幻想偽典 ~Dies irae Rosenkavalier Kaziklu Bey~ 作:時杜 境
ようやく女の子といちゃつけたらその翌日、相手がいなくなっていた、なんてシチュエーションも珍しくはない。
私の場合、それが時限式で発動するタイプだったということで、そもそもご主人から離れる気なんてサラサラなかった。
このまま消えるか。
それとも生きたいのだと足掻くか。
「…………まぁ。この辺りが潮時か」
夜の街を歩きながら、純粋にそう思った。
ベイ中尉が体現したいと願う破壊の愛。私がいては、おそらくそれを叶えることはできないと思う。
あの人はたぶん、どこかに迷いがある。ルートヴィヒに言わせれば「更生の余地」ということだろうが、従者が主の願いの障害になるなど、私自身が許容できることではない。
ヴィルヘルム・エーレンブルグはカズィクル・ベイ。
奪う者と称して、奪われていく人。失っていってしまう人。
それでいい。いいのだ。それが正しく、これまでの彼は私を通して夢を見ていただけで──
「……ああ。でもそれは」
そんな彼のお約束を、なんとかしたかったから、私は仕えていたのではなかったか?
泡沫の夢だとしても。
きっと、何かを得られますように。
今──私がここで道を選ぶのは、それこそ、これまで関わってくれたあの人への裏切りになる。
「──よし。生きるか!」
となれば後は簡単。
さっさと家に帰ったら、「ベイ中尉、血をくださーい!」とお願いする。
それだけで、この問題は解決する。
「ただいま、ベイ中尉! あのー、ちょっとお話がありまして!」
扉を開けると、もう室内の灯りは落ちていた。
そういえばもう夜も遅かった。先に寝てしまったのだろう。いや、夜にこそ起きるのがベイ中尉だが、ここ最近はフラグ管理の影響で、生活スケジュールが真人間になっている。
とはいえ、ここで明日に問題を後回しにする私ではない。
我が身の緊急事態なのだ。とっとと起こして血を貰うとしよう。
「ベイ中尉ー?」
彼の寝室に入って、どう起こしてやろうかなと思いながらベッドに近付く。
──しかし。
「…………あれ、」
そこには、誰もいなかった。
誰も。
白い髪の影一つさえ。
ああ、そうか。つまりこれは。
「…………なんだ。夢だったのか」
もう私に、
朝。なにか物足りなさを感じながら目を覚ます。
/誰も起こしにやってこない。
昼。なにか物足りなさを感じながら陽を浴びる。
/誰も気にかけてくることはない。
夜。なにか物足りなさを感じながら眠りにつく。
/誰も傍らにいないまま日が終わる。
「……なんだってんだ、クソ」
足りない。
確かに手に入れていたハズのものが、どこを見たって実感できない。
まるでその記憶ごと、夢だったかのように、現実感が欠片もない。
「──浮かない顔をしているな、ベイ。何かあったかね?」
「──、」
当てもなく城の廊下をぶらついていると、後ろから声が掛かった。
振り返れば、そこには相対するだけで嫌悪と得体の知れない戦慄を与える男、メルクリウスが立っていた。
「おまえ……俺に何をしやがった」
「随分な物言いだな。濡れ衣にも程がある。私はおまえに何もしていないし、何かを仕掛けたつもりもない。おまえの持ち物にちょっかいをかけた覚えはないし、かといって、それをどうこうする気もない。──すなわち、原因とは、理由とは、行動すべき因果はこの場合、おまえ自身にあるということだ」
「何のことだ……」
「時に、その身体の具合はどうだ?」
また、突発的な問いにヴィルヘルムは顔をしかめる。
質問しているのは此方だというのに、なにかを煙に撒くような言い草。もったいぶって、人を苛つかせてくるところが、この副首領閣下野郎の平常運転である。
──そう以前、誰かに言われた既知感を覚えたのは、一瞬のこと。
「ああ……調子はいいぜ。すこぶるな。大神秘ってのをぶっ飛ばしたおかげか? 前より『吸血鬼』ってのが分かった気がするし、俺自身、そういうモンに近付いたような感覚はある」
「そうか。奪い、手に入れたか。ならばそれでよかろう。後はここから更なる高みを目指すだけ……そうだろう?」
「……、」
そうだ。その通り。
