だった品川第八中学校を、たった三年で品川区の教育モデル校へと変えた人だ。

そんなの、普通じゃない。

 

それに。

 

もし本当にヨーロッパに行くことになったら、

それはきっと、彼がもっと大きな舞台に行くってことだ。

それだけ、多くのサポートが必要になるはずだ。

 

 

「・・・英語の勉強しないとね」

 

私は彼のサポートを続けるため、英語の勉強により力を入れることにした。

 

 

・・・そして数日後。

叔父からの情報で、スペインの一部リーグであるラバリアから声がかかったことを聞いた。

私は英語の勉強を中断し、スペイン語の勉強をスタートした。

 

 

 

 

 

 

 

 

2005年3月11日

郵便局のカウンターで、私は箱をそっと差し出した。

 

「中身は?」

 

「お菓子と……スープ類です」

 

嘘じゃない。

ただ、ただのお菓子とスープではないというだけだ。

 

箱の中には、ブラックファイヤー、バッキ―、たけのこの山、秋の種。

それから、インスタントのみそ汁。

さらに、ふりかけ、お茶漬けの素、少しだけ高めのレトルトカレーも入れた。

 

我ながら、かなり考えたラインナップだと思う。

 

スペインでの生活。

慣れない言葉。

慣れない食事。

プロの世界のプレッシャー。

そんな中で、少しでも日本を感じられるものがあった方がいいに決まってる。

 

・・・たぶん。

 

でも、正直に言えば、自信はなかった。

 

「これ、本当に嬉しいのかな・・・」

 

発送伝票を受け取りながら、私は小さく呟く。

 

だって、相手はあの人だ。

219cmの、日本の怪物。

今やスペインリーグで暴れ始めている、本物のプロ選手。

 

そんな人に、女子高生が選んだみそ汁セットって、どうなんだろう。

 

もっとこう、栄養学的に完璧な何かの方が良かった?

高級プロテインとか?

いやでも、そういうのはチームが用意してそうだし。

むしろ、こういうちょっとした日本の味の方が刺さるんじゃないか?

・・・刺さってほしい。

 

箱の送り主欄には、当然ながら自分の本名は書いていない。

 

「日本の、いちファンより」

 

我ながら、ちょっと怪しい。

でも仕方ない。

元同窓生からだとバレたら、さすがに説明が面倒すぎる。

 

ファンの一人。

ただそれだけ。

 

ただそれだけ、のはずなのに。

 

家に帰ってからも、私はずっとその荷物のことを考えていた。

 

もし届いたとして、

「ああ、ありがとう」で終わるかもしれない。

そもそも本人まで渡らない可能性だってある。

チームスタッフの誰かが開けて、適当に共有されて終わるかもしれない。

 

みそ汁なんて見て、

「何だこれ」って顔をされる可能性だってある。

 

ベッドに転がって、私は枕に顔を埋めた。

 

「うわあ、やっぱりやりすぎたかな」

 

でも、その数日後。

スペインの試合映像をチェックしていた私は、少しだけ元気になった。

ベンチに座る彼の近くに、見覚えのある黒い袋が映っていたのだ。

 

一瞬だった。

しかも画質はそんなに良くない。

でも、私は見逃さなかった。

 

「あれ、絶対ブラックファイヤーだ!」

 

思わず立ち上がる。

 

誰もいない部屋で、一人で。

 

いや、別に確定じゃない。

ただの黒い袋かもしれない。

でも、あの細長さ。

黒背景に炎のパッケージ。

あれはたぶん、かなり高い確率でそうだ。

 

その瞬間、胸の奥がじわっと熱くなった。

 

ちゃんと届いた。

もしかしたら、食べてもらえた。

少なくとも、ゴミ箱直行ではなかった。

 

それだけで、十分嬉しかった。

 

それから私は、前よりもっとスペインの試合を熱心に追うようになった。

 

ラバリアの試合結果。

個人成績。

現地メディアの記事。

ときどき上がるインタビュー動画。

 

