清潔で温かい布団。空調の効いた快適な室温。時間を気にせずたっぷりと浴びられるシャワー。栄養バランスの取れた食事。
どれも人間的で文明的。前線では決して味わえない実に素晴らしいものばかり。
公園で野宿だった昨日までと比べて何と快適なことでしょう!
どうも皆様
私が今いるのはゲヘナ学園の学生寮の一室。しかも普通の学生が相部屋のところ、何と万魔殿の議員になったということで個室を与えられる名誉付き。マコト議長からの期待がいかに重いか実感すると共に今後に向けてのやる気も出るというもの。
今日から始まる学生生活もしっかり励んで行かなければなりません。
「──学生生活、か」
クローゼットから昨日あつらえたばかりの制服を取り出しながら、同じくハンガーにかけられたままの帝国軍の軍服をちらりと見やる。
着慣れた濃緑色の帝国軍の軍服ではなく黒と赤の学生服に袖を通すという動作、それが表すのはこれまでと別の組織に属するという明確な意志表示。
帝国の士官学校でも軍大学でも帝国軍という組織自体には属していた。しかしこれからの生活は過去と切り離されたまったく別の新しいもの。
これまで退役や転職をまったく考えなかったわけではないが、それでも帝国軍で積み重ねてきたキャリアと大事な部下たちの一切と決別するとなれば一抹の寂しさを覚えてしまう。
「……こうして振り返れば意外と愛着が湧いていたのだな。あれだけこの服を脱げる日が来るのを待ち望んでいたというのに」
とはいえ今となってはいくら気にしても詮無いこと。今は私の人生に集中せねば。
糊の効いたシャツを着てネクタイを締める。
かつて幾度となく繰り返した懐かしさを覚える所作の果てに身なりを整えて寮の食堂へ足を踏み入れれば視界に飛び込んでくるのは和やかに食事を取る大勢の学生たち。
そして彼女たちは私が来たことに気付くと揃って満面の笑みを浮かべてきて──。
「おはようターニャちゃん!」
「今日も小さくて可愛いねぇ……」
「たくさん食べて大きくなりな?」
屈辱的なことに私を明確に年下扱いして構い倒してくるのである。
悲しいことに先輩方も悪気があるわけではないので強く拒否することもできず中途半端な笑顔を作るのが精一杯。
帝国軍でもこの見た目で初対面の上官から信用されないことはあったが、それでも銀翼突撃章という実績と参謀本部という組織の力でどうにかできていた。しかしここではまだ入職して間もない新人でしかなくただただ背伸びしている中等部生としか見られない。
これは組織内での人間関係が良好であると前向きに捉えるべきなのだろうか?
ああ、士官学校や軍大学でのあの規律が懐かしい……。
「おはようございます、先輩方」
「おはよう、ターニャさん。ところで昨日見学した万魔殿はどうだった? 仕事の内容や雰囲気を見てこれからやっていけそう?」
厨房のカウンターで食事を受け取りテーブルに着けば隣の席にいた先輩がこちらを気遣った質問をしてくださる。
昨日は万魔殿の各部署を見学して回り、業務内容や責任者の顔と氏名の把握に努めた。
その結果、大丈夫そうどころか素晴らしいというのが正直な感想。
業務の責任者と権限がはっきりし、書類の明確なフォーマットがあり、休憩時間が設けられ必要以上に残業が発生することのないホワイト勤務。
時々イブキという女児が来る度に業務がストップしていたのが気になる点ではあるが、スタッフのやる気は非常に高まっていたので無視して構わないだろう。
確かチナツがイブキは私の一つ下と言っていたはず。それがわざわざ万魔殿にいるということは何かしらの意味があるはずだ。それが単なるムードメーカーであれ優秀な頭脳持ちであれ、結果としてプラスになっているなら外部から来た私が口を挟むことも無い。
「はい、軽く見た限りではありますが人間関係や業務効率も特段問題ないかと。むしろ今までより格段に風通しの良い職場で非常にありがたく思っております」
「それなら良かった。慣れないうちはいつでも頼っていいからね」
なんとありがたく温かい言葉!
