中佐殿には是非キヴォトスヘ来ていただきたいのですが。
トリニティ自治区の片隅にある古びた遺跡、通功の古聖堂。
先日までは朽ち果てた廃墟でしかなかったその建物は来たるエデン条約の調印式が行われる会場に決定して以降修復工事が行われ、順調に往時の姿を取り戻しつつあった。
とはいえその工事も二十四時間不眠不休で行われているわけではなく休工日が設けられているのは当然のこと。普段なら多くの作業員が動き回り工事の喧騒が響き渡っている古聖堂周辺も今日は人影は無く静寂に包まれている。
しかし誰もいないように見えたとしてもそれは誤り。実際には古聖堂近くにある工事事務所の中でティーパーティーのホスト、桐藤ナギサが訪問客の到着を静かに待ち続けていた。
その姿は一見すると普段通り優雅なもの。しかしその内では不安と恐怖、焦りといった負の感情が激しく渦巻いていた。
──本当にこのまま進めてしまっていいのでしょうか、これ以上踏み込んでしまえばもう二度と取り返しがつかなくなるのに。
この期に及んでなおそう迷いが湧き上がってくるのは甘えだろうか。
とはいえ自分がこれからしようとしていることがどれほど周囲を裏切ることになるか、どれほど巨大なリスクが生じるかを考えれば躊躇うのは当然のこと。
この選択が間違いだったら、より状況が悪化したら、さらに友人を失ったら。
そんな不安は常に頭から離れず計画を実行すると決めてなお、いや、むしろ決断して以降さらにナギサの精神を乱し続けていた。
しかしその逡巡していられる猶予は時間と共に減っていくのは自明であり。
「ナギサ様、ターニャさんをお連れしたっす」
「……どうぞ、入ってください」
扉の外から聞こえてきた声が無情にもタイムリミットの到達を告げ、それを聞いたナギサは諦観と共に訪問客を迎え入れる。
「お久しぶりです、ターニャさん。今日はご足労いただきありがとうございます」
「ご無沙汰しております。ナギサ会長もお変わりなく過ごされているようで何よりです」
ターニャ・デグレチャフ。それは今回の密約の共犯者にして最大の不安要素。
この密約を結んだ時にはゲへナに弱みを作れるちょうど良い駒としか思わなかった。
しかし今となっては何と恐ろしい相手に手を出してしまったのかと思わずにはいられない。
トリニティ生たちの信用を集め、ツルギやハスミを指揮し、このティーパーティーすら思惑通りに動かしてみせる。そんな真似ができる化物ヘ下手に政治的爆弾の火種を与えてしまったのは失敗だったのではないか。
ハスミから報告を聞いた時にはそう思ったが今さら後悔してももはや手遅れ。こうなったら密約自体を無かったことにしてとぼけるか、どうにかしてターニャの動きを封じるしかない。
そしてナギサが選択したのは後者だった。
エデン条約を成功させることは悲願、それを妨害しようとする裏切り者の放置などできるはずが無い。さらに調印式直前にトリニティ生を攻撃したという弱みを作らせて優位に立つのは当初からの計画でもあった。それを思えば底の知れない化物に手綱を付けられる機会というのはむしろ好機だと前向きに捉えるベき。
斯くしてナギサは悪魔と手を結ぶ覚悟を決め、今に至る。
「ハスミさんからアビドスでは大変活躍されていたと伺っています。おかげでトリニティの生徒も一人の欠員も無く帰ってくることができました、ありがとうございます」
「はっ、ですがそれはトリニティの皆様の奮戦があったからこそ得られた結果かと。むしろ皆様が敵部隊を引き付けてくださったおかげで基地ヘの侵入と対象生徒の救出が成功したことを思えば礼を言うのはこちらの方です」
しかしそんな内心を知られるわけにはいかない。
表面上は優雅にターニャを迎え入れればターニャもまた礼儀正しく頭を下げ、二人の間に流れるのは一見友好的な雰囲気。
しかし二人とも内心では理解していた。
──これから行われる会談は穏やかなものにはならないと。
「さて、挨拶はここまでにしてそろそろ古聖堂の内装を確認しましょうか。気になる箇所があれば遠慮なく仰ってください。……それほど時間はかからないと思いますのでイチカさんはここで待機をお願いします」
「了解っす」
そしてイチカに今日ターニャを呼んだ名目である古聖堂内の確認を行うと言い残し、ターニャと二人きりになった瞬間から雰囲気は一気に切り替わる。
近い未来に平和条約の調印という輝かしいイべントで使われる予定の長テーブル。しかしそこに並んで腰掛けた二人の表情からは笑みが消え去り、場に満ちるのは重苦しい沈黙と緊張感。
