幻想偽典 ~Dies irae Rosenkavalier Kaziklu Bey~ 作:時杜 境
────目を覚ました時、見えたのは白い月の光だった。
「……、レイ」
仰向けのまま身じろぎすると、枕にしているのが少女の膝上なのだと解る。こちらの前髪を細い指先が梳き、その向こうに愛しい顔が見えた。
「……はい。おはようございます」
──夜に透ける
幼い輪郭、碧い瞳。
感じる体温は闇の中の灯のようで、その声音は天からの福音じみていた。
小さい天使。月夜に咲く
「奴は……」
「もう行ってしまいましたよ」
「……なぜ、トドメを刺していかなかった……」
「それはですねえ」
コホン、とレイシアが咳払いをする。
芝居がかった口調で、わざわざあの小僧の物真似なんぞを始めやがる。
──曰く。
「『言っておくが、情けをかけたわけじゃない』」
小僧が去り際に伝えたのであろう、言葉そのままを。
「『死んで罪が償えると思ったら大間違いだ。おまえらは生きて、生き足掻いて、罪を背負っていくんだ。それが、普通の人間ってやつだろう』」
……そういう事らしかった。
なるほど、だから「勝ち組」と奴は言っていたのか。
「というワケです。本当に──本当に、お疲れ様でした、中尉。ヴィルヘルム。私のヴァルハラ。とっても、カッコよかったですよ」
淡い微笑みは聖女さながら。
──美しい。
──したいほどに、美しい──
「……レイシア」
身体は、動く。
満身創痍も良いところだが、余裕はある。
だがそれを悟られないように、細心の注意を払いながら、口を開く。
「おまえは、これで満足か」
──常夜の世界には、もう手が届かない。
──
忠誠を捨てたわけではない。
悔いなど一切ないし、惜しむ感性など持ち合わせてなどいない。
この選択こそが、宿業の突破なのだという確信がある。
俺は、
「そうですね」
白い少女は、目を閉じる。
答えなんて決まり切っているだろう、と自慢げな表情で。貌で。
そして再び目を開いて──────────
「──────それで、私はこれから殺されるんですか?」
あっさりと。
此方の真意を、見抜いていた。
※
男は目を見開いたまま、固まっていた。
馬鹿な、と瞠目しながら。
何故だ、と戦慄しながら。
──やはりか、とどこか呆れたように、笑みを零す。
「……クソ、やっぱり気付いてやがったか」
「好きな人のことは、よく覚えている方なので。ヴィルヘルム、言ってましたもんね。『俺はもうおまえしか吸わねえよ』って。つまり、そういう事でしょう?」
愛したものこそを、吸い殺す。
彼はそのような愛情表現しかできない人間であり。
これまで、約半世紀。
虎視眈々と、獲物を喰らう時を待ち続けていた。
「おまえを、
全てを裏切るような言葉にも、やはり、少女は笑みを返すだけ。
そう、そんなあなただからこそ良いのだと。
そうだからこそ、好きになったのだと。
「……泣けよ。絶望しろよ。してくれよ。こっちはその瞬間を楽しみにしてきたんだぞ」
タワーでの一件は、失敗だった。
勝利のために、少女の魂まで使ってしまった。何も手元に残らなかった。何も与えてやれなかった。全てが中途半端だった。故に悔恨した。心の底からあの結末を憎悪した。
だが今この瞬間。
彼女は紛れもなく本体であり本人であり、その魂の輝きは最高潮に達している。
それを──この手で枯れ落ちさせたい。
その一念だけが、ヴィルヘルムが今持つ、最も強い渇望だった。
「仕方のないひと」
少女は、笑みを崩さない。
再び指先で白貌を撫でながら、──その
「ばか。さいあく。なんでもう、そうなっちゃうかなあ」
笑いながら、泣いている。
されど、絶望しているようには見えない。
それがヴィルヘルムには気に入らず。
「なにが可笑しい」
圧をかけるように、低く脅す。
愛と殺気を向けて、月を睨む。
「だって、意地を張ってるから」
「……何だと?」
「今までのが全部嘘だったなんて、それこそ嘘でしょ。あなた、そんなに器用じゃないし。獲物を待つクセして、どうせもう絆されかかっちゃってるんでしょ」
だからこの状況。この問答。
最後の最後の最後まで、己を貫かねば、と意固地になっている。
かつて、そうであったように。
自分は、何も変わっちゃいないのだと証明するために。
「私のためにそこまでしちゃったのに……」
吸血鬼になりたいという渇望。それを振り切ってまで、自分を求めている。
ここまで来たのに、あと一歩というところで、この男は。
「俺から逃げられると思ってんじゃねえぞ」
必ず殺す、と。
鬼の意志は頑なに、確固たるものとして、少女を睨み続ける。
だからさあ、早く絶望しろ。
死にたくないと言ってみろ。生きていたいと縋ってみろ。
──まだ、一緒にいたいのだと。そう、請い願ってみろ。
「私はねぇ、殺されてもいいけど殺されたいわけじゃないんですよヴィルヘルム。糧になるとか、片方だけ生き残るとか、そういう死別系エンドは趣味じゃないんです」
「知ったことか」
一言で斬り捨てる。
趣味じゃないとか、そうでないとか、そんな理由でこの渇望は止められない。
「本当に、私でいいんですか?」
「おまえだからいいんだ」
それだけ聞けば熱い告白のようだったが、いや本人からすれば間違いなくそうであっただろうが、少女からすれば熱い死刑宣告にしか聞こえない。
だから────
「私、そんなにキレイに見えますかねえ」
仕方ないなあ、と。
根負けした彼女はそこで、
「…………は」
ぽたりと、ヴィルヘルムの頬に液体が落ちる。