なにも計算違いは起きていない。不満に思うことは何もない。
これは己にとって喜ぶべき事態で、充足すべき期間でもあるはず、なのに。
「……足りねえんだよ」
「ほう?」
「俺ん中のなにかが欠けている気がしてならねえ。……なぁメルクリウス、俺は野郎を倒したのか? どうもそこら辺、曖昧なんだが」
勝ち続けることを渇望するヴィルヘルムにとって、それは我ながら奇妙な問いかけだった。
勝った事実に疑いがある。それは自分の力を疑うことに他ならない。以前の彼ならば、絶対に口にしないことで、だからこそ今は、特殊極まる事態にあると己で認めたようなものだった。
握った己の拳を見つめ、空虚に彼は思う。
──なにか。
──とても。
──忘れてはいけないはずのことを、置いてきている気がする。
「なるほど。いいだろう」
それにどこか、感心したような声をメルクリウスは返した。
これもまた一つの選択であろう、と。
これもまた一つの諧謔、これで既知から脱却できるのなら、試す価値はあろう、と。
「弾けたシャボンの玉は消えゆくのみ。瑕を塞ぎたければ、己が血を与えればよい。
だが、『愛した女を殺したい』というのがおまえの愛であるなら、その必要もないだろう?」
「──なにを、」
「覚えているかね? 奪う者とは、奪われ続ける者なのだよ、ベイ。足りないからこそ欲しくなる。満足している者ならば、外に手は伸ばさない」
その呪いの言葉は、カズィクル・ベイの名を与えられた時にも言われたことだった。
お前は負け犬だと。奪う側ではない、奪われる側なのだと。
欲したものこそを取り逃し続ける、何も得られない──と。
そんな戯言を、ヴィルヘルムは頑なに信じていなかった。冗談抜かせ、気に食わないし、そんなことは有り得ない──と。
……だが。今はそれを聞いても、何もない。多少の苛立ちこそあれ、反論は出てこない。
だからごく自然に。その言葉は口をついて出た。
「
「────、」
ほう、と一度メルクリウスは瞑目した。
夢を見たのは、どうやら無駄ではなかったようだな、と。
「では、認めるのか。おまえは『奪われる側』であると」
「知るかよ。知ったことかよ。てめえの定義に縛られる謂れはねえ。
覇道であれ。勝者であれ──それが彼の決める絶対法則。
ならば奪われようとそんなの些事と一笑に付してやる。
何を思い出せないかは分からないが、失ったものになど拘泥しないのが彼の生き方だ。
「──いや、ならば聞いていけ。おまえはまだ、失いかけているだけなのだから」
「……なに?」
「
────。
その一言。
その名前。
今まで、なぜ忘れていた?
「ッ──!!!!」
瞬間、わき目もふらず駆け出した。
吸血鬼として得た仮初の幻想が使えと叫ぶ。だがそれには頼らない。それを使ったが最後、より己が身に馴染ませたが最後、取り返しのつかないことになると予感した。
「俺は馬鹿かッ……!!」
足元が奈落に落下したような錯覚。走っているのに墜落しているような──恐怖が彼を埋め尽くす。
──この感覚をヴィルヘルムが覚えるのは、これで
一度目はあの夜。屋敷から彼女が一人で消えた時。何も言わず、何も知らせず。離れていったことに恐怖した。二度と戻らないような予感がしたのだ。
二度目は少女が──あの夜の少女が、ただの人間と化していることに気付いた時。しかもそのまま闇に突貫したのだから呼吸を忘れた。本当に大馬鹿野郎なのだと確信したものだ。
三度目は極地で落下していた時。狂乱する少女をあのまま放置していれば、彼女が彼女でなくなる。そんな悪寒と恐怖があった。だから落ち着かせることに専念した。
なら──四度目の今も黙って消えようとしているのか? 従者従僕だ忠誠だ言っておいて、肝心な時だけ勝手な真似をするのは一体どういう精神構造をしている、あの馬鹿がッ!!
──どうしていつも負けに行くような展開になってしまうんだろう、と思っていた。
死にたいわけじゃない。悲劇ぶりたいわけでもない。しかしなぜか、「そうなって」しまう。
まるで自ら自滅の業を歩んでいるように。
そうしなければならない、という見えない意思でも働いているかのよう。
……いや、どれだけ取り繕ったって言い訳だ。
負けるものは、始めからそうなるようになっている?