そんな空気の中、ナギサはスカートのポケットから取り出した一枚の紙片をそっとターニャの前ヘ滑らせる。
「そちらが掃除していただきたい対象になります」
「拝見いたします。……こちらの四名で間違いないでしょうか」
──ついにやってしまった。
トリニティの生徒を害してほしいという最低の依頼はこの瞬間成立してしまった。今さら依頼を取り下げたとしても、対象を知られてしまった以上もう後戻りはできない。
故にナギサは認めたくないという本音を飲み込みつつ、それを肯定するベく口を開く。
「はい、間違いありません」
「かしこまりました。ところで掃除の方法についてご希望はありますか?」
しかしそれに対しターニャが返したのはひどくあっさりとした問いかけだった。
特に表情も変えず、それがまるでごく一般的な業務連絡かのように淡々と。その予想外の反応にナギサも思わず言葉に詰まる。
「……方法、ですか?」
「はい。例えば裏切り者との情報、もしくは適当な罪状を被せ停学ないし退学にする、調印式までの間拘束しておく、重傷を負わせて動けなくさせる──」
右手の指を立てながら選択肢を提示していくターニャ。
それを見つめるナギサは目の前の光景が本当に現実なのかを疑わざるを得なかった。
──この人は自分たちが調印式の直前にゲへナ生がトリニティ生を攻撃するという政治的爆弾を作ろうとしていることを理解しているのでしょうか?
確かにターニャの示した選択肢はどれもナギサの要望に叶うもの。だがそれをこうして何の臆面も無くこれを言ってのける様は理解に苦しむ。
まさか本当に事の重大さを理解していないのか、しかしエデン条約を取りまとめた実績や停電下のトリニティでの功績、伝え聞いたアビドスでの指揮ぶりを考えればそれはありえない。
何だ、この人は一体何を考えている。
想定と異なる状況を必死に理解しようとするナギサ。しかしストレスと疲労の蓄積した体で思考に集中しすぎていたナギサはターニャが続けて発した一言ヘ咄嗟には反応できなかった。
「──いっそ亡き者にする」
亡き者にする? それはつまり、殺すということ?
そうターニャの言葉の意味を理解した瞬間、ナギサの脳裏に浮かんだのはサンクトゥス分派代表にして親友
表向きこそ体調を崩し入院中となっているがそれは混乱を起こさないための嘘。
実際に起きたのは彼女が何者かに襲われ、負傷するどころか命を落とすという最悪の事態。あの報告を聞いた瞬間の喪失感と悲しみはこの先も決して忘れることは無いだろう。
そしてその衝撃と影響の大きさを知っているからこそ殺すという選択肢は無意識のうちにナギサの中から消え去っており、ターニャもまたそれをするはずが無いと勝手に信じ切っていた。
だというのに。
「……それは本気で言っているのですか? 私が殺せと言えば、本当に殺すと?」
「はい。ナギサ会長がそれを望まれ、そうせよと命じられるのであれば。もっとも手間や後処理を考えれば推奨はいたしかねますが」
その返答を聞いて動揺が声や態度に出なかったのは奇跡に近かった。
冗談の類だと思いたかった、しかし目の前の少女の口から飛び出したのは不可能だからではなく面倒だから推奨しないというどこまでも事務的な言葉。
恐れることも躊躇することもなく、それどころか実際にやったことがあるとしか思えない感想を真顔で言ってのけるその姿をナギサは本物の怪物として認識し始める。
「……で、ですがいきなりそのようなことを言われてもすぐに信じることはできません。できるという根拠があるのですか?」
「はい、いいえ。お言葉ですが小官は口舌の徒ではなく、今この場でナギサ会長に納得いただける証明はいたしかねます。故にその問いには答えようが無いことをご理解ください。ですが万魔殿の人間として、契約の履行には全力で取り組むことはお約束いたします」
そしてナギサはターニャの発した一言に自身の血の気が引くのをはっきりと自覚した。
言葉では根拠を示せないので答えられない、それは一見するとただの無責任な言葉に聞こえるが逆に捉えれば言葉以外でなら示せるということでもある。
加えて万魔殿の人間としてという言葉をこの場で言うことが何を意味するか。
個人としての発言ならまだ冗談や大言壮語と受け止めることもできる。しかし立場を代表しての発言ともなれば互いの信用に直結するもの。後で撤回するのも容易ではない。
つまりこれは間違いなく本気で言っている──。
そう確信した瞬間、胸中に湧き上がるのは圧倒的な恐怖と後悔。
これは本当に同じ人間なのか? 自分は一体何と手を結んでしまったのか?
