児童養護施設の門をくぐった瞬間、蒼は異様な気配に気づいた。
焦げたような匂い、ざらつく空気。建物の中からは、軋むような音と人々の叫び声が混じり合っていた。
「……なに、これ……」
恐る恐る回り込み、庭から中を覗き込む。
淡い色のカーテンは引き裂かれ、何かの破片が至る所に散乱し、大きなガラス窓は粉々だ。
その荒れ果てたリビングの中に、それはいた。
黒い、泥のような何かだ。
寄せ集めた汚泥を垂らし、こぼれ落ちながら立つ。
歪んだ体で床を這い、呻きながら、啜りながら、笑いながら、ひとりの男に爪を突き立てようとしている。
その男とは、施設の職員だった。蒼にとって見慣れた、見たくもない顔だ。虐待ばかりしてきた男だ。
食事を取り上げ、寒空の下に放り出し、痛みで泣けば罵声を浴びせた。蒼だけではない、施設の子供達にだ。そして、暴力は年長であった蒼に向かっただけの話だ。ありふれた話だった。
「助けてくれ…!」
嗚咽混じりに、職員がそう言った。目と目が合った。
そして、蒼は咄嗟に身を隠した。
死んでも困らない。
自業自得。
報い。
そう思った自分に、蒼は唇を噛んだ。
身を丸めて、必死に笑みを噛み殺して、蒼は己を恥じた。
あいつは、今にも喰われそうになっていた。
冷たい床に押し倒され、服を掴まれ、自由が効かず、抵抗もできない。
苦しくて、痛くて、寂しい。蒼に覚えのある感覚。
助けて。彼は助けを必要としていた。
彼は、いくら蒼が言っても手を止めなかった。蒼よりも強い力で、ねじ伏せられた。ならば、蒼が彼を助けてやる理由はない。
けれど、彼は助けろと言った。今にも消えてしまいそうな声で、蒼を呼んだ。その言葉が、頭にこびりついた。
恐怖に震えながらも、体が前に出た。
敵うわけがない。でも、それでも。
「やめろッ!!」
飛びかかった蒼を、呪霊は一撃で弾き飛ばした。
あまりにあっけなく宙を舞う。
壁に叩きつけられ、視界がぐにゃりと歪む。
怖い。痛い。
どうして、自分が。
鬱憤が。転がるように肥大化していった日々の鬱屈が、認識を持って顕在化する。
全ては、誰かのせいであって欲しかったと。理不尽は何かの手違いで起きており、悪意とは人の心の隙間に差し込んだ影であれと。
しかし、そうではなかった。信じたいものは失われ、世界は自分に責任があると指を刺すのだ。蒼には、そうとしか思えなかった。
それでも、心の奥底で、たしかに願った。
「……たすけ、たい……」
蒼自身も不思議だった。
あの職員が、暴力を振り回し弱者を虐げるあんな奴なんて。
人が見れば笑うだろうか。それとも、気にも留めないだろうか。きっと後者だと、蒼は自嘲する。世界は思っているほど他人に興味はなく、感情は淡白で冷たい。その中でも、蒼は臆病な自分を、くだらないなりに好きでいた。
何よりも、自分の嫌いな自分になりたくなかったのだ。
そのときだった。
蒼が背中から転げた廊下の床、その傍にあったボロボロのぬいぐるみ。
そのぬいぐるみが、青いの震える視界の中で、淡く、金の光を帯び始める。
空気が震えた。
バケモノの気配がぐらりと揺らぐ。
何かがそこに、生まれようとしている。
「やれやれ、目を離した好きにこれだ。この私を、こんな雑魚のために呼び出すとは……礼節がなっていないな!」
聞き慣れない声が空間に響いた。
軽やかで、どこか鼻につくような、妙に気取った口調。
言葉を喋り出したぬいぐるみは、その場でくるりと回り小さなマントを翻す。ふわふわの金色の刺繍の古びたマント。
獅子の顔を模したそれは、まるで舞台役者のように芝居がかった身振りのキャリバーンを追って、ふわり空中を舞った。
自信満々の顔つきで、片手にはちょこんと小さなステッキを掲げている。
「私の名はキャリバーン。そう、かの王たちに讃えられし伝説の剣であり、数々の戦場において誰よりも美しく、誰よりも鮮やかに勝利をもたらした唯一の存在!」
「……ぬ、いぐるみ……?」
蒼が呟いた瞬間、キャリバーンの目が細くなった。
「無礼な。私を単なる縫い包みに貶めるとは……全く嘆かわしい。
貴様ら現代人は詩情似かける。まあいい、話は後だ。
よいか蒼、まず第一条! “キャリバーンには敬意を払うべし”!」
「は、はい……?」
「第二条、“私の話を遮るべからず”。第三条、“私がくしゃみをしたら拍手をしろ”」
「……くしゃみ……?」
「ファッフゥン!!」
唐突に上を向いて奇妙な音を放つ。
蒼も、呪霊すら反応に困って固まる。針時計や空気まで彼に気を使って沈黙を保ったように、静寂と静止の中でキャリバーンだけが騒がしい。
何事もなかったかのようにマントを翻しながら、キャリバーンは続けた。
「……さて、語らせてもらおう。
私の伝説は12世紀から始まった。あれは日差しの強い真夏だったかな?