いいや違う、私の場合はそうじゃない。定められているのではなく、
消えてほしい、消えてほしいと云っている。
────何もかもが消えてほしい。
────誰にも迷惑をかけたくないから。
……お願いだから一人で死なせてほしい。
……お願いしますから終わりをください。
本当に馬鹿な話だと思う。生きたいと願いながら、死にたいという矛盾。
ならばもういっそ、全て夢であってほしい。総て幻覚であった方がまだ救いがある。
──誰にも迷惑をかけたくないのなら、自分で自分を消してしまえばいいだけのコト。
「嫌だ……」
嫌だ、嫌だ、いやだ。
おかしい、絶対にその理屈はおかしい。
本当に純粋な疑問しかない。本当に困惑しかない。
なにが、どうして、なんのために、消えろと『わたし』は云うのか、分からない。
……根幹にあるのは自己否定ではない。むしろその逆で、こうしなければ自分は救われないのだとさえ思っている。
本当に分からない。
分からないから、これ以上、先の思考には進めない。
ずっとずっとずっとずっと同じことをぐるぐる考えている。
──そしてそのまま死んでいく。消えていく。
自分で自分を奪って、自滅する。
なんでそんな意地を張っているんだろう。なんでそんなに頑ななんだろう。
なんのために?
……いや、いい。もう答えなんかいい。いらない。
もういらない。
自分の死なんていらない。
奪われてもいいから、穢されてもいいから、どうかお願いします。
誰か私を
……独りで死ぬのは、もう、耐えられない…………
「──レイシァアア!!」
闇に落ちかけた思考の淵で、
力強く世界に吼える、怒りの声を聞いた。
──彼は屋敷に程なくして辿り着いた。
レイシア。レイシア。レイシア。レイシア。レイシア。
ここに来るまで頭の中でずっとその名を反芻していた。一秒でもまた意識が外れたが最後、二度と思い出せなくなる気がした故に。
「レイシア──どこだ」
どこへも行けないと言った。
必ず帰って来ると言ったのだ。
ならば、ここ以外のどこにもいないはずだ。
逸る気持ちを押さえつけながら、慎重に家の中を探していく。
見逃しがないように。あの目立って仕方がない白い影を、今は闇の中、手探りで探す作業に近かった。
「──物置部屋」
ああそうだ、あいつは自分の部屋を欲しがっていた。
こういう時、
「レイシアァア!!」
扉を開け放つと、中から埃が舞った。
普段から使う用向きもない空き部屋だ。古臭い荷物ばかりが積み上がった、空間の隙間。
「レイ──、ッ!」
そこにいた。
倒れていた。
色のない白い髪を放り出して。
ひとり、静かに、凍えるように眠っていた。
「……ぁー……中尉……?」
抱き起こすと、間の抜けた声を出す。
だが違和感がある。軽い軽いと思っていたその体重が、今は何の重さもない。
まるで幻覚を、そのまま抱き起こしているようだ。
「……よかった。そこにいたんですね」
「──っ」
嬉しそうに。
彼女の目は、ヴィルヘルムの顔を見ていない。
「……血か」
メルクリウスの言葉を思い出し、即座に手袋を歯で外し、指を噛み千切った。
問答無用でその小さい口に突っ込むと、がっ、と呻きつつヴィルヘルムの血液を少女は飲み込む。
それだけで少し、レイシアの容態は安定した。その重みと体温が、多少、戻ってくる。
ぱちぱち、と少女が何度か瞬きし──ようやく、その目が正確にヴィルヘルムを捉えた。しかしすぐに、ふいと顔を背ける。
「……近いんですよ」
「どうなってやがる。説明しろ」
「どうって消えかけですよ……中尉って吸血鬼でしょ。私の分のそれ、全部持ってっちゃったんだから……現実に統合されちゃって、後に残された残骸は、ただの
そういう事かよ、とヴィルヘルムは呟く。
だが正直、訊いておきながら、もうそんな理屈や経緯や要因はどうでもよかった。重要なのは一つだけ。
「世話かけやがって……」
「……、」
だが、危機を脱したというのに従者の顔は明るくない。
俯きがちに、礼の言葉はおろか謝罪の声すらない。
「あのー……中尉。ここらで止めにしませんかね」
「はァん?」
「中尉は私から得るべきものを得たでしょう。知っての通り、私の魂は虚ろです。空なんですよ。質がなっちゃいない。あなたには相応しくない。どころか、血を貰わないと生きていけない存在になっちゃいましたからねえ……
──それは従者として当然の忠言。
むしろその選択を彼女が勝手に行った結果がこれかとヴィルヘルムは思っていたが、どうやら少々、想定と事情は異なるようだ。
「愛してくれたんでしょう? 壊すんでしょう? 吸い尽くしたでしょう? ならもう、ここにいるのは残骸です。気にかける価値はない。残飯なんか
「……」
