島村卯月(27歳)による藤田ことねトップアイドル化計画 作:天宮雛葵
ことねの目の前に、オレンジジュースの入ったグラスが静かに置かれる。
「サービスだから、遠慮しないでね」
「あ、ありがとうございますぅ……」
にこやかな美穂に対し、ぎこちない笑顔しか作れないことね。無理もないことであろう。
ただ単に『目の前に小日向美穂がいる』だけならば、ことねもここまで緊張することはない。卯月が身近にいるせいで、有名人に対する慣れというものがことねの中に生まれ始めていたからだ。
しかし今のことねにとって、美穂はただ単に元アイドルの有名人というだけでなく、卯月から紹介されたバイト先の店長である。悪印象など与えようものなら、稼ぎ先をひとつ失うばかりか卯月の面子を潰すことになりかねない。
「藤田さん、緊張しすぎですよ。美穂ちゃん……小日向さんは優しい人ですから」
「卯月ちゃんに苗字で呼ばれるの、もう何年ぶりかなぁ」
「そこ、茶化さないの。……それに、藤田さんの心配していることは想像がつきます。きっとここを面接の場だと思っているのでしょう?」
「えっ、違うんですか?」
ことねの疑問に答えるのは、卯月ではなく美穂の方だった。
「ことねちゃん……って呼んでもいいかな?」
「は、はい! どうぞお好きなように……」
「ことねちゃんのことは卯月ちゃんから聞いてたの。アイドルの才能がすごくあって、なのに事情があってレッスンの時間が足りなくて……あの子が埋もれるのはアイドル界の損失だから、力になってほしいって。卯月ちゃんがそこまで入れ込むんだ、ってびっくりしちゃって」
美穂の語る内容に、思わず目を見張ることね。
「……プロデューサー? あたしのこと、小日向さんになんて紹介したんですか?」
「そう遠くないうちに、ドームを満員にする器だと言いました」
「なんでそんなこと言っちゃうんですかぁ!? しかもあたしのいない場所で! まだ実績ゼロなんですよあたし!」
「あー、あとはどんなこと言ってたっけ、卯月ちゃん。『私と美穂ちゃんを足して割らないくらいのポテンシャルはある』とか……」
「ホントになんでそんなめちゃくちゃなこと言っちゃうんですかぁ!!!」
「紹介の際にはインパクトを与えたかったので」
緊張も不安も吹っ飛んでしまい、頭を抱え始めることね。そんな彼女を気遣うように、美穂が再び口を開く。
「卯月ちゃんがそんなに言うくらいだから、ことねちゃんの人柄は心配してなかったの。初星学園に通ってるなら身元だって大丈夫だし、接客業の経験もあるんでしょ? それなら、わたしはことねちゃんを雇ってもいいかなって最初から思ってたの。……もしかしたら卯月ちゃんが騙されてるんじゃないかってくらいにべた褒めだったから、そこだけ確認したかったんだけどね」
「ちょっと、美穂ちゃん?」
「プロデューサーをやるからには気を張らないといけないだけで、卯月ちゃんは人の嘘を見抜くのが嫌いでしょ?」
「……好き、とは言えないけど」
「そのくらい知ってるよ、何年の付き合いだと思ってるの」
(……すごい)
目の前で繰り広げられている卯月と美穂のやりとりを目の当たりにして、ことねは一種の感動を覚えていた。
(アイドルの理想に目を焦がされておかしくなってるプロデューサーのことを、ここまでカンペキに言いくるめてる……!)
