目を覚ますと、清潔感のある白いベッドにいた。
嗅ぎなれなくてどこか落ち着かない、ツンとした臭い。
どうやらぼくは事故にあったらしい。足にはぐるぐるとギプスが巻かれ、折れた片腕も固定されている。
ベッドから動くこともままならないぼくのことは、お兄さんが世話をしてくれている。
頼りないんだけど面白くて優しい、そんなお兄さんだ。
「何かあったら呼んで。おれがいても、何もできないけど」
跳ねた髪をかきあげて、目覚めたぼくに彼はそう言った。それから、思い出したように重大な情報を付け足した。
「お前は記憶を失っている」
「ぼくは記憶を失っている」
事故の後遺症で、ぼくは記憶喪失に陥っているらしい。
凄惨だったらしい事故の瞬間を覚えていないのは不幸中の幸いだが、胸の中がぽっかり空いたような悲しさがある。きっとこれが記憶だったものなのだろう、とぼくは思う。
お兄さんはどこかに行ってしまうことも多いが、呼ぶといつでも来てくれるし、くだらない話にも付き合ってくれる。
「この前言ってたアニメ、見たよ。感動して思わず泣いちゃった」
「それはよかった」
彼とは趣味や話がよく合う。ぼくは動けなくて暇だから、よくお兄さんに薦めてもらったアニメを観たり、マンガを読む。もしかしたら見たことがある作品もあるのかもしれないけれど、なにぶん記憶がないものだから、どれを見ても新鮮で面白い。
「この前読ませてもらった小説も面白かった」
「ああ……あの小説ね。設定も構成もぐちゃぐちゃだったけど、本当に面白かった?」
「あんまりわかんなかったなあ。構成っていっても、アレまだ途中だよね。次はいつ出るのかな?」
「さあ……いつだろうか」
そう言ってお兄さんは、困ったみたいに、誤魔化すみたいに笑った。
時々、お兄さんはそんな風にすることがある。たしか、彼女とかいないの? って聞いた時もそうだった。
「そりゃ欲しいけど、そこまで深い仲になれる人が中々いなくて」
そういう割に、お兄さんからはたまに、柑橘系の果物みたいな甘酸っぱい香水の匂いがする。気になってそれを聞いた時には「内緒ね」って悪戯っぽく笑ってた。お兄さんの、ちょっとだけ悪い一面だった。
お兄さんはよくお酒を飲むみたいで、行ってきた色んなお店の話をしてくれる。この前は、オシャレな
「友達とそんなオシャレな店に行くの?」
「そうだよ」
「女の人とも行くの?」
「そんな日もあるかもね」
彼は、相変わらずの困った顔をする。それを見ると何故か、ぼくの心はひどく締め付けられるのだ。
「お前は、外に出られたら何がしたい?」
「そうだな、旅行がしたいな」
ある日聞かれた問いに、ぼくはそう答えた。
知らない景色を見るのが好きなこと。乗り物に揺られる感覚と、これから起こることへのワクワク。何よりも、自分が自由なんだと自覚できるような全能感。
それらを語っていると、お兄さんはなんだか嬉しそうに頷いてくれた。
「その気持ち、よくわかるよ。最近は行けてないけれど、おれも旅をしたから」
「お兄さんは、どんなところに行ったの?」
「海外以外なら、どこでも。日本中を逃げ回ってた」
「悪いことした人みたいな言い方だね」
「そうだね」
暴力だとか、窃盗だとか、そういった言葉とお兄さんの印象が結び付かなくて、なんだか不思議な気持ちだった。
「もしかして、未成年飲酒?」
「バレたか」
お兄さんは軽く笑ったけど、いつもみたいな困り顔だった。それが見たくなくて、ぼくは無理矢理話を変える。
「ぼくも、旅がしたいんだ。旅行じゃなくて、旅。自分の足で日本を巡ってみたくて」
「ふうん。いいと思うよ」
それは、鼻息を吹かすようなイントネーションで、つまるところ、あまりいいと思っていなさそうな言い方だった。思わず「何がいいのさ」と口を尖らせて返す。
「いい経験になるからだよ」
「やっぱり、そうなんだね。楽しかった?」
「まあ。楽しいことばかりじゃ、なかったけどな」
「色々学べた?」
「………………」
お兄さんは、何か言いかけて
「お兄さん。ぼくは、いつになったらよくなるのだろう」
「それは、おれにもわからないなあ。でも、いまの生活も結構楽しそうじゃないか」
「楽しいは楽しいよ。でも、何もしてないと──何もできてないと。なんだかモヤモヤして」
「きっと記憶が戻らないからだよ。でも、焦ったってよくなることはない。落ち着いて、好きな物とか、自分の興味がある物に触れてたら、よくなるよ」