戦争という非常時、必要に迫られてというやむを得ない事情があったとはいえ参謀本部の印象を正直に言えば良く言って真面目、悪く言ってくそ真面目だった。
和気あいあいとした雰囲気のこの生徒会には決して印象で勝てないだろう。
やはりここに所属したのは大正解だったと確信しながらトーストへ手を伸ばしかけ──。
「今年は例の条約絡みで調整する案件がどっと増えたからねー、しっかりした子が来てくれて本当助かった」
「それな。通常業務にも支障が出てたし人員増やしてほしいって真剣に思ってたわ」
「調印する会場も警備も責任者も予算もまだ何一つ決められてないし。トリニティの連中との会議とか腹の探り合いばかりでめちゃくちゃ疲れるし……」
「しかも連邦生徒会の承認が必要って言われても連邦生徒会長がいなくなってから調停室長が多忙でアポ取れないんだよなぁ」
「途中まで連邦生徒会長がやっていたって言われても何をどうやってたんだか……」
先輩方の浮かない表情で交わす憂うつそうな会話を聞いて手が止まる。
単語から全体を予想し組み上げていけばどうやらこの学校はどこかと何かしらの条約を結ぼうとしているらしい。そしてそれは遅々として進まずこの生徒会の通常業務にも多大な影響を及ぼしている様子。
──もしかすると私が来たのは一番面倒なタイミングだったのか?
とはいえ逆に考えればこれは好機たり得る。
転入してきたばかりの中等部生も欲しいほど人手が足りていないなら積極的に手伝う姿勢と貢献を見せることで周囲に好印象を与えられる可能性が高い。
まさか新機軸の構想提案をせずに事務処理を手伝うだけならゼートゥーア閣下のように無理難題を押し付けてくることも無いはず。
うまく行けばマコト議長の目に留まって安全に万魔殿の要職へクラスアップだ。
「すみません、つかぬ事を伺いますがその条約とはどういったものなのでしょう?」
「ん? そうか、別の学園にいた中等部生は知らなくて当然か。まあ簡単に説明するとこのゲヘナ学園と非っっっ常に仲の悪いトリニティ総合学園という学園同士の数十年にわたる確執をどうにかしようと近く結ぶ予定の不可侵条約だ」
「ただ問題は抗争が発生した時に対処に当たる部隊の創設でねぇ……。責任者をどちらの学園から出すか、本部の位置、制式装備なんかを自分たちの方で決めさせろお前は金だけ出せとまあこれがいつまでも平行線のまま」
「さらに付け加えるならトリニティ内の派閥、サンクトゥスの首長が入院中。しかも病状も入院先も一切が不明だし何なら死亡説まで出てきている。首長代理が今誰なのかも分からないし動きようが無いの」
「しかもフィリウスが賛成でパテルが反対とティーパーティー内の統一が図れていないし、ヨハネ分派の首長も行方不明。この状態で推し進めること自体無理だよ……」
……なるほど、確かにこれは面倒極まる案件だ。
この世界がいかに物騒なのかは来て間もない私ですらすでに十分理解している。その学校同士の抗争をやめましょう、仲良くしましょうと手を取り合うのは実に結構。
しかし足元では盛大に火種が燻っており妥協という名の消火行為もできていない。
調整を担当するスタッフにしてみれば悪夢と言っていいだろう。これの担当になっている先輩方には心から同情する。
「状況は理解いたしました。万魔殿に入ったばかりで至らない点は多いと思いますが先輩方の負担を少しでも軽減できるよう鋭意努めさせていただきます。書類仕事ならお任せください」
しかし先輩方の苦労の程は十分に理解できるが、こちらもそんな責任重大な案件に巻き込まれるなどまっぴらごめん。
だからこそまだ大したことはできません、滞っている業務の方を担当しますと猛アピール。
これがうまく行けば先輩を気遣う優しい後輩を演出しつつ手順も結果も分かり切っている手堅い業務で実績を積むことができる。
そして案の定先輩方は一様に喜色を浮かべて私の提案に飛びついた。
「聞いた!? 手伝ってくれるって!」
「マジで助かる……。どんどん増える書類の山に絶望しなくて済む……」
「ターニャちゃんが眩しく見える……。これは歓迎会を開いて手厚くもてなすべきね!」
「歓迎会いいね! 条約で本格的に忙しくなる前にやろう!」
楽しそうに盛り上がる先輩方。
新人として主張し過ぎず相手を立てることは大成功し、私もこの万魔殿の一員として完全に受け入れられたと見ていい。
すべては順調、後は着実に地盤を固めて行こう。
◆
「皆様、グラスをお持ちください。それではターニャ・デグレチャフちゃんの万魔殿加入、そしてトリニティとの調整成功を祈りまして……、乾杯!」
