「第一小隊より各隊、一階エントランス確保。これより侵入します」
「了解、万魔殿は現在通用口で交戦中。間もなく制圧の見込みかと」
「あー、こちら第二小隊。万魔殿の連中がヤードの戦車やらヘリやらを爆破していますが」
「……こちらに誘爆被害が出なければ放置で構いません」
どんよりと垂れこめた灰色の厚い雲、降りしきる本降りの雨。まったくもって屋外での作戦日和とは言い難い天候。
そしてそんな中でもゲヘナ自治区のとある企業の敷地内では普段と何ら変わらず銃声と爆発音が賑やかに響き渡っている。
それは普段なら珍しくもないごく普通の企業襲撃事件と思われただろう。
しかし今回のそれは、その普段を見慣れている者が見れば間違いなく目を疑うだろう特異なものと言って良かった。
何しろ風紀委員と万魔殿が共に並んで戦っているのだから。
「各車、射線には十分注意してください。風紀委員に当てたらマコト先輩は喜ぶでしょうが謝罪に行くのは私なので。それと風紀委員の方はおとなしくしていてほしいのですが」
「なんでだよ、こういうのは私たちの担当だろ! そっちがおとなしくしてろ!」
「はぁ……」
そしてターニャ・デグレチャフもまたその現場で苦々し気に行動している一人だった。
学校の備品である榴弾砲と自走砲を窃盗した犯人を制圧したのはつい一週間前。しかし取り調べをする中で出てきたのは盗品売買を仲介していた業者の悪質さとその規模の大きさ。
今まで単発の事件と思われていたものが実際には業者側からの指示で連続的に行われていたものと判明。同時に破損や紛失で処理されていた備品も実は盗難だった、万魔殿が把握していなかった窃盗があったなどの情報も次々と明るみに出る。中でも一番笑えなかったものはゲヘナからの盗品を何食わぬ顔でゲヘナに納品し代金を請求していたことだろうか。
それに対し万魔殿の議長、マコトが出した命令はその業者を吹き飛ばせというもの。ターニャにしてもまあ当然かと思える内容だった。
──ただしマコト直々の命令でターニャが現場に放り込まれる展開にさえならなければ。
「それに加えてまったく別の指揮系統の部隊と共同だと? 最悪にも程があるぞ」
そして仕方なく万魔殿直属の戦車隊と一緒に出動してみれば目標の会社の前で風紀委員のイオリたちと鉢合わせしたのが一時間ほど前のこと。
目標の企業が悪質な高利貸し兼ブローカーとして風紀委員の出動案件にもなっていてそれが同時に被るとはターニャにしても予想外。
治安維持と戦闘を専門とする組織が応援に来たことを喜ぶべきか、万魔殿の下部組織といえ命令権の無い風紀委員との共闘を嘆くべきか。本音を言えば風紀委員に任せてさっさと帰りたいのだが万魔殿と風紀委員会を融和させてこそ将来の安定につながると信じるターニャとしては絶好の機会だけに放置もしたくない。
「風紀委員に甘えきりというのもマコト議長的にはマイナス評価。やはり積極的に行動することが必要だな。どうすれば風紀委員と歩調を合わせられる?」
既に戦闘の火蓋は切られている。ここで時間を浪費して足を引っ張り合うのは愚策、必要なのは効率的に行動することなのだが……。
面倒なことに万魔殿の目的はこの会社を更地にすること、風紀委員の目的は社長以下役員を拘束し書類を回収することとそれぞれ別。互いの行動がそれぞれの目的の早期達成を邪魔している状態でありバチバチに対立の空気が満ちてしまっている。
その中で部隊の指揮系統が別でありターニャ自身も部隊の指揮権が無いという大問題をどうにかしなければならない。帝国軍であれば中佐の階級と参謀本部直属という地位、銀翼突撃章の威光でゴリ押しできたかもしれないが今のターニャの立場はただの
そんな状況下で行動を促すにはどうすればいいか?