「……いえ、それには及びません。今回は信用できる第三者としてシャーレの先生を招きあくまで合法的な手段で退学させることを計画しています。ターニャさんはその対象者の動きを妨害するに留めていただければそれで十分です」
「かしこまりました。ご期待に沿えるよう努力いたします」
確かにトリニティのためなら友人も切り捨てると決めた、無実のはずの正義実現委員会の生徒も犠牲にすると決めた。
だとしてもここまで極端な選択をするつもりも覚悟も持っていなかった。
しかしターニャは違う。禁忌もただ手段の一つとしか思っておらず、それがもたらす結果を理解していながら実行することに一切躊躇せず、それを何とも思っていない。その価値観は決定的に、致命的に歪み切っている。
故に乾き切った口を必死に動かし、ターニャの提示した最悪の一手は決して採らないことを決断しながらナギサは思うのだ。
──これは幼い少女の皮を被った、本物の化物なのだと。
◆
社会人にとって信用とは重要なものです。
勤務態度や成績はもちろんコミュニケーション能力や身だしなみ、誰しもが日常生活のあらゆる面から他人を見定めそれに見合った対応を取るというのは当たり前のもの。そして信用に価すると判断するからこそ交友関係を築き、仕事を割り振り、秘密を打ち明けるというのもまた当然のことと言えます。
もし信用が無ければ周囲から煙たがられ仕事も与えられず、それこそ安定や平穏とは程遠い生活を送る羽目になりかねません。それを思えば極秘任務を任せられるというのは光栄に思うベきことなのでしょう。
ですがそれも託された任務の内容次第。場合によっては光栄に思うどころかどうしてこうなったと恨み言を言いながら泣く泣く苦労する羽目になるというのもまた事実。
例えば敵の司令部に突っ込め、帰還早々暴発寸前の国境に潜入しろ、そして今回私の請け負っている任務──不穏分子の排除に協力しろというもののように。
青く晴れ渡った空の下、平和の象徴になるはずの聖堂の前からこんにちは。心から平和を愛してやまないターニャ・デグレチャフです。
現在私は契約を履行するためトリニティにお邪魔している真っ最中。
本音としては甚だ不本意ではありますがこれも信用の維持と生活の安定のための必要経費。涙を飲みつつ全力で取り組むしかありません。
「まったく、内紛など自分たちだけで勝手にやっていれば良いものを……」
とはいえ思わずそう愚痴が零れてしまうのは無理もない。
何しろこれからしなければならないのはトリニティの生徒同士による内紛ヘの介入。クーデターによる失脚を防ぎたいという内情そのものは納得できるが本来なら関係無い他校の政治闘争に巻き込まれるうえ平和条約を控えた相手校の生徒を害するなど厄介事の塊でしかない。
かといってマコト議長も承認した正式な契約を破談させたとなれば学校としての信用にも係わるのは確実。私個人がどう思おうと拒否などできるわけが無く。
故に私はため息を飲み込みつつ渋々プレハブの現場事務所の扉をくぐる。
「お久しぶりです、ターニャさん。今日はご足労いただきありがとうございます」
「ご無沙汰しております。ナギサ会長もお変わりなく過ごされているようで何よりです」
そして足を踏み入れたそこでは今回の依頼主──ティーパーティーホスト、桐藤ナギサが穏やかな微笑みを浮かべながら私のことを待ち構えていた。
椅子から立ち上がり一礼する所作は実に優雅。これがもし聖堂のステンドグラスの下や花畑での光景であればそれこそ天使のようと称されたかもしれない。
もっとも実際には現実感溢れる仮設の事務所で事務机と工具、安全標語に囲まれてという何とも反応に困る光景が実情なのだが……。
どうせなら綺麗に片付けるか最初から古聖堂で会えば良いものをと呆れてしまうのは致し方無いだろう。
「ハスミさんからアビドスでは大変活躍されていたと伺っています。おかげでトリニティの生徒も一人の欠員も無く帰ってくることができました、ありがとうございます」
「はっ、ですがそれはトリニティの皆様の奮戦があったからこそ得られた結果かと。むしろ皆様が敵部隊を引き付けてくださったおかげで基地ヘの侵入と対象生徒の救出が成功したことを思えば礼を言うのはこちらの方です」
