皐月賞が終わった数日後、ジャングルポケットはグラウンドを走っていた。
「ハァ……ハァ……ッ!」
自主トレ、と判断しているが、実際にはただ走っているだけのもの。頭の中にこびりついたイメージを引き剥がすために、とにかく身体を動かしたかった。脚を止めたら、皐月賞のアグネスタキオンを思い出してしまうから。
ジャングルポケットは空を見上げる。彼女の心とはまるっきり逆の、雲一つない快晴だった。
(……とんでもねぇ強さだった。俺も、強くなったって思ってたのに、向こうはさらに上をいってた)
ホープフルステークスの時以上に実感してしまった。アグネスタキオンは──速いのだということを。
このまま努力して勝てるのか?彼女に届くのか?そんな気持ちばかりが湧いてくる。
「けど、やるしかねぇんだ……!最強になるには、タキオンにはゼッテーに勝たなきゃなんねぇ……ッ!だから、今はちょっとでも動かねぇと!」
それでも、ジャングルポケットは脚を動かす。立ち止まってしまったら、本当に終わりだから。この先二度とアグネスタキオンには追いつけなくなってしまうから。だから、今はとにかく身体を動かす。少しずつでも、一歩でもアグネスタキオンに追いつくために。
「ダービー……クラシックの花形レース。そこで絶対にリベンジだ!俺はもう、二度とアイツにッ!」
決意を固めるジャングルポケット。そんな彼女の前に。
「ポポポ、ポッケさんポッケさぁぁぁん!」
ジャングルポケットを慕うウマ娘の1人、シマがかなり慌てた様子で走ってきた。息を切らして膝をついていることから、余程急ぎの用事なのだろう。ジャングルポケットも走るのを止めてシマへと駆け寄る。
「ンだよそんなに慌てて。なんかあったのか?」
ジャングルポケットはシマが慌てる理由を尋ねる。シマは事態を分かっていないジャングルポケットへ、自分が購入した雑誌のとあるページを広げながら興奮気味に語り出す。
「だだ、大ニュース大ニュース!めちゃヤベーニュースが出てきたんすよぉ!」
「……大ニュース?なんだそりゃ」
「とにかくこれを見てください!」
シマから雑誌を受け取り、目を通すジャングルポケット。徐々にその表情は険しいものになっていき──
「……ンだよコレ!どうなってんだよ!?」
「わ、分かんないっすよ!?とにかくポッケさんに報せないとって急いできたんで……」
憤怒の表情に染まる。ジャングルポケットは雑誌をシマへと押し返し、走ることを止めて
(ふざけんな……ふざけんじゃねぇぞタキオン!)
シマが持ってきたニュース。その内容は……アグネスタキオンが日本ダービーの出走を回避するというものだった。
◇
旧理科準備室では、相変わらずアグネスタキオンとマンハッタンカフェが思い思いの時間を過ごしている……
「随分と、思い切ったことをするんですね」
「おやぁ?何の話かなカフェ。私にはさっぱり見当がつかないねぇ」
「どの、口が……」
というわけではなかった。まぁいつも通りの光景ではあるのだが。マンハッタンカフェの言葉にアグネスタキオンはおちゃらけた態度で答える。タキオンの態度にカフェは追求することを止めてしまった。
いつものようにコーヒーを準備するカフェ。タキオンもビーカーの中に紅茶を淹れる準備をする、その瞬間。
「タキオン!いんだろテメェ!出てこい!」
「まま、まずいってポッケちゃぁん……!そんな喧嘩腰で行かなくても……っ」
カフェもタキオンも、予想通り来たか。そんな反応を示していた。息を切らして彼女達の根城にやってきたのはジャングルポケットとダンツフレーム。ジャングルポケットの表情は怒りで染まっており、ダンツフレームはそんなポッケを宥めようとしたが、奮闘虚しく止められなかった。
カフェは我関せずの態度を貫く。ポッケはタキオンの下へと歩みを進め、ダンツはポッケに続く。いつでも彼女を止められるようにと。タキオンはのんびりと紅茶の準備をしていた。
明らかにキレているジャングルポケット。そんな彼女にアグネスタキオンは。
「おや?どうしたのかなポッケ君。あぁそうだ、丁度今からお茶にしようと思っていてねぇ。良かったら君達もどうだい?」