そのかけ声と共にテーブルのあちこちでグラスの触れ合う涼やかな音が響く。
ゲヘナ学園に来てから今日で一週間。ターニャもすっかり事務処理にも慣れ今では先輩の代わりに各種備品や補修工事の発注を任されるまでに万魔殿へ馴染んでいた。
学生と言っても授業は
成績は優秀、活動にも精力的なターニャへの印象は非常に良く、数多くいる万魔殿スタッフの中でもこうして歓迎会を開いてもらえること自体が信頼度と期待の高さを物語る。
「このサーモンのカルパッチョは大変素晴らしいですね。前菜でこれほどとなるとメインの料理が実に楽しみです」
「喜んでもらえて何よりだ。何せここは本格派を謳う高級店だからなかなか来る機会が無くてね、ターニャちゃんの歓迎会なんて口実が無かったら来なかったよ」
将来の栄達が約束された食卓、しかも同じような状況でもあの参謀本部の常在戦場食堂より圧倒的に美味。
これほど素晴らしい夜もそうは無いに違いない、先輩方には感謝しなければ。
そう心の底からの幸福感と共にターニャは目の前の食事を満喫する。
「クアトロフォルマッジのピッツァでございます」
「いいね、これも美味しそうだ」
おどけたように笑いながらピッツァを切り分けていく幹事役の先輩。
その表情は楽しそうではあるが、言動のあちこちからは明らかに疲労がにじみ出ている。一週間かなりの苦労をしていたのだろう。
やはり事務処理の方を引き受けた判断は正しかったなとターニャは内心でほくそ笑む。
先輩方には申し訳ないが決まった書式を決められた手順で記入し決められた先に送るだけで済むホワイト業務の何と素敵なことか。
「タリアータでございます」
そして焦げたチーズの食感と塩気、たっぷりかけられた蜂蜜の甘さのハーモニーに舌鼓を打っている間に運ばれてくる次の皿。
一見ごく普通のローストビーフだが料理名が異なっている。これは一体どんな料理なのか、期待に胸を躍らせながらサーブされていくのを見守り──。
「これはローストビーフです。タリアータは表面だけ焼き中までは火を通さないもの、中まで火が通ってしまったこれをタリアータと呼ぶのは間違いです。そしてクアトロフォルマッジも最初から蜂蜜をかけてしまっては四種のチーズの複雑な風味だけを味わうことができません。別添えにしてかけるかどうかを選ばせないのはどうしてですの?」
不意に隣のテーブルから聞こえてきたのは苛立ちを隠そうともしない声に興を削がれる。
そちらへ視線を向ければ長い銀髪にコウモリのような黒い翼、ゲヘナの校章が入った帽子と黒いコート姿の生徒が料理を持って来た店員に対し何やら詰め寄っていた。そしてそれを見守る金髪、赤髪、白髪の三人。
まるでどこかの令嬢のような出で立ちだがその雰囲気はひどく不穏。
「げっ、美食研究会!?」
「うっわぁ……、ここ美味しいよね!? 大丈夫だよね!?」
「いやこの空気美味しいから何もしませんって感じじゃないでしょ逃げるよ!」
そしてそんな彼女を見た瞬間に血相を変える先輩たち。
和気あいあいとしていた雰囲気は鳴りを潜め、じりじりと出口や柱の陰へ移動を始める姿は目の前の学生が面倒な相手であり関わりたくないことの証左。
それを理解したターニャはこれからろくでもない事態になるという確信、どうしてこうなるんだという悲嘆と共にツァラトゥストラ本体と弾倉を取り出すべく傍らに置いていたケースを手元へと引き寄せる。
しかし事態はターニャの予想を超える勢いで動いていく。
「味が良くとも正しい料理の知識も素材そのものに対する敬意も持ち合わせず高級や本格派を謳う店は許せません。ですので……」
そこて言葉を切り、彼女はたい焼きのストラップが付いた可愛らしい鞄から武骨な黒い塊を複数取り出した。
カランと軽い金属の落ちる音、ゴツンと重い物が落ちる硬い音、ゴロゴロと転がる音。
その正体を理解した瞬間ターニャの脳裏では警報が大音量で鳴り響き、咄嗟にテーブルを全力で蹴り倒す。
床に飛び散る料理の数々は惜しいが、それでもその判断は正しかった。
直後に起きた手榴弾による爆発は周囲に激しく破片を撒き散らすがそのほとんどはターニャの前を遮るように倒れたテーブルで食い止められ人的な被害は皆無。
それを確認し安堵した後、ターニャは盛大に怒りをぶちまける。
「人が食事をしている最中にこんなことをしでかすのはどこの馬鹿だ!? 料理の論評なら一人で勝手にやっていろ!」
参謀本部の食堂の味がひどすぎるが故に常在戦場食堂などとゼートゥーア閣下自身が呼んでいても本当に食堂を戦場にするなど狂気の沙汰。常在戦場とはそういう意味ではない。
