その0 夏風から
博麗神社は夏らしいカラッと爽やかな空気に澄み渡る晴天。セミたちも去年より大騒ぎで夏を彩っていた。
たくさんの日差しを受けて木々は青く、境内に立てた物干し竿では真っ白な敷布が穏やかな風でゆらゆらと揺れている。
「う゛ー」
「暑いか? またタオル変える?」
「のど、かわいたぁ」
「あ、じゃあお水……。塩と砂糖が少し混ざってるやつ、持ってくるな! 永琳に教えてもらったんだ!」
そんな夏の天気とは関係なく、霊夢は多分人生で初だという風邪に罹ってしまっていた。
「氷も変えようかな……」
台所で水瓶に浮かべていた氷を少しだけ削り、やかんに入れて永琳から教えてもらった経口補水液を冷やす。
小指の先で少しだけ舐め、教えられた通りに出来ていることを確認してから、桶に少し水を張ってそれにも氷を浮かべておく。
まとめてお盆に載せて、えっちらおっちらと運んでまた霊夢のもとへ。
霊夢が風邪を引くなんて、初めてだ。
少なくとも私の記憶にはないし、霊夢自身も人生で初めてだと言っていた。
何か伝えようと思って神社に来たのだけど、すっかりその用事も吹っ飛ぶ衝撃で今朝は大慌てだった。
「霊夢、お水持ってきたぜ。大丈夫?」
「あ、ありがと……」
こほんこほんと咳をしながら上体を起こす霊夢を助け起こし、やかんからコップに水を入れてあげる。
普段は白い肌が熱の影響で赤く、ぼんやりとした視線がふらふらと彷徨っているのを見ると胸が苦しくなる。
手が震えている様子なので、膝立ちになって霊夢に近づき、首の後ろを支えながら口元までコップを持っていくと、素直に口を開いて水を飲んでくれた。
私はよく体調を崩すので世話をするよりも世話をされる方が多いのだけど、その経験が活きてこうしてお世話を焼くことが出来ている。
ぐったりしている霊夢を見ていると、どうにも落ち着かない。
おでこに置いたタオルを氷水で冷やして絞り、またおでこにのせると、ほうっと安心した顔。
落ち着かない。布団から出ている手をぎゅっと握って、私の元気を霊夢にわけてあげたいので強く念じる。
食欲はあるみたいで、御粥もリンゴもよく食べた。
ご飯を食べてくれている時は安心したのだけど、こうして手持ち無沙汰になってしまうと心配ばかりが募っていく。
「……そんな顔、しないで」
ぼうっとした視線の霊夢が、こちらを見ながらいつもよりか細い声で気遣ってくる。
うう、と涙腺に熱いものがきて、こんなときにも私の心配をする霊夢に言葉を掛けることができず、静かに頭を撫でることしかできない。
「ただの風邪でしょ」
縁側に腰かけて外を見ていたアリスが、少しため息を吐きながらそうやって零す。
指をすこし動かすと、干していた敷布が空中を踊りながら傍まで寄ってひとりでに畳まれていく。
アリスが言うように、それはただの風邪だ。
でも霊夢がそのただの風邪を引いた姿を見たことがない。
はじめての出来事に、きっと霊夢も心細いに違いないんだから。
「魔理沙の方が病人みたいな顔してるわよ。……ほら、すこし落ち着きなさい」
言いながら蓬莱人形が私を慰めるように膝をポンポンと叩いて、白いハンカチを差し出してくる。
別に泣いてはいないけど、ありがたくハンカチは受け取って置く。
夏だし暑いもんな。
乱暴に顔を拭いて、蓬莱の頭を撫でながらお礼を言うと、まだ心配そうに蓬莱が見上げてくる。
「巫女も人間だったのね。……急激な気温の変化と気圧差で体調を崩す人がいるらしいんだけど、あなたはお天気の神様とでも戦ったの?」
「神なんかじゃないわよ……。コホッ……。」
「あ、無理にしゃべったらだめだぜ。大丈夫か? お水いる? 汗、拭こうか?」
「……」
「もう、ずーっと過保護だし。霊夢もなんだか満更でもない顔してるのがムカつくわねぇ」
霊夢の手を握りながら、元気になれーっと念を送っていると、それは突然訪れた。
カタカタと揺れ始めたのは、畳に置いたお盆の上に載せたコップだ。
「……はあ? 終わってないじゃない!」
なんだか文句を言いながらアリスが周囲に手をかざすと同時、魔法が周囲に満ちる気配。
それとほぼ同じタイミングで、ガタガタと周辺が一斉に揺れる。
――地震だっ!