涙、ではない。──流血だった。紛れもなく。
「……おまえ、それ」
────白い少女は。
完璧な姿を保っていた少女の像は、崩れる。
瑕一つない月は、
そこにいたのは──
額から、頬から、頭から、首から、腕から、手首から、肩から、胸から、──全身からと言ってもいいほどの箇所から血を流し、ズタボロに傷つけられた、死体一歩手前の残骸だった。
「あなたの前だから、綺麗なままでいたかったんですがね。流石にもう、魔力もカツカツだし」
……少女は魔道を授けられた身。
故に、蓮と戦っていた時から、見た目を誤魔化す術をかけていた。それは後輩である少年が全力を出せるよう、その心を想ってのこと。やや死ににくいだけの位階にまで零落した少女は、どれだけ神業的な戦闘技術で抗おうとも、脆弱になった身体は、エイヴィヒカイトから受けた傷を自動的に再生などしてくれない。
「髪が何度も切られそうになってヒヤヒヤしましたよ。いや多少切られましたけど、そんなに短くなってないですよね?」
世間話のように言っているレイシアだが、ヴィルヘルムから見てもその傷は深刻だ。
致命傷こそ避けてはいるが、指先などはもう壊死している。涙を流していたように見えた顔はべったりと血に塗れ、色味の白さが余計に際立つ。見た目でこれなのだから、中は。臓器はどこまで無事でいるのか、考えたくもない。
「──おま、え。聖遺物、使っていただろう……」
「アレも残骸ですよ、ほとんどね。一緒に捨てた幻想の残滓をかき集めて、どうにか形成を保っていただけです。元は契約系の力で真価を発揮するそうですが、その元の機能まで残っていない。良い感じに超兵器できてたのは私の技量、それに私自身が殺してきた魂の量があったからですねー」
いわばあんなの、拳銃と同等ですよと。
持ち主を再生すらしない、武器として最低限の機能を残しただけのものに過ぎないと。
──傷だらけの少女は、言う。
「……………………っ、」
舌打ちすら、出てこない。絶句する。
なんだこのザマは。なんだこれは。
殺してやると息巻いていたのに、万願成就の夜だと踊っていた心が萎えていく。
これでは平手打ちしただけで砕けそうだ。
「……ふ、ふざ、けるなよ、おまえ……」
壊されている。砕かれている。トドメを刺すだけ。
これはもはや、別の男に抱かれたものと同義である。
「最後の最後で、不倫してくるんじゃねえ……ッ!」
「んな心外な──わっ」
瞬間、起き上がると同時にその体躯を抱きしめていた。
細く、薄く、脆い。まるでガラス細工だ。それもヒビ割れている。少し力加減を間違えれば、生命活動をたやすく止めてしまいそうだ。
「………………あら。殺さないんですか」
「ッ……!!」
──これは、全く同じだ。
あの時と同じ。少女が虚無に消えかけていた時と、まったく同じ構図だ。
(──なんでこいつはいつもいつもッ……!)
なぜ、俺の知らないところで死にかけている。
なぜ、俺に黙ってズタボロの残骸と化している。
意味不明につき理解不能だ。これほど破壊の愛を冒涜する存在が他にいようか。
……当時は、まだよかった。消えかけた残骸だったからこそ、血を与えるという解決法をとれた。だが今は血を与えてどうこうなる領域ではない。治療しなければ死んでしまう。勝手にこいつは死んでしまう。どうすればいい、どうすれば────
「……ほら。やっぱり絆されてるじゃないですか」
「ほざけやッ」
違う。そうじゃない。決して心配して言っているのではない。
手を下すまでもなく、勝手に死に向かっている現状が気に入らないというだけだ……!
「……あったかいですね、中尉」
「おいコラ待てや、死にそうなこと言ってんじゃねえ!」
「し、死にませんよ……死にたくないんですから。生きてるでしょ、実際」
「ッ……!!」
この馬鹿。
本当に頭が回っていないのかこの馬鹿は。
これで死ぬとは毛ほども思っていないのか。感覚の麻痺か。それはそうだ。だって少女は生まれた時から、傷を受けたことがないのだから。どれだけ傷つけようとしても、無傷で耐えてみせていた。痛いと言わないのは、それが痛みだとも知らないからだ。
痛みが、分からないということは。
自分がどれだけ死に近いのかも、分からないということだ。
「馬鹿野郎……!」
わからない。
どうすればいい。どうするべきか。
殺すべきか。いや駄目だ、こんな状態の奴に手を下しても意味はない。……いや、そんなことはない。生きているのなら、死にかけているのなら、今すぐにでも殺すべきだ。でないと、また取り逃がす。
なのに。
なのに。
なのに。
(──……なんで、殺せねぇ……ッ!?)
どころか、少女を抱きしめる手が震え始めてすらいる。
奪われる恐怖か、取り逃がす恐怖か、消えられる恐怖か。
細い首一つ、手折ることができない。摘み取れない。
──なぜだ、分からない、と昔の彼なら思っただろうが。
(…………、ああ……)
……殺せない。
……殺せない。
……どれだけ時間が経っても、息をする彼女を、まったくぜんぜん殺せない。
あれほど殺したいと思っていたのに。
水面下で、必ず
──いつまで経っても。
この薔薇を、枯らせない。
あと、少しだけ。
この形を、この重みを、この温かさを感じていたい。──それだけの理由で。
「…………負けてくれました?」
「……あぁ……完敗だよ、クソ女」
口にした途端、つい笑ってしまった。
負けたというのに、何故か。
いいや──当然のように。
微塵も、後悔などありはしなかった。