目を覚ますと、自分の上に男が跨っていた。
怖くて、気持ち悪くて、悔しくて、私はその時の光景を忘れようと必死だった。
でも実際にはそんなことは起こっていなかった。
私の身に起きたことはそう、一種の勘違いだった。
お父さんに見せてもらった映画のワンシーンでしかない。
でも子供だった私にその光景は、あまりにも刺激が強かった。
ベッドに引き籠ったのは、それ以降お父さんとお母さんの喧嘩が増えたことが原因だったのかも。
……いや、きっと違う。二人とも声を荒げたり、大声で怒鳴ったりはしなかったけど、なんとなく雰囲気で私のことを話してるんだろうってわかった。
なんとなく学校は楽しくなくて、よく休んでいた。そんな私にお父さんはよく映画を見せてくれた。
学校に行けとも、何かをしろとも言わない、お父さんとお母さんのことは好きだった。
私はずっと、学校にも外にも行けない自分が申し訳なかった。
私は頭に焼きついたその光景を消そうと、記憶を消そうと必死だった。
そうやって私が編み出した方法は、自分の中に“もう一人”の自分を持つこと。
その時よく見ていた学園モノアニメ。そこに出てくる少女、彩芽は気が弱くて引っ込み思案な主人公の親友だった。
その子は明るくて、何があっても曲がらない心の強さを持ってて。
だからきっと、この子が……彩芽がいれば大丈夫だって思った。
最初は実際、上手くいったと思う。私の中にずっとこびりついているその記憶を彩芽は封じ込めるんじゃなく、乗り越えさせてくれた。
家を出て、学校に行って。そこで例え辛いことが起きても彩芽は負けなかった。私の心強い味方だった。
私は私でいることを忘れて、彩芽になった。
お母さんも私を彩芽と呼んでくれた。
もう大丈夫だ。このままずっと、彩芽として生きていれば辛い思いなんてしなくていい。
救われた。
そう思って、ある日の朝目が覚めて、うんと伸びをして、ベッドから出て顔を洗うために鏡を見た。
「……誰?」
そこに映っていたのは、知らない人だった。
こんな人知らない。こんな、キラキラしてなくて、不細工で、暗くて、こんなの私じゃない。
そんなことないよ! すっごく可愛いじゃん! 目の色とか私、すっごい好きだな〜!!
……違う、違う。
これは本当の私。これは私の姿。彩芽なんていない。
えー? いるじゃんここに?
違う、いないの本当は。
ひどっ!ウチの存在全否定!?
「あ、ぅ、ぁ……!!」
ちょっと……大丈夫? 休む?
「……出てって」
え??
「出てって!!」
……。
「彩芽……? どうしたの!? 彩芽!!」
「彩芽じゃない……彩芽じゃないよ……」
「あ……」
……私、気持ち悪いな。
「蓮華……」
◆
それ以降、声は聞こえなくなった。
きっと彩芽は自分の存在が私を……蓮華を傷つけてるって気づいたから、もう喋らないようにしたんだと思う。
彩芽はそういう子だった。
怖くて否定してしまったけど、別に彩芽は何も悪いことなんかしていない。ただ私を助けて、励まそうとしてくれていただけだ。
そんなあの子を否定してしまった自分が情けなかった。
「……」
ベッドの中でスマホをいじっていた。
趣味の一環のようなもので、ブックマークに登録していたサイトを現実逃避気味に眺めていた。
『僕が僕で亡くなった日』
「……」
タップする。
“その日、僕は亡くなった。”
“ここに生きて、存在していても生きてはいないのだ。”
“死んだ僕は誰にも見られることはない。それが死者の安らぎというものだった。”
“僕は自分が死んだことを、光栄に思っている。”
「……」
それは、とても暗い話だった。
小さな頃からずっと一緒だった親友を失った一人の男の子が、自分が死んでしまったように錯覚する物語。
その男の子は生きていて、ご飯を食べて、学校に行って、勉強のようなことをしている。
