料理には水を使い、火を使い、刃を使う。『水』は洪水も同じ、『火』は火事も同じ、『刃』は人を殺めるも同じ。室町時代の料理の開祖、志垣魚堂が残した料理の極意である。
ある日、和食の授業にて習ったこの言葉が戦いの火種になった。
「明日はどうするんだ? 小此木」
五番町飯店の閉店後、着替えをしながらジャンと小此木が他愛のない話をしていた。翌日は店の休暇と学校の休校日が重なっており、一日暇があるからだ。
ジャンは小此木を連れてキャンプか何かに行こうかと思っていたのだが、小此木の回答は予想外の言葉だった。
「ゴメン、明日はデートなんだ?」
「でえと?」
ジャンはなんだかんだ色恋には疎い16歳であり、友人がデートに行くと言っても実感が持てず、口を開ける。逆にさすがは女子と言うべきか、聞き耳を立てたセレーヌが会話に割り込む。
「へえ、小此木にカノジョがいたなんてね」
「彼女とかじゃないよ。買い物に誘われただけさ」
「そうなん? だったらジャンも連れてってあげたらええやん」
「でもそれじゃ失礼だよ。向こうもボクと仲良くしたくて誘ってきたみたいだし、出来ることなら二人っきりでいきたいんだ」
「ほぅ、なかなかのプレイボーイやね」
「へへ」
その後、セレーヌは何処の誰かとしつこく問いただそうとしたが、小此木は誰が相手かはぐらかした。
次の日、上野の駅前で小此木は待ち合わせをしていた。
「ま、待たせて悪かったな」
「いいよ、ボクもさっき来たばかりだし」
小此木の待ち合わせ相手とは北条美代子だった。先日のふれあい合宿の後、こっそり二人で出かける約束をしていた。一応の名目はカッパ橋での道具の買い物なのだが、それだけでは芸がないと、小此木は美代子を動物園に誘っていた。男に負けないために男勝りな行動をしてきた美代子にとって、男だ女だと張り合われるよりもシンプルに年頃の女性としてエスコートされる方が心に響く。
動物園ではパンダをはじめとして小此木が好きな動物を中心に見物したが、初めてのデートで茹で上がった美代子にとってはどれを見ても変わらない。妄想が加速していきふらふらと夢遊病状態となっていた美代子が我に返ったのは、動物園を出て喫茶店に入って一服着いた後である。
休憩後は本題の道具の買い出しに向かったのだが、包丁問屋の店先で小此木は変わったものを見つけた。
「なにこれ……水火刃?」
「最近どこかで聞いた気がするけれど、なんだっけか」
二人は授業の合間に講師が話した雑学など忘れていた。二人を見て、包丁問屋の亭主が顔を出す。
「お二人さん、いいものに眼をつけましたね」
「いいもの?」
「左様、これはかの和食の開祖『志垣魚堂』が残した料理の極意を刻印した関の名刀ですぞ。流石に志垣魚堂が自ら鍛えた本物とまではいきませんが、代わりに菜切に出刃に中華包丁まで何でも揃えてますよ」
「へえ……買ってみようかな」
「今ならカップル価格で同じ値段でもう一本つけちゃうよ」
「じゃあボクがこの中華包丁を買うから、北条さんも好きなのを選んでよ」
「あ、ありがとう」
包丁問屋が売りつけた包丁は、粗悪とまではいかないが名刀と言うには度が過ぎた平凡な品々である。それでも高級調理器具には疎い小此木と、おそろいの包丁という響きにまたもや茹で上がった美代子にとっては満足の行く品だった。
こうしてうまく亭主に乗せられて買った包丁が次の火種を呼び込んだ。
――――
小此木の上野デートから一週間後、小此木はジャンに泣きついていた。
「どうしよう、大事な包丁を取られちゃったよ」
「どうした? 何があった」
小此木の話を説明すると、実習授業で使った水火刃の中華包丁に興味を持った生徒に勝負を挑まれ、その結果、敗北の後に包丁を奪われたということである。