「……私が風紀委員の援護をするしかない、か」
そして導き出した答えは万魔殿所属のターニャ自らが風紀委員と行動し援護をすることで信用と友好の流れを作り出すというもの。
イッター城の戦いでもドイツ軍と米軍が手を取り合ったのだ、それと同じことが同じ学園の生徒同士でできない道理は無いはず。
ならば混沌とした流れを少しでも整えるのが最適解。
そう判断したターニャは同僚たちに断ってから集団を離れ、風紀委員のいる正面玄関側へと走り込む。銃声の賑やかな方はどちらか、音を頼りに廊下を駆け抜ければ──。
「あいつ硬いな……。どうにかしてグレネードを当てられないか?」
「スナイパーが邪魔で狙えませんって。無理に撃っても壁に当たるだけですよ?」
廊下の曲がり角に身を隠し小さな手鏡で奥を窺っている風紀委員たちと出会う。
見れば床には気絶した風紀委員が複数名、壁にはいくつもの弾痕が。会話から察するに奥にいるのは重装甲で身を固めたスナイパーか。
なるほど、確かに厄介そうだとターニャはため息をつきながら風紀委員に声をかける。
「失礼、小官は万魔殿のターニャ・デグレチャフです。現在の状況をお伺いしても?」
「……防弾シールドとスナイパーライフルを持った敵に妨害されている。一応言っておくと私たちでどうにかするから気にせず構わないでほしい」
つっけんどんな態度からは万魔殿の人間が関わるなという拒絶の意思が伝わってくるが、それに了解ですと頷くわけにもいかない。
嫌がる風紀委員の後ろから手鏡で確認してみれば確かに廊下の奥、扉の前には分厚い盾を構えて陣取っている漆黒の大柄なオートマタ、そしてその背後からは細く長い銃身が見えている。
その奥が社長室であることからしてここは敵の最終防衛ライン、確かにあれ目掛けて狭い廊下をまっすぐ突っ込むのは無謀としか言いようが無い。
しかしあれをどうにかしなければ進めないのも事実。
「爆裂術式で吹き飛ばせれば楽だがワンマンプレーはしたくない……。どうするか」
ターニャにとって今回の主目的は万魔殿と風紀委員の間の溝を埋めて互いを窺い合っている現状をどうにかすること。ターニャだけが活躍しては風紀委員の顔を立てられない、程々に風紀委員にも活躍してもらわなければ。
つまり今ターニャがするべきことは敢えて敵の正面に突撃する愚を犯し、ここにいる風紀委員が支援をしなければならない状況を演出すること。そのうえでただ突撃するだけの馬鹿と侮られないような立ち回りも求められる。
──どうしてこうも面倒なことばかりせねばならんのだ?
そう嘆息したターニャはおもむろに懐から発煙手榴弾を取り出す。
「私が煙幕に紛れてあれを排除しましょう。援護をお願いしても?」
「……えっ?」
「あれに一人で? 無茶だ」
困惑した表情で顔を見合わせる風紀委員たち。まあ普段からして疑うのも無理は無いだろう。
これこそ早急に解消しなければならないなと内心で苦笑しながら、ターニャは発煙手榴弾を廊下の奥へ放り投げる。
そして敵も手榴弾を認識したのだろう、一気に激しい銃撃が行われるが廊下に充満し始めた濃い紫色の煙に視界を遮られて勢いが衰える。
敵がわざわざ待ち構えている通路へ馬鹿正直に入る必要は無い。そしてこの視界ではすぐ後ろの風紀委員を含め誰も正確な状況を認識できない。
ならば少しくらい手を抜いてもいいだろう、そう考えて煙幕の影でターニャは一つの術式を練り上げていく。
楽をできることに越したことはないのだから。
「よし、行くぞ!」
敵に敢えて聞こえるように声を張り上げ突撃をアピール。
当然敵もそれを放置しない。煙幕の向こうから風紀委員たちと思わしき銃撃が飛んでくるが厚い盾で遮ってしまえば気にならない程度。そして煙幕に紛れていようと来ることが分かっているなら待ち構えていればいい。
敵のオートマタは常識的にそう判断し、そして紫色の煙の奥から次第に大きくなってくる黒い影へ命中の確信を抱きながら銃弾を放ち──。
「残念、それは外れだ。戦場でも好評だった手品は楽しんでいただけたかね?」
煙の奥から現れた人影を
まるで存在しない幽霊が相手かのように、スッと音も無く通り過ぎていく攻撃。当たっても気にしないならまだ分かる、だがこれは何だ?