忠誠。
破壊の愛の体現。
愛する者こそを枯れ落ちさせる。
それがヴィルヘルム・エーレンブルグの不変の愛の形。
以って事はなされている。十全に。
ヴィルヘルムはこの少女から幻想の一部──彼女の魂の欠片を奪った。同時に愛を与え、こうして枯れ落ちさせている。
彼が見捨てれば、そこで彼女の運命は終わる。
夢は夢として。虚無は虚無に。
主人の糧となったことを喜び抱いて、逝くだろう。
それは──それこそが、己がずっと目指していた結末だったのではなかったのか。
「うるせえよ……」
奉仕精神も結構だが、それは一方的なものだ。
俺のルールを叩きつけろと言ったのは、そっちだろうに。
レイシアから奪えるものは全て奪った。ならば後は、消え行くのを放置すればいいだけだ。
彼女が消えてしまっても、誰も文句は言わない。ヴィルヘルムに罰が下されることはない。
だったら────
「……ああ。だったら、そうさせて貰うかね」
呟きに、少女は寂しく
それでこそ。と、称えるように。
「俺と生きろレイシア。──永遠にだ」
だからやっぱり、少女はその言葉が何を意味するか、すぐには理解が及ばなかった。
「え…………は……?」
「従えよ、命令だからな」
「いや……は……はぁあ!? なに言ってんだアンタ!?」
腕の中で少女が叫びを上げる。
ようやく調子が戻ってきたらしい。こいつは多少馬鹿で、騒々しい方が似合っている。
「おまえは俺の一部になった。
少女は呆けたまま、何も言えない。
「思えば、
「えーっ……えぇぇえ──……!?」
そんな馬鹿な、とレイシアの目が見開かれる。
なんだこれは。なんだその言葉は。なんなんだその決定は。
知らない知らない知らない──そんなヴィルヘルム・エーレンブルグなど、彼女は知らない。
「ちょっ……ええ……アリっすかそんなの」
「俺がアリっつったらアリなんだよ。文句なんざ聞かねえぞ。確定事項だ」
小さい体躯を、強く抱き寄せて吸血鬼は断定する。
決してもう、離れないように。離さないように。逃がさないように。奪われないように。
──こいつは俺のものだ。
まだ残っている。ここにいる。壊し切れていないし吸い尽くしきれてもいない。
だから──
「……勝手に死ぬな。俺の命なら、俺に捧げて俺に喰われて俺のために生きてから枯れ落ちろ」
──それ以外の結末は許さない。
この血と暴虐のヴァルハラこそを求め、その果てに、共に至高の天の一部となれ。
……少女は、言葉がなかった。
しばらく、呆けたまま、夢のようにこの時を見つめていた。
「……無意味かもしれないのに?」
「それを決めるのはおまえじゃねえ」
「……なにも、得られないかもしれないのに?」
「それは、おまえを捨てる理由にはならねえよ」
────ここで取り零す方が、よほど損失ってものだろう。
まだ寄越せるものがあるだろう。捧げられるものがあるだろう。まだ、まだ何も足りない。魂だけ奪って何とする?
「てめえの心はどこに有りやがる。夢だけ見て満足してんじゃねえクソボケ。俺を負かせるだのとほざきやがったのは嘘だったのかよ」
そう、勝負のケリはついていない。
このまま不戦勝など許さない。大体、そもそもの話、
「それともこのまま、おまえはただ消えたいのか?」
「……いいえ」
いいえ、と静かに、彼女は重ねた。
「──すみません。やっぱりまだ、死にたくないみたいです」
砕けた笑みは降参と同義。
ああ、初めからそう言いやがれ、と男は心中で辟易する。
「……ヴィルヘルム」
呼びかけられて、顔を上げた。
瞬間、柔い感触があった。呼気を、少女の唇が塞いでいた。
「────」
まさしく不意打ち。思わずビクリと彼の肩が揺れる。
そも、この従僕からの口付けなど初だった。完全に意識の外からやられた。そういえば、こいつはもう処女でもなんでもなかった。
「っ……」
それでもってすぐに離れようとしたので、後頭部を固定してやった。接触が深まり、今度は少女の身が硬くなる。……薄目で表情を伺えば、恨めしそうに顔を赤くしている。なんか文句あんのか。
満足するまで貪ってから解放してやる。ふらついた従僕の頭が、わざとらしくヴィルヘルムの胸板に押し付けられた。
「ロリコン馬鹿野郎……」
「どっちがだ、ショタコン」
返す言葉もないのか、敗北宣言のようにレイシアから力が抜ける。
そもそも幼女趣味などない。惚れた相手が幼女の形をしていただけの話だ。誠に遺憾である。
「……大好き」
か細い声に、視線を逸らす。
そうかよ、と同じぐらいの小声しか返せなかった。
かくして幻想少女は吸血鬼の影と成り果てた。
永遠に。永劫に。
二人を別つものは、もはや何もなくなった。
(イメソン:Lost/ReoNa)