建物の隙間から夕陽が差し込んで、目が眩むほどに眩しい。
生きていれば何度も見ることになるだろう、特に珍しくもなんともない光景。
そういうちょっとした景色に、今とは少し違う感慨を抱く。
気分はまるで、最終面の大魔王に向かう前の溶岩ゾーン。
この道を歩くのが、人生で最も困難なことに感じる。
「……」
“あの時”。
まだ僕が無名の、作家でも何者でもなかった時。
ある女の子に出会った。
「……」
エレベーターを上がり、廊下を進む。
『村崎』
鉄製の物言わぬ看板が僕を出迎えた。
──ピンポーン。
「はーい、どちら様……あら」
「……お久しぶりです」
僕にとってトラウマとなった場所に、再び帰ってきた。
僕を迎えてくれたのは、あの日と同じ村崎のお母さん。
「……いらっしゃい。七家君」
お母さんは、あの日と同じように。
僕を優しく迎えてくれた。
◆
「彩芽ったらね、最近すごく私の言うこと聞くようになったの」
「え?」
玄関の入り口で、お母さんは最初に最初にそう言った。
「いっつも“やりたくない”、“行きたくない”ってわがまま言ってたあの子がよ? ふふ」
「あ……」
「あ、ごめんなさいね。どうぞ上がって?」
「……失礼します」
お母さんに促され、玄関から上がる。
前にここに来た時は天華寺もいたが、今は一人。
だがそれでいい。今は彼女と二人きりで話がしたかった
「……あの子、父親いないの。気づいてた?」
「……はい」
お母さんはどこか遠くを見つめるようにして言った。
「あっ、別にそこまで重い理由じゃないのよ? 今でも連絡は取ってるし、仲が悪いわけでもないし、養育費も出してくれてるし……って、あなたに聞かせる話じゃなかったわね? ふふっ、ごめんなさい」
「い、いえ。大丈夫です」
思いがけず、村崎の複雑な家庭事情に踏み込んでしまった僕はどもった。
「でももう長いこと会ってないから。私ったら、あの子が可愛くて可愛くて仕方なくて……ついつい甘やかしちゃうのよ」
そう言いながら笑うお母さんの顔は、困りげながらもどこか楽しげだった。
「そのせいですっごくわがままな娘に育っちゃってね? 学校もよくサボるし、嫌なことがあったら布団に篭っちゃうし、喧嘩だってしょっちゅうよ? ふふっ、七家くんが私とあの子の喧嘩見たら引いちゃうかも」
「そ、それは……」
……この美人親子の喧嘩か。確かにそれは、かなり迫力がありそうだ。
少なくとも僕がその場にいても縮こまって吹き飛ばされてしまうに違いない。
「だからあの子がいい相手を見つけられるか、ずっと心配だったのよねぇ。男の子が周りにいなかったわけじゃなかったんだけど……色々と、怖い目に遭ったみたいでね」
「怖い目……」
……なんとなく予想はつく。美人というのは、何もしなくても人が寄ってくるのだから。
例えば飯田などはマシな方で、本当にタチの悪い人間に捕まれば人生の破滅を迎えることもあるだろう。
そんな危険を身に感じるような体験をすれば、一種の男性恐怖症に陥っても何もおかしくない。
「だからあの子が七家君の話をしてくれるようになった時、なんか安心しちゃった」
「えっ」
「あの子の“中身”を見てくれる人が、ちゃんと居てくれたんだなって」
「……」
重い期待だ。
つい最近まで自分の本音すら見えていなかった人間に、他人の本音なんて見えるわけもない。
僕はただ、村崎の“過去”を知っていただけだ。
「七家君、ありがとうね」
「はい……?」
「ここに来てくれて」
そう言って……僕の目をまっすぐと見つめたお母さんは。
「ちゃんと逃げないでいてくれて」
「!」
ゾッとするほどの真剣味を感じた。
父親なしで、女手一つ。たった一人の愛娘……そんな子が今、布団の中にくるまっている原因の一人の男が目の前にいる。
ずっと優しげに見えたお母さん。この人が一体……どのような胸中であったのか。
それを考えると、冷や汗が流れてくる。
この人には、今の僕の姿がどう見えているんだろう。