そんな混乱と恐怖で攻撃の手を緩めてしまった代償はすぐに支払われることになる。廊下の隅をいつの間にか接近してきた人影からの攻撃に対処できずあっさりと昏倒、今までの苦戦は何だったのかと言わんばかりに廊下には静寂が訪れた。
「さて皆様、お約束の通り障害は排除いたしました」
窓から次第に薄れていく煙の向こうからターニャは風紀委員へにっこりと微笑みかける。
それを見る風紀委員たちの表情は驚愕と困惑。何故堂々と突撃して無事なのか、頑丈な敵をどう倒したのか。
もちろん今使ったのはターニャの頭上のヘイローと同じく光学系の術式によるデコイ、そして壁と床を映し出しての光学迷彩もどき。宝珠を使っていないためクオリティは低いが煙の中ではそれで十分。
煙幕と光学系術式を組み合わせた戦術は実に有効だなとターニャは内心ご満悦。何より九五式という呪われた代物を使わずに済んだ。
風紀委員の手伝いはできた、形だけでも風紀委員も突入する自分の援護射撃をしてくれた、双方良しの大満足できる結果。
後は奥の社長室にある金庫なり取引記録なりを風紀委員が回収し万魔殿が部屋ごと吹き飛ばせば万事解決。この分なら残業が発生する心配も無さそうで実に喜ばしい。
そしてさらに待ち望んでいたゲストが現れる。
「──お前すごいな!」
駆け足でやって来たのはイオリ。口ぶりからしてどうやら今の戦闘を見ていたらしい。
「ありがとうございます。ですが今のは風紀委員の皆様の援護があってこそ、私個人だけの成果ではありません」
「……お前本当に万魔殿の人間か? まあいい、後はここに突入するだけだ」
多少のおべっかに微妙そうな顔をするが、イオリはすぐに切り替えて指示を出していく。
現場部隊だけでなく指揮官とも良好な雰囲気を築く、これこそターニャの求めていたこと。まさに文句のつけようが無い最高の展開。
無事一仕事を終えられたという満足感、自身の行動が正しかったと自信を抱きながらターニャは風紀委員が扉を開けようとする作業をのんびりと見守り──。
そしてその表情が怪訝そうなもの、次いで真剣なものへと変わるのはすぐだった。
外にいた護衛が倒されたのは中からでも分かっているだろう。そしてまともな抵抗はできず出口を抑えられてしまえば破滅を待つしかない。しかしそれは正解だろうか?
絶体絶命の状況下でこそ破れかぶれの最後っ屁を警戒するのは常識。追い詰められた日本軍が、アラブのテロリストが手を出した手段が何だったのか。死なば諸共というクレイジーな連中は確かに存在する。
しかし風紀委員たちが無造作に開けようとしている様子からそのような警戒は感じられない。何も考えずにただ鍵を撃ち抜くことだけに集中している。
どことなく背筋が寒くなるような、戦場で何度も経験した感覚。それを自覚した瞬間ターニャは吠え、駆け出していた。
「そこの馬鹿ども、今すぐにその手を止めろ!」
「よしロック部分はこれで壊れた……、ん?」
イオリが銃を振りかぶり、まさにこじ開けようとしている刹那。そこにターニャは扉のすぐ脇、誰もいない壁へと牽制射撃をぶち込む。
そして怯んで手を離したところへ猛然と飛び込み扉が開いていないことを確認。風紀委員たちが何をするんだと警戒、困惑、怒りの視線を向ける中でひとまず安堵したターニャはため息をつくとすぐ隣にいたイオリへ声をかける。
「この隙間に入れられるような薄く固い物はあるか? 紙でも何でもいい」
唐突にそんな注文を受けた側も困惑した様子だがターニャが何をしたいか、何の可能性があったのかは察したらしい。
気まずそうな顔で差し出された手帳を開いたターニャが適当に破いた一枚をそっと差し込む様子を黙って見守り、そして鍵の部分よりかなり上の、普通は何も無い箇所で何かに引っ掛かった感触にターニャが頷いて見せるとイオリは見事に固まった。
「──危ないところでしたな。さて、私が取った行動に対する文句と貴官らの無謀な行動に関する申し開きは?」
組織間の意識改革もそうだが、戦闘に関する知識や技術も指導しなければいけないのか?