そして件の生徒に勝負を挑まれたのは小此木だけではない。翌日になると次の犠牲者が現れた。
「鯛の刺身、香味油和えだ!」
「ならばこちらは『崩』の神髄、稲妻落とし!」
美代子もまた、勝負を挑まれていた。生徒の目当ては小此木の時と同様に、水火刃の包丁である。小此木の時とは違い二人の勝負は食戟である。ジャンと小此木もそれを知り、観戦に駆けつけていた。
「勝者、大文字崩一!」
試食の結果、美代子は4対1で敗北した。
料理の課題は鯛の活け造りだった。どちらかと言えば中華料理人である美代子にとって分が悪い勝負とはいえ、料理では負けないと気張っていた美代子にはこの敗北はショックである。
「ひとついいか?」
敗北後、崩一に包丁を渡した美代子は彼に訊ねる。
「なんでその包丁が欲しいんだよ?」
「何故? 簡単だよ、これが『水火刃』の包丁だからさ」
「まるで意味がわからんぞ」
美代子には崩一のいう意味が理解できなかった。だが、彼の手元にある柳葉包丁に刻まれた文字を見たジャンは、祖父階一郎から聞いた逸話を思い出した。
そして、興味本位と友人のかたき討ちを兼ねて、ジャンは崩一に喧嘩を売る。
「テメーの腹が読めたぜ、大文字崩一……いや、『崩』の継承者!」
壇上に乗り込んだジャンの挑発に、「何を言っているんだ?」と他の観客が驚きどよめく。それでもジャンはマイクパフォーマンスを続ける。
「テメーの親父は『水火刃』の使い手に負けて、料理から足を洗った負け犬なんだろう? 親父の仇を『水火刃』を持つ人間相手に手当たり次第にぶつけるなんて、殊勝とはいえないぜ。むしろメーワクなんだよ!」
「父を侮辱したな! キサマに何がわかる!」
崩一は逆上してがなり声を上げたが、ジャンのいうことは真実であり図星である。大文字崩一の父『大文字一角』は、かつては一流の和食板前だったからだ。
志垣魚堂の唱えた料理道における禁じ手『崩』を妄信し、同じく志垣魚堂製作の『水火刃』の刻印が入った包丁を持った板前に勝負を挑んだ結果、『水火刃』の男に敗れていた。その結果自分から言い出した賭けに従い料理人として引退したという経歴があった。
その一角が愛用していた包丁こそが志垣魚堂製作の『崩』の刻印が入った包丁である。
料理の表舞台から身を引いた一角は、刀鍛冶として『崩』の刻印を打った包丁を作り続ける傍らで、息子崩一に料理の手ほどきをしていた。崩一の右手に握られた包丁は父一角が鍛え上げた新生『崩』の包丁である。
たとえ筋違いであろうとも、父の憎悪を受けて成長した崩一には『水火刃』を名乗る包丁は、贋作やイミテーションであっても許せない存在なのだ。
「だったら二人から奪った包丁を賭けて勝負しようじゃねえか。俺が負けたら、じいちゃんから受け継いだこの包丁をくれてやるよ」
ジャンは崩一に愛用の包丁を見せつける。
「確かお前は中華の覇王、秋山階一郎の孫……よし、やろうじゃないか。委員会、続けて勝負をするがよろしいか?」
「認めます」
食戟委員会が二人の勝負を受理し、ジャンの挑発に見事に乗った崩一は、ジャンに勝負を挑んだ。
開始前の話し合いで、料理のお題は再び鯛料理となった。美代子との勝負の為に余分に鯛を準備していたからだ。先ほどが活け造りだったため、今度は火を通した鯛料理をつくることになった。
「どれもいい鯛ばかりだぜ」
ジャンは崩一が活け造り対決の為に用意していた鯛の山を物色し、その中から一匹の真鯛をおもむろに選んだ。
「馬鹿め……しょせんは中華の料理人、鮮魚の目利きはその程度か」
崩一はジャンが選んだ鯛を見てほくそ笑む。ジャンが選んだ鯛は、脂の乗りがいい真鯛とはいえ鮮度が落ちていたからだ。
ジャンをしり目に鮮度が一番良い真鯛を選んだ崩一は、自慢の『崩』の包丁を構える。
「臨! 兵!
