島村卯月(27歳)による藤田ことねトップアイドル化計画 作:天宮雛葵
落ち着いて、リズムを取る。
振り付けは身体に染みついているからなんとかなる。自分の感覚は信じず、叩き込んできた振り付けの正確さを信じる。その方が間違いなくズレは少ないはずだ。そうして得たリズムに乗せて、マイクで増幅された声を無音の空間に叩きこむ。
二番のサビに入っても伴奏が復活する兆しはなく、イヤモニも無音を貫いている。せめてスタッフからの指示だけでも聞こえればよかったのに、あるいは審査官たちが一時中断を宣言してくれてもよかっただろうに。
(あぁ、でももう続けるしかないしぃ……!)
三十秒前、歌い続ける選択をした自分自身を呪うしかない。あるいはマイクだけが生きていたことを呪うべきだろうか。不測の事態をここしばらくで散々経験してきたことねにとっても、メンタルをがりがりと削られていくアクシデント。唯一の救いは、あと一分半でこの曲が終わると分かっていることだけだ。
しかし逆に言えば、一分半は終わらない。なんとか二番の半分を乗り切ってやっと三十秒、その三倍が待っている。今のことねにとっては気が遠くなるような長さの、真綿で首を絞められるような時間がまだ続く。想像するだけでも苦しい。
それでも、そう、後悔することだけはできない。してはいけない。
(ファンの人たちが目の前にいたなら、絶対にこうした! アイドルだったらそうするはず、してたはず! 演出かもって思わせるくらい、堂々としなきゃいけないはずッ!)
不安と苦しさは表に出さない。活き活きとした笑顔と共に、最後までアイドルとしての藤田ことねを張り通す。倒れるのはステージの裏に捌けてからでいい。
「応援して信じて愛して着いてきてほしいっ!」
今はただ、夢のために全力疾走で。
控室には沈黙が満ちていた。
誰もがテレビに映ることねの姿を見つめている。まだ拙いものの、リズムと音程はなんとか取れている歌声。文句の付けようもない、新人らしからぬキレの中に可愛さのアクセントを忘れないダンス。そしてなにより、アカペラで歌う羽目になっている現状を感じさせない明るい表情。
藤田ことねはトップアイドルの器だ。予期せぬトラブルが、その事実をより鮮明に彩ってみせている。そんな彼女の姿を目の当たりにして感嘆する者も、腕を組み値踏みする者も、あるいは頭を抱える者もいる。
そんな中で、卯月だけは違うことを考えていた。
(……これは、私の落ち度かもしれない。ううん、きっとそう)
卯月には、パフォーマンス続行を決意したことねの思考が理解できた。アイドルとしての責務、プロとしての意地。そういったものに根ざす、完璧になる可能性がわずかだとしても、その瞬間における全力をファンに届けようという意志。その考え方には間違いなく正しさがある。
しかし同時に、ことねの知識には少しだけ歪みがあった。
アイドルのライブにトラブルはつきものだ。会場にいる大半の人間が気付かない些細なものから、ちょうど今ことねが味わっているような大規模事故まで様々だ。いわゆる現場参戦に慣れている者であれば、ライブ中のトラブルに遭遇することはそう珍しくない。しかし、だ。
(ライブのトラブルは……映像に残らないことが多い)
ライブ会場のカメラが裏方を撮るのは稀で、普通はアイドルたちにすべての記録機器が向けられている。大抵の場合、トラブルが起きた瞬間や、それを解決するまでの過程は広く知られない。
小さな異変であれば、ファンには発生したことすら伝わらないこともしばしばだ。一方で大規模なトラブルともなれば、その場にいるファンたちにも何かあったと知れ渡る。終演後にはSNSやネット掲示板などでその一部始終がまとめられ、広まるだろう。
だが、それでもトラブルは後から覆い隠される。覆い隠すことができてしまう。
(ことねちゃんには、いろんなアイドルのライブBDを貸した。暇なときに見てほしいって渡しても、だいたい次の日には見終わって返してきた。……特に出来のいい映像、商品化された中からもっと厳選した映像を、私はことねちゃんに与え続けた!)