そんなことを考えながら慌てて扉全体を吹き飛ばす準備をし始める風紀委員を冷めた目で眺めるターニャだった。
◆
突然ですが軍隊にとって最も基本的なこととは何でしょうか。
勝利すること、敗北しないこと、絶望的状況であろうと命令に従うこと? 確かにどれも重要ではありますが本質はもっと身近なものです。
それは書類を提出し、処理すること。
必要な在庫があることを確認し、無い物は発注し、届けるまでが物流のワンセット。ウーガ中佐の手腕も素晴らしかったですがそれも書類という前提があってこそ。組織であれば存続、活動するのに否応無く金銭のやり取りが必要であり、特に出動して消費した分の出費と補充はもちろん廃墟となった現場の後処理なども必要なお仕事。
周囲に誰もいない廃墟街ならともかく今回の現場は郊外とはいえれっきとした商業街。必然的に流れ弾で損害を受けた人々からの苦情相談なども処理しなければなりません。いくら銃撃や爆破が日常茶飯事だとしても住む家や職場が壊されては困るのですから。
ですが前線に引っ張り出されること無く穏やかに書類と向かい合うだけの仕事の何と素晴らしいことでしょう!
実に平穏な万魔殿議事堂からご機嫌よう、ターニャ・デグレチャフです。
ただ今の私は普段通りに事務処理を遂行中。ただ普段と違うのはつい昨日の出動で生じた被害の補填やクレームも担当している点くらいでしょうか。
とはいえ書類は面倒ではあっても決まった量であることには変わり無く、きちんと取り組みさえすればいつかは終わるもの。相手次第では残業が増えに増える戦闘より遥かにマシです。
「そして素敵なことに書類には派閥も何も関係無い、と」
弾薬の発注依頼書は申請された通りに処理すればそれで良く、一方の組織だけ支給額が多いからとクレームが来るということも心配無用。もし来たとしても出費額が大きいのはそちらが景気よく撃ちすぎたからと突っぱねるだけで解決する。
まさに安全な後方にいるからこその特権、これこそ私の求めていたもの。
このために面倒な風紀委員との戦闘に二度も参加してきたのだ、これでしばらくは平穏な業務に集中できるだろう──。
しかしそんなリラックスモードで業者宛てに弾薬の発注依頼メールを打っている時だった。
「すみません、今いいですか? マコト先輩が呼んでいるんですが」
「はっ!」
唐突に訪れたのは万魔殿の上司、イロハ先輩。
そして彼女が口にした要件は万魔殿のトップが直々に呼んでいるというもの。
考えてみてほしい、事務部長などを通さずに組織のトップから呼び出される同僚を見てしまった職場の雰囲気がどうなるか。向けられるのは不祥事を犯して懲戒処分でも受けるのだろうかと予想している好奇心に満ちた眼差し。
──冗談ではない!
責められるようなことをした覚えは断じて無い。まさか風紀委員を手伝ったのがいけなかったのか、いや協力するのは正しい選択だったはず。何だ、何がまずかった?