そして塹壕で食事をしている最中に敵の砲弾が降ってくるのはよくあることだとしても隣にいた人間が一切の躊躇なく唐突に爆破してくるとどうして予想できるだろう。
しかも何かしらの目的がある様子でもなくただ料理と店の態度が気に食わないからという身勝手すぎる理由での暴挙に思わずターニャの口調から丁寧さも消え果てる。
「馬鹿とは失礼ですわね。生きていくうえで必須の食事こそ最大の敬意を払う、水が出続けている水道を締めるのと同じくらい当然のことです。それがなっていない店を放置しておく理由がどこにありますの?」
「明らかに年下の子から馬鹿と言われるとちょっとイラっとしてしまいますね☆」
「……私より小さい人に怒られるのは風紀委員長以外だと初めてかも。あんな生徒いたんだ?」
しかしターニャの怒りはまったく通じない。
平然とそれがごく普通の日常の一コマであると真顔で言ってのける姿に、ターニャは改めてこの世界の治安と倫理が崩壊しているという事実を突き付けられる。
料理の質以外は実質前線と何ら変わっていない皮肉、料理の代わりに強制的に味わわされたそれを無理やり飲み込みターニャはツァラトゥストラを握り締める。
──法律と倫理に従った合理的な判断を基準とした文明的で平穏な日常、そんなささやかな望みすらも邪魔する連中などくそくらえ。
「結局はいつもこうか、ここにまともな人間はいないのか!?」
堪忍袋の緒が切れたターニャは吼えながら鞄から取り出した手榴弾を投擲。
テーブルの向こうから慌てて飛び出してきたテロリストを確認するやいなやツァラトゥストラをフルオートで撃ち込んでいく。
ターニャの怒りが込められた銃弾は何発かが大きな巻き角のある白髪の生徒に命中し昏倒させることに成功するも、元凶である爆破犯と残る二人はそれを気にする様子も無く銃を取り出して抵抗しながら逃げ続ける。
「ええい、鬱陶しい!」
擲弾発射機の付いたライフル持ち、ライフルの二丁持ち、爆弾を持っているスナイパーライフル持ち。無駄に火力が高く警戒せざるを得ないうえ隠れながら逃げているためこちらが射線を取るのも苦労する。
これ以上何もせずに逃げるなら良し? そんなわけがない。あれを逃がせば面倒極まりないことが再び起きるのは目に見えている。共和国軍の二の舞はご免だ。
そう確信し追いかけるも相手はターニャよりも素早かった。
ようやく遮蔽物の無い射線を確保できたかと思いきや相手がいるのは店の出入り口の前。そして互いに目配せをしたかと思いきや二手に分かれて反対の方向へと散らばって走り出す。
「まとめて撃たれていればいいものを! くそっ、どちらを追うか……」
ほんの数瞬だけ迷うも、真っ先に無力化するべきは最初に歓迎会をぶち壊してくれたクレーマーであると判断。
彼女がどちらに向かって行ったかを思い出しターニャもまた店を飛び出せば──。
何故かすでに路上で昏倒している白髪と金髪の二人組。
はて、当たっていないと思っていたが実は当たっていたのか?
そう首を傾げながら構えていたツァラトゥストラをわずかに下げれば、背後から不意に連続して銃声が響き渡る。
「しまった、罠か!?」
あえて倒れた姿を見せることで相手を油断させ後方から奇襲する戦術。偽装壕や対空迷彩、欺瞞行動など軍に置いて珍しくも無い手口に引っかかったことに怒りを覚えながら咄嗟に防御膜を全力で展開。
ライフルを二丁持ちしていた生徒からの猛射を予想し、そちらへツァラトゥストラを構えながら振り向けば。
「……ん?」
反対側の路上にもまた赤髪の生徒が大の字で倒れて動かない。
そしてその周囲には黒を基調とした同じ制服に身を包んだ生徒が数十人。その左腕にはチナツがしていたものと同様、赤地に白字で風紀と刻まれた腕章。
あれは……風紀委員か?
「まったく、こんな所でまた面倒な騒ぎを起こして……。今日という今日は逃がさないからな!」
そして銀髪に褐色の肌をした生徒が鋭い目つきで、倒れた生徒の頭をボルトアクションの小銃でグリグリと押さえている光景。
彼女もまた風紀委員の腕章を着けており、どうやら風紀委員によりテロリストたちは完全に鎮圧されたと見ていいらしい。
どうやら必要以上の戦闘には発展せずに済んだと安堵するが、眼前の風紀委員の眼差しは続いてターニャへと向けられる。
「んで、今こいつらとやり合っていたあんたもちょっと話聞かせてもらうぞ?」
──無事に一難は去ったと思ったのに。
なかなか終わらない一連の面倒事に思わずため息を漏らすターニャだった。
美食研究会を放り込むため自然にミスできるイタリア料理を調べるの面倒でした。