私の目の前に現れた巨大な狼は、その顔付きだけをみれば間違いなく狼だがそれ等以外の全てが私の知る狼という生物の特徴から悉く外れていた。
どこにバスよりも巨大な狼がいる。
どこに見上げるほどの体高の狼がいる。
どこに角を生やした狼がいる。
どこに、雷を自由自在に操る狼がいる。
「グルルオォォォッ!」
「くっ、危ないわね!」
飛び掛ってきた狼をユウカが避けて、すれ違いざまに弾丸を浴びせるけど効いていない。
金属の塊に銃撃したような甲高くて虚しい音が響き、その音を聞いたユウカも目を見開いている。
「そこっ!」
ハスミが狙撃しても、狼は体を器用にくねらせて弾丸を避けてしまった。頑強な肉体で受け止めるのではなく、回避を選んだ。
高い身体能力を保有していることも、それを完全に活かせる反射神経や動体視力も保有していることも分かってはいた。
でもいくら優れた能力を持っていようと、弾丸を回避するなんて漫画や小説のキャラクターみたいな挙動を見せ付けられるとは思わなかった。
「避けられた!?」
「いえ! 大丈夫です!」
動揺を隠せないハスミに対してスズミが声をかける。ハスミとユウカの相手をしていた狼の顎の下、完全な死角に彼女は飛び込んでいた。
声をかけてしまったことで位置がバレた。そう判断したのかスズミは無言のままに引き金を引く。
でも、それすらも通じない。バスにも勝る巨体なら体重も相当なもののはずなのに、重みを全く感じさせない軽やかなバックステップで飛び下がって弾丸を避けた。
「これも避けるんですか!?」
「このっ! なんで私たちを襲うのよぉ!」
「次は外しませんッ!」
着地直後の硬直を逃すまいとユウカが肉薄して銃撃、ハスミが再度狙撃を試みた。
「グルッ!」
硬直なんて、狼には存在しなかったようだ。
ユウカがばらまいた弾丸とそこに混ざるハスミの弾丸を横へ飛び退くように避けて、自分で破壊した建築物を蹴り飛ばして反対側の建物へ移動。
ハスミによる三度目の射撃を空中で一回転する身軽さまで見せつけながら回避して、何事も無かったかのようにすとんと着地した。
「なんなのでしょう、あのオオカミは」
「さぁ……私が聞きたいくらいだよ」
後方支援を行ってくれるチナツの問い掛けに私はこれだという回答を持ち合わせておらず、頭を左右に振った。
リンの方を見たけど彼女も私と同じリアクションをする。彼女も知らないとなれば、目の前にいる巨狼はますます謎の存在だ。
あれだけの巨体、力任せにぶつけるだけでもその破壊力が絶大なのは容易に想像出来る。実際、力任せに腕を叩き付けるお手のような攻撃も見せた。
荒々しさと、弾丸を軽やかに回避する身軽さを併せ持っていながら私たちが誰一人とて怪我をしていないことも、あの巨狼の存在と同じくらい不思議だった。
「ガヴガウッ!」
跳躍し、体を回転させて尾をユウカ目掛けて振り抜く。
彼女に当たる当たらないスレスレの距離を掠め、器用に武器だけを弾き飛ばしていた。
「うわっとと!? あ、危ないわね気を付けなさいよ!!」
「……クゥン」
「えっ!? そ、そんな顔しないでよ!」
もう一つ不思議なのがこれ、私に力を貸してくれている4人の中でも特にハキハキ喋るユウカが何か怒る度に巨狼が凹むのだ。
スズミの発言に頷いたりハスミの否定に対して不快感を示したり、あの巨狼は私たちの用いる言葉を理解している。
理解した上で、殺さずにいる。人間では絶対に叶わない身体能力と人間の言葉を理解する知性を併せ持ちながら、私たちを殺してやろうという意志を感じさせない。
「っきゃあ!?」
ハスミによる四度目の狙撃を、巨狼は後方に身を捻って飛び下がりながら振り払った尾で迎撃した。
弾丸は尾の側面に生え揃う甲殻に弾かれ、ハスミの足元を直撃。驚いたハスミが尻もちをついてしまったその時、巨狼が一気に跳躍。
彼女の目の前に降り立つと何か攻撃をするでもなく、食らい付いて連れ去るでもなく、じっと彼女の顔と足を交互に見つめるという奇行に出た。
「な、なに……キャッ」
