アイリスを咲かせて   作:赤辻康太郎

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機動戦士ガンダムSEEDナタル生存if小説後日談(戦後if)です。時期的にはSEED終了後~DESTINY序盤(ラクス襲撃前後)の話となります。
これにてSEEDナタル生存ifは完結となります。
お付き合いいただきありがとうございました。


明日への下絵

「お疲れ様でした。後はよろしく頼みます」

「はい、お疲れさん」

交替勤務の引継ぎを終え、「ナタリア・バードマン」は家路についた。彼女はモルゲンレーテ社の本社ビルの警備員としてビル入り口の警備を任されている。一日中立ちっぱなしの肉体労働とは言え、前職に比べれば精神的にも負担は軽い方だ。先の戦争が終結してから穏やかな日々が続いていた。彼女も仕事におわれながら、充実した日々を過ごしていた。

「お嬢さん、乗っていきませんか? 安くしときますよ」

軽いクラクションと共にかけられた声の方を向くと、そこには懐かしい顔があった。

「ノイマン少尉!」

「もう少尉じゃないですよ。バジルール中尉」

声の主、アーノルド・ノイマンがナタリア、「ナタル・バジルール」に微笑み返す。ノイマンは先の戦争で、ナタルと共に地球連合の軍人として、マリュー・ラミアス指揮の下、ナタルは副艦長兼CIC担当として、ノイマンは操舵手として、戦艦アークエンジェルに乗り戦場を駆け巡った。辛くも戦死を免れたアークエンジェルクルーたちは、戦後軍役から離れ、それぞれの人生を歩んでいる。

「それに今は、『アイザック・ノートン』です」

ノイマンはナタルやマリューと同様に、オーブ連邦首長国に移住し、「アイザック・ノートン」の偽名でタクシーの運転士をしている。ノイマンが今乗っている車も、屋根にタクシーの表示灯が光っていた。

「で、どうします? バードマンさん?」

「……そうだな。では頼むとしよう」

首の動きで後部座席を指すノイマン。ナタルは少し考え、お言葉に甘えることにした。

「どちらまで?」

「取り敢えず、駅に向かってくれ」

「はい。承りました」

ノイマンはウィンカーを出すと、スルりと車を走らせる。ナタルの住まいは最寄り駅から電車で2駅先にある。何はともあれ駅に向かわないと。

「お仕事は順調ですか?」

「ああ。問題ない。そちらはどうだ?」

「こちらも。お陰様で、迅速丁寧でやらせてもらってますよ」

「スリル満点にか?」

「交通安全第一ですよ」

冗談を交えながら話す二人。ナタルは自他共に認める堅物の自分が、こんな笑いながら話せるなんて夢にも思ってもみておらず、内心驚いていた。これも平和な世の恩恵だろうとナタルは思うことにした。

「そう言えば、ちゅう……バジルールさんは今日はもう?」

「そうだな。明日は非番だし、今日はもう帰ってゆっくりするつもりだ」

ナタルは頭の中でスケジュールを思い浮かべる。明日は休みだったので掃除と日用品の買い出しに出かける予定だった。

「……なら、どうです? 俺ももう上がりですし」

ノイマンは座席の間から手を出し、グラスを傾ける仕草をする。いわゆる、飲みの誘いだ。ナタルはそれに、少し眉を潜めた。

「……私は下戸だぞ」

「知ってます。言ってみただけですよ」

ノイマンは軽く肩をすくめる。彼もあの堅物のナタルが簡単に応じるとは思っていない。本当に冗談のつもりだった。

「……だが、良い店を知っているなら行くのは吝かではないぞ」

「えっ!?」

だからナタルの返答に、ノイマンは大きく驚いた。まさか誘いにのってくれるとは思わなかった。

「何だそれは? お前が誘ってきたんだろう?」

「え、いや、まあ。そうですけど……」

ノイマンの狼狽っぷりに、ナタルは目くじらを立てる。元部下の申し出に元上官としてのってやったのにこの有り様である。ナタルはつくづく自分がどのような印象をもたれていたのか思い知らせた気分だ。