彼がダンクを決めるたびに、私は小さくガッツポーズした。

ゴール下で外国の大男たちを押しのけてリバウンドをもぎ取るたび、

「よしっ」と声が出た。

 

初めて3Pを沈めた試合なんて、夜中なのに危うく叫ぶところだった。

 

「うわ、嘘でしょ……それ入れるの!?」

 

画面の向こうで、スペインの実況が大騒ぎしている。

会場が沸いている。

その中心に、あの人がいる。

 

荒れた中学校にふらっと入ってきて、

ただそこにいるだけで空気を変えてしまったあの人が、

今度は異国のプロリーグで同じことをやっている。

 

なんだか、少しおかしくなる。

 

「ほんと・・・どこ行っても規格外なんだから」

 

でも、その規格外さが、たまらなく嬉しい。

 

私は机の引き出しを開けた。

そこには、次に送ろうと思って買っておいた日本食が入っている。

 

追加のみそ汁。

塩昆布。

小袋のふりかけ。

そして、こっそり羊羹。

 

栄養になるかは分からない。

むしろプロアスリートに羊羹はどうなんだ、という気もする。

でも、疲れた時に甘いものって欲しくなるじゃない。

 

「助けになってるのかな・・・」

 

その不安は、やっぱり消えない。

 

私が送るものなんて、

彼の巨大な人生から見れば、本当に小さなものだ。

 

言葉を交わすわけでもない。

直接支えられるわけでもない。

私がやっていることなんて、ほとんど自己満足に近いのかもしれない。

 

それでも。

 

スペインで頑張る彼が、

どこかで一口でもみそ汁を飲んで、

「ああ、日本の味だ」って思ってくれたなら。

 

それだけで、少し報われる気がした。

 

動画の中で、彼がまたダンクを決める。

歓声が上がる。

実況が叫ぶ。

 

私はノートパソコンの画面を見ながら、にやける口元を押さえた。

 

「・・・やっぱり、かっこいいな」

 

少し不安で、でも、それ以上にわくわくする。

彼がどこまで行くのか、見ていたい。

 

たとえ私が、大勢いるのファンの一人、だとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2006年8月23日

 

その日、私は完璧なサポートを決めることができた。

 

 

叔父から流れてきた情報はこうだ。

日本代表は前日に軽めの練習をしており、今朝は試合まで自由時間。

東雲君は一人で動く可能性が高い。

 

そして、ホテルから徒歩圏内で、量が食べられて、人目がありすぎず、でも入りやすい店――

 

候補は三つ。

私はその中で、一番彼が選びそうな店を選んだ。

ギャストだ。

 

理由?

なんとなく。

 

いや、違う。ちゃんと考えた。

 

高級店は落ち着かなさそう。

チェーンの牛丼屋だと、さすがに量は足りても栄養バランスが怪しい。

カフェ系は論外。あの人がサンドイッチ一枚で済むわけがない。

 

その点ギャストはいい。

安い。早い。量もそれなり。メニューも広い。

つまり、大男の自由時間にちょうどいい。

 

私は店の奥、壁際の二人席を確保した。

そして、ちょうどその前方――振り返れば見えるけど、真正面からは目立ちにくい位置の四人席が空いているのを確認して、心の中でガッツポーズした。

 

「よし」

 

ワンセグをつける。

 

表向きはニュースを見ている女子高生。

実際は、ダイの来店を待つ不審者一歩手前の女。

 

・・・我ながら、ちょっとどうかと思う。

 

でも、仕方ない。

せっかくワールドカップで帰国してるんだから、近くで見たいじゃない。

 

ニュースでは、ちょうど代表戦の特集が流れていた。

 

『日本代表、快進撃の立役者は17歳のセンター、東雲大選手――』

 

画面の中でも、でかい。

テレビ越しでも分かる規格外のサイズ感。

でも私は知っている。

生で見ると、もっとおかしい。

 

そう思っていたら。

 

店の自動ドアが開いた。

入ってきた瞬間、分かった。

 