いや、肌寒くなる秋だったかもしれない。ともあれ私は当時“悪(ワル)”として名を馳せ…
いや、これは違ったか、記憶とは実に曖昧で詩的なものだよ……」
延々と続く武勇伝。
全てが嘘くさく、全てが堂々と語られる。話の根拠など調べるまでも無いほど、眉唾な内容に遠慮はない。鳩を指差し鷹だと、清流に浸り滝だと言っているようだった。そして何より、話の一つ一つが異様に長い。
蒼は痛みに耐えながら、ぼんやりと思った。
(……なんとなく、すごいんだな、この人……ぬいぐるみ……?)
だが、そんな軽口を叩いていたキャリバーンの声が、急に鋭くなる。ピッとステッキの先で蒼を刺して、足でこんこんと床を叩いた。
「そして、私は優雅に午後のティータイムを楽しんだのだ。わかるか、貴様は?」
「あ…えっと」
「だから土を舐めることになるのだ。ブァカめ!2度目は言わんぞ」
声の温度が変わる。
蒼の胸に、その言葉だけは真っ直ぐに突き刺さった。
キャリバーンが、剣を掲げた。
「私の名はキャリバーン。人の勇気が生みし、唯一無二の存在。
恐怖から生まれた連中と違って、私はね、踏み出す者の味方なのだよ。
この私を目覚めさせた以上、貴様の勇気には、責任を持ってもらうぞ?」
蒼は口を開けることすらできなかった。
ただ、目の前で光を放つ存在を見つめていた。なぜ光っているのかは、わからない。
「ふむ、驚くのも無理はない。
何しろ私は幾千の戦を制し、かの大英帝国の王冠を三度救い、恋と剣の狭間で百人の美女に泣かれ、しかもそのすべてが月曜の朝だったという……」
眩しかった。どこか、羨ましかった。
漠然とした感情が心中で渦巻いて、脊髄を甘い刺激が走る。蒼はこの感覚を知らなかった。無限に注がれる言葉の濁流に、湧き上がる衝動は呼水となって心を満たしていく。形容詞がたく、多くの言葉を持たない蒼には、到底真似できない喜劇だ。
「貴様、夜明けまでそうして座っている気か?無礼者、立て。
貴様の中の勇気を刃とせよ。その醜く肥太った偏見は捨ておけ。
私が認めたのだ。貴様の中の“その一歩”に、私が応えよう。
あの叫びに、躊躇いながらも立ち向かったその心を、私は讃えよう。
さあ、握れ。私を、貴様の刃になってやろうと言う。」
暖かな輝きが集まる。
蒼の手の中で、光が形を作る。眩しさに目を閉じる暇もなく、金のぬいぐるみは蒼の勇気となる。渦のように収束する光はやがて、一つの輪郭をあらわにする。鋼のように美しい西洋剣だ。名を、キャリバーン。
彼自身が語るには、伝説の刃が、ここに誕生した。