しかしこれが正式な外交である以上儀礼というものは必要不可欠。加えてイチカという他人の目があるなら友好を演じるのはなおさら重要。
結果としてそのまま雑多な空間でアビドスでの活躍を称え謝礼を言い合うというどこかチグハグな光景が繰り広げられる。
とはいえこの会話に大した意味が無いのは互いに理解していること。
──何しろこの後話し合われるのはその相手校の生徒を害するための相談なのだから。
「さて、挨拶はここまでにしてそろそろ古聖堂の内装を確認しましょうか。気になる箇所があれば遠慮なく仰ってください。……それほど時間はかからないと思いますのでイチカさんはここで待機をお願いします」
そして最低限の演技は十分と判断したのかここでナギサ会長は今回私を呼んだ名目である古聖堂内の内装確認ヘと話題を変えた。
調印式という重大イベント、しかもキヴォトス中に生中継される舞台。その工事が終わったともなれば相手側の担当者も招いて入念に確認するのは当然のこと。第三者から見れば二人きりで密談するためのカバーストーリーもさぞ本物らしく、融和の象徴に見えているに違いない。
事実それを証明するかのようにイチカはナギサ会長の命令をあっさりと受諾、私とナギサ会長は何の障害も無く古聖堂で二人きりになることに成功し。
そして扉が閉まった瞬間、私たちはこれまで互いに被っていた体裁を投げ捨てる。
「そちらが掃除していただきたい対象になります」
「拝見いたします。……こちらの四名で間違いないでしょうか」
「はい、間違いありません」
トリニティとゲへナの校章が金糸と銀糸で立体的に刺繡された気品ある純白のクロスに覆われた長テーブル、その初仕事が調印ではなくこんな相談とは皮肉なものだ。
そんなことを考えつつ私はナギサ会長から渡された紙片を開いて目を通す。
──阿慈谷ヒフミ、白洲アズサ、浦和ハナコ、下江コハル。
彼女たちが本当にクーデターを計画しているかは私の知ったことではないが具体的な目標を指示された以上はもはや行動する以外に選択肢など存在しない。
そしてそれを確実に遂行するために、私はナギサ会長ヘ一つの質問を投げかけた。
「かしこまりました。ところで掃除の方法についてご希望はありますか?」
目標は理解した。ならば次に確認するベきはどのように。
クーデターともなれば首謀者だけでなく派閥そのものが関与しているだろう。実際アリウスヘの物資の手配やゲへナとの連携などは相当の権力や伝手が無ければ難しいものだった。
となれば標的のみを秘密裏に片付けるのではなく派閥全体に圧力を与えるためのパフォーマンスをする必要が生じる可能性は否定できない。そしてそのパフォーマンスもどのような演出をするかは重要であり。
「……方法、ですか?」
「はい。例えば裏切り者との情報、もしくは適当な罪状を被せ停学ないし退学にする、調印式までの間拘束しておく、重傷を負わせて動けなくさせる──」
故に私は考えられる選択肢を提示する。
最も大きな効果を得られるであろう最悪を極める禁断の一手も含めて。
「──いっそ亡き者にする」
その瞬間のナギサ会長の反応は激烈だった。
表情は一気に険しさを増し、膝の上に置かれた両手が固く握られる。加えてこちらに向けられる視線から読み取れるのは緊張と不安。
察するに今提示した一手はナギサ会長にとってただ挙げられた選択肢の一つではなく特別な意味を持つものであることは間違いない。
そしてこの場合その意味は何かなど分かり切っている。
「……それは本気で言っているのですか? 私が殺せと言えば、本当に殺すと?」
「はい。ナギサ会長がそれを望まれ、そうせよと命じられるのであれば。もっとも手間や後処理を考えれば推奨はいたしかねますが」
命じたことを忠実に実行できるか、そんなことを訊くのは実際にやる気だから。
その事実に私は内心で盛大にため息をつく。
戦時中であれば些事で済むことも平時では決定的に扱いが異なる。命令だからといって無条件に従いなどすればそれこそ犯罪者としてキャリアが終わりかねない。
かといって先方がこの手段を希望しているとなれば尊重せざるを得ないというのも事実。ここは方針を許容しつつどうにか合法的な方向に誘導しなければ。
故にせめて他の手段を選んでほしいとやんわり方針転換を促してみるものの。