「で、どうなんだ?」

「あ、はい。駅の近くに行きつけのバーが」

「ならそこに行こう。というか、車は大丈夫なのか?」

「……車を社に戻してくるんで、駅前で待っててもらえますか?」

「まったく……」

呆れ返るナタル。だが彼女は気づいていた。ナタルが車に乗ってから、メーターが動いていないことに。

 

「お待たせしました!」

慌てた様子のノイマンがやってくる。先ほどまで制服姿だったのが、今はジャケットにチノパンというカジュアルな格好だ。ビジネススーツに身を包んだナタルとは対比的だった。

「いつもそんな格好なのか?」

「え? ええ。うち制服はありますが、出勤の時は服装自由なんで。何か変ですか?」

ノイマンは自分の服装を確認する。ファッションにそれほど明るいわけではないが、それでも変なコーディネートはしていないつもりだった。

「いや、そういうわけでは……」

「?」

ナタルが抱いたのは少しばかりの羨望だ。同じ歳で同じく軍役に就いていた彼が自分より一般人に馴染んで見える。それがどことなく羨ましく、また何となく気にくわなかった。

「取り敢えず、案内してくれ」

「はい。店はすぐそこです。結構落ち着いた、良い雰囲気の店なんですよ」

ノイマンのエスコートで辿り着いたのは、駅ビルの地下にあるバーだった。扉にには名「Esqisse」と店名が刻まれていた。

「エスキース?」

「下絵って意味だそうですよ」

バーで下絵とはどういう意味だろうと考えていると、ノイマンが扉を開けて「どうぞ」と促す。促されるままに店内に足を踏み入れると、そこはノイマンの言った通り、良い雰囲気の店だった。

天井からぶら下がった照明の淡いオレンジの光。アンティーク調に装飾されたバーカウンター。その後ろにところ狭しと並ぶ洋酒のボトルの彩り。一言で表すなら、正に「隠れ家」だ。中でもナタルの目を引いたのは、壁の一角に飾られた一枚の絵だ。おそらく抽象画なのだろう。横長の画面がのっぺりとした緑色のグラデーションに染まっていた。全体的に暗めの印象のある店内で、それだけが場違いな程に鮮やかやに見えた。

「いらっしゃいませ」

カウンターの向こうから、いかにもバーテンダーといった雰囲気の初老の男性、バーのマスターが声をかけた。ノイマンが二人だと告げると、マスターは二人をカウンターに座らせた。

「そちらのお方は初めてですね」

「ええ。俺の元上司です」

「それはそれは」

マスターは胸ポケットから名刺入れを取り出し、一枚ナタルに渡す。

「バーエスキースのマスターをやっておりますアオヤマと申します」

渡された名刺には「アカネ・アオヤマ」と名前があった。

「どうも。申し訳ない。生憎名刺の持ち合わせがなくて」

「いえいえ。店の宣伝代わりに配っているだけですので」

そういってマスターは茶目っ気たっぷりに笑う。なるほど、良い雰囲気とはこのマスターを含めてなのか、とナタルは理解した。

「何になさいますか?」

「俺にはジントニックを。彼女には……モクテルを」

「モクテル?」

「ノンアルコールのカクテルにございます。有り体に言えばミックスジュースですね」

マスターはそう説明すると、ノイマンのジントニックを手早く作り出す。分厚いグラスに入れくし切りのライムをすりこぎで潰す様には少し度肝を抜かれたが。

「どうぞ。ジントニックです。本日は少々『渋味』を効かせてみました」

「マスター……」

苦笑するノイマン。渋味を効かせるとはどういう意味だろうとナタルが思っていると、自分を見つめる視線に気がつく。マスターがじっとナタルに視線を注いでいたのだ。その眼差しに、ナタルはドギマギした。

