幻想偽典 ~Dies irae Rosenkavalier Kaziklu Bey~ 作:時杜 境
残虐極まるくすぐり刑をたっぷり受けた後、城から降り立った私たちは深夜の街を歩いていた。
不完全ながらもハイドリヒ卿の創造が流れ出している今、この街の魂は魔城に吸収されている。故に夜の静けさの中、二人分の足音だけが響いている。
「明日の朝ご飯なんにしましょっか」
「フレンチトースト」
「あは。了解しました。飲み物はトマトジュースで?」
「ああ。おまえは?」
「コーヒー。ブラックで」
「また飲み切れなくなっても知らねえぞ……」
交わされる他愛ない会話に、一切悲壮さはない。
いつも通り。いつものように。
──
「レイシア」
「ヴィルヘルム」
十字路に辿り着いて、足を止める。
ここから道は分かれている。ヴィルヘルムはこのままタワーへ、私はここで。
互いに、最後の決着を付けにいく。
「負けんなよ?」
「死なないでくださいね?」
かけ合うのも皮肉ぶった物言いで。
見上げた真紅の眼と視線が合う。
その白貌は不敵な笑みを浮かべている──きっと私も同じ表情だ。
同時に手を伸ばす。握手する。拳をぶつける。手の平を叩き合って、ハイタッチ。
それで、儀式は完了した。
「キスはとっとくか」
「ですね。ここで恋人らしい真似をしたら死にそうです」
「同感だ」
頷き合い、ハッと彼が鼻で嗤う。
やがて──
「またな」
片手を挙げて、その足が歩き出す。遠のいていく。
大きい背中は闇に紛れていく。溶け込んでいく。こちらを振り返らないまま。
前しか見ないで。真っすぐに。
「……カッコいいなあ」
前世の縁を頼り切った私とはまるで違う。
男らしいって、ああいう人のことを言うんだろう。
──さて、そんな人に釣り合う伴侶でいるためにも。
「頑張りますかね」
「何をだよ」
独り言に当然のように返ってきた声に笑みを零す。
振り向いてみれば、そこには白いマフラーを流した藤井蓮と──マルグリットが立っていた。
蓮は腕組みの仁王立ち、マルグリットはというと、両手を胸で握ったまま、まだ、躊躇いのある瞳でこちらを見ていた。
「俺たちはヴィルヘルムに用があって来たんだが」
「そりゃあ残念だったね。あの人には半世紀以上前からの先約がある。誰もここは通さないよ」
「……、」
蓮の目が、私を観察する。どうぞ、と隙だらけの姿で軽く両手を広げた。
「……おまえ、弱くなってないか。ほとんど人間じゃないか。プレッシャーも、何も感じない。一般人と同じだ。この間、城の上で何やってたんだ」
「長年の伏線回収。前からぶっ殺したかった親父殿をぶっ飛ばしてたんだよ」
「……! ……じゃあ、メルクリウスに力を奪われて……?」
「おいおい、幼女だからって甘く見過ぎだろう。奪われたんじゃなくて、
証言に、蓮の目が見開かれる。
なんだそれは。どういうことだと、狂人を見る視線を向けてくる。
まだまだこっちの彼は青いナー。決戦で、一手だけ手を貸してくれた未来の彼を思い、そんなことを考えてしまう。
「──どこかで聞いてるかな? 元来、私はこの世界全てを虚構のものだと思い込んでいてね。
「……らしいな。そしてそれがおまえの聖遺物だったんだろう。あらゆる幻想を内包して、この世にないものを創り上げる──
「何も感じない──何も持っていない。そこらにいそうな、ただの夢想家に過ぎない。幻想は所詮、幻想。夢は所詮、夢。ああ、今の私はここを紛れもない現実だと思っている。作り物なんかじゃない、誰かの夢でもない……自分は、生きた人間なんだって、思っている」
「──、」
蓮が、息を呑む。
狂人を見るような目には、今や敬服の眼差しが宿っていた。
……そう、彼は分かっている。自分たちは幻想になれない刹那に過ぎず、それに耐えられなかった者の末路なのだと。故に、目の前にいる私は──
「──
墓から出てきた、永遠ならざる矮小な生者の一人。
だが、私はそれに少し、視線を落とす。
「……でも、まだ完全じゃあない。私が私の変革を行ったところで、それでも捨て去れない『業』は存在する。レイシアという人間の存在起点。そこにあるものを超越しなきゃ、私は前に進めない」
そして、マルグリットを見る。
生きとし生ける者らを包み込む祝福と愛の覇道。
この時代において、今この時点において、唯一のハッピーエンドの鍵となる者。
それに私は、敵視する目を向ける。憎むべき敵を見る眼を向ける。恨みがましい目を──向ける。
「このまま第五に移行しても、再び私は繰り返すだけだ。おまえの時代を存続させるためだけに死に続け、人生の矜持を守ることしかできない敗者に成り下がる。だから、必要なんだよ。私とおまえは別なんだという、決定的な勝利がほしい」
自滅因子としての、不戦勝による勝利でなく。