巨大な狼に見つめられるなんて経験は初めてだろう。困惑した様子のハスミが何かを言いかけたが、それより先に巨狼が口を開いてその巨体に見合う大きさの赤い舌を出す。
そして、彼女の顔面をベロンベロンと舐め回し始めた。舐めるのを辞めたかと思えばハスミの大きな翼に鼻を寄せてスンスンと匂いを嗅ぐ。
捕食してやろうなんて意志を感じさせない、大好きな飼い主に甘え着くような無邪気さがある。
尾も嬉しそうに激しく左右に振り回され、ハスミが飼育しているペットだと言われても納得しそうな様子だ。
「ハスミさん…この狼と知り合いなんですか?」
「そんな訳ありません! 第一っ、知り合いだったら銃撃なんてしませんって! も、もういいです! 大丈夫ですから舐めないでください!」
「グゥ……」
チナツの質問に憤慨しながら答えたハスミだけど、答えている間もベロベロに舐め回されて憤慨し続けられなかった。
気恥しいのか顔を赤くしながら大丈夫だと怒鳴ったハスミの声に巨狼はユウカに叱られた時の様に凹んだ様子を見せる。
私たちに対する敵意が欠片も感じられない。
捕食する為に襲いかかって来たとも、実はここがこの巨狼にとっての縄張りであって侵入者になった私たちを追い払おうとしているのとも、そのどちらとも異なる。
捕食するつもりなら最初、ワカモと彼女率いるチンピラ・スケバン軍団と睨み合っている時に間に降りるのではなく、私たちか向こう側どちらかの頭上に飛び降りて奇襲を仕掛けた方が効率的だ。
追い払うのだとしても、それならハスミに対してじゃれているとしか思えない接触をしている理由が説明出来ない。
(もしかして……)
有り得ないが、一番線が通る仮説が不意に頭の中で成り立つ。
確信はない。でも、私たちにもあまり時間はない。目指しているシャーレオフィスがこうしている間にも襲撃されるかもしれない。
「君、もしかして
私の声掛けに、巨狼は明確な反応を示した。しょんぼりしていた雰囲気が嘘のように消え去って、私の目の前まで歩いてくると何もしていないのに伏せる。
こうして間近で見て気付いた。図体と戦闘能力にばかり目がいって顔付きくらいしか気にしなかったが、随分と可愛らしい目をしている。
真ん丸な目玉の中央に油性ペンで書いたような黒いぽっち。そんな風な凶暴性のきの字もないような可愛い目をしていた。
「わんっ!」
返事をするように一鳴き。ユウカたちからおぉ〜、と歓声が上がった。
右前脚が上げられる。振り上げるのではなく関節を曲げて、飼い主が指示をするよりも先に行うお手のように。
私も右手のひらを上に向けて差し出すと、その上に巨狼は右前脚を優しく乗せてきた。
人間で例えるなら小さなアリを押し潰さないように気をつけながら指で触れる、それくらいの力加減をしているのを感じられた。
「がう!」
何も言っていないのに、巨狼はゴロンとその場に仰向けになる。ハスミたちから「さすが先生ですね」なんて聞こえてくるけど違う、私じゃない。私は何もしていない。
この子が勝手にやっているのだ。なんでこんなことを、と聞こうとも思ったけど巨狼の向ける嬉しそうな顔を見ると質問するのが申し訳無く思えてしまった。
何やら誤解を招いてるような気がしながらも、暗緑色の甲殻に覆われた横腹をそっと撫でる。
ひんやりとしている。人間の物ともオオカミのものとも違う、例えようがない独特な熱感と触り心地。
そして、先程まで見せ付けられていた荒々しさ・力強さが手のひらから伝わってくるような気がした。
(この傷は……)
敵対意欲が一切無いのが分かったのは良かったけど、この巨狼の肉体を見た事で別の問題が浮上してしまった。
大量の傷跡が刻み込まれ、その全てが赤々と光を発している。痛々しい傷跡の数々が自分の存在を忘れさせまいと主張しているかのようで、恐ろしく見えた。
弾丸を通さず、弾丸を回避出来てしまう、雷を自在に操るこの巨狼にここまでの傷を負わせる存在。
そんなもの化け物でしかない。どう見ても自然災害に巻き込まれた際に生じたものでは無い、何か巨大な生物と殺し合って出来た傷だ。
「がうがうっ!」
傷をまじまじと見ていると、巨狼は辞めろとでも言うように鳴いて起き上がってしまった。