帽子を深くかぶっていても、マスクをしていても、

あの身長は隠せない。

 

「・・・来た」

 

私は反射的にワンセグ画面に目を戻した。

戻したけど、視界の端ではしっかり追っている。

 

ダイは店員に案内されて、

私の真後ろの席に座った。

 

近い。

近すぎる。

 

背中越しに、椅子がきしむ音が聞こえる。

たぶん膝がテーブルに当たってる。

そりゃそうだろう。あの席は普通の成人男性向けで、巨人族向けではない。

 

私は画面を見ているふりをする。

ニュースではちょうど、ダイのダンク映像が流れていた。

 

「圧巻の高さとパワーで世界を驚かせています」

 

知ってる。

今その本人が真後ろにいる。

 

店員さんが水を置く。

東雲君が小さく「ありがとうございます」と言う。

 

・・・声、やっぱりいいな。

 

落ち着いてて、低くて、耳に残る。

 

私はカフェラテを一口飲んだ。

ぬるい。

でも今は味なんてどうでもいい。

 

背後でメニューがめくられる音。

少しして、注文する声。

 

「これとこれと・・・あとこれもお願いします」

 

店員さんが確認する。

 

「モーニング6種類を二セットずつと、ドリンクバーでよろしいですか?」

 

私は危うくむせるところだった。

 

(やっぱり滅茶苦茶食べるな……!)

 

ニュースでは、今度は代表の特集コメント。

でも私の意識は、ほぼ全部背中の向こうにあった。

 

ワンセグの画面越しにダイを見て、

その本物が真後ろにいる。

なんだこれ。情報量が多すぎる。

 

私はなるべく自然な動きで、少しだけ姿勢を変えた。

視界の端で、彼の横顔が見える。

 

高い鼻筋。

長い指。

そして、やっぱり隠しきれない整いすぎた顔。

 

(ほんとに……何なのよ、この人)

 

中学の頃から思っていたけど、

現実で見るたびにイケメン度が更新されていく。

 

でも、この人が凄いところはそこじゃない。

常に正しい事をやり続ける、その精神性にあるのだ。

 

私は平静を装ってニュースを見続ける。

そうして数分後、料理が運ばれてきた。

 

「今の日本代表は歴代最強と言えるでしょう。既に・・」

 

私はニュースキャスターの解説を聞きながら、背後の気配を探る。

 

箸が動く音。

皿が少しずつ軽くなる気配。

食べる速度が明らかに普通じゃない。

 

でも、がつがつしてる感じじゃない。

ちゃんと丁寧に食べてるのに、ただ消えるのが異常に速い。

 

(見なくても分かる。今、すごい勢いで白米が消えてる)

 

少し笑いそうになる。

 

・・・と、その数分後。

 

背後の空気が、わずかに止まった。

 

私はニュース画面を見たまま、耳を澄ます。

 

ポケットを探る気配。

ズボンをはたく音。

ジャケットの内側をまさぐる気配。

 

(・・あ)

 

分かった。

 

完全に財布を忘れてる。

私は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。

 

ニュースでは、ちょうどダイの豪快なダンクが流れている。

その真後ろで本人は、ファミレスの会計に詰みかけている。

 

―完璧じゃない。

そこが、妙に人間臭くて面白いところだと思った。

 

私は静かに立ち上がった。

ここから先は、いちファンである私の出番だ。

 

東雲君に気づかれないようにレジへと向かい、店員さんに話しかけた。

 

「すみません。私の分と合わせて、連れの人の会計もお願いします。25番の席です・・・・ええ、あの大きい人です。」

 

そう言うと、店員さんは驚いた様子で「すごく大きい人ですね!ひょっとして、バレーボール選手ですか?」と聞いて来た。

 

・・・日本中が彼のことで大盛り上がりしているのに、知らないのは逆に凄い。

どうやら、彼女はテレビを見ない人のようだ。

 

「いえ、彼はバスケットボールの日本代表選手ですよ。今日はカナダ戦があるので、ぜひ応援してあげてください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2006年9月7日