「……で、ですがいきなりそのようなことを言われてもすぐに信じることはできません。できるという根拠があるのですか?」
「はい、いいえ。お言葉ですが小官は口舌の徒ではなく、今この場でナギサ会長に納得いただける証明はいたしかねます。故にその問いには答えようが無いことをご理解ください。ですが万魔殿の人間として、契約の履行には全力で取り組むことはお約束いたします」
返ってきたのは考え直すどころかそれをできる実力があるのかという確認。どうやらナギサ会長の意思は相当に固いらしい。
実行が可能かどうかを疑う気持ちは私自身もよく理解できる。何しろキヴォトスの人間は極めて頑丈、銃弾どころか戦車砲の直撃すら打撲や骨折程度で済むのだからその
しかしその判断が正しいからこそ、この手の質問は非常に困る。
できると言うのは根拠に欠け軽薄に聞こえるうえキャリアを失うリスクを負う。
かといってできませんと言うのは公にできない非合法な手段を採ると最初から分かっていたのに急に怖気づいた薄情者という烙印を押され信用を失う。
どちらにせよろくなものではない。
故に返答は曖昧に、肯定も否定もせずとりあえず全力で努力しますと言うに止めておく。無責任に思われるかもしれない問題については万魔殿の名前を出して学校同士の正式な契約であることを認めておけば大丈夫だろう。
これで本当に任せても大丈夫かと躊躇してくれればそれで良し、任されたならその時は残念だが命じられた通りに動くまで。いざとなれば光学術式と飛行術式を使って監視カメラに映らないよう行動すれば多少は誤魔化せるはず。
そして数瞬の沈黙の後。
「……いえ、それには及びません。今回は信用できる第三者としてシャーレの先生を招きあくまで合法的な手段で退学させることを計画しています。ターニャさんはその対象者の動きを妨害するに留めていただければそれで十分です」
「かしこまりました。ご期待に沿えるよう努力いたします」
ナギサ会長が選択したのは穏便に済ませるという方針だった。
それを聞いて私の肩からもほっと力が抜ける。
最悪のリスクは抱えずに済んだ。することも妨害程度で良いなら多少の面倒こそあれ何も恐れる必要は無い。ならば気兼ねなく全力で契約を果たしてみせよう。
──私の出世と平穏な生活のために。
◆
「まったく、話し合いだけだというのにとんだ重労働をした気分だ。休日手当でも貰わないと割に合わんぞ……」
時刻は夜の七時過ぎ。すでに日も暮れ夕闇に包まれたゲへナ自治区の道を歩きながらターニャは疲れ切った表情で小さく愚痴を零していた。
ナギサとの会談は無事に満足できる内容で終わった、しかしそれはそれとしてあの対話が精神的に疲労するものであったことは紛れもない事実。休日であったとしても、いや、むしろ休日だからこそその疲労感はより一層強く覚えてしまう。
とはいえ寮に帰れば食事を摂ることもゆっくり休むことも可能。解放されることが分かっているならこの程度の苦労は十分に許容範囲。
故にターニャは黙々と寮を目指して足を進めていたのだが。
「──こんばんは、失礼ですがターニャ・デグレチャフさんで間違いないでしょうか」
「はい、そうですが……どちら様でしょうか」
その途中で不意に誰かから声をかけられる。
明確に自身の顔と名前を認識したうえで接触してくるとなれば万魔殿の同僚だろうか。
ごく自然にそう考え何の気なしに声のした方ヘ振り返ったターニャだったが、直後に驚愕と困惑によってその目を大きく見開いて硬直することとなった。
ターニャにとってキヴォトスの住民は実にSFチック。二足歩行し言葉を話す犬や猫、個別の人格を持つオートマタはありふれているし人間に近い生徒も角や翼、獣の耳といった器官を備えている者は珍しくない。
だからこそ多少見慣れないモノに遭遇しても動じないつもりだったが、それでも目の前の存在の異質さには思わず目を見張る。
首から下だけを見ればごく普通の人間。高級感のある漆黒のスーツに身を包んだ細めのフォルムは東京の雑踏の中であればすぐに溶け込むことだろう。
しかし決定的に異なるのは首から上の部分。
スーツと同様漆黒のそれには白く輝く亀裂が幾筋も走り、右眼にあたる部分は炎のように白い光が揺らめいている。あれは明らかに仮面や全頭マスクといった類のものではない。