マスターは一つ頷くと、冷蔵庫からボトルを取り出す。中身はパイナップルジュース、オレンジジュース、レモンジュースだった。それらを氷とともにシェイカーに入れ、軽くシェイクする。できたモノをマティーニグラスに注ぎチェリーとミントを添えた。

「シンデレラです」

出されたのは、この世で最も有名な童話の一つの名を冠するモクテルだった。その名を聞いて、ナタルの眉がピクリと動く。

「シンデレラ、か……」

出されたモクテルを一口飲む。柑橘類の酸味が後を引く。なんともするどい味だ。自分の様な堅物にはお似合いだなと感じる。

「お客様は、シンデレラのお話はご存知ですか?」

「当然だ」

シンデレラは継母や義姉妹に苛められていた心優しき少女が、魔女の魔法により夜の12時迄の制約の下、一夜限りのお姫様となり、最後は王子に見初められ結婚する。思い返すと、自分とはほとほとに縁遠い物語である。

「皆さん、シンデレラは華やかなハッピーエンドばかり思い浮かべるのですよ」

「違うのか?」

シンデレラと言えば、やはりガラスの靴を王子から受けとるシーンを思い浮かべる。そこが醍醐味でもあるからだ。少女なら、いつか現れる王子様に憧れるものだ。

「違いはしないのですが、私はシンデレラの本質はそこではないと思うのですよ」

童話には教訓だったり道徳の意味が含まれた作品も多いが、夢物語のシンデレラに、そんなものがあったのだろうか。

「では、マスターの言うシンデレラの本質とは?」

「諦めないことです」

諦めない。はたして、シンデレラに諦めることを示唆するようなシーンはあっただろうか。

「諦めない、とは?」

「シンデレラは冒頭から、継母らの苛めにあっておりました」

「そうだな」

「普通ならそこで未来を悲観し、色々と将来を諦めてしまう人も多いでしょう」

子供の将来を顧みない親、所謂毒親という親に育てられた子供は、自己肯定感の低い卑屈な大人になる可能性が高い傾向にあるらしい。ナタルは幸いにも軍門の家の厳しい環境で育ったため、その様なものとは無縁だった。ノイマンもごく一般的な家庭で育った。

「しかしシンデレラは自らの境遇にも関わらず、懸命に今を生きていきました。そうして魔女と出会い、最後は王子様に娶られたのです」

マスターが言いたいことが理解できた。どんなに今が不幸であろうとも、諦めずにいればいつか幸せが訪れるというわけだ。平和な世界を夢見て戦っていた、かつての自分たちのように。

「未来は諦めなかったものだけが勝ち取れるというわけだ」

「そこまでは申しませんが……まあ勝利の女神は最後まで諦めなかった者に微笑むと申しますし」

「なるほどな」

確かに、ナタルたちは諦めなかった。どんなに不利な状況でも、幾度となく悲惨な目にあっても、決して諦めなかった。諦めた時点で、全てが手のひらから零れ落ちてしまうと知っていたから。

改めてナタルはシンデレラを一口口に入れる。先程は酸味だけが目立っていたが、よく味わうと、酸味に混ざりパイナップルとオレンジのほのかな甘味、そえられたミントから移った爽やかさが感じられた。なるほど諦めなければ違った味わいが見えてくるものだと、ナタルは感心する。

「……申し訳ございません。お連れ様がいらっしゃるのに、少々喋り過ぎました」

マスターは申し訳なさそうにノイマンに謝る。確かに、飲み物を頼んでから、ナタルとマスター二人で喋りっぱなしだった。ナタルもマスターに言われてそれに気がついた。

「すまない。ノートン……」

「いえ。俺もマスターの話楽しく聞けましたから」

「それはようございました」

それから二人は、ドリンクお代わりをしながら、暫し昔話に花を咲かせた。ヘリオポリスでのこと、地球降下まで、降下してから。オーブ。そしてアラスカ、終戦まで。この約一年間はまさに目まぐるしいの一言だった。その中で、多くの敵を屠り、多くの同胞を失った。