 

昼下がりのナブラ大学は、相変わらず自由すぎた。

 

芝生では学生が寝転がっているし、

どこかのサークルが変な音楽を流しながら勧誘しているし、

スケートボードの音とバスケットボールのドリブル音が、同じ景色の中に自然に混ざっている。

 

私はその真ん中を、ひとりで歩いていた。

 

リュックの紐を握る手に、少しだけ力が入る。

 

(……私、何してるんだろう)

 

ナブラ大学に入学した時は、ちゃんと理由があるつもりだった。

勉強したい分野もあった。環境も魅力的だった。

アメリカで学ぶ価値も、もちろん分かっている。

 

でも、それだけじゃない。

本当はもっと単純で、もっと情けない理由がある。

 

彼を追って来た。

 

東雲大。

中学の時、私の最悪だった世界を、ただ存在するだけで変えてしまった人。

その後もずっと、ニュースで、動画で、記事で追っていた。

スペインに渡って、代表になって、世界を相手に暴れて。

そういうのを見ているうちに、気づけば遠くから見るだけじゃ足りなくなっていた。

 

だからナブラ大学に来た。

……いや、来てしまった、の方が近いのかもしれない。

叔父からの情報を先取りして、数多ある困難を跳ねのけて追いかけてきてしまった。

まるでストーカーだ。

 

もちろん彼だけが理由じゃない。

そう自分に言い聞かせてきた。

 

でも、こうしてキャンパスを歩いていると、ときどき怖くなる。

 

(このままでいいの?)

 

自分の人生を、自分で選んだつもりで。

でも、心の奥では誰かの影を追いかけてる。

 

それって、健全なんだろうか。

私、本当に自分の足で立ててる?

 

噴水の前を通り過ぎる。

秋が近いせいか、風が少しだけ乾いていた。

木の葉が揺れる音が、妙に大きく聞こえる。

 

私はため息をついた。

 

「……重いな、私」

 

誰に聞かせるでもなく呟く。

 

慣れない環境で、ホームシックになったのだろうか?

そんな疑問さえ出てきた。

 

その時だった。

 

中央広場の端にあるベンチに、見覚えのある大きな背中が見えた。

 

私はぴたりと足を止めた。

 

(・・うそっ)

 

東雲君だった。

 

一目で分かる。

あの身長。あの肩幅。

人混みの中にいても、そこだけ縮尺が違う。

 

彼はベンチにひとりで座って、何か細長い箱を手にしていた。

赤と黒を基調にしたパッケージ。

 

ブラックファイヤー。

しかも、隣の袋には私が結んだリボンが付いてる。

私が送った奴だ!

 

それ見た瞬間、口が勝手に動いていた。

 

「あ!・・・それ、日本のお菓子ですよね?」

 

声に出してから、自分で自分にびっくりする。

何をしているのだ、私は。

陰からサポートするのではなかったのか。

 

東雲君が顔を上げた。

一瞬だけ、目が合う。

少し驚いた様子だ。

 

・・・まずい、これでは不審者だ。

なんとか和ませないと。

 

「ブラックファイヤーですよね?」

 

心の中に吹き荒れる興奮を抑え込み、にこやかに再度言葉を放った。

 

「ああ・・・この甘みと食感が大好きでね。貰いものなんだけど、これのお陰でホームシックにならずに済んでるよ」

 

東雲君は笑いながら、そんな返事をしてくれた。

ああもう、その笑顔は反則だ!