「お初にお目にかかります。私はゲマトリアという組織でこのキヴォトスの真理と秘儀を探求している者でして。黒服とでもお呼びいただければ」
そう言いながら黒地に白文字という夜には読みにくい名刺を差し出してくる自称黒服。
それを若干困惑した表情で受け取りつつターニャは目の前の存在に対する警戒の度合いを大きく引き上げる。
真理と秘儀の探求という言葉が具体的に何を指しているのかは分からないが字面だけを見れば実に胡散臭い。まさか存在Xを信仰する宗教家の類なのか。
しかしそうだとしてもシスターフッドと関係があるならゲへナではなくトリニティで声をかけてくるだろうし、夜に一人でいるところに接触してくるなど不審者そのもの。加えて黒服という自称も明らかに本名ではない。
「……それでそのゲマトリアとやらが何のご用でしょうか?」
「単刀直入に申し上げればターニャさんには我々の研究ヘの協力をお願いしに参りました」
故にいつでもツァラトゥストラを使えるよう身構えつつ直接何の用なのかと問い質したターニャだったが、返ってきた予想外の答えを聞いて思わず困惑してしまう。
そしてそんなターニャに気付いていないのか黒服は感情のこもった説明は続き。
「私はカイザーPMCと業務提携をしておりまして、勝手ながらターニャさんが基地に来られた際の様子を拝見させていただきました。そして言葉を選ばずに言えばターニャさんの持つその圧倒的な神秘に一目惚れしたのです」
「いえ、大変失礼ですが遠慮させていただきます」
しかしその熱意もターニャにとっては逆効果。
自身に宿る神秘と聞けば嫌でも存在Xの呪いを連想せざるを得ない。ただでさえオカルトチックなことは嫌いだというのにそれを研究したい科学者でもあるとくれば次に連想されるのはあの天
故に返答は拒否一択。
「クックックッ、予想はしていましたがまさか即答とは。ちなみに理由をお伺いしても?」
「シンプルに初対面の方は信用しかねます。次に神秘の研究というのはいかにも胡散臭い。いくら何でもモルモットとして扱われるつもりはありません」
「なるほど、でしたらご安心を。同意も無しに危害を加えることは決してありません。そのようなことを先生が嫌われるのは承知していますし先生と対立する気もありませんので」
その返答に気分を害した様子も無く、むしろどこか楽しそうな笑い声を零す黒服。
断られた理由を確認すると即座にそれを否定し、先生の名前を出したうえで危険はないと流れるようにアピールする様はまるで交渉に慣れた営業マン。
とはいえターニャにしてみればいくらアピールが上手くとも初対面の宗教家を信用できるわけがなく内心では早く終わってくれないかなぁなどと半分それを聞き流しており。
しかしその意識は黒服が口にした言葉によって不意に現実ヘと引き戻される。
「先ほども申し上げましたが私は神秘を探求しておりある程度であればその性質を見極めることができます。そしてターニャさん、あなたには生徒としてではない何か他のテクスチャがあり、身体以外にもそれと同等の膨大な量を宿した外付けの何か、二つの神秘を持ち併せている。このような方は見たことがありません。私としては是非ともターニャさんについて知りたい」
──彼は今何と言った? 身体以外に、身体と同等の膨大な神秘を宿した外付けの何か? そう言われて思い当たるものは多くないどころかたった一つ。
そしてそれに気付いたということは間違いなく黒服は魔力を知覚できている。妄言ではなく事実として神秘を研究しているのだとすれば一定の信用はできるのではないか。
そう判断したターニャはここで黒服に会えて良かったと認識を改めた。
考えてみれば帝国のあった世界において魔導は確固たる一つの兵科、技術として様々な国で研究されていたのだ。それがキヴォトスでも同様だとどうして考えなかったのか。
神秘が魔力と同義でありその研究が未発達であるならば、研究に協力した功績によって安定した平穏な生活を得られる可能性も十分にあるはず。
「……一つお訊きしたいのですが、神秘の探求とは具体的にはどのような内容の研究をされていたのでしょうか」
「おや、興味がお有りですか?」
「協力するにしても実験が失敗した結果負傷するような事態には遭いたくありませんので」