何かズレた方向への感動ではあったが。
「話を戻して……結局、それも疑いすぎだったみたいだしね」
「でも、やっぱり面接とか……そもそもあたし、小日向さんとまだ全然話してないですし」
「ことねちゃんからそう言ってくれること自体が信用できる、って話なんだよ。それに、わたしはあなたのことを厳しく見なくても良いかなって思ってるんだ。もうひとりがそうするだろうから」
「……もうひとり?」
この場にいる残りの一名とは、当然卯月のことである。しかし、卯月はことねを売り込む側の人間であり、美穂の言うもうひとりに該当するとは思えない。そこから導き出される結論とは、すなわち。
「まさか、まだ別の人が────」
そう問いかけることねの声を遮ったのは、再び鳴ったドアベルの音だった。ドアの方向に振り返る一同。勝手知ったる場所に遠慮なく踏み込んでくるその姿。
「いらっしゃい、凛ちゃん」
「お疲れさま、美穂。それに卯月も」
「待ってたよ、凛ちゃん。時間もバッチリだね」
卯月や美穂と和やかに挨拶を交わしてから、その女性はことねの方へと視線を向けた。その視線と表情は、ことねを見定めるように。
「ふーん、アンタが卯月の担当アイドル?」
「え、えっと……はいっ! 藤田ことね、初星学園高等部、アイドル科1年です!」
ことねの声が上擦る。
卯月のアイドル時代、代表ユニットのひとつだったニュージェネレーションズ。そのユニットメンバーのひとりであり、高い歌唱力に定評のあったアイドルこそ、ことねの前に立つ彼女だ。
「……なるほどね。まあ、悪くないかな。私は渋谷凛、これからよろしくね」
「ありがと、美穂」
「どういたしまして」
美穂から出されたグラスに口を付ける凛──ことねに出したものとは違い、その中身はどうやらミネラルウォーターらしい──を横目に、ことねが卯月を問いただす。
「あの、プロデューサー」
「なんでしょうか?」
「まさかを積み重ねすぎて、もう聞くだけ無駄かもしれないんですけどぉ……あたしが今から受けるボーカルレッスン、トレーナー役は渋谷さんだって言いませんよね?」
「よくわかりましたね、藤田さん。その通りですよ」
「その通り、じゃないんですよプロデューサー! 本気で言ってるんですか!? 渋谷さんにあたしの歌声を聞かせろってことですかぁ!? プロデューサーですらあたしの歌は褒めたことないじゃないですか!」
ことねの怒り、というより焦りも当然のことである。なにせ、ことねは自他共に認めるように、悲しくなるほど歌が下手なのである。
単純に歌うだけでもかなり下手の部類に入るのだが、ダンスなどと組み合わせた総合的なパフォーマンスとなったときが特に悲惨であるという事実を、ことねはしっかりと自覚していた。
「安心してください、藤田さん。貴女の音源は既に渋谷さんと小日向さんに送ってあります」
「は? ……え、ちょっと、プロデューサー!?」
寝耳に水すぎる卯月の言葉に、混乱が収まらないことね。そんな彼女を尻目に、美穂と凛に対して卯月が問いかける。
「ふたりとも、音源は聴いてくれたんだよね? どう思った?」
「……卯月、正直に言っていいんだよね」
「うん、思ったことをそのまま言ってほしいな。辛口でいいよ」
卯月からの了承を得て、凛はことねの方を向く。
「はっきり言って、0点。どこが評価できないとかじゃなくて、どこも評価しようがない」
「うぐっ……」
「悪いところを挙げ連ねることはできるけど、そういう問題じゃない。まず基礎が固まってない。小学校の合唱の方がだいぶマシ」
「ふぐぅ……!」
「基礎的なボイストレーニングから始めるべきだし、そういうところから学んでいくのが初星学園だって聞いたけど……この歌声でトップアイドルになれるって卯月が断言してる理由が、一周回って気になるかな」
「ううぅっ、何も反論できない……現役歌手に言われたらますます何も言えないぃ……」
凛の容赦ない評論に崩れ落ちかけることね。
「その、わたしもあまり歌が得意なわけじゃないけど……ことねちゃんの歌は、流石に……フォローできないかなぁ……」
苦笑を浮かべながらやんわりと伝えてくる美穂の言葉も、言っていることは結局同じだった。
「というわけで、藤田さん。改めて言いますが、貴女の歌唱力はこれまで最低レベルでした」
「言われなくてもわかってますぅ! 今まで全然上達しなくて、レッスンもおろそかになってて……」
「ですが、渋谷さんと小日向さんが聴いた音源は二週間ほど前のものです」
そう言う卯月に対して困惑する三人。
「ことねちゃんがこの二週間でレッスンを受けて、上手くなったってこと?」
「い、いえ! むしろここしばらくはずーっと休めって、プロデューサーに言われてました」
「卯月、どういうこと? レッスンなしであの歌声がどうにかなるとは思えないけど」
「大丈夫、すぐに答え合わせはするよ。……藤田さん、レッスンウェアに着替えてください。それから軽くウォーミングアップもお願いします」
「……やっぱりそうなるんですねぇ。そんな気はしてましたよぉ、最初から」
いま四人がいる美穂の店には、カウンター席だけではなくテーブル席がいくつか備わっているようだった。『ようだった』というのは、おそらく普段は配置されているはずのテーブルとソファが、店の奥にまとめて避けられていたからだ。そのおかげで、ことねが歌って踊るぶんには何の支障もない程度のスペースが、店内には既に確保されていたのだ。
「藤田さん、見せてあげてください。貴女の持つ実力を」
訝しげな視線を友人たちに向けられ、担当アイドルにすら呆れられている中で、卯月だけが自信ありげな笑みを見せていた。