くそっ、トップに呼び出されるなどゼートゥーア閣下に二〇三大隊や戦闘団の編成を命じられた時のような嫌な予感しかしない。
とはいえ何も聞いていないのにこちらが勝手に判断できるはずも無い。まずは上官命令を聞いてみなくては何も分からないとおとなしく席を立つ。
そして転入初日以来久しぶりとなる議長室の扉をノックすれば。
「ターニャ・デグレチャフ、入室します!」
「キキキッ、よく来たな! そこに掛けるといい」
そこには泰然とデスクからこちらを睥睨する姿があった。
こちらを見つめるその視線は鋭く、奥底を見透かそうとするかのよう。
その油断ならない気配に警戒しつつソファへと腰掛ければ、マコト議長はニヤリと獰猛な笑みを浮かべて口を開く。
「この万魔殿を舐めていた不届きな業者の始末、ご苦労だった。ついでに風紀委員会からの報告書も読んだが……。なかなか目覚ましい活躍をしたようだな? ブービートラップに気付かなかった連中の鼻っ面をへし折ったのは胸がすいたぞ」
「はっ、ありがとうございます!」
最初の感触は悪くない。むしろどこか上機嫌そうな様子だ。これが何の変哲も無い雑談の中なら良いことでもあったのですかと声をかけるところだろう。
しかし今までの経験則からしてこれはまずい。確実に面倒な仕事を押し付けられる流れだ。
嫌だがもう逃げられない、どうせなら少しでも楽な案件であることを祈ろう……。そんな虚しく儚い期待をしながらマコト議長の次の言葉を待つ。
そして。
「──ターニャ・デグレチャフ。貴様をトリニティとの条約担当調整官に任命する。トリニティに明後日から出向だ」
それは確かに聞こえていた、はず。しかし私の脳はそれを正しく処理するのに珍しく手間取ってしまったらしい。正しく予想していた通りの展開ではあるものの予想外なその内容に驚きと困惑を隠せない。
いや、また前線に放り込まれるよりは余程マシなのだが……。
「……失礼ですが交渉は万魔殿の他の先輩方が担当されていたのでは?」
「貴様のブービートラップの存在を見抜く観察力、爆発直前に飛び込める判断力と行動力、いずれも一向に進まないエデン条約を進める一助になるとこのマコト様が判断した。光栄に思え!」
──どうしてこうなった!
万魔殿で事務を引き受けていたのは面倒な条約絡みの業務が進まない先輩たちの苦労を見ていたからだ。それが嫌で明確な手順や結果が分かり切っているものを選んだというのに!
またしても自身の行動によって望まない方向へ追いやられるとは何という皮肉、しかも今回は何らプレゼンも上層部の意図を見抜くこともしていない。真面目に職務に励んでいただけなのにこれはあんまりではないだろうか。
……社会人としてサボタージュは趣味ではないのだが今後は要検討かもしれない。
「確かに拝命いたしました。ですが具体的に何を達成すればよろしいでしょうか? 最優先のものを教えていただければ幸いですが」
しかし命じられてしまった以上は従うのが組織人の定め。不満は内心に押し込んで粛々と業務を遂行していかなければ。
そしてその質問に対するマコト議長の返答は簡潔だった。
「条約の調印場所をトリニティ自治区内、通功の古聖堂にすること。これは至上命令であり達成のためにはこちらも相応の譲歩をする。具体的には再建や警備の費用をゲヘナが負う。これで向こうが折れなければ貴様の判断で対応しろ。これに関しては全権を与える」
……さすがに少し待ってほしい、いきなり話が飛躍しすぎではないだろうか。
その古聖堂とやらどのような場所か、どのような状態か知らないがそのためにゲヘナが飲む条件が不利なものであることは分かる。そして展開が異常であることも。
敵対するトリニティの自治区内? 私に全権? 何だ、何が一体どうなっている?
落ち着いて考えろ、そこまでこだわるというなら相応の理由があるはずだ。ゲヘナとトリニティの間には長い確執があると聞く、その歴史の中で何らかのシンボルと化したのか?