崩一は『崩』の包丁で虚空に早九字を切る。これもまた父に教わった精神統一の儀式である。その後、早九字の動きにも見た縦横無尽の包丁さばきで鯛を三枚におろす。
「あれぞ大文字一角直伝の九字切り!」
「鋭角な切り口が刺身の口当たりを引き上げる!」
「ですが今回の勝負は火を通したもののはず、刺身を何に使うのでしょうか?」
審査員たちは崩一の包丁さばきを褒めるが、その一方で刺身を作った意味に疑問を感じていた。崩一は残った鯛の中骨と頭を鍋で煮て出汁を取った。
周囲に海の香りが広がる。
「マズいよ……ジャンと向こうの鯛じゃ、匂いが全然違う」
「当然よ。秋山が何を考えているかは知らないけれど、鮮度の落ちた鯛を持って行ったし」
同じ真鯛でも鮮度の差が、露骨に匂いとして現れていた。観客も審査員も、みな注目するのは崩一の方である。それでもジャンは静かに、人知れずに、秋山の魔法を準備していた。
「そこまで!」
そして二時間が経過し、調理時間が終わった。崩一が用意したのは一人一つの鍋と、生の刺身である。
「鯛しゃぶ鍋、ご賞味」
「ほう、刺身ではなくしゃぶしゃぶか」
「鍋と言うだけあり、鍋には既に野菜などが煮てあるというわけだな」
「左様です。まずは刺身をしゃぶしゃぶにて召し上がっていただき、その後に他の具を頂いてもらいます」
「では早速」
審査員たちは崩一の言うがままに鯛の刺身をしゃぶしゃぶにする。鍋の出汁にて軽く火を通した切り身を口に頬張ると、タイのうま味が広がる。
「これが……刺身だというのか?!」
「しゃぶしゃぶにしただけでこの味わい、驚愕だ」
「鯛はどこを食べてもおいしい魚です。だったら王道の刺身にしゃぶしゃぶにて他の部位のうま味を乗せれば至福も当然」
続いて鍋の具材に箸をつけた審査員は、またも驚く。
「この野菜……先に出汁を味見した時には薄味すぎないかと心配していたが、刺身をしゃぶしゃぶにしたことで磯の風味が加わってちょうどいい塩梅に仕上がっておる」
「それにこの細かいカスのようなものは鯛の皮と肝か。鍋の中で混ざり合って見た目は不恰好だが、これがまとわりつくことで野菜の味が一味上になりおった」
「これぞ『崩』の神髄だ!」
崩一は審査員たちの高評価に対して得意げに極意を語る。『崩』はあえて料理を崩すことで、一段上に料理を引き上げるものであると。
薀蓄を垂れる崩一の様子に観客たちも彼に勝てるものなしと思う様子ではあったが、小此木と美代子を除けば孤軍奮闘のジャンも負けるつもりはない。
「カカカ! 講釈はそれで終わりか?」
「ほざけ!」
「そうカリカリすんなよ。これが俺の鯛料理だ」
ジャンは審査員の前に一人一つの蒸篭を置いた。
「よく味わえ、秋山式、海王小籠包だ」
ジャンの作った料理は、香港中華でおなじみの点心、あの齧るとスープが飛び出すことでおなじみの小籠包だった。鯛料理という名目や『海王』というネーミングから具を豚肉から鯛に変更した変わり種なのは予想が付くが、海鮮中華饅頭を食べたことがない小此木には味の予想がつかない。
「ジャンのやつ、大丈夫かな?」
「ホタテやアワビの乾物を使った海鮮饅頭ならまだしも、鯛の身は中華の食材としては淡泊な部類だわ。アタシなら別な調理法を選んでいたわ」
「た、大変だ」
小此木は美代子の解説にうろたえるが、それを聞いていたジャンが反応する。
「心配するんじゃねえ。あんなしゃぶしゃぶもどきに負けはしねーぜ!」
そして審査員たちは蓮華に盛られた小籠包に息を吹きかけて少し冷まして、一口で口の中に放り込んだ。