「それにしても、中尉がアラスカで戻ってくるなんて思いもしませんでしたよ」

「ノートン」

酔いが回ったのか、ノイマンがナタルを階級で呼んだ。チラりとマスターを覗き見るが、彼は我関せずと黙々とグラスを磨いていた。マスターとしての技量か、それともこの手の話に慣れているのか彼の表情からは読み取れなかったが。

「ああ。私自身、私のやったことに驚いていたよ」

今までの自分なら命令違反など言語道断。他の者がやっていたら激しく叱責していただろう。だがアラスカでの諮問会議で、ナタルは軍上層部に対する疑念を抱いてしまった。無理矢理押し込めようとしても、膨れ上がった疑念は増すばかりで最後はいてもたってもいられなくて気がついたら行動に移していた。同じようにムウ・ラ・フラガ少佐がアークエンジェルに戻っていたのは、不幸中の幸いと言えただろう。

「けどそのお陰で、俺たちはまた中尉や少々と戦えました。あの戦いは、お二人がいなければどうなっていたか分かりません」

「少佐は兎も角、私はただのCIC担当だ。戦闘に大きく貢献したとは思わん」

「それでも、ですよ。中尉が戻ってきてくれて、俺すっごく嬉しかったですよ」

ノイマンに笑顔で言われて、ナタルは咄嗟に眼を反らした。雰囲気のせいか、頬に熱を感じる。ふと顔を上げると、目線の先に例の絵があった。緑に塗られた抽象画が。

「お気に召しましたか?」

絵を見ていたナタルに、マスターが再び話かける。つられてノイマンもえを見た。

「そう言えばあの絵、俺が初めて来た時からありましたね?」

「ええ。開店当時から掲げております」

ノイマンも何度かこの見世を訪れてはいるが、あの絵に注目下したのは今日が初めてだった。

「……抽象画、ですかね?」

「ああ。そう見えるな」

絵の感想を言う二人に、マスターはふふっといたずらっ子の様に笑う。

「皆さんそう思われるんですよね」

「違うのか?」

「あれ、実は風景画なんですよ」

マスターの種明かしに、二人はとても驚いた。ただ下書きに色を塗りたくっただけのあの絵が風景画だったとは。

「と言っても『下絵』なんですがね」

「下絵……ああ、エスキース!」

マスターは「ええ」と頷く。成る程、風景画の下絵と言うならば納得だ。

「だから店名も?」

「はい。あの絵から取りました。まああの絵自体にタイトルはないんですが」

店名の由来になった下絵。ナタルとノイマンは近づいて改めて絵を見てみた。色で分かりにくかったが、確かにその絵には木炭で描かれたであろう木々や雲、町が描かれていた。

「下絵でこれなら、完成したら凄い絵になってますね」

「そうだな。下書きでこれ程詳細な町の風景を描いているんだ。かなりの大作になっているだろうな」

「そうですね。完成していたら、ですが」

二人は既に完成品があると思っていたがマスターは

曖昧な返事をした。

「と言うと?」

「その絵は二度と完成することはないのですよ」

淡々と述べるマスター。ナタルとノイマンは頷き合うと、マスターの正面に座る。

「聞かせてくれないか? あの絵のことを」

「……年寄りの昔話などつまらぬものですよ」

「そんなことないですよ。俺、マスターのさっきの話も好きだし」

二人に正面から見つめれ、マスターは意を決して話し出した。

「あの絵を描いたのは、私の友人です」

「ご友人が」

マスター程の友人なら、さぞ高名な画家であろうたナタルは思った。

「ええ。今はバーのマスターなぞやっておりますが、昔は画家志望で、よく二人で創作修行と称して旅していました」

「それは楽しそうですね」

思いを馳せるマスターにノイマンもその光景を思い浮かべる。笑いながら絵を描くマスターと友人が容易に想像できた。

「それはもう。ところで、お二人はナチュラルですよね?」

唐突に出された質問に、二人は戸惑いながらも肯定した。二人の会話を聞いていれば分かりそうなものだが、なぜ態々確認したのか。

「私もナチュラルです。しかし、友人……彼女はコーディネーターでした」

これには二人は非常に驚いた。マスターの友人を勝手に男だと想像していたのもあるが、まさかコーディネーターだとは思わなかった。今でこそオーブではナチュラルもコーディネーターも別け隔てなく生活しているが、当時では。