ネット上のアーカイブとして、ブルーレイディスクとして、商品という形に整ったライブ映像。それらからトラブルの痕跡を探すことは難しい。トラブルが起きたライブは完璧なものではなく、むしろ運営側の不手際や失態を示してしまう。たとえそれが故意的でなかったとしても、たとえそれがアイドルの魅力をより如実に、鮮明に見せる映像であったとしても。
卯月が参考資料としてことねに与えていた、アイドルのライブ映像。それらは例外なく『行儀の良い』ものだった。ステージに立つアイドルにとって、裏方の運営スタッフにとって、あらかじめ意図したとおりに全てが上手くいったライブの記録。
故にことねは今までトラブルを知らなかった。観察するだけで一定の経験を吸収できる学習能力を持っていても、観察そのものができなければお手上げだ。大きな問題が目前に鎮座しても、まだまだ少ない彼女の経験と、肥えすぎた眼で得た知識に頼るしかないのが今の状況である。
つまるところ彼女に残された選択肢は、続行しかなかったのだ。
(歌い続けても、完璧なライブになる保証はない。でも、辞めたら絶対完璧なライブにはならない。ことねちゃん自身が気付いていない部分で、そう思い込ませたのは私だ)
ことねにはアイドルとしての理想を継いでほしい、卯月はそう考えている。だがそれは、ことねにも完璧主義に苦しんでほしいという意味ではない。
「向いてないなぁ、プロデューサーの仕事」
そう小さく口に出してしまってから、卯月は反射的に周囲を見回す。しかし誰もがその視線をテレビの方へと向けていた。どうやら聞かれずに済んだらしい。
これ幸いとばかりに、卯月は手早く荷物をまとめて立ち上がる。そしてできるかぎり静かに、けれども速やかに、周囲の人間に気付かれることなくドアへと歩いていく。これまたラッキーなことに、そんな卯月の背中に声を掛ける者は誰もいなかった。
いや、強いて言うならばただひとり。
「……本当に、その通りだね」
そう呟きつつ、卯月はさっとドアを開けて廊下へ出た。
当然と言えば当然だが、人の気配はさっぱりしない。卯月はそのまま走り出しつつ、スーツのポケットへ入れっぱなしだったスマホを取り出した。
顔認証のために歩みを止める一瞬すら、今の彼女にはただただ惜しい。さっとパスワードを入力して、立ち上げるのは通話アプリだ。連絡先の中から目当ての人物を探しだし、躊躇うことなくタップ、コール。呼出音はそう長く続かず、応答の声が卯月の耳に届く。
《もしもし、卯月さん? どうしたの?》
嬉しそうに跳ねるその声の主は……283プロダクション所属アイドル、八宮めぐる。
「ごめんねめぐるちゃん、いきなり連絡して。時間は大丈夫かな」
《大丈夫だよ、今日はオフだから!》
事務所も違い、年齢も若干離れたふたり。アイドルとしての共演回数も、際立って多いというほどではない。しかしとある事情から、卯月とめぐるの関係は双方にとって深いものであった。
そしてここ最近に関して言えば、彼女たちはかなり頻繁に連絡を取り合ってもいた。
「ラジオの件なんだけど、ちょっとスケジュールを変更……というか、収録を前倒しにしたくて」
《あれ、何かあったの? 前倒しってことは……だいぶ急がなきゃいけない感じなのかな》
「そうだね、かなり急ぎたいかな。めぐるちゃん経由でスタッフさんに打診できたりする?」
《話を持ちかけるくらいはできるよ。でも、リスケってことならちゃんとした理由は欲しいかなぁ》
めぐるの返答は至極妥当なものであったし、卯月にも予想できる範疇だった。
「その理由が今できたところなんだ。しかも、めぐるちゃんのラジオじゃないといけない理由なんだよ。なんとかならないかな?」
《ん〜、卯月さんがそこまで言うくらいなら……うん、わかった! わたしがディレクターさんに掛け合ってみるよ!》
「ありがとう、めぐるちゃん。細かいことはまたすぐ連絡するよ、理由とその証拠も一緒にね」
卯月は自信満々に言ったが、返ってきためぐるの声は混乱している人間のそれだった。
《……えっと、証拠って何のこと?》
「気にしないで、すぐわかるから。きっと、めぐるちゃんも気に入ってくれると思うよ」