噛みしめるとともに鯛のエキスが染み渡り、アツアツという悶え声をあげる。
「オイオイ気をつけろよ。小籠包なんだから熱いのは当たり前だぜ」
「いやあスマン、だが口元に運んだ際の香気が我々を誘惑したのだから仕方がない」
「さもありなん。我々は食い意地が張っているのでね」
審査員たちは声を荒げたことについて、責は自分にあるとジャンに謝る。そしてもう一口は、程よい温度で味わうために先に齧った個所からスープをすすり、その後に残りを食べた。
「どうです皆さん。こんな小籠包ごとが僕の鯛しゃぶに勝てるわけがないでしょう。さあ、判定をお願いしますよ」
審査員たちが食べ終わるのを見計らい、崩一は彼らを急かした。自分が勝って当然というおごりの気持ちが、無意識的に審査員の気持ちの変化に反応して焦りを生んだからだ。
そして判決が言い渡される。
「満場一致、文句なし。秋山ジャンの勝ちだ!」
五人の審査員は一斉にジャンに軍配を上げた。こうなると焦るのは、自信満々でありながら敗れた崩一である。当然のように崩一は審査員に食って掛かる。
「何故だ?! あんな料理に何故僕が負けたというのだ。アイツが選んだ鯛は鮮度が落ちたクズ、その時点で負けは無いはずだ」
「ああ、確かに秋山君が使った鯛は三級品だ。だがキミの料理と比べて、秋山君のほうが勝っているのもまた事実だ」
「ば、馬鹿な」
崩一は審査員が食べ残しておいた最後の一個を奪い、強引に食べた。そしてその口に広がる味に、心を折られる。
「たしかに……これは僕のしゃぶしゃぶなんか話にならない、強烈な鯛のうま味だ」
「敗因を教えてやろうか?」
「ぜ、是非」
敗北感に打ちひしがれる崩一は、ジャンに教えを乞うた。
「テメーは壊れたラジオみたいに『崩』を連呼していたが、テメーのは『崩』には程遠いんだよ。テメーのは『形無し』、本当の『型破り』ってのはこういうものを言うんだ」
ジャンはボールの中身をスプーンですくう。スプーンには黒い塊が乗っている。
「メインとなる腹の身以外を圧力鍋で煮込んで、骨ごと細かくすりつぶして濃厚なミンチの塊にしたんだ。味付けは臭み消しの香草と少量の塩と醤油のみでな。この黒い塊がそうだ」
ジャンは魔法の種を明かすと、それを崩一に渡す。
「うまい……これだけでご飯が食べられるほどに濃厚な鯛のうま味だ」
「だろう? あとはこれを粗みじんにした腹身と煮凝り、ごま油で練った饅頭の種を皮で包んで蒸せば完成だ。
一方でお前がやっていた肝と皮の工夫はなんだ? 肝も皮も鯛の中では極上の部位だっていうのに、あんな使い方じゃドシロートすぎるぜ」
ジャンが指摘した『型破り』と『形無し』の違い、それは双方の工夫に如実に表れていた。冷静に考えれば皮はこんがりと炙った方が美味いし、肝も野菜にまぶすよりも別の使い方の方が適しているのは当然のことである。
敗北を認めた崩一は、二人に包丁を返して何処かに消えていった。翌日以降、よくよく授業を見回せば彼の姿は教室にあったのだが、この勝負の後、崩一が『水火刃』の文字に固執することは無かった。
ノリと思い付きと一話完結の勢いで更新です。
志垣魚堂とその極意の薀蓄は包丁無宿のネタです。
今回の敵キャラ崩一君もオリジナルとはいえ包丁無宿序盤のカオス系敵キャラ大文字一角の息子という設定で出させていただきました。
一角の方は8巻と13巻に登場していますので興味があったら電子版で読んでみてください(実本は絶版のためレアものです)
エビバデエンジョイ!