だからこそターニャは協力を前向きに検討する。
テクスチャなど理解できない単語もあるがそれはおいおい把握していけば問題無い。それよりも今は具体的にどのような協力をするかという点の方が重要だ。
教導隊ヘの出向で安全な後方勤務ができると思いきやイタリアの赤い悪魔並みに爆発する代物のテストをさせられた記憶は今なお強く脳裏に刻まれている。存在Xの介入が無いとしても危険そうな内容はできるだけ遠慮したいと思うもの。
「先日までは神秘を反転させたものを生徒の方に生きたまま付与できるかということを試すつもりでした。もっとも実験を開始する前に被験体がターニャさんたちによって回収されてしまいましたし、そういった行為が先生の逆鱗に触れることも分かりましたのでその研究は無期限凍結することとなりましたが」
そして説明を聞いたターニャは営業スマイルを浮かべたまま瞬時に方針を切り替える。
生きたまま、その言葉が意味するのは最悪死ぬ可能性があると言うこと。その研究が凍結され、危害は加えないと明言されたとしても実験を行う者の倫理観が変わっていないなら安心などできるわけがない。
加えてターニャに回収された被験体とは明らかに小鳥遊ホシノのこと。彼女をまるで物のように捉えているという事実もまた不快感を覚えさせる。
しかし黒服の言葉すべてに失望したわけではなく何やら重要そうな言葉があったのも事実。
故にターニャは気になった箇所について説明を求め。
「神秘の反転、ですか?」
「ええ。神秘にはコインのように切り離せない裏の面、恐怖が存在します。普段はどちらか一方の面しか見ることはできませんし完全に恐怖ヘと至った場合は神秘に戻すことは不可能。ですがもしその両方を持つことができればどうなるか、それが研究のテーマでした」
抽象的なその言葉の意味を理解した瞬間、一気に気分が高揚するのを自覚した。
「神秘に干渉し別のものに変化させる……。神秘というのが魔力ではなく存在Xの呪いを意味するのであれば私の意思を無視してあの悪魔を讃える欠陥を排除できる……?」
相反する不可逆の性質があるという点から推察するに神秘とは魔力のことではない。しかし黒服は九五式に神秘が宿っていると確かに言った。
だとすればそれは存在Xの施した呪い以外に何がある。
エレニウム九五式演算宝珠。四機の核を同調させることで飛躍的な能力の向上を実現したマッドサイエンティスト謹製の傑作であり、本来なら机上の空論だったものを存在Xの介入によって実現した奇跡の産物。性能は折り紙付きでターニャも何度これに助けられたか分からない。
しかし使用する度に存在Xを讃える言葉を勝手に唱えさせられる呪いが付与されたいわく付きの代物だというのも事実。性能が性能だけに捨てることもできず渋々使い続けてきたが……。
存在Xの行ったお節介とは四機の核を同調させその状態を固着させること。固着が済み安定して動く今となっては力が消えたところで問題は無いはず。
存在Xから解放されるヒントが得られるならこの誘いはむしろ受けるベきではないのか。
そう思った瞬間ターニャは決意した。
危害を加えない、いつでも自分の意志で辞められると明言されたのだ。何か問題があれば即座に逃げて構わないとなれば協力しない理由がどこにある。
「失礼ですが契約の内容について確認させていただきたい。小官の体や宝珠……小官の持つ機械の機能を損なうような危害は加えない、何かあれば小官の判断で協力を中止することができる。これで間違いないでしょうか。また中止した場合に違約金は発生するのでしょうか?」
「契約の話をされるということはご協力いただけるという認識でよろしいですか?」
「はい。どうやらこの話は小官にとってもメリットがあるようですので」
「クックックッ、やはり声をかけて正解でした。では後ほど正式な契約を交わしましょう」
斯くしてターニャは黒服と手を結ぶ。
この決断が自身に明るい未来をもたらすと信じて。
契約を前提とした大人の付き合いができる点で黒服との相性は抜群。
下手するとシャーレより入り浸ってそう。
ところで髪を下ろしたヒフミが可愛い枠から美人枠になってて困る。
今までお笑いペロキチ枠だと思っていたのにこれでは推しになってしまう……。
アズサの投げキッスといいなんでそんな魅力的になってるんだ。