慌てて、とにかく霊夢を守らないと、と頭を庇うように抱いてぎゅっと目を閉じる。
ガタガタと大きく揺れると、それは周囲に騒音を立てながらとても長い時間続いていく。
神社全体から、ミシミシと木々が軋む音。
遠くで轟音、地面が割れているような大きな音を聞き、もう本当に恐くなってぎゅーっと霊夢を抱きしめた。
もし今、屋根が落ちてきたら。
大きな音と揺れを感じながら、私は自分の魔法を使うなど考えもできず、ただただ震えて霊夢の頭を抱きしめた。
「……想像以上ね」
轟音の中でも、アリスの声は近くから聞こえた。
その声は僅かに怒気を含んでいて、いつも冷静なアリスにしては珍しい。
「あいつ、想像以上の馬鹿野郎だわ」
がくがくと揺れながらなんとか顔を上げると、大きな揺れの中でも少しも乱されず、アリスが毅然と立って周囲にその手から伸びる魔法の糸を張り巡らせているのが見えた。
両手を広げた蓬莱と上海がその傍に浮いており、手に集まる魔法の糸は周囲の壁や柱に伸びてまるで支えるように張り巡らされている。
きらきらと光るそれは綺麗で、こんな状況なのに思わず目を奪われてしまった。
魔法の真髄、楽しさ、憧れとか。そういうものをアリスは持っている。
こんな状況でも、その綺麗な、そして可愛らしい魔法に視線が奪われてしまう。
「……っこほ」
腕の中で霊夢が咳き込み、思考を中断してまた両腕に力を入れる。
「れ、霊夢! 大丈夫?」
「……こほっ、こほっ。……大丈夫。世話をかけるわ」
暫くすると周囲の音は段々と収まっていった。
「……お、おさまった?」
暫く揺れが続いたが、そのうちにゆっくりと大振りになったかと思うと段々と勢いを失くしていく。
まだ地面が揺れている感覚が残っているけど、ミシミシと音を立てていた柱は静かになり、今にも壊れそうだった建物や周囲は落ち着きを見せている。
「さ、はやくここから出るわよ」
アリスが私の肩を叩きながらそういうので、見上げながら首を傾げてしまう。
「え、なんで?」
「この神社、もう倒壊したわ」
ギシっとひときわ大きな音を立てて、土間に続く
*
「じ、神社が……!」
霊夢が声をあげ、倒壊した跡地を見て悲しそうにつぶやく。
それを見ながら、私は大いに後悔してため息をついた。
霊夢を背負い、布団を被りながら出て来るとそれを見て最後まで持ちこたえたように、神社はゆっくりと崩れていった。
私が魔力で編んだ糸でもって支えていたのはあくまでも一時凌ぎ。
既に基礎にまでダメージがあった建物を、これ以上保つのはどんな魔法使いにもできないだろう。
だって、新しく作り直した方が早いのだから。
「……流石にこの規模の建物を維持するのは無理よ。そんな顔しないで」
慰めるように言うのは、霊夢以上になんだか衝撃を受けている魔理沙に対してだ。
声を掛けると、言葉もなく布団に手をあてて霊夢の背を撫でている。
言葉もなく、というか。なんだかウルウルと涙目で声を出せない様子だったのだけど。
話に聞いている、小さい頃から一緒に育った場所だ。感傷もひとしおなのだろう。
「霊夢は永遠亭まで連れて行く?」
霊夢を背負い、魔理沙を見ながら聞いておく。
蓬莱人形がハンカチを差し出し、それを受け取り顔を拭きながら魔理沙は考えている様子だった。
霊夢は病人のくせに、その姿を見ながら私の背でなんだか不満そうな顔をしている。
「そうねぇ。病人は病院へ行ってもらって、私たちはこの異変を解決しましょうか」
声は私たちの真後ろ、虚空の隙間から聞こえた。
振り返ると、穏やかな笑みを浮かべながらどこかピリピリと恐ろしい気配を放つ紫。
いつも通り空間に隙間をあけて、口元を扇子で隠しながらどこか怒った雰囲気のまま微笑んでいる。
「い、異変……?」
まともに考える前に、なんだか雰囲気に吞まれてしまったような、反射で声を出している様子の魔理沙。
辛うじて絞り出した声は平凡な疑問で、私はその痛ましい声を聞きながら昨日までにあの天人をコテンパンにしなかったことを再び後悔した。
「そうよぉ。結界の要である博麗の神社を破壊するなんて、今までの異変とは比べ物にならないものだわ」