「それは……」

「今でも、オーブ以外では珍しい組み合わせでしょう。まして当時は、コーディネーター排斥運動の真っ只中でした」

マスターの時代は第一世代コーディネーターがまだ地球で生活していた頃だ。しかしそれは同時に、各地でコーディネーター排斥運動が激化しといた時代だ。

「彼女を疎んじる者は多くおりました。酷いときは水の入ったバケツを頭から被らされたり。……殺されそうになった時もありました」

今でもそうだが、遺伝子操作されて産まれたコーディネーターを、化け物の様に扱う人もいる。第一世代コーディネーターの時代ともなれば、その悲惨さは計り知れない。

「けれど、貴方は違ったのでしょう」

そんな中、偏見も蟠りも持たず、ナチュラルとコーディネーターが友情を育むなど稀有な例だ。それが男女となれば尚更に。

「正面、彼女の才能と技術の高さに嫉妬しなかったと言えば嘘になります。ですが、私はそれ以外に、彼女の絵に魅入られました。彼女の描く線に、彼女が走らせる筆使いに、そして、彼女ののせる色彩に」

その人は水彩で風景を描くのが得意で、特に緑と青の色使いが卓越だったという。マスターが魅力されたのもそんな絵だった。

「更に彼女は、私がナチュラルでも見下すことはなく、互いに切磋琢磨するために色々なアドバイスをくれました。私からは何もお返しはできませんでした」

マスターは寂しそうに目を伏せた。その表情で、ナタルもノイマンも、彼女がどうなったのかを察した。

「彼女は『人生は下絵の様なものだ』と言っておりました」

下絵は色を置くときが一番楽しく、思いがけない色の組み合わせほどワクワクする。人生も、どんな出会いがあるか分からず未来を想像する時が一番の幸せではないだろか。それが彼女の持論だったそうだ。