 

「私も大好きなんです!」

 

そう言って、東雲君に笑いかける。

ラバリアのベンチで東雲君が食べているのを見たときから、ブラックファイヤーが私の一番の好物になった。

嘘は言っていない。

 

 

東雲君がベンチに座る様に誘導してくれたので、恐る恐る座ってみた。

 

 

とにかく、もう声をかけてしまったのだ。

私は東雲君のことを知らない日本人大学生として、何とか話を続けるしかない。

 

「ありがとうございます。私、絵里って言います。久しぶりに日本の人に会って、なんか安心しました。」

 

・・・実際は安心するどころか、心臓がバクバクと鳴っている。

緊張と興奮、安心とは真逆の状態だ。

 

気を落ち着かせようと、ブラックファイヤーを一口食べる。

 

「いいってことよ。ブラックファイヤーは世界一美味いからな・・・まあ、貰い物で悪いが」

 

東雲君がそんな事を言う。

貰い物って表現するということは、やはりコレは私が送ったブラックファイヤーに違いない。

 

「へー、貰い物ってことは、仕送りとかですか?」

 

白々しくも、私はそんな質問を投げかけた。

 

「いや・・・なんというか。ファンの子からの贈り物というか」

 

やっぱりだ!

やっぱり、彼は私からの贈り物を大切に食べてくれていたのだ!

 

「ファン?」

 

心の中の喜びを表に出すわけにはいかず、私は平静を装ってそう聞いた。

 

 

―その後、彼はスペインでプロバスケットボール選手として活躍した話、今はNCAAでプレイするために渡米していることを話してくれた。

全て知っている情報だったけど、彼の口からきくと何故か嬉しかった。

そうですよね、大変だったよねと、共感してしまいそうになる。

 

だが、今の私は何も知らない日本の大学生だ。

 

「そうなんですか。15歳から一人で海外へ行くって、すごいですね。私なら直ぐに日本に帰りたくなりそうです」

 

長年の気持ちを日本人留学生風にアレンジして、そんな言葉を投げかけるのが精一杯だった。

 

「まあ、そうだね。俺も最初の内は日本が恋しくなったりもしたけど、ファンの人にみそ汁とか、米とか、こういうお菓子とか送ってくれる人も居てね。そんな助けもあって何とか異国の地で過ごすことができたよ」

 

と、東雲君が照れくさそうに言った。

 

確かに言った。

助けになったと。

 

そんな言葉が嬉しくて、信じられなくて、思わず泣きそうになる。

 

私は間違っていなかったのだ。

彼の助けになっていたのだ。

中学時代、彼がしたように、陰から気づかれず、サポートができていたのだ。

 

私はこぼれてしまいそうになる涙を抑え込んで、ただの日本人留学生のふりをする。

 

「分かります!日本を離れると、余計に日本食が恋しくなりますよね。私は先月から留学でこっちに来たばかりですが、既にホームシックになりそうです!」

 

何とか言葉を返したが、このままでは涙がこぼれそうだ。

気を紛らわせるために、バクバクと、無心でブラックファイヤーを食べた。

 

「アメリカは文化が全然違うから、日本が恋しくなることもあるよな。何か困ったことがあれば、連絡してくれれば助けになれると思うよ。一応、海外生活って意味では先輩だし」

 

私のそんな様子を見て、何を思ったのか、東雲君が名刺をくれた。

そこには、名前とメールアドレスが載っている。

しかも、たぶんプライベートな奴だ!

 

「ありがとうございます!家宝にします!」

 

私は思わずそんな返事をしてしまった。

やばい、完全に変な奴だ。

初対面の人の名刺をもらって、家宝にする奴など見たことがない。

 

ただ、東雲君はなぜか慣れた様子で頷き、名刺をさっと渡してくれた。

 

 

それから、少し上の空になりながらも、数分ほど会話を楽しんだ。

でも、あまりしゃべるとボロがでそうだったから、「図書館が閉まっちゃう」と言い訳をして、急いで立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

寮の部屋に戻った私は、今日の事を反省した。

 

「危うくバレるところだった・・・彼みたいに陰からサポートするって決めてたのに。でも・・・」

 

改めてもらった名刺を見つめると、その決意が少し揺らいだ。

 

「東雲君を知らない留学生として少し連絡をするくらいなら、問題ないよね?」

 

外の広場では、怪しいサークルが花火を上げていた。

その鮮やかな光の色が、私の心のなかを表している様な気がした。

 

 

 

 

 

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