ただの人間として生きていくために。
女神の一念から生まれただけという
「……マリィを殺せば、おまえも死ぬぞ」
自滅因子とは宿主ありきの存在。
蓮の指摘は正しく、ここで彼らと戦うことは自滅の道を加速させることに他ならない。
それに、ああ、と私は朝の挨拶のように返し。
「────だったら、殺した時に私が生きていれば、それは業を越えたってことになるだろう?」
そう。
対話よりも殺し合いを望んでしまう。
殺し合いがあってこそ対話が成立する。
存在を賭けなければ生を実感できない。
戦と平和は表裏一体。
どちらかが単独で存在することはあり得ないという精神性。
戦場を渡り歩いてきた、どうしようもない戦士のサガである。
「……時代が生んだ膿だ、おまえは」
「そして私がここにいることは、反面、そっちの女神がそう望んだから、ということでもある」
「……ッ」
蓮が睨んでくる。そんな筈がない、と反論したいのだろうが、それでも言い返すことはできない。
──マルグリット本人が、否定できないから。
「『自分のせいでみんなが死んだ』」
「違うッ! それはおまえらが……!」
「『私と出会わなければ、蓮は平穏でいられたのに』」
「俺はそんな事……ッ」
「『──こんな私、いなくなってしまえばいいのに──』」
自分のせいで皆が死んでしまう。私に触れたものの首は飛んでしまう。
だったらいなくなればいいのに。こんな自分、消えてしまえばいいというのに──
「だからやっぱり、証明するしかないんだよ」
存在を賭けろ。
命を示せ。
「『そんなわたしはわたしじゃない』と認めてくれよ。そんなもん知ったことか、
右手に武器を、形成する。
もはや私の中に、夢はない。
けれどもここに、一つの聖遺物が残存している。
「──私も前に進めないんだよ。好きな人と一緒にいられないんだよ。次の世界を一緒に見に行けないんだよ。だからさぁ、頼むよ。超克しろよマルグリット。おまえは、おまえが歌劇の主演だろう!? 見せてくれよ、おまえの
現れる、真紅の刃。
血の誓いが織りなした、契約の剣。──
いつかの日、思いつきで飲み込んでいた代物が、ここに来て私の最後の
「レイ、シア」
「水銀は認めてくれたぜ、私のことを」
人として生きること。
神の理から脱却して、自由に道を進むこと。それすなわち──
「──覚者。『解脱』とでも言うのかね。渇望は克服した。未練も果たした。なら後はこの業だけだ。こんなものがなくたって、私は私として生きていける。ああ、本当にあと一歩なのさ。だけど私、黄金みたいに器が広い人間じゃないからさ。凡人なんだよ。おまえがいる限り、どうしてもどうしてもどうしてもどうしても……! 死ななきゃならない、死ぬことでしか人生を示せない──なんて、思っちゃうんだよ。笑えるだろ」
ここまで来てもなお、それに縛られる。
どうしもない──どうしようもないほど弱い。あと一手、最後の一線を越えられない。
自分はそこに付随する影に過ぎないんだ、なんて思ってしまう。
弱い──なんて弱い。
なにが英雄だ、なにが神殺しだ下らない。
一人で生きていけるなんて言っときながら、舌の根が乾かない内に、彼女がいなければ存在を認められないと自分で言っている。──なんて醜い矛盾。弱者の理屈でしか言の葉を紡げない。
でもこんな私でもいいって言ってくれたんだよ。
愛してくれるらしいよ、あの人は。
だったら釣り合いたいと思うだろ。
強くなりたいって……思うだろ。
「……強いよ、おまえは。尊敬する」
瞑目し、蓮がこちらを見据える。
「きっとあの時、
「レン……」
「手伝うよ、俺が。むしろ手伝わせてくれ。ここで幼女一人救えないんじゃあ、魔王を倒すなんて出来ないだろうからな──いいかい?」
「──、」
伴侶が差し出した手に、見上げたその瞳の力強さに、マルグリットは見惚れていた。
刹那の永遠。それは女神が決断を要するのに、充分な一瞬で。
「──……うん……! お願い、します……!」
彼らの手が重なる。繋がれる。
断頭台の刃としてその身を形成し、伴侶たる少年が構えをとる。
「ふふ……」
「ははは……」
互いに漏れる、不可思議な笑み。
敵意はない。
憎悪はない。
怨恨はない。
なぜなら──
──こんなに晴れやかな気分で武器を握るのは初めてだ。
殺し合いのはずなのに、不思議とそう、互いに思ったからに違いない。
緩く頬を上げ、首を傾げる。
「少年、戦の作法は知ってるか?」
「知ってるよ。あんたの彼氏に教わった」
言葉が上手いな。
再び笑いを零しながら、ではそれに倣って、名乗りを上げる。
「──月乃澤学園二年、藤井蓮」
「──同じく三年、レイシア・エーレンブルグ」
青春の終わり。
学園生活の区切り。
ささやかな卒業式が、こうして始まった。