紅茶を勧めていた。その態度にジャングルポケットはさらに怒りを見せる。ただ、頭が沸騰しそうになりながらもジャングルポケットはタキオンを冷静に観察していた。
アグネスタキオンは全くの健康体。特にどこか悪いところがあるわけではなく、走るのは問題なさそうな身体。ひとまず安堵する、が。それとこれとは別問題。ジャングルポケットの怒りは鎮まらなかった。
「いらねぇよ……なんで俺がここに来たのか、テメーなら分かってんだろ?」
「はて?何のことやら」
「そ、その……わたしもポッケちゃんもあるニュースを見てね?タキオンちゃんが……ダービーに出ないって話」
ダンツフレームの言葉に、アグネスタキオンは少しの間逡巡した後、あぁ、と声を漏らす。
「なんだそのことか」
「……まぁでも、安心したぜ。どっか身体を悪くしたとかじゃなくてよ」
「なんだ、私を心配してくれていたのかい?だったら問題はないさ。私はご覧の通り、健康体なのだからね」
ジャングルポケット達の気持ちを分かっているのか分かっていないのか。アグネスタキオンはなんでもないように会話を続ける。ジャングルポケットはなんとか気持ちを抑えながらタキオンと会話を続けていた。
「なら、ダービーは問題なく出走できるよな?」
「ポッケちゃん……」
「だって、別にどこか悪いわけじゃねーんだろ?ダービーに出走する分には問題ねーんだろ?」
「まぁそうだね。別にダービーに出ることはできるよ」
「じ、じゃあ!あのニュースはデマだったってことだよな!?いや~、そんな気はしてたんだよ!でもよかった~、お前が出走できて「何を勘違いしているのか知らないが、私はダービーに出走するつもりはないよ」……あっ?」
身体に異常がないならダービーに出走ができる。そう思っていたジャングルポケットに突きつけられる、ダービーに出走するつもりはないという意思表示。アグネスタキオンの表情は──無。
呆けるジャングルポケット。眼前にいる相手から発せられた言葉に理解が追いついていない、そんな表情をしていた。
「私はダービーに出走するつもりはない。意味がないからね」
「ど、どういうこと?タキオンちゃん」
「私がレースに出走する理由は速度の追求にある。勝ち負けなど重要なことではないし、特定のレースに思い入れがあるわけでもない」
「で、でもっ!」
淡々と自分の思いを羅列するアグネスタキオンに、ダンツフレームが待ったをかける。その目は信じられないものを見るような、理解できない表情だ。
「ダービーだよ!?一度しか出走できないレースなんだよ!ダービーで勝つことはすっごく特別で、栄誉のあることで……どうして出走をしないなんて……」
「私に利益がない。それ以上の理由が必要かな?」
「り、利益……っ」
ダンツフレームの言葉を一刀両断する。相変わらずアグネスタキオンの表情は変わらない。優雅に紅茶を嗜んでいた。
「……ふざけんじゃねぇぞ」
「おや?どうしたのか「ふざけんじゃねぇぞテメェ!」おぉっと」
「ぽ、ポッケちゃん!」
そんなタキオンの態度に、ついに我慢の限界を迎えたジャングルポケット。アグネスタキオンに掴みかかる。ビーカーから紅茶がこぼれたがお構いなしだ。
「なんで出れるレースに出ねぇ!?身体に悪いところがあるわけじゃないのに出走しねぇ!」
「さっきも言っただろう?私にとって利益がないからだ」
「利益だと!?テメェ、損得勘定でレースに出てるってのか!?」
「私が求めるのは速度の追求、それこそが最も重要なことでありそれ以外のことはどうでもいい……勿論、勝ち負けもね」
変わらず淡々と言葉を返すアグネスタキオン。感情を感じさせない、なんとも思ってない態度にジャングルポケットの頭はさらに沸騰する。
「テメェ言ったよな?俺の挑戦受けて立つって!クラシックレースで戦うって!あの約束は嘘だったのかよ!?」
「なにを言ってるんだい?ちゃんと戦ったじゃないか。皐月賞で」
「ふっざけんな!皐月賞で勝ち逃げなんて、絶対に許さねぇぞ!そもそも、利益がないっつったけどなぁ、俺達と走ることが利益にはなんねぇのかよ!」
「……ふぅン?」
ジャングルポケットに胸ぐらを掴まれながら目を細めるアグネスタキオン。