「勿論、時として最悪な出会いもありますが」

「それもまた、人生というわけですね」

マスターは、はい、と微笑む。彼女の人生観は希望に満ち溢れていたに違いない。故に、彼女の絵を、壁のエスキースが完成したところを見れないのが残念で仕方がなかった。

「それで店の名前をエスキースに?」

「ええ。ここでの出会いが、誰かにとっての下絵になってくれれば、と思いまして」

それが、彼女の意思を継いだマスターの想いなのだろうとノイマンは感じた。

「……マスター。貴方は彼女に何も返せなかったとおっしゃいましたね?」

「……ええ」

「それは、少し違ったんじゃないでしょうか」

ナタルは、マスターは思い違いをしてるのではという。しかしマスターはそれに対し首を横に振った。

「いいえ。私は彼女に何もしてあげられなかった。今でもそれが心残りで……」

「それは違うと思います。だって貴方は、彼女の傍にいてあげたのでしょう?」

ナタルは、マスターが彼女の傍らにいたことこそ、何よりのお返しだったのではと言う。

「私には想像することしかできませんが、マスターの時代、ナチュラルに襲われる可能性のある旅は、酷く不安だったでしょう」

「そうですね。実際、彼女は不安そうでした」

「そんな中で、ナチュラルである貴方が傍に居てくれることは、どんなに心強かったでしょう。憎むでもなく、恨むでもなく、ただ友として一緒に居てくれることが」

『貴方と旅が出来て、私本当に楽しい。誰でもないあると居られることが、何よりも嬉しいわ』

一緒に旅に出る度、彼女が言っていた言葉。自惚れまいと心の奥底にしまっておいた想いが甦ってくる。

「そう、思われますか?」

「私なら、そう思います。掛け替えのない人ほど、人生に彩りを与えてくれるものはないでしょう」

ナタルは言いながらノイマンに微笑む。ノイマンも肯定の意を込めて微笑み返す。

「俺もそう思います。不安な時ほど、傍に居てくれる人の存在は大きいものです」

「そうですか」

マスターは眼を閉じる。その目蓋の裏に、彼女のと過ごした日々が過る。もう二度と戻らない、大切だった日々が。

「……私は、もう少し自惚れても良かったんですかね?」

「かも、しれません」

ナタルの言葉に、マスターはありがとうございます、と礼をする。その声は、少し上擦って震えていた。

 

「今日は突然お誘いしてすみませんでした」

ノイマンとナタルは、その後少し飲んでから店を後にした。マスターはサービスしてくれると言ったが流石にそれは辞退した。その変わり、また訪ねることを約束した。

「いや、此方も有意義な時間を過ごせた。ありがとう」

ノイマンとの会話もマスターの話もナタルはとても楽しむことができた。それだけでも、ノイマンの誘いに応じて良かったと思える。

「……」

「……」

気まずい雰囲気が流れる。これ以上は一緒にいる意味がないとは言え、このまま別れるのも心苦しい。

「……では」

「……ああ」

結局、耐えられなくなったノイマンが踵を返す。ナタルもそれを見届けて改札に向かう。

「……っ」

しかし、引かれた後ろ髪を振りほどくことが出来なかった。

「アーノルド!」

ノイマンのファーストネームを叫ぶ。想像以上に出てしまった声に、ナタルは吃驚した。当然、ノイマンは言わずもがな。驚いて振り向く。

「こ、今度は私の行きつけに案内してやる! 今日の礼だ!」

顔を真っ赤にして宣言するナタル。おかしく、愛おしいその顔に、ノイマンは口元が弛むのを抑えられない。次の瞬間には、ナタルに駆け寄っていた。

「あ、あのこれっ!」

ノイマンが緊張の面持ちで渡したのは、彼の名刺だった。社名と会社の電話番号、アイザック・ノートンという[[rb:偽名 > なまえ]]の他は何も書かれていないシンプルな名刺。

「そ、その……裏に……」

「裏?」

言われて裏返すと、そこには走り書きした文字で書かれたアドレスと番号。

「……俺の連絡先です」

ぶっきらぼうに告げるノイマン。実は一度会社に戻った時に慌てて用意したそうだ。

「どこかで渡そうと思ったんですが、タイミングが……」

真面目な枯れのことだ、ナタルが迷惑がることを心配して中々渡せなかったのだろう。本当に要らぬ心配ばかりする男だ。

「ありがとう。また連絡する」

ナタルはその名刺を鞄に大事そうにしまった。ノイマンが照れ笑いを浮かべる。彼の名刺はその役割を存分に果たしてくれた。

「マスターの言った通りですね」

「え?」

「諦めなければ、良いことが起こるってことです」

「そうだな」

本当に嬉しそうに笑うノイマンに、ナタルもなんだか嬉しくなる。

「……それに、出会いが人生の下絵になるということもな」

ナタルの唇が、ノイマンの唇に触れる。突然のことにノイマンは目を見開いたがすぐにその唇を押し返した。

「中尉……」

「ナタルでいい。二人の時は、そう呼んでくれ。いや、そう呼んでほしい」

少し潤んだ瞳を伏せてナタルは乞う。ノイマンはそっと抱き締めることでそれに返した。

「分かったよ。ナタル」

「ありがとう。アーノルド」

そうして二人は、また口吻けを交わした。

今度とそ二人は、なんの未練もなくそれぞれの帰路に着く。その足取りは羽が生えたように軽い。芽生えた感情を胸に明日も生きていける。そんな希望に満ちついた。

だが、二人の約束は別の形で果たされることとなる。永い眠りに就いた大天使が、再びその翼を翻す日が来ようなどと、この時の二人には知るよしもなかった。

 




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