でも自分の意思で何かをすることはないし、ただ命令されたことを淡々とこなすだけの存在で。
死んでいるも同然だと。
私と同じだ。
「“この世界から、消え入りたい。”」
私と同じだ。
“だから……”
「私と……」
“実際に消すことにした”
「……え?」
“名前を変え、挙動を変え、見た目を変えた。すると不思議なことに、自分は本当に全くの別人になったのだと感じるようになった。”
「……」
“大きく自分を変えた時、周囲の皆はそれを阻止しようとしてくる。だけどそれも一瞬のこと。”
“この世にいる誰もが、思ったよりも自分に興味がないと知った時、世界は前よりずっと自由に見えた。”
“それは家族や友人でさえも。”
“自分の内面を変えることができるのは自分だけなのだ。”
“僕は亡くなった。そして新しい僕が生まれたのだ。”
「……」
世界は思ったよりも、私に興味がない。
「あぁ、そっか」
胸からストンと憑き物が落ちたような気がした。
私は色んな人の想いを背負ってると思っていた。
お母さんの、お父さんの、彩芽ちゃんの。
でも結局、私のことを一番気にしてるのは私だけだ。
どんなに私のことを気にかけているように見える人よりも、私がずっと私のことを気にしている。
私は、私の心に従っていいんだ。
「……」
ベッドから出た。
洗面台に出て、鏡を見る。
「……なんだ」
思ったより、世界は軽かった。
だってそこに立っていたのはどこにでもいる小娘だったんだから。
◆
「……」
僕は彼女の話を、黙って聞いていた。
というより圧倒されて何も話せなかった、というのが正しいのだけれど。
少なくとも僕には……想像もつかない世界の話だった。
「村崎は……いや、間宮さんは」
「村崎でいいよ」
「……村崎はどうやって、僕の編集になったの?」
間宮蓮華。
彼女は僕の担当編集だ。だが僕は彼女と一度も会ったことがなかった。
いや、正確には僕が間宮蓮華だと思っていた彼女は全く別の人物だったのだ。
「お姉ちゃんに頼んだんだ」
「……お姉ちゃん?」
「うん。あ、血は繋がってないよ?」
「……義理の姉ってこと?」
「うーん、それともちょっと違う。なんていうのかな」
村崎はゴロンと仰向けになった。
「お姉ちゃんも、私と同じ人のファンだったんだ」
村崎の目に映る、間抜けヅラをした僕の顔。
「昔、自分の作品を見せてもらったって言ってた。その後もう会わなくなっちゃったらしいけど」
……。
「……それって」
「お姉ちゃん言ってたよ。“いつになったら気づいてくれるかな”って」
「……!」
不意に、スマホがポケットの中で振動した。
すぐに取り出し、通知欄に現れたメッセージを見る。
〈間宮蓮華〉
結局、彩芽さんが言ってくれるまで気づいてくれませんでしたね。とんだ鈍感先生です。
僕は頭を抱えた。
子供の頃に最初に作品を見せた、僕の読者第一号だった彼女。
「……生きてたのかぁ〜」
彼女がまさか……ずっとあんな近くにいたなんて。
「ふふ、びっくりしたっしょ」
「そりゃあねぇ……」
間宮蓮華という名前を使ってたのも、本名を隠すためだったってわけだ。
だけど同時に、色々と納得いったところもある。
間宮さんから最初に連絡が来た時、彼女は文面上でもわかるくらいに僕の作品を評価してくれていた。
……あのお世辞にも良作とすら言えない、書き殴りのような作品を。
「納得したよ、本当に」
もしかしたら村崎は、最初から僕の正体も知ってたのかもしれない。
「……」
「……」
お互いに無言で、静かな時間が過ぎる。
「ねぇ七っち」
「うん……?」
不意に、村崎が口を開いた。
「感想会、しよっか」
「……」
……そうだった。
随分、長引いてしまったけど。
「うん、そうしよう」
僕は彼女が大好きなアニメの原作者。
スマホを操作して、アプリを立ち上げると。
退廃的なブルーライトが、僕たちの目を灼いた。