「今度は負けねぇ……ダービーはもっともっと強くなって、テメェよりも先を走ってやる!菊花賞だって、これから先のレースだってそうだ!もうテメェに「時にポッケ君。君は【目は口程に物を言う】という言葉を知っているかい?」な、なんだよ?唐突に」
「口ではどれだけ威勢が良くても、目を通して君の感情は伝わってくる……ダンツ君もそうだが、皐月賞の私に──恐怖を抱いただろう?」
「「ッ!?」」
図星を突かれた。ジャングルポケットとダンツフレームの表情は雄弁にそう語っている。
「勝てない、追いつけない、届かない……皐月賞の私に、そんな感情を抱いたのではないかね?」
「ち、違う……違う……っ」
「違わないさ。あの時の君達は私に怖れを抱いていた。他ならない私に向けられていた視線だ、間違うはずがない。現に今も、君は私に対して恐怖を抱いている」
ジャングルポケットの瞳が揺れ動く。アグネスタキオンの赤い瞳に、狂気を見出す。気を抜けば吸い込まれてしまいそうな、飲み込まれてしまうような瞳から反射的に目を逸らした。
「た、タキオンちゃん……」
「ま、君達も理解しているだろう?心の奥底では私を恐れている、それはもう確定事項だ」
戸惑う2人にタキオンは溜息を吐く。そして。
「
とどめを刺した。
「そんな、こと……」
「……」
思い当たる節があるのだろう。ジャングルポケットもダンツフレームも押し黙る。
アグネスタキオンの言う通りだった。2人は皐月賞のタキオンに対し恐怖を抱いた。この先勝てないだろうという認識を、一生追いつけないという考えを植え付けられた。彼女の言葉は……なに一つ間違っていないのだ。
「私が求める速度の限界には強い相手と戦うことが必要不可欠だ。心が折れた君達に用はない……故に、私は日本ダービーに出走しない。得られるものがないんだ、当然の道理だと思うが?」
「……」
「ま~君達の今後には期待しているよ!もしこれから先強くなれば、また走れるかもしれないねぇ!……ま、それも限りなく低そうだが」
見切りをつけたようにアグネスタキオンはジャングルポケットの腕を振りほどき、椅子に座り直す。そして、リモコンを操作してテレビをつけた。
「さてさて、そんな君達に面白い情報を提供しよう!私の次走についてだ!」
「「ッ!?」」
「次走、決まってるんですね」
先程まで口を挟まなかったマンハッタンカフェが口を開く。ずっとコーヒーを嗜んでいた彼女が、反応を示した。
カフェの言葉にタキオンは嬉しそうに反応する。
「気になるだろう?とても気になるはずだ!日本ダービーの出走を回避して私が出るレース……気にならないはずがない!」
「……面倒くさい。さっさと教えてください」
「まぁそう慌てるんじゃないよ。すぐに分かるさ」
テレビの映像に注目する4人。映っていたのは──アグネスタキオンのトレーナーである高村聖。
報道陣は戸惑い、我先にと手を伸ばす。
《何故アグネスタキオンさんの日本ダービー出走を見送るんですか!?》
《もしや、皐月賞後に何か異常が!?》
《三冠は狙わないんですか!?》
少しでも有力な情報を聞き出そうと躍起になっている。会場はおしくらまんじゅうのようになっており、下手をしたら怪我人が出そうなほどだった。
高村の態度は冷静そのもの。会場の様子を見ても、少しも焦っていなかった。相変らず生気を感じさせない瞳、報道陣は彼の言葉を待つ。
《まず、1つだけ。アグネスタキオンは怪我をしておらず、全くの健康体であることをご報告します。ここにお集まりの方々、ファンのみなさんが心配するようなことは彼女の身に起こっていません。どうかご安心ください》
最初の報告に安堵の息を漏らす。ただそうなると気になるのはどうして日本ダービー出走を見送るのか?という話題だ。
《で、では何故!日本ダービー出走を見送るのですか!?》
《アグネスタキオン自身が出走を望まないから。理由はそれだけです》
《そ、そうなると次走は!次走はどうお考えでしょうか!?まさか……宝塚記念!?》
《違います。アグネスタキオンの次走は》
高村の口から語られるアグネスタキオンの次走。
《──ニエル賞。フランスのロンシャンで開催されるこのレースをステップレースに、凱旋門賞に挑戦します》
報道陣と、ジャングルポケット達の表情を驚愕に染めるのには、十分な情報だった。
次走発表!次走発表!