条約の調印というのは非常に重要なイベントだ。それを如何に重要視し後世まで引きずるのかはナチスドイツを見れば良く分かる。
第一次世界大戦で休戦条約を結ばされた舞台の食堂車を博物館から持ち出して当時置かれていたコンピエーニュの森までわざわざ運びフランスに休戦条約を結ばせる陰湿さ。
マコト議長の狙いが同じようなものだとしたら? トリニティ側がそう易々と飲むとは思えないからして相当苦労することがほぼ確実。
どうにか理由を誤魔化して押し込む必要がある。
「了解いたしました。ですがトリニティ側にその理由はどのように説明をすれば?」
肝心なのはマコト議長本人に理由を訊かないこと。もしこれがマコト議長や全ゲヘナ生にとって掘り下げられたくないことであり、藪蛇にでもなれば目も当てられない。
だからこそ慎重にトリニティへの説明をどうするかだけ尋ねてみれば。
「そうだな……。この条約は様々な困難を乗り越えて締結される大規模で記念すべきもの、それを成すならば同じく大きく権威のある歴史的な建物でこそ。そう言っておけ」
返ってきたのは明らかに嘘だろうと分かるような説明。確実にマコト議長は何か隠している。
それを察しつつも訊き出せないまま、私は話が終わったと言外に主張するマコト議長の前を辞し重い足取りで明後日からの準備に向かうことになるのだった。
「どうして、どうしてこうなる……」
◆
万魔殿議長、羽沼マコトは一人ほくそ笑んでいた。
昨日風紀委員会から回ってきた戦闘詳報は目を通した。その中で目を引いたのは風紀委員に協力し活躍したというターニャ・デグレチャフについての記載。
勇猛果敢ではあるが同時に間抜けでもある銀鏡イオリ、それが気付かなかったブービートラップに気付き、被害の生じる前に対応する判断力と行動力。そして狭い廊下で待ち構えている敵を迅速に処理できる戦闘力。
トリニティのスパイではないかという疑いはあったが、同時にそれと関連する別の学園の関係者ではないかとの予想もしていた。そしてもたらされた報告書を見ればその予想はマコトの中でほぼ確信へと変わる。
そしてその考えを後押ししたのは条約の調印場所を通功の古聖堂にすることを命じた際、マコトにはそうする理由を訊かずトリニティにどう説明するかを尋ねてきたこと。
普通の人間ならば何故これだけゲヘナが不利な条件を出してまでそこを選ぶのか、この場で口に出しはせずとも気にする素振りをするのが自然。しかし彼女は一切気にする様子も無く、明らかにどうやって調整するかだけを考えていた。
それはマコトが、いや取引相手の学園がそこで何をするかを的確に把握していなければできない判断と思考に他ならない。
トリニティの流れを汲み、戦闘に特化し、この時期に転入生を送り込み、本当の出身を隠す理由のある学園。
それら全てに該当するのは一校のみ。そしてターニャがそこの出身であると考えればこれまでのピースが全て綺麗に嵌まる。
「キキキッ、いよいよ計画を本格的に進めろというわけだな? 望むところだとも!」
ならばターニャに、ゲヘナと相手の双方が共有する目的のため工作させるのは当然の流れ。故に彼女には全権を与え、条約担当調整官としてトリニティに送り込んで計画を確実に成功させられるよう取り計らった。
久しく帰っていないはずの本校やトリニティ校内での情勢、トリニティ自治区にいるはずの部隊との連携など確認させるべき事項は山のようにある。トリニティに送り込んでやる優しさに今頃はきっと感謝していることだろう。
そして正直マコト一人だけで隠れて行動するのも次第に難しくなってきたタイミングでの応援は非常にありがたい。せいぜいこき使ってやろうとマコトは内心で笑い──。
「ねえねえ、イブキとプリン食べよ~?」
「おお、今行くぞ! 一緒に食べような~!」
勢い良く部屋に入ってくる人影に気付いた瞬間の行動は素早かった。
デスクに広げていたターニャ・デグレチャフの履歴書を見えないようそっとコート内のポケットへ滑り込ませ、他に見られてまずい物が無いことを一瞬で確認。
そのうえで訪問者を迎え入れたマコトは相好を崩して冷蔵庫へと向かいながら、計画についてはひとまず胸の内に仕舞い込むのだった。
望んでいた安全な後方勤務、なお万魔殿のタヌキが確認の一つもしていないせいで結局は面倒事に巻き込まれる模様。