「うん────」
お兄さんの諭すような声音に、ぼくは頷きかけて。そして、ううん、と小さく首を振る。
「きっとそうなんだけど、それじゃだめなんだ。ぼくが忘れているものは、本当に大事なものだったはずなんだ」
「思い出せるまで待つしかない。本当に大事なら、いずれ思い出せるさ」
「このままだと忘れてしまう。いずれでもいつかでもだめなんだ、たぶん、いまじゃないと」
「思い出せないならきっと、その程度の物だったんだよ」
お兄さんの言い方は、おざなりで強かった。まるで──いや、確実に、ぼくに何かを思い出させたくないような。
「なくていいなら、ないほうが幸せなんだ。何もかも」
記憶だって、記録だって。
思想だって、思考だって。
家族も、恋人も、友達も、希望も、絶望も、生命も。
なくしてしまえばいいのだと、彼はそう言った。
「なら──どうして、あなたはそんなに辛そうなの?」
「……ッ、そんなことは」
泣きそうな顔で、彼はぼくを睨む。それを見ると、ぼくまで泣きそうになる。
困った顔が嫌いなのは、僕も困ってしまうから。
かさぶたを剥がすみたいに、傷跡をなぞるみたいに、自罰している気持ちになるから。
ようやくすべてを理解したぼくは、ぼくを抱き締める。
「すべてを捨てようとしても──それでも、
「違う……! それは捨てた。お前はこのまま、何もしないままでいればいいんだ。過去も現実も未来も、すべて忘れたままでいれば幸せなんだから!」
「幸せなんかじゃないよ」
「あなただってそう思っているんでしょう? だから、ここから出たらどうしたいかなんて聞くし、自分の創作だって見せたんだ」
いつか読んだ、未完成の小説を思い出す。アレは彼が書いたものだった。
僕が、作ったものだったんだ。
「いいんだよ、もう。夢を認めて、現実に向かっても」
「どうでもいいんだよ、もう。夢は叶わないし、現実はくだらない。アレだって、思い出に縋っているだけだ。先へは一歩も進んでない」
「そんなこと、言うなよ……!」
徐々に鮮明になった苦い記憶の群れが、ぼくたちを締め付ける。
夢は叶わない。
現実は報われない。
優しい人は救われない。
白い部屋が黒く濁っていく。逃げ出したいような閉塞感の濁流がぼくを飲み込む。理性が、いままで隔てていた物に犯されていく。
言わんこっちゃない、と彼が困り顔をする。死にたいくらいの悲しさの中で、殺したいくらいの苦しさの下で、それでも、彼の頬に平手打ちをして、それからぎゅっと抱きしめた。
「僕だけは、
受け入れる。悲しみも、憎しみも、苦しみも、理想も、希望も、夢も、全部を。
そのすべてが自分のモノだと、清濁併せ呑む。
「切り捨てて進むより、余程辛い選択だぜ?」
「それでもいいよ」
全部含めて、僕なんだ。醜さだって、愚かさだって、自分にだけは隠しちゃいけないんだから。
「もう、後悔するなよ」
「ああ、先を生きるよ」
流されないように、僕は全部と手を繋ぐ。徐々に部屋は眩しくなってきて、目なんて開けていられなくなる。
きっと、これは夜明けだった。
*
目を覚ますと、清潔感のある白いベッドにいた。
嗅ぎなれなくてどこか落ち着かない、ツンとした臭い。
僕は、本当に事故に遭ったらしい。全身にぐるぐると包帯が巻かれ、未だに鈍い痛みが続いている。
トラックに跳ねられて意識不明の重体。植物状態になることも、危惧されていたらしい。事故から一ヶ月経った昨日、ようやく目覚めて、家族が泣きながら面会に来てくれた。
動くこともままならないのでボーッとアニメを眺めながら、あの夢はなんだったのだろう、と思う。
あのまま楽な状況に甘んじていたら、死ぬまでずーっとあの状態だったのだろうか。目覚めて苦しいことも多いいま、あの状況が羨ましくないといえば嘘になってしまうけれど、でも、何でもできそうなこの全能感も、悪くはなかった。
「結局、ここからどうするかなんだろうけどな」
切っ掛けは作った。やる気は十分だ。
後はもう、運否天賦に任せて走りきるしかない。
やりきってダメなら、もう、それこそ幻想に縋ればいい。
微睡みみたいに都合のいい、幻覚に逃げればいいだけだ。
「たまにはきっと、逃避だって悪くはないから」
病室の窓から朝日を見つめる。格子の中の狭い世界は、それでも明日への輝きを放っている。
いつか電車の中で眺めた夕陽。
自転車の上で見つめた黄昏。
そんな綺麗な思い出だけ抱えて、僕は、筆を執った。