悪いことをしてしまったかな……と思っていると頬に暖かくて湿ったもの、巨狼の舌が触れてベロベロと舐め回してくる。
気にするな、という意味だろうか。人の言葉を理解するだけでなく心中まで察せるとは、まるで
「あの、先生。そちらの化け物はもう、大丈夫なのですか?」
「うん…敵意は無いみたい。大丈夫だと思う」
リンの心配そうな声に私は安心させる為に笑顔で答えた。
ホッとした様子の彼女だったけど、巨狼が不服そうに短く唸るのを聞いて表情を強ばらせた。
それもそうだ。人の言葉が分かるのだから、化け物なんて言われて良い気分はしないだろう。
機嫌を損ねてしまったかな、そう思って謝ろうとしたけどそれよりも巨狼の動きは早かった。
「ぐぅ…がうあうっ!!」
「きゃあっ!? ちょっと待っ、私は別に良いから…んんっ!」
押さえつけるように飛び掛ると、リンの内ももに顔を突っ込んでベロンベロン舐め回し始めた。
軽く撫でられるだけでもくすぐったい場所を手加減無しで舐め回されて、あのお固そうな雰囲気を纏うリンが笑いを堪えるのに必死になっている。
「もうっ、コラッ! やめなさい! このッ、くすぐったあひハハハハハハハハ!!!?」
やっぱり化け物呼ばわりされたの怒ってるんだろうなぁ……リンがやめなさいって言っても辞める気配がなく、巨狼の舐めまわし攻撃は止まらない。
やがてリンが笑いを堪えきれなくなって涙目になりながら大笑いを始めるまで、ベロベロ攻撃は止まらなかった。
数分前の緊迫した空気は嘘のように消えて、何だか妙にゆるーい空気に切り替わる。ハスミたちも巨狼に対する警戒をすっかり解いていて、顎の下や甲殻を撫でくりまわしていた。
「スベスベ…でも硬くて、こんなの触ったことないわ……」
「確かにこの硬度なら弾丸が通用しないのも納得出来ます」
「硬いだけじゃなく、あんなに軽やかな動きを可能とする身体能力に合わせた作りなのでしょう…どこから来たのでしょう、この狼は」
「可愛いから細かいことはいいんじゃないですか?」
「「「そうね/そうですね」」」
「アハハ……ほら皆。そろそろシャーレオフィスへ行かないと」
実に年相応の女の子らしくて喜ばしいものだけど、今の目的はそれじゃない。私の声掛けと柏手の音に皆もハッと我に返り、表情を引き締める。
撫でくりまわされるのが終わると、巨狼もすくっと起き上がる。目的はともかく私たちに会いに来た、それ自体は果たしている。
立ち去るのだろう。あんなに甘え着いてくる姿を見せられてしまった後だと少し名残惜しいな、なんて思っていたら巨狼は私の目の前の地面に右前脚に鉤爪を突き刺した。
バターでも切るみたいに簡単にアスファルトを切り裂いて『ジン』という文字を書き込む。
人の言葉が理解出来て心も読めて、そして文字までかける。ますます人間らし過ぎて逆に驚けなかった。
「ジン……?」
「わおんっ!」
書き込まれた文字を読み上げると、巨狼が返事をするように短く鳴いた。
自分の名前なのだろうか。誰かに与えてもらったのか、自分で思いついたのか……何となく前者な気がする。
これだけ人と触れ合うのが好きなのだから、私たちと出会う前に仲の良かった人が居たとしても不思議では無い。
どんな人だったのだろうか聴いてみようとしたが、ジンはそれよりも私たちが進むことを望んでいるらしい。
私の背後に回り込むと角の背でとんっ、トンっと背中を押してきた。
「早く行けってことね?」
「あ”ゔっ!」
「…ふふッ。分かった、分かったわ。だからそう急かさないの」
早く先に行こうよ、そう言いたげなジンの姿に私はおかしくて笑ってしまった。図体に見合わない可愛らしさに、私はすっかり絆されていた。
ユウカたちも心做しかジンと交戦する前後で空気が和らいでいる。アニマルセラピーって言うやつなのかもしれないね。
「あ”むっ」
「えっ、ええっ!? なんで私の襟を噛むの!? 待って、自分で歩けるわ! 下ろして! 下ろしなさい!」
何故かジンに運ばれる羽目になってバタバタと暴れているリンだけが、シャーレオフィスへ到着するまでの道中で少し声を荒げていた。