楽しそうに微笑んでいる紫だが、その怒気は計り知れない。
地震以上の大気の震えで周辺の鳥は飛び発ち、魔理沙は居心地悪そうにぎゅっとスカートのすそを握った。
「心当たりはあるのよね。私にとって神社はどうでもいいのだけど、気に入らない部分があるから手を貸すわ」
異変というと大げさだが、あれは私の大きな心の器に、許容量をあふれる程苛立ちを注いでくれた。
私は朝のうちから魔理沙に『緋色の雲が地震を起こす予兆』だと話をしていたのだけど、そこに危険は感じていなかった。
だからその緋色の立ち昇る博麗神社に、一緒に行ってほしいという願いにももちろん応えた。
既にその危険性は取り除いていたはずで、まさか強行するなんて思っていなかったのだ。
だからその願いを叶えるだろう霊夢の名前を教えて、おそらく願いの通りに霊夢と戦ったのに。
なのに、なんでそのうえでこんな暴挙ができるのか。
「……この地震は、誰かが起こしたことなの?」
隙間から半身をだしている紫に、魔理沙が帽子を被り直しながら聞く。
「そうよ、こんな局所的な地震が意図的でない筈が……。あら、魔理沙?」
紫がなんだか目を丸くするので魔理沙の様子を伺うと、大きな金の瞳に溢れんばかりに悲しみを堪えている。
慌てて上海達へハンカチを持って慰めるように動かすが、ついにそれは間に合わず、堪えきれずポツンと一粒地面にこぼれてしまった。
金色の雫が、一粒。
乾いた地面に落ち、その地に染み込んでいく。
悔しい気持ちを吐露しながら、スカートのすそを握って魔理沙が言う。
「……なんで、神社が壊されないといけないんだ」
悲し気な声に、一瞬頭が真っ白になるほど怒りを覚えた。
背筋が粟立つほどの激情を飲み込めたのは、周囲に同じか、それ以上の感情が渦巻いていると気が付いたからだ。
私はその激情に任せても、魔理沙が望む結果にはならないとすぐに冷静な自分が自制できた。
布団に包まりながら霊夢が動こうとするので、背負い直すフリをして遮って鎮静の魔法を掛けて置く。
「魔理沙、怒っているんだね。悲しいんだね」
一瞬霊夢に意識が行き過ぎて気が付かなかったが、魔理沙の陰からそんな声が聞こえてきた。
影から声が聞こえたのは、周囲が一瞬静かになるほど濃密な気配がそこから周囲に満ちたからだ。
「怒ってるよ! だって、霊夢がひとりだったら怪我するところだった! も、もしかしたら! 怪我じゃすまないかもしれなかったぜ!」
「そうだね。人のために起こる人間の怒りだ。激しいものだ、君の怒りだ。どうしたいんだ?」
「どうもこうもないぜ! この地震を起こした奴に、謝らせる!」
「……可愛らしい願いだなぁ」
ずるりと粘性を持った陰から金色の影が出てくる。
それは原初の恐怖を形作ったような、強大な存在感が姿を現したような。
真っ赤な瞳が闇から浮き上がり、魔理沙を見てにやりとその目を半月に歪ませた。
「だけど、君の願いだ」
紫が頭に手をあてながら、ため息を吐いて「格好つけ妖怪」と小さく呟く。
「微力ながら手を貸すよ、今回は私があなたの傍に寄りそう」
原初の恐怖を司る、もっとも古い妖怪のひとつが事も無げに、いつから潜んでいたのかわからないくらい自然に、その傍に立つ。
「あなたの怒りは私の怒りだ。私の光を陰らせたんだから、覚悟してもらわないと」
くすくすと楽しそうに、だけどこの場の誰よりも怒りを迸らせた闇が少女の形を作って陰から生まれる。
「取り急ぎ必殺技を考えたんだけど、闇符『マスタースパーク』ってどう?」
魔理沙が持っているミニ八卦炉と同じくらいの大きさで、黒い装衣を翻して魔理沙の肩にそれがゆっくりと乗って声を掛けた。
「マスタースパークは『偽恋符』なんだけど……」
「そこはほら、力を貸すからさぁ」
その威圧を少しも感じていないだろう魔理沙が、相変わらず能天気な声で不満げに声を出し、ルーミアは苦笑しながら折衷案を模索していくのだった。
「その八卦炉の代わりに、私に魔力を注いでくれよ。少しは役に立って見せるけど」
たぶんEXルーミアという概念の中でも偏愛な方