「でもね」
しかしそんな顔を見せたのは一瞬で、すぐにお母さんは優しい顔に戻って言った。
「優しい子よ、本当に」
◆
以前も立った村崎の部屋に続くこの扉。
前の時とはまた違った緊張感が身を包む。
今まで感じていたその緊張というのは、言ってしまえば自分が否定されることへの忌避感から来るものだったと感じる。自分が相手に悪い印象を抱かせないかを、いつも気にしていたからこそのもの。
だけど今感じているこれは、少し違うものな気がする。
僕は扉をゆっくりと開けた。
「……」
……生暖かい空気だ。
「クーラーは入れてないんだ」
パッ
暗闇から声が聞こえた……と思ったら、部屋の電気がついていた。
「節約しなきゃね〜」
「……村崎」
「久しぶり、七ちん」
村崎は簡素なパジャマ姿と、思ったよりも健康的な肌色でそこに立っていた。
久しぶり、というほど日は空いてない気もするが確かにとても久しぶりの出会いな気もする。
でもそんな僅かな期間で、村崎の様子は随分と変わったらしい。
「待ってた」
……落ち着いた、という表現が最も適切だろうか。
だけどその変化が村崎にとって、そして僕にとって良いものなのかどうかは判断しづらい。
少なくとも僕が村崎に感じていた、太陽のような笑顔と明るさは今は影に隠れているようだ。
「……話があるんだ」
「うん」
村崎はそう言いながら歩き、ベッドに腰掛けた。
「村崎、僕は……」
「へっ」
「え」
座った彼女を見下ろす形になった僕を、村崎はポカンとした顔で見上げていた。
「なんで座んないの?」
「え、え」
村崎はポンポンとベッドの上に空けられた自分の隣を叩いた。
「……外服だし」
「気にしないよ?」
「……シワになるかも」
「アタシ、この前ジュースこぼしたよ」
だからと言って男を座らせていい理由にはならなくないか。
まぁジュースをこぼしたときに一応は来客の僕を座らせようとする村崎はマジで村崎って感じだけど……。
そうじゃなくて。
「た、立ったまま話をするわけには参りませんか」
「参りませんねぇ」
「う〜ん……」
……仕方ない。
「……」
ポフっ、とベッドの上に腰掛ける。
驚くほどに柔らかい布団の感触が僕の下半身を支えてくれた。
僕は普段、床に布団を敷いて寝ているからこの手の柔らかさとは無縁だった。
貴重な機会かもしれない。今日はこの感触を存分に堪能することに……。
「んしょっ……と」
……。
???
なんで僕の膝の上に村崎の頭が乗ってるんだろう。
これはいわゆる、膝枕というやつなのではないか。
幻覚か??
「七ちんの太もも、結構柔らかいね? 女の子みたい」
「女の子……」
くすくすと笑う村崎の頭を、僕はボーっと見ていることしかできなかった。
「安心しちゃうな」
そのまま村崎は、僕の膝に顔を埋めた。
「(まずいことになってきた)」
そのまま数分が経過して、僕は自分の体にまずいことが起き始めている事を自覚した。
それは思ったより村崎の頭が重くて困るとか、二人で身を寄せ合っていると暑いとか、そういう問題ではない。
僕は今日ここに話があってきたのであって、こんな風に膝を貸すつもりはないのだから退いてほしいなんて話でも勿論ない。
村崎が僕の体を使って安眠できるなら、いくらでも好きに使ってくれていいと思うしそのための協力なら惜しまない。膝枕をして欲しいというなら、僕は大腿骨にヒビが入ったとしても彼女の頭を乗せ続けるだろう。
だからまずいのはそんなことじゃなく、もっと深刻な問題。
そう、村崎の後頭部で徐々にその存在感を増しつつあるもう一人の僕だ。
前にもこんなことあった気がする……。
そう、あれは忘れもしない “3年前”。
「あの時も、同じことがありましたよね」
「……」
「“間宮さん”」
そう問いかけると。
「とうとうバレてしまいましたね。東風先生」
村崎は……まるで別人のように大人びた顔で